ツクツクボウシの声が木々の合間から響く。
呪術高専の東京校は都内でも山深い立地で自然が豊かだ。
日に日に短くなる陽の光が傾き、山を茜色に染めていく。
年季に入ったガラス窓からそよいでくる風は、もう秋の涼しさを含んでいた。
校舎から男子寮に着き、自室のノブを回せば鍵はかかっていなかった。
「たーだいま」
「おかえり、もうすぐで夕飯出来るからな」
部屋に入ってすぐ横の簡易キッチンから脹相に迎えられる。
ここは寮内の悠仁の個室だ。
勿論、脹相には別室が与えられている。
そして少し前に悠仁の部屋の合鍵も渡していた。
元々兄として弟を知りたいとこちらの部屋に居る事は多かったが、今は念願叶っての恋人同士。
『ただいま』『おかえり』
このやり取りだけでも、そわそわと浮ついてしまう。
兄だからと迎えてくれた日々とは違う。
想い合っている二人になって交わす挨拶はまるで。
少し体温の上がる頬を誤魔化しながら制服をハンガーにかけ、ラフなパーカーに袖を通す。
キッチンから漂う、野菜の煮える甘味が鼻腔をくすぐった。
舞い上がっていないで夕食の準備を手伝おうと振り返れば、ひらり、視界を掠める。
調理台に向かう脹相の背中、その腰の後ろでひらひらと細い布が揺れていた。
「エプロンの紐、解けてっけど」
「ああ、気付かなかった」
穏やかな低音の感謝と共に、白い指先がするり、布を捕らえる。
しゅっと最初の結び目を強めに直し、人差し指にかけるように輪を作り、紐を絡ませてもう一方の輪を引く。
僅か数秒。
白い肌を滑り、絡む紐にすら良い感情が湧かないのは重症だ。
自分だって手を繋ぎたい。
たったこれだけの気持ちが抑えられずに、指先を絡めようと手を伸ばす。
「あ。」
「こら、調理中の悪戯はダメだぞ」
目測は外れ、引っかけてしまった手が折角結び直したエプロンの紐を解いてしまう。
向けられた視線と幼い子供にするような物言いに、少し頬を膨らませた。
この反応こそ何も言い訳にならないのだが。
「…悪戯じゃねーし」
「悠仁?」
「ね、悪戯じゃなくてマジならいい?」
ぎゅっと後ろから抱きしめる。
身長差からまだ抱きついているようにしか見えないのが情けないけれど。
「俺、毎日脹相の味噌汁飲みたい」
だからこその一足飛びである。
まだ兄としての対応から、甘いものに変えてくれない恋人へ。
直球ホームラン狙いだが結果はどうだ。
「今夜はカレーだが……味噌汁も作るか?」
「いや、今飲みてぇって話じゃなくて」
理解が出来ないと顔に大きく書かれている。
素直に食べ合わせを考えたのだろう。
慌てて否定をして背伸びをすると、そっと耳元に唇を寄せた。
「飯じゃなくてプロポーズの話」
「……プロポーズ」
反芻するだけで、ぼんやりとしている。
現代の知識は一通りあると聞いてはいたが、生きている人間も知識の幅はそれぞれ違うものだ。
「だから俺は脹相と、」
分かりやすく言い直そうと顔を覗き込めば、ふいっと逸らされる。
「その…俺も悠仁の味噌汁が飲みたい」
「あ、ごめん。簡単に言っちゃったけど毎日だと大変だし、もちろん俺も作るよ」
意味が伝わっていないのなら、急な家事の押し付けである。
脹相も呪術師としての仕事があるのだし、自分勝手が過ぎだ。
まずは誤解を解いてから、告白はまた改めて伝えよう。
「いや、家事はいいんだが。……俺も、悠仁と同じ意味だ」
「へ?プロポーズって事…?」
二つに結い上げた黒髪が揺れたのは肯定の頷きだったのか。
確かめる間もなく、腕の中から逃れた脹相が壁際にある冷蔵庫へと手を伸ばす。
「今夜は肉じゃがにしよう。まだカレールーを入れる前だからな、ひき肉もあったはずだ」
「やっぱ味噌汁も作って。明日の朝は俺が作るから」
「だっ、だから食事の支度くらいお兄ちゃんがすると!」
逃げたと言っても所詮、面積は簡易キッチン。
数歩先の冷蔵庫のドアを閉めて、壁の間に追い込む。
「んー、今は我慢するけど夜は無理そうなんで。オマエ、朝起きられんと思う」
こちらより高い背がびくりと縮こまった。
視線は合わせてくれないが既に耳が赤い。
「ごめんな」
追いうちのように、頬に触れてこちらを向くように促す。
満面笑顔で告げた謝罪と口づけに異論は返されなかった。