綿毛の君と傘帽子の君②第2章
僕の名前を知りたいと言う彼の頬は、仄かに染まっていた。
とても初々しくて、彼らしい。
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僕たちが彼を見つけたのは、ほんの4、5年前のことだ。
僕はウィックとの散歩に出かけていた。
毎日、毎回同じコースだと飽きも来るかと思い、その日だけは違う道を選ぶことにした。
そのことを口に出した訳では無いけれど、ウィックは、いつもとは違う方向へと歩き出していた。
古ぼけて誰も参拝に来なくなった神社を出発点に、山道を突っ切っていく。
ウィックは、僕の腰丈程もありそうな 鬱陶しい草々をもものともせず、ぐんぐんと進んでき、僕は苦笑いを浮かべながら、その後をついて行く。
ぐんぐん ずんずん ばたばた がさがさ。
コチラとアチラとの境界の辺りは、特に草木が茂っている。
コチラは妖や鬼、神などと呼ばれるものたちが住む世界で、アチラとは、人間たちが住む世界のことを指す。
そして、コチラのもの達は全て、人間の畏怖や信仰など人間の感情から生まれてくる。
つまり、できるだけ多くの人間からの、できるだけ強い念を集めることで、コチラ側のもの達はより強い力を手に入れることができるのだ。
力を求め、不用意に人間界に干渉できないよう、行き来が容易にはできないようにされていた。
だが、僕の友人は、鼻と勘が特に優れているため、僕達は迷うことは無いだろう。
因みに、人間の念によって生み出されるのは、妖や鬼などだけではない。
コチラの景観すらも、人間の念で生み出されていた。
人間が普段生活の中で見て記憶に残った景色を組み合わせて作られたのがコチラの世界の全てだ。
そのため、コチラとアチラの様子はほぼ差異がない。
開けた場所に出て、やっとウィックの足が止まった。
地平線が望めるくらい、平らな地形が延々と続いている。
その地形を活かした稲作に力を入れているようで、地域一帯は田んぼで埋められていた。
初夏の頃、丁度田植えの時期のようで、ちょんちょんと短い稲が植わっている。
水面には、雲一つない清々しい青色が映し出されていた。
景色に酔っていると、ふいに視界の端で何が動いているのを見つけた。
それが彼だった。
田園脇の藁葺き屋根の戸が開く。
彼は、綿のように白くて、柔らかげで、まん丸い頭を、重そうにしながら、よたよたと家を出てきたかと思うと、田んぼまで駆け寄って、勢いよく足を突っ込んだ。
その様子は、態と着物を泥で汚しているように見えた。
次は 腕を突っ込んで、ばしゃばしゃと中をかき混ぜる。
顔にまで泥が飛ぶと、眉をぐいっと顰める。
その様子が可笑しくて、愛おしくて、思わずくすっと笑みが盛れた。
ウィックも同じく綿毛の彼を見ていたようで、重く閉ざされていた口元を緩めていた。
僕たちは今でも人間が好きなのだなと、我ながら呆れてしまう。
けれど、彼を見守るのは僕たちの義務のような気がして、見つめずには居られなかった。
僕たちは人間の念によって神格化されたものだった。
そして今は、人間に忘れられて鬼に落ちたものだった。
けれど、不思議と人間を悪く思うことはできずいた。
結局、日暮れまで僕達は彼を眺めていた。
水面が、青色から橙色に変わり、自分の影が大きく伸び始めた頃、彼は漸く家へ帰っていた。
それ迄、彼は泥だらけの服装のまま、家の戸の前にしゃがみこんでいた。
誰と話すでもなく、ずっと同じ場所に佇んでいた。
彼は、綿が泥で汚れしまったから飛べなくなくなったんだろう、周りの子供はふわふわも と飛ん行っても この子だけは残されるのだろう、なんて妄言を吐く。
その様は、ひどく寂しげで、つい自分たちの孤独と重ねてしまったのだと思う。
僕たちはこの子を守ってあげたいと、守ってあげなければいけないとと誓った。
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回想から、意識を浮上させると、彼の問に答える。
『僕の名前は―』