閑古鳥が鳴きがちなバーが賑わっているのは、大いに有難いことだが、この日ばかりは、匋平はどうしても好きになれなかった。
月曜、世間で言えば週始めにあたる営業日。いつもならほとんど客の来ないセブンフォーには珍しく、通常より早めの開店から満席の状態が途切れることはなかった。
もちろん、いつも通りカクテルを作って、小皿を出すくらいなら、何も問題はない。週末になれば、それくらいの忙しさになることもたまにはあるし、リュウや四季にも手伝ってもらえば、充分手は足りる。
それに、この忙しさは、何も青天の霹靂ではない。こうなるのはわかりきっていたことで、それなりに備えてはいたし、だからこそ、こうして無事に切り抜けられたとも言えるのだが、それはあくまで店の営業の話。
現在、日付変わって二月十五日。ついさっきまで、やれバレンタインだ、やれチョコレートだ、やれ限定メニューだと、軽い戦場と化していた店内は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
「お疲れ様」
「西門、来年はぜってぇ限定メニューなんかやるな」
「匋平、それ毎年言っているね」
いつもの立ち位置から抜け出し、スツールに腰掛けた匋平は、ぐったりとカウンターに突っ伏していた。そんな本日の功労者に苦笑いを浮かべて、オーナーである西門は、先程帰って行った客のグラスを引き上げてキッチンへと回る。
何かとイベント事をやりたがる西門と、パラドックスライブでの露出もあってか、バーは時折こうした賑わいを見せることがある。普段は落ち着いたジャズバーなのだが、こういった日は音楽を楽しむ余裕は、ほとんどない。
客が多いのが嫌いなわけではない。けれどやはり、普段と違う状況は、疲れるもので。様々イベントをこなしてきた匋平ではあったが、どうしても、バレンタインだけは元気なまま終えられた試しがなかった。
最たる原因は、今も店中に充満する甘ったるいチョコレートの匂いだろう。甘いものが得意でない男にとっては、普段作らない限定メニューの味見をするだけで、胸焼けを起こしそうだったのだ。数時間とは言え、もはや自分がチョコレートにでもなったのかと錯覚しそうなくらいに、まとわりついてくる甘い匂いが匋平を苦しめる。チョコレートリキュールは、一体いくつ開けたのかはわからない。
それから、特にこの日に多くなる若い女性客からの熱烈な視線。それを可笑しそうに笑う常連客たちをかわしつつ、渡されそうになるプレゼントを断るのも一苦労だ。とは言え、マスターが甘いものが得意でないというのは既にリサーチ済みなのか、チョコレートやスイーツの類ではないからと押し切られ、差し出されたもののほとんどを受け取ってしまっているのだが。
カウンター内側、西門が去年の教訓を活かして設置していた段ボールは、完全にプレゼントボックスに成り上がっていた。
「もうお客さんも来ないだろうし、看板、下げてきてくれるかい?」
「へぇへぇ……」
煙草を吸う暇も与えられなかったので、ニコチンも不足している。雰囲気を出すために設置されていたキャンドルももう残り少なく、今にも消えそうな炎の揺らめきにつられて、匋平は足元がもつれるような心地に襲われる。
ふらり、ふらりと店の出入口へと向かう背中を、西門は少し心配そうに見遣っていたが、ふと、思い出したように疲れきった背中に声を掛けた。
「匋平」
「ん〜?」
「彼が、お待ちかねだよ」
「あ? 彼?」
ドアノブに手を掛けた格好でくるりと振り向いた先、もう客はいないと思っていた店内に、一人、ひらひらと自分に手を振る男の姿を認めて、匋平はぎょっと目を瞠った。
「来てたんなら、声掛けろよ」
「えらい忙しそうにしとったからなぁ〜教授先生が相手してくれたから、退屈はせんかったよ」
「そういうことじゃ……」
日付が変わる前には引き上げさせた若い子たちと、戸締りはよろしくねと先に帰った西門にお膳立てされ、店内には匋平と、本日最後の客である、依織の姿だけがあった。
スツールの隣同士に腰掛けて、ウィスキーの瓶を中央に、バーだと言うのにほとんど手酌のように酒を飲み交わす。
換気扇を回しているとは言え、まだどこか甘い香りの残る店内は、それでももう、非日常から少しずつ抜け出しつつあった。
西門が出していたのか、知らぬ間にオーダーを受けていたのか、既に心地好く酔っているらしい依織のペースはそれほど早くはなく、煙草を吹かしながらの匋平も、会話の隙間にグラスを傾ける程度。つい先程までは、きついアルコールを一気に煽ってしまいたい気分だったが、そんな衝動も、今やすっかり落ち着いている。
「それに、」
「……」
「別嬪なお姉ちゃんらに迫られて、たじたじになっとるマスターさんがおるバーやもぉん、寧ろ楽しかったわぁ」
「お前なぁ……」
それよりも、隣で心底愉快だと言わんばかりに目を細める依織に、匋平は再び気力が奪われていくようで、グラスを持ち上げていた手を力なくカウンターに下ろした。
ケラケラと楽しそうに笑う横顔を尻目に、はて、そんな依織は、一体いつからここに来ていたのだろうかと、少しだけ記憶を遡る。
女性客がなだれ込むようにやって来ていた頃だろうか。それとも、満席の断りを入れる度に、プレゼントだけでもと迫られていたときか。リュウが、デザートに作っておいた生チョコに、トッピングと称してタバスコを振りかけようとしだしたときか。あるいは、両手いっぱいにプレゼントの包みを持たされて、身動きできなくってしまった四季を救出していたときだろうか。
思い返せば、本当に息つく暇もなかった。目まぐるしく人が入れ替わる中での来訪に、見逃していたのだろうかとも思うが、まさかと首を振る。
自分が経営するクラブに寄った帰りだと言って、普段のラフな格好ではなく、きっちりとスーツを着込んでいるとは言え、派手なタッセルはいつもと変わらず依織の顔周りを彩っているし、こんなに存在からして喧しい男が、まさか自分の目を盗んで忍び込むようにやって来たとは、匋平には到底思えなかった。だって、依織がここに来るのは、十中八九、自分に会いに来ているからで。
それに何より、自分が、依織が来たことに気づかないわけがない、というのは匋平の言い分。
けれど、それはもちろん、あくまで、依織にその気がなければ、の話である。
「えぇなぁ、色男はモテモテで」
「言ってろ」
「とか言うて、満更でもないんやろぉ? 出待ちまでされとるもんなぁ〜どのお姉ちゃんに、目星つけとったん?」
「は? 出待ちってなんだよ……」
「あれま、気づいてへんかった? さっきまで、外で何人か、旦那が出てくるんを、今か今かと待っとたやん。先生が散らしてくれとったみたいやけど」
「はぁ……勘弁してくれ、いちいち断るほうの身にもなってみろ」
現に今だって、気づくことが、できなかった。依織がその気になって、本気で姿をくらましてきたとして。果たして、今の自分にそんな依織を見つけ出してやることは、できるのだろうか。
クラブで客の相手をしてきたのか、キャストたちに揉まれてきたのか、知らない香水の匂いが、まとわりついていてる。撫でつけるようにセットされて、ワックスでもつけているのか、いつもは柔らかな髪が、作られた形にしか揺れない。派手好きな男にしては珍しく品のいいスリーピースで着飾って、ベストに強調される細腰に、禁欲的に締め上げられたネクタイは、まるで知らない装いで。
「ん〜、ほなこれも、断られてまうんかなぁ〜」
「ん?」
「ほい、ハッピーバレンタイン!」
「え……?」
なんて、遠くに行きかけていた思考は、ぽんっとカウンターの上に置かれた小さめの紙袋と、この何時間かで飽きるほど聞いた定型句を高らかに唱えられたことで一気に引き戻された。
「って、善から!」
「っんだよ!!」
何度も言うようだが、匋平は甘いものが好きではない。今日だけでもう一年分のチョコレートの匂いを嗅いだと思っているくらいなのだ。それが好意からだとわかっていても、バレンタインにかこつけて渡されるプレゼントに、あまりいい顔はしてやれない。
とは言え、だ。それが好いた相手ともなれば、話が変わってくるのが人の傲慢なところで。
気分はまるでジェットコースター。登った記憶はないのだが、突如なんの前触れもなく最高到達点に放り出され、かと思えば、ものすごい勢いで急降下。この上ない無茶を強いられて、疲れきった身体には、あまりに酷な仕打ちであった。
「神林さんのところに行くなら、持って行ってください!って聞かんくてなぁ」
「そうか……」
「店の子らに配ってもらうチョコも善が作ってくれたんやけど、女の子からは結構評判良かったから、味は保証するでぇ〜」
「……ふぅん」
「あ、旦那が甘いのんあかんのも知っとるから、なんやこれは旦那のために、別で作ったらしいわぁ」
「……へぇ」
「俺はチョコなんやから、ふつうに甘いほうがえぇやろって言うたんやけど、」
「うん……」
「糖質は控えるに限りますって、もう全然譲らんくってなぁ」
「依織」
「そんで、……んぇ?」
「それ、開けて」
ペラペラと善とのやり取りを話して聞かせてくる依織を、頬杖をつきながら眺めていた匋平だったが、唐突に話の腰を折りにかかる。
うんうんといつものように相槌を打ちながら話を聞いてくれていた匋平に、まさか止めに入られるとは思っていなかったのか、依織の、いつもよりきつめにラインが入った瞳がパチクリと大きく見開かれる。こてりと首を傾げながらも、言われたままに、紙袋に手を伸ばして、中身を取り出した。
「……食べるん?」
「……」
「ん?」
シックなブラウンの箱に、レースリボンが巻かれているのかと思ったが、依織は躊躇いなく、蓋に手を掛けるとパカリと上に持ち上げる。リボンは箱の底には通っておらず、蓋の内側に巻き込まれているらしい。
ふわり、閉じ込められていたカカオの香りが、かすかに立ち上る。ココアパウダーがまぶされた、少し歪なトリュフが三つ。
中身を確認して、匋平は顎でそれをしゃくる。
依織の指がトリュフを指す。それから、その指を自分に向けて首を傾げて見せてきたので、匋平はこくりと頷いた。
「なんやぁ、毒味せぇって? いくら善が旦那に対抗心燃やしとるからって、さすがに変なもん入れたりはせんやろぉ〜」
「そうだな」
「まあ、俺は甘いん好きやから、いらんのやったらありがたくもらうけ、」
「おい、」
「へ……?」
依織の指先が、ひょいと、トリュフを一つ、摘み上げる。そのまま流れるように口に放り込めど、指先に少しだけ、ココアパウダーがついてしまっていた。
「誰がやるって言ったよ」
「ほぁ? なひ、らん、な、ぁぅ………ッ!?」
その指先を舐めようとした依織の手は、しかし、伸ばした舌が届くことはなく、宙を掻く。ネクタイを強引に引かれ、気づいたときには、口を、食われていた。
ガタンッとスツールが揺れる。カウンターに咄嗟についた手が空の紙袋を引っ掛けて、紙袋はカウンターの向こうに消えた。
「ン、〜〜っ! ん、むぅっ……ふ、ぁ……っ」
がぶりと噛みつくように唇は食まれた。一口で頬張るには少し大きかったトリュフが入った咥内に、逃げ場はない。無防備なところに容赦なく舌を差し込まれて、びくりと依織は肩を震わせた。
ぐちゃり、室温で少し柔らかくなっていたトリュフは、匋平の舌に圧されいとも容易く形を崩す。溶けたチョコがまとわりつく。擦りつけるように舌を絡められ、口いっぱいに、ほろ苦さが広がる。
ネクタイを引かれ、逃げようとする小さな頭を後ろから大きな手に固定されれば、依織にはどうすることもできない。顔の角度を変え、好き勝手に口の中隅々まで掻き回されて、真っ赤な眦に涙が滲む。
後頭部、髪の中に差し込まれた手が、ふわりふわり、セットを乱していった。
「……ひぁ、ッ……ぁん……〜〜っ」
上がりすぎた咥内の熱で、どろどろになったチョコレートに溺れそうになりながら、匋平の腕に縋りつく。
キス、なんて優しいものではない。匋平が、チョコレートを食べようとしているのだと気づいたところで、かくりと腰が抜けた。
口の中から少しずつ奪い取られ、溶かされ、次第に思考までもが、とろけていく。最初は苦いと思ったビターチョコは、いつしかどうしようもなく甘くなる。
チョコレートには媚薬効果があるなんて話もあるけれど、歯列をなぞられ、上顎を舌でゆっくりと舐られるだけで、腰までひくつかせる姿を見れば、それもあながち間違いではないのかもしれない。
「ぷ、はぁ……はっ、ぁ、も、らんな、……なにぃ……」
「………おぇ、甘」
「んぇぇ、うそやん、……ちゃんとビターチョコつかったんやけ、ど………あ、」
「ふは、どろっどろ」
ようやく解放されたのは、本当に口の中から、ほとんどチョコレートがなくなったときだった。
ネクタイもシャツも髪も、すっかり乱されて、荒い呼吸を繰り返す口の端から垂れる唾液は、チョコレート色。ぐいっと親指で拭われて、依織は決まり悪そうに顎を引く。潤んだままの上目遣いに、匋平は可笑しそうに片側だけ口角を上げた。
「ハメたな、旦那……」
「さあ、なんのことだか」
「いつから気ぃついとったん……?」
「箱開けろって言われたのに、俺に食べてはもらえなさそうで、それに依織が、ちょっとだけ残念そうな顔したとき」
「……そんな顔しとらん」
「いいや、してた」
「……」
そうもはっきり言われてしまうと、強くは否定しない、できない。実際に、そう思ったのはきっと事実なのだろう。
返す言葉も見つからない様子で、掴んだままだった匋平の腕から、そろりと手を離せば、真っ白だったシャツが汚れているのに気づく。指先についたままだったココアパウダーが、移ったのだろう。
悪いことをしたと思う反面、原因は匋平にあるのだからと、少しの腹いせに、指を滑らせ汚れを広げつつも、ぐっと押し黙った依織の頬に、匋平の手が伸びる。
「……いつもそれくらい、わかりやすけりゃ、可愛げがあるのになぁ」
「……なんや、普段の俺は、可愛ないてか?」
「そうは言ってないだろ」
頬を柔らかく包み込まれながらも、むすり、露骨に拗ねていますと表して、赤くなった顔で唇を尖らす姿に、匋平は一層柔らかく目を細めた。
日付が変わってからここに来たこと、自分からではないと嘘をついたこと。それらを思えば、依織が店に来たことに気づかなかったことにも、匋平はなんとなく合点がいっていた。気づかれまいと、したのだろう、本当に。こんなにも、自分のことが好きだと、顔に出てしまうところを、隠そうとしてみたのだろう。それとも、すぐに渡す決心がつかず、先程のような無駄な茶番の予行練習を繰り返す時間が、欲しかったのだろうか。
どちらにせよ、愛おしさばかりが、込み上げる。
「お返し、楽しみにしとけよ」
「……めちゃくちゃ期待しとくからな」
おう、歯を見せて笑った匋平は、いまだ室内から抜けきらないチョコレートの甘い匂いにも負けず、今日一番、とびきり甘ったるい顔を依織へと向けた。
(……旦那)
(ん?)
(実は、もう一個食べてほしいんもん、あるんやけど)
(あ? 〜、いや、美味かったけど、さすがに今日はもうきつ)
(これ、)
(え?)
(旦那のために着てきたって言うたら、脱がせてくれる?)
(は……?)