信じられない アジーム家の当主、カリム•アルアジームの嫡男であるジェレミー•アルアジームに、母親はいない。
「またジェレミー様が消えた!」
「探せ探せ! きっと宝物庫にいるはずだ!」
ジェレミーにとって家はダンジョンとほぼ同義だ。入り組んだ廊下、宝物の数々。そして執事や使用人はモンスターで、間違って鉢合ってしまえばその場で戦闘だ。大体彼らの方が達者で見つかれば即勉強部屋に戻されてしまったり、安全な場所に連れて行かれてしまうのでジェレミーは極力見つからないように息を潜め、足音を立てぬよう細心の注意を払って屋敷中を駆け巡る。
奴らは目敏いが隠れることに関しては自分の方が上だと自負しているジェレミーは、今日も人の気配を察してサッと身を隠す。自分を探しているであろう相手が数歩右往左往する足音がジェレミーの耳を喜ばせた。暗闇の中で小さくなったまま「クププ」とほくそ笑み、そろそろ違う場所に移動しようかと脚を伸ばしたとき、被っていた壺がスポッとどこかへ行ってしまった。
突然の明るい視界に目がやられる。「ぐあっ!」と悲鳴を上げると、壺を取った張本人は悪役のボスがするような「フッフッフッ」という笑い声を上げた。
「ジャ、ジャミル……!!」
「おやおや、ジェレミー様。こんなところにおいでとは」
「くっっ!」
ジェレミーにとって唯一敵わない相手。どこに隠れてもどこに行っても必ず見つけ出して勝利の笑みを浮かべる男——それがこのジャミル•バイパーだ。
昔はコーンロウのような髪型をしていたらしいのだが、今は大ぶりな三つ編みにところどころ宝石を飾っている。ジェレミーはジャミルの髪型を見るたびに某アナ雪のエルサを思いだすのが、言えば多分髪型を変えるだろうと思ったので内緒にしている。自分の冒険の邪魔をする忌まわしき敵であるが、髪型はとにかく可愛らしいと思っていた。
ジャミルは今でこそジェレミーのお目付役をしているが以前はカリムの従者をしていたと聞いて、ジェレミーは深く頷いたものだ。お目付役にしては鋭いし、頭も切れる。度胸もあるし、ジェレミーの食事の毒味だって率先して行ってくれるのだ。そういう「命をかけてくれる奴」というのは中々いないと幼心に分かっていたし、だからこそジェレミーはジャミルからの深い愛情を敏感に感じ取っていた。
「ほらジェレミー、昼寝の時間ですよ。部屋に戻ろう」
「えー……まだ眠くないしなあ」
「横になってたら眠くなるから安心して。ほら行くぞ」
そうして物理的にジャミルに背中を押され、ジェレミーは渋々部屋へと戻っていったのだった。
「ジャミルには妹がいたよな」
ジャミルに絵本を読んでもらい、後は瞼を閉じてジャミルに背中をトントン叩いてもらうだけとなった時だった。まだ眠くなかったジャレミーは殆ど覚えていないジャミルの妹のことを思い出した。
自分が生まれる前に嫁いでいってしまったジャミルの妹は、時折実家に戻っては家族団欒で過ごすのだそうだが、別段要件のないジェレミーには会いに来ない。だから、確かジャミルと顔がよく似ているはず、くらいのことしか覚えていない。
「ナジュマのことか?」
「そう! ナジュマは元気にしているのか?」
「ああ、勿論。寧ろ元気すぎるくらいだよ。どうしたんだ、急に」
「ああいや……えっと、兄弟がいていいな、と思って」
そう言えば案の定ジャミルはキョトンした顔でジェレミーを見た。
「兄弟が欲しいのか?」
「そりゃ、そりゃあ欲しいよ。だって父様にも兄弟が沢山いて、その兄弟にも子供がたくさんいるんだもん。みんな賑やかで楽しそう……だけど俺だけ一人っ子だし」
そう言ってジャミルを見上げると、想像していたよりもずっと困ったような苦しそうな顔をしていてジャレミーは動揺した。まさか悲しませただろうか、と思い両手をブンブンと左右に振って顔に元気を貼り付ける。
「なんちゃって! 一人なのは寂しいけどジャミルや他のみんなも遊んでくれるし、本当は寂しくなんかないよ。ちょっと言ってみただけ」
「……言ってみるだけなら、カリムにもしてみたらどうだ? 兄弟が欲しいって」
「でも母様いないし」
「お前が良いなら別の人に母親として来てもらうっていう手もあるぞ」
ジャミルは簡単にそう言うし、カリムほどの男であれば無論すぐにでも相手が見るかるだろうことは容易に想像がついた。それに熱砂の国は一夫多妻制で、母親が数人いる家も珍しくない。その案が何より一番簡単だろう。だけど、それは……。
「それは無理だよ」
「なぜ?」
「だって父様、母様のこと大好きだもん……」
ジェレミーが生まれてすぐ、ジェレミーの母親は家から去らなければならなくなったらしい。詳しいことはよく分からないのだが、周りに尋ねても「心配しなくても生きている」としか言われないのでジェレミーも母親のことはよく分からないのだ。それらしき人の写真だってないし、「ジェレミー様は母親と瞳がそっくりです」と言われるので、なんとなしにキツめの美人を勝手に妄想している次第だ。
誰も彼も、ジャミルでさえ母親のことを話してくれないのだが、父親のカリムだけはよく母親のことを聞かせてくれる。母の料理が世界で一番好きだとか、どれほどに綺麗だとか、頭が良くて頼りになるのだとか。そういう話をしている時のカリムは本当に幸せそうで、まさか違う女性と結婚して子供を作ってくれだなんてこと、口が裂けても言えそうにない。
「父様は母様にシューチャクしてるんだ」
「……執着なんて言葉、よく知ってるな」
「こないだ習った!」
「それはそれは。学んだことが活かされてなによりです」
本当に嬉しかったのか、柔らかな口調でそう言うと、ジャミルはジェレミーの背中を優しく叩く。一定のリズムのソレは、いつもならジェレミーを数秒で眠りの世界へ連れて行くのだが、今回ばかりは違った。頭の中は見たこともない母親のことでいっぱいだった。
「なぁ、ジャミルは母様のこと良い人だと思う?」
「はい?」
「ジャミルはずっと父様と一緒に居るんだから、母様のことだって知ってるんだろ? 父様が言う様に素敵な人なのか?」
問えば、ジャミルは少しの間瞳を大きくさせて固まった。そして2度ほど瞬きをすると眉間に皺を寄せ、酷く考える素振りを見せる。
「良い人……とは?」
細く長い指先を自身の顎に当て、「う〜ん」と唸るジャミルの頭には、母様の姿が映っているのだろうか。だとするなら脳をスキャンして見てみたいものだ。
「……少なくとも貴方の物心がつく前に正体を隠す時点で、きちんとした母親ではないと思う」
「そ、そっか……」
想定外の辛辣な言葉に、流石に陽気なジェレミーの肩も下がる。もうちょっと言いようがあるんじゃないかな、なんて目の端に溜まった涙を拭けば、頭を優しく撫でられる感覚があった。そして「ああ、だけど」とジャミルは続ける。
「良い人かどうかは分からないけど、確かに料理は上手かったな。カリム好みの料理ならなんでも作れる筈だぞ。確実に胃袋は掴んでた」
「胃袋を掴む……?」
「そうそう、食欲は人間の三大欲求の一つだからな。俺の食事無しじゃダメな体になってるんじゃ無いかな?」
「俺の食事?」
「え? いやいやお前の母様の話だろ?」
「あ、うんうん。そうそう。俺の母様の話」
繰り返すとジャミルは「寝ぼけているのか?」と笑った。あれ、俺が聞き間違えたんだっけ? と、ジェレミーが大きな欠伸を一つすれば、細い手がまた頭を撫でてくれる。
「おやすみ、ジャレミー。起きたら美味しいおやつを作ってあげるよ」
「うん……。ジャミルはいいな、母様に会えて」
ぐすぐすと泣きながら眠りについていく。どこまでも優しい掌と優しい声が降り注いだ。
おやすみジェレミー。おやすみ、良い夢を、愛しの我が——。
そう、ジャミルがよく歌う子守唄が聞こえた。
出張で長期間留守をしていたカリムがついに帰ってきた。
そう執事から聞いたジェレミーは、遊んでいた従兄弟たちとの挨拶もそこそこに玄関に向かって飛び出していく。
しかし一足遅かったようで、着いた時には玄関にカリムの姿はない。一体どこだろうかと使用人らに聞き込みもしつつダンジョンの中を駆け巡る。そしてジャミル専用の仕事部屋の前を通ったところで急ブレーキを掛けた。
そうだ、父様のことならジャミルに聞けば良い!
ジャミルは自分を見つけ出すのが上手いのだ。きっと父様のことだってすぐに見つけだしてくれるに違いない! と、勝手知ったる扉をノックもせずに開ける。
そのまま中へズカズカと進み、ジャミルを呼ぼうとした時、奥から人の話す声が聞こえた。
それも良く知った人間だ。1人はこの部屋の主のジャミル。そしてもう1人はきっと——。
なんだここに居たのか、と足を早めたジェレミーだったが、その足はすぐに止まる羽目になった。
「会いたかったよ、ジャミル」
大好きな父親、そして大好きなジャミル。目の前にはその2人しか居ないのに、何故か飛び出して行くことができない。
それは2人の距離感が異様に近いのもあるだろうし、2人を取り巻く雰囲気が、幼いジェレミーの足止めになっていた。怒られるわけでもないのに何故かカーテンの中に隠れて様子を窺うも、どう見たって絶対おかしいくらい2人が近いのだ。
鼻と鼻が時折触れ合い、唇なんて、いつくっ付いてもおかしくないくらいだ。カリムの腕がジャミルの腰に回って、2人の体も密着している。ジャミルの指がカリムの耳に触れ、やわやわと擽っている。
「長期出張お疲れ様」
「おう! ジャミルとジェレミーに会えなくて辛かった〜」
「早く会いに行ってやれよ。ジェレミーも随分と寂しそうにしてたから」
「おう、そうだな! 離れてる間にまた大きくなったんだろうな〜!」
「ああ、日に日にお前に似ていくような気がするよ」
ジャミルがそう告げるとカリムはやたらと嬉しそうな声で「ほんとかよ〜!」と笑う。
「ああ、そういえば聞いてるぜ。あいつ、魔法も発現したらしいな。すげえじゃねえか」
「うん。まだまだ魔力は低いが、本人は頑張って使えるようになろうと努力しているみたいだな」
「そうか……、流石オレとお前の子だな」
カーテンを握りしめるジェレミーの目の前で、幸せそうに2人が微笑みあっている。
「お前それ、ポロッと出すなよ?」
「ええ? まぁ、気を付けてはいるけど。オレは別にジェレミーに隠す必要なんかないと思うんだけどな」
「あのなあ」
「ああ、分かってる! 分かってるって! 中途半端にしないから、大丈夫!」
慌てるように訂正するカリムをジャミルは睨みつけるが、悪い雰囲気ではなかった。
「オレ、ちゃんとジャミルやジェレミーと家族になれるように動いてるから。もうちょっと待ってな。悪い」
「俺は別にお前と籍が同じじゃなくても構わないんだが」
「そう言うなって」
お前たちをオレに護らせてくれよ。と言ったカリムはそのままジャミルに何かを耳打ちし、それに応えるようにジャミルの頬は朱色に染まった。緩く瞼を閉じるジャミルは確かに、これ以上になく美しい。
——うそだ、これは夢なのだろうか。
ジェレミーはよろよろと数歩後退し、誰にも気付かれないようにそっと部屋から飛び出した。
そんな……考えたこともなかった。
ジャミルが——自分の母親だなんて。