冷雨 土砂降りが祟ってか、その日の客足はほとんどなかった。深夜に掛けて雨がひどくなるなんて予報が出ていたこともあって早めに店は切り上げることになって、低気圧に唸りながら自宅で酒を煽っていたのが、いつの間にやらソファで寝てしまっていたらしい。ピンポーンと、不意に響いたチャイムの音で目が覚めた。
重だるい瞼を持ち上げ、ぼんやりと天井を見上げる。ピンポーン、二度目のチャイムで、ようやく状況を呑み込む。
のろりと身体を起こして、背もたれの向こうを覗き込むようにしてモニターを見るも、映し出されたエントランスに人影はない。二度続けざまにあった呼び出し音だが、三度目はなく、イタズラかと舌打ちをして時計を見遣れば、時刻は深夜2時過ぎ。酔っぱらいかと頭を掻いて欠伸一つ。いつもならまだバーにいる時間ではあるが、雨のせいか、妙にすっきりしない。
いつもなら飲み直すところだが、今ばかりは寝直そうと寝室に向かおうか、と。
ピンポーンと、また、チャイムの音。モニターにもう一度視線をやるも、今度は画面が暗い。気のせいかとも思ったが、じっと画面を見つめていれば、時々ノイズが入ったようにジジ……という音と画面が揺れるので、ついてはいるのだろう。しかし、やはり何も映ってはいない。これもあれも、雨のせいだろうかと、強くない機械の怪しい挙動にどうしたものかと眉を顰めたところで、コンコンとどこからともなく音が、聞こえた。
ぼんやりしていた意識が途端、覚醒する。なんの音だと耳を澄ませ、音の発生源が開けっ放しのリビングの扉の向こうだと気づく。扉を抜けて、廊下の先、玄関の向こう。
コンコン、コンコン。
酔っぱらいが部屋を間違えた、そんなところだろうと思って痛む顬を抑えて溜め息をついた。
コンコン、コンコン。
重い身体をソファから持ち上げて、廊下に出て玄関に向かっている間にも、一定間隔のノックの音は止まない。
しつけぇなぁ、しつこい奴だなと思ったのがそのまま口に出ていた。酔っぱらい野郎の顔は一応拝んでおいてやるかと、ちょっと待てと、鍵を開けるため腕を持ち上げた刹那、そこでようよう気がついた。
──ああ、人じゃあない。
まずいことをした、酔っぱらいは自分のほうだ。この距離に来るまで気づかないなんて、どうかしている。既に声は発してしまった。向こうも、気づいただろう。
「なぁ、開けて」
ザリザリと、耳触りの悪い、音。言葉だと認識できたのさえ不思議なくらいの雑音。それなのに、あいつの声だと、思った。脳が誤認識を起こしているのは明白なほど耳の奥が籠ったようなのに、音が、あいつの声で言葉を成す。
いつから見られていたのかと額を押さえる。ズキズキと頭が痛む。全身はさっきよりずっと重いし、耳鳴りがひどい。
ノックの音は、相変わらず止まない。
「あけテ、開けてぇや、旦那、なぁ、ここ、アケて」
「雨ガ、すごいねん、めっちゃ濡れテもぅたわぁ」
面倒なものを、引き寄せてしまった。こちらが気づいているのことに気づかれただろうが、入ってくる気配はない。どうやら、許しがなければ踏み込めないのだろう。
そうと知れれば、相手をする必要はない。こういうのは無視を決め込むのが一番で、それ以上の対処法を、知っているわけではない。
雨とともにいなくなってくれるのを、ただ、待つしかない。
「はよォ、ここ、開けテ、だンなぁ、」
「ゆっくリ、話シよう、な、」
滑らかだったと思った音に、次第にノイズが混ざる。聞き苦しい音は、それでも、伝わる言葉で、気を煩わせる。
聞いてはいけない。いくらあいつの声で請われようと、アレは、違う。離れなければ、知らず一歩踏み出していた足に息を呑み、踵を返した。
「あのトきの、コと」
ああ、いやだ、いやだ。
本当に、いつから見られていたんだ。
こいつは俺たちの、何を知っているんだ。
耳の奥で、音が籠る。耳鳴りが神経まで蝕んでいくような。冷雨に身を震わせて帰ってきたはずなのに、噴き出す汗が背中を、額を、伝い落ちる。
コンコン、コンコン。
だんな、ダンナ、旦那。
先日、久しぶりに聞いた男の声は、記憶の中の青臭さをどこかに置き去りにして、俺の知らない苦難と責任を、その喉に飼い慣らしていたはずだ。そんな、縋るような震えた声を出す男は、もうどこにも、いないというのに。
コンコン、コンコン。
「だんナ」
ぐらりと視界が揺れる、足元がどうしてか、覚束無い。
あいつは、そういえば、こんな声で俺を呼んでいた。よく聞き馴染んだ音、あいつしか呼ばないおかしなあだ名。
コンコン、コンコン。
ダメだ、やめろ。
手汗が滲む掌にこれでもかと爪を食い込ませる。噛み締めた奥歯がぎしりと嫌な音を鳴らす。
コンコン、コンコン。
俺は、あいつは、依織、は──
「だんな、おネがい、ダんなぁ、」
「ヲいて、いかなイで」
「っ、依織は!」
応えてはならない、そう、戒めていたはずなのに、気づいたときには、叫んでいた。
背中を向けていたはずの身体は、気づいたときには玄関を真っ直ぐに見据えていた。
「……そんなこと、言わねぇ」
絞り出すように呟いた言葉が、上手く音になっていたのかなんて、わからない。
気づけばノックの音は、止んでいた。代わりに、ザーザー降りの雨音が、扉の向こうからでも絶え間なく響いている。
汗でびっしょりの身体。浅い呼吸。視界が、世界が、歪む。割れそうなほど痛む頭に、堪らずその場に蹲る。震える両手で、消えない幻聴に、耳を塞いだ。