しぇあはぴ! 夜7時過ぎ。夕食の匂いが残る食堂前の廊下を通り抜け、見慣れた扉の前に立つ。日暮れ後の冷えた空気で悴んだ手。ドアノブを掴めば、さして力を入れなくても開いた。扉の向こうから流れ込んだ温かい空気が、ふわりとアタシを包む。
「ただいま戻りました」
「おかえりっス!」
撮影から帰ると迎えてくれたのは、同室のバンブー先輩。いつもながら張りのある声は、トレーニングと仕事のコンボで疲れた体に元気をくれる。
「夕飯、ちゃんと食べたっスか?」
「ケータリングが出たんで。バンブー先輩は?」
親指を立ててウインクしている。ま、鬼の風紀委員長サマだもんね。時間通りに食堂で出された栄養バランスのいい夕食を食べたんだろうな。
「今日の献立ってなんでしたっけ」
「グリルチキンサラダのにんじんドレッシングがけ、オニオンコンソメスープ、それから……」
その瞬間、ぐぅぅぅとお腹の鳴る音がどこからともなく……いや、目の前のバンブー先輩から聞こえてきた。
「何でお腹鳴るんですか。ご飯食べたんですよね?」
アタシの質問に、バンブー先輩は後頭部を搔きながら苦笑いを浮かべた。
「いやー実は中等部の子が転んで、夕飯を半分以上零しちゃったっス。で、アタシのを分けてあげて……」
それで殆ど食べられなかったってことか。先輩らしいなぁ。その時の様子が目に浮かぶ気がする。
風紀には厳しいけれど、実際は困っている人がいたら見放せない優しい人だから。
「じゃあ、お腹……」
「すいちゃったっスね」
「ふーん。じゃあ、よかった」
アタシの返事を受け首を傾げる先輩を余所に、おもむろに掴んだカバンを開き逆さまにする。ドサドサと音を立てて出てきたのは、大量の箱。赤やピンク、茶色に緑。色とりどりの箱に入っているのはすべて、かの有名なチョコがかかった棒状のお菓子だ。
「ななな……なんスか! このお菓子の数は!」
「今日はこのお菓子の日ですよ」
「え?」
「だから複数のスタッフさんがこのお菓子を買い込んでて、撮影現場で配ってたんですよ。でも、こんなにたくさんもらったって一人では食べきれないし。一緒に食べてくれます?」
「いいんスか? シチーが貰ったものなのに」
「こんなに食べたら太り気味になって、トレーナーにもマネジにも怒られるんで。それに……」
アタシはお菓子の箱をひとつ拾い上げると、バンブー先輩に差し出した。
「先輩と一緒に食べたいんで」
チラリと先輩を見ると、一呼吸。たまには素直な言葉、言ってもいいっしょ。
「好きな人と食べたら、余計に美味しいでしょ?」
そう伝えれば、夏の空みたいなブルーの瞳が大きく見開かれた。
そして、バンブー先輩は、そのまま固まってる。びっくりしちゃったのは分かるけど、何か言って欲しいな。慣れないことを言っちゃった恥ずかしさで、いたたまれないんですけど。
そんな感情を掻き消すようにアタシは、もう一度ずいっとお菓子を差し出した。
「先輩も、食べますよね?」
「好きな人にあんなこと言われて、断れるわけないっスよ」
そう言って笑う先輩は、すごく幸せそうで。すっごく恥ずかしいけど、たまにはちゃーんと気持ちを伝えてみるのも悪くないなって思えた。
手にしていた箱を開け、中身のパッケージを半分こする。袋を破いた途端に部屋中に漂う甘い香り。そのせいで、また先輩のお腹の音が鳴った。2回目の空腹サインで恥ずかしがる先輩の口にイチゴ味を運んであげれば、一口齧った瞬間に笑顔が広がる。
「は~。美味しいっスねぇ」
「そりゃあアタシの手ずから食べてるんですから。当たり前っしょ」
「そうっスね! それなら……」
バンブー先輩は自分が受け取ったパッケージを開けると、その中から1本、お菓子を取り出した。そしてそれをアタシの口元に突き付ける。
「シチーも、あーんするっス!」
「え、いいよ。恥ずかしいし……」
「アタシは食べたっスよ。はい。口開けるっス!」
アタシは観念したように口を開けると、カリッと音を立てて齧る。そうしたら、バンブー先輩は満足そうに笑ってくれた。
「どうっスか? 美味しいっすか?」
「ふふ。秘密です」
「ええー! 教えてほしいっス!」
「ダメです。ファン感謝祭でアタシの秘密をばらしたお返しですよ」
「いつの話してるっすか~~!」
「4月ですよ」
「知ってるっス~~! そういう意味じゃないっス~~!」
悔しそうにする先輩を横目に、アタシは笑いながら2本目のお菓子を口にする。そうしたらバンブー先輩は、不満そうな表情で食べ始めた。
あーあ。そんな表情で食べても美味しくないっしょ。しょうがない。そろそろ教えてあげよっかな。
先輩の笑顔を見ながら食べたお菓子の味は、いつもよりずうっと甘かった。ってさ。