もうひとり、兄がいる。
高校に進学した春に一番上だと思っていた兄が、長い睫毛を伏せながらマグカップに口をつけた。
「仕事の出張でね、十年以上もここには帰れてないんだけど」
「出張長すぎじゃん?」
ツッコミに困ったように眉を下げて笑う。
ずっと九人兄弟だと思っていた。
これが一人増えて十人兄弟になろうと、末っ子として甘やかされて生きてきた悠仁には気にならなかった。
二か月後に帰って来た長兄の顔を見るまでは。
「ただいま、悠仁」
正月や盆にも一度も戻って来られない程に、仕事に忙殺され続けた長兄のジャケットはくたびれていた。
それでも思いきり両腕を広げて、笑顔を向けて来る。
兄達の稼ぎで生活費と高校への進学も賄ってもらっている弟としては、労いのハグの求めへも素直に走り込むところだ。
なのに、気まずい。
理由は分からないが、とても気まずい。
最後に会ったのがまだ幼い頃だとは言え、兄弟を存在すら忘れてしまっていた事への良心への呵責だろうか。
それも無い事は無いが。
帰って来るなら、また皆で一緒に暮らすのなら家族として思い出を作っていけばいいと。
軽く考えていたのに、何故だか顔を見られない。
思わず固まっていれば、そっと腕に手が添えられる。
「どうした? 体調でも悪いのか」
「いや、元気だけ…ど……」
言葉が途切れていく。
後ろめたい気持ちが霧散して、代わりにひやりとした冷風が胸に入り込む。
触れられた左手。
その薬指には指輪の痕が、あった。
結婚指輪を長くつけていて、外したような痕だ。
高校生の悠仁にはドラマでしか見たことのないものだったが、二十も年上の兄ならばつくこともあるのだろう。
痕が残るほどに長く誰かと愛し合っていた履歴だ。
「…んな……、触んなっ!」
「ゆぅ…?」
「オマエなんて大っ嫌いだ!」
触れていた手を跳ね飛ばして、背を向ける。
かけられた声も無視して、足早に自室に駆け込んだ。
拗ねた幼い子供のようで、部屋に入った途端に顔が真っ赤になる。
流石に高校生のする行動ではない。
けれど、堪えられなかった。
存在すら忘れていた歳も離れた兄が既婚者だと知っただけで、何故こんなに動揺するのか。
訳も分からず膝を抱えていれば、控えめにドアがノックされた。
「壊相兄…」
「こうなるかもって思ってたけど、ならない方がいいなって話さなかった私が悪かったんだ」
「どういうことだよ…?」
「兄さんが仕事でしばらく帰れなくなるって聞いた時に、悠仁が一番泣いていたから」
まさか十年以上も戻れないなんて慰めた兄達の誰も思ってなかったそうだが。
毎晩、大好きな脹相が帰って来ない夜が続く度に夜泣きを繰り返し、けれどいつの間にか泣かなくなった。
幼心でもやっと理解をしてくれたと周囲がホッとしたのは、ただの迂闊だった。
まだ未熟な心は、その笑顔の後ろに存在さえも見えない程に深く仕舞い込んでしまったのだ。
「ごめんね、もっと早く私が話していれば混乱もさせずに、」
「壊相兄ってそういう所あるよな、ひとりで抱え込み過ぎなんよ」
背中を押すのは、小さな小さな手だ。
自分と同じ髪の色をした子供の。
まだ十人で暮らしていた頃の、小さな己の手だ。
「大丈夫、こっからは弟じゃなくて男としての勝負だから」
申し訳ないが、壊相の泣きそうな横顔に自信を取り戻した。
ぽつぽつと浮き上がってくる記憶でも、泣きじゃくる自分を八人の兄達は様々に手を変え品を変え甘やかしてあやしてくれたものだ。
そう、己は甘やかされっ子な末弟である。
産まれてからずっと甘やかされて育ってきた。
愛されることには、自信しかない。
求める相手が一番上の兄であり、十年以上振りに会うガタイの良い弟をも抱っこしたがるような弟煩悩っぷりから確信しか得られなかった。
愛される未来しか、見えない。
指輪が光るのではなく痕ならば、今はしていないのならば、席は空いているのだ。
家族愛の強そうな長兄がまだ相手が存在するのに、結婚指輪を外すとは思えない。
奪うのならば悩みもするが、空いているところに座るのならば堂々と。
自信満々に大股で廊下を進めば、複数の声はまだ玄関先からしていた。
「兄者~泣くなよぉ~」
「泣く、権利など……ないっ」
オロオロとムードメーカーの兄のひとりが慰めている。
その可愛らしい仕草も目に入って来ないのか、大粒の涙を流し続けていた。
「俺が悪いんだ…っ、悠仁からもらった指輪を壊してしまったから俺が…ッ!」
「……俺の、指輪?」
ぽつり。
またひとつ、思い出が浮き上がる。
駄菓子屋で見かけた金色の指輪。
色のついた小さな飾りすらない、子供用の指輪だった。
けれど逆に大人がつけている将来を誓い合った者達だけの特別な物に見えて目が離せなくなった。
だから、ねだって買ってもらって渡したのだ。
「あれオモチャだったじゃん? 飾りも何もない輪っかだけで」
「オモチャだろうが何だろうが大切な物だ。お兄ちゃんと約束もしただろう?」
濡れて訴えかける漆黒の瞳。
あの日、自分と同じ高さに屈んで受け取ってくれた時も濡れていた。
『にいちゃん!
おれがおとなになったら、およめさんになって!』
涙を流すほどに嬉しそうに左手の薬指にはめてくれたのは、この長兄だった。
そして今、その約束は仕事で荒れた手の平の上で二つに割れてしまっていた。
「あー…うん、」
ずっとつけていたのだろう。
金メッキは剥がれて、指輪になどもう見えない程だが、それでもはっきりと薬指に残る痕。
細く脆いオモチャを何年間、つけ続けてくれていたのか。
「まだ大人じゃないけど俺の学校はバイト出来るからさ、」
愛される未来は確定である。
そして。
「今度はちゃんとお揃いで買って来るから、一緒につけてくれる?」
「悠仁…! もちろんだ!」
愛する未来の許可ももらい、求められていたハグがここでやっと成立した。
用意されていたクラッカーが鳴らされて、十人揃っての盛大なパーティが始まる。
末っ子の初めてのバイト先に九人の兄達から夜中まで盛大なご意見が交わされるのも、確定した未来であった。