泡沫と雷鳴(雷コウ)1.
天神コウが枕営業をしている、そんな記事が出回ったのはまだ梅雨の気配残る初夏の事。
無論、そんな事実はどこにもなく、アンチの仕業による捏造記事は証拠もない推論ばかりで綴られ、小さくピンぼけた写真に写る二人は腰を抱き寄せているわけでも肩を抱いているわけでもない。うまい事トリミングして誤魔化しているつもりなのかもしれないが、その扉はホテルなどでは無くコウが講演を行った大学の講堂で、隣にいるのは案内をしてくれた学長である。ちなみに言えばトリミングされて捨てられてしまった部分には他の福岡支部のメンバーも存在している。
まぁ、有り体に行ってしまえばそれは酷くクオリティの低い創作物だったのだ。そんなものを信じたものなんて、DAAの内部どころか外部にすらいなかった。というわけでそんな話題にするのも不快な捏造は誰に語られることもなく消えていくこととなった。
本日のDAAのHEAD会議は本部で行われていた。先ほどまで晴れていた空はこの時期特有の雷雨に見舞われている。時折窓から差し込むのは眩いばかりの閃光と轟音。
あのくだらない記事の話は勿論会議に出ることも無くいつも通りの定例報告が続くばかり。雷我はその退屈な会話に徐々に意識が飛びそうになるのを必死でこらえていた。ここで眠ってしまおうものならあの小言ばかりの男に何を言われるかわからない。
空が白く光る。一、二、三、光ってから秒数を数えてみた。それで距離がわかると教えてくれたのはカケルさんだっただろうか。六秒経って響く轟音。それに驚いたのだろう、今何かを話していたコウが少し言葉を止めて、それからまた何でもないように喋り始める。
容姿だけならSSR。そんなことを本人にも言ったことがある。齢二十五にして中学生に間違えられるような童顔に、どう考えても睡眠不足と小食故の栄養不足のせいだろう発達し損ねた小さくて薄い身体、左右で色の違う瞳はどこか浮世離れしている。
あの記事が出た時、一体何人がこの男のいかがわしい姿を想像したのだろうか。ぐちゃぐちゃと腹の奥で何かが煮えているような、そんな感触に堪らず雷我は窓の方を向いて顔をしかめた。先ほどより近くでまた空が光る。
「和食君、聞いているのかい?」
コウがいつものように小言を投げつける。反論したところで長くなるだけだし、そもそも指摘の通り一つも話を聞いていなかった。
「……ウス」
肯定とも否定ともとれる返事を返してまた会議は続いていく。雷鳴は四秒後になっていた。
ただの夕立だと思っていた雨は会議が終わってもまだ降り続いていた。
「ホテルはいつもの近いところにとってあるが、この雨だ。タクシーを呼んだから入口で待っていなさい。あぁ、嘉間良君は眩君と約束があるらしくてね、一番に飛び出していったからもういないよ」
それだけを告げて三次はすぐに背を向けて後ろ向きに手を振りながら去っていく。残されたのは雷我とコウだけ。無言のまま支度をする二人きりの部屋に雨音だけが響く。
雷我とコウが体を重ねた回数はもはや数えきれない。少なくともこうやって会議でHEADだけが招集されるときはほとんどそうだ。それでも未だに二人っきりになると何を喋っていいのか雷我にはわからない。
無言のまま廊下を歩いて二人は玄関にたどり着く。まだタクシーは来ないらしい。雷我がこっそり横目で見たコウの表情はいつもの聖人面で、あのくだらないゴシップ記事のことなんてきっと一つも気にしていないのだろう。ぐちゃりと何か潰したような、三増酒を飲んだあとのような気持ち悪さで少し息苦しい。
「……アンタ、枕してんだって?」
息を吐くために吐いた言葉。ただただ自分が苦しくて吐いた言葉。
「……え、」
稲妻が走る。眩い光に照らされてうつるコウのその顔はいつもより白かった。髪の毛と同じ色の薄い睫毛を震わせて、双眸を見開いて零れそうなガラス玉は不自然なほどに大きく揺れた。一瞬だけ見せた表情はどこか迷子の、親しい人の手を離してしまった子どもの様にも見えた。
一秒、二秒。近い距離で落ちた雷は地面を揺らす。
傷つけた、と雷我が自覚した瞬間にはもうコウはいつもの澄ました聖人面を浮かべていて、さっき見せた幼子のような表情は雷光が見せた幻だったのではないかと思うほど。
ふふっとコウが小さく笑う。信者が神と崇める美しい笑い方だった。
「枕営業の噂なら否定するよ。まぁ、そうだね。他ならぬ君なら、私が誰とでも寝られるような人間だと思うかもしれないね」
雷我の耳にはカシャンと何かが閉まる幻聴が聞こえたような気がした。隣にいるはずの男が酷く遠く見える。
部屋に押しかけた時の小言を言う声のトーンとか、情事の最中に背中におずおずと伸ばされる腕だとか、終わった後気が付いたらベッドが空になっていた時にこちらの姿を見つけてほっとする表情だとか。どうして今全部思い出したのだろうか。
きっと、もう全部無くしてしまったのだ。今、この瞬間に。遠慮のない、鞘の無い、ナイフのような自分の言葉のせいで。無くした瞬間に全て持っていたことに気が付いた。
「好きでもない君に抱かれているのだから、君がそう思うのも仕方がない」
ははは、とコウは温度の低い声で笑う。好きでもない、という言葉に雷我の左胸がキリキリと痛む。これは投げ返されたナイフだ。
「悪いが、私は歩いてホテルに向かう。少し歩きたい気分なんだ」
雨はまだやまない。少し遠くなった雷鳴を合図にコウは屋根の無い場所へ足を踏み出した。強い雨はみるみるうちにコウの小さな頭を、しっかりクリーニングされた真っ白なコートを、高そうな靴を全部濡らしていく。
声をかけようにも、雷我はかける言葉を一つも持ち合わせていなかった。二人っきりになると何を喋っていいのか雷我にはわからない、急にわかるようになるはずもない。
遠くなるその白い後姿が見えなくなる直前、やっとタクシーが到着する。あと一分早ければコウはこのタクシーに一緒に乗ったのか、あと二分早ければあんなこと言わずにすんだのか。
タクシーにあたったところで栓が無いことである。二人のご予約でしたが、という運転手に一人になったんで、と返して乗り込んでいく。いつの間にか雷鳴は聞こえない。
雨脚は徐々に弱まって、ホテルにつくころには空の端は光が差していた。
そもそも雨なんか降らなければ、そう思ったところで、雷我はまた誰かのせいにしていて自分に気が付いて舌打ちを漏らした。
2.
ホテルのロビーでチェックインを済ませたあと、雷我は何をするわけでもなくそこに居座り続けた。入口の自動ドアが開けられるたびに目線を向けるが、あの真っ白な男は一向にやってくる気配はない。待ち人が到着したのは、もしかしてタクシーよりも先に到着したのだろうか、そう雷我が判断して部屋に向かおうとした瞬間だった。
先ほどまでの大雨に濡れたコウの身体は一回り小さく見えた。慌てたように駆け寄ってくるホテルの従業員にタオルを渡されて、全身から雫を垂らしながらチェックインに向かう。
意味もなくロビーに座っている雷我の姿に、コウは一瞬だけ目線を向けた。いつもなら小言の一つや二つ飛んできたかもしれない。けれどコウは一つも興味が無いと言う様に視線を外して目の前に出されたシートに記入をする。そして二度と雷我の方を見ないままに用意された部屋へと歩き出した。
フロントとコウの会話から漏れ聞こえたルームナンバーは、雷我の隣の部屋だった。
雷我がコウの部屋のインターフォンを鳴らしたのは午後九時過ぎの事。
普段なら部屋に行く前に一つ携帯でメッセージを送るというのに、それをしなかったのは無視されることも、拒否をされることも怖かったせいかもしれない。部屋を直接訪ねてしまいさえすれば、あの真面目な男が居留守を使うことが出来ないというのをわかっていたのだ。どこまでもずるい人間だと情けなくなって、いっそこのままなあなあにしてしまえばまた昨日までの距離感に戻れるのだろうかとありえない空想に逃げて、ばっかじゃねぇのと雷我の中の雷我自身が呆れたように笑う。
押したインターフォンの音に気が付いてドアの前まで人がやってくる物音。扉一枚隔てて向かい合う気配。少し間があったのは、部屋の住人がドアスコープ越しにこちらの姿を見ていたせいだろう。
その間、僅かに一秒か二秒程度。多くても三秒ほどの時間だったというのに、雷我には酷く長く感じられた。チェーンロックが扉にぶつかる音がやけに廊下に大きく響いて、ゆっくりと扉が開けられる。
「……何か、用事でも?」
ドアの隙間から覗くコウの顔は薄暗い部屋の明かりのせいか、いつもよりも白く、目の下の万年隈はいつもより濃く見えた。尋ねられて雷我は言葉に詰まる。いったい自分は何をしにこの部屋を訪ねたのだろうか。
「……その、」
言葉を続けたいのに続けられない。紡ぐべき言葉は未だに見つからない。じっとこちらの言葉を待つコウの瞳が伏せられる。部屋の明かりのせいではなく、本当にいつもより顔色が悪い。
思わずその体に触れようと雷我は手を伸ばす。頬に触れる直前、その手はコウの手によってパチンと弾かれた。ジンジンと小さく痛んだ右手と拒絶されたことに抉られたように痛んだ左胸。多分今酷い顔をしているという自覚は雷我にもあった。
信じられないという顔をしていたのはどちらかというとコウの方だった。無意識のうちに拒んでしまった自らの行動と、雷我の顔を見比べておろおろと視線を彷徨わせる。
「あ……その、悪い。叩いてしまって……」
ぐらりとコウの体が頼りなく揺れる。
「そんな、つもりでは……」
ぐにゃりと膝から崩れ落ちる小さな体。壁にもたれかかるようにして、ドアノブに必死に捕まって体勢を整えようとするけれどうまくいかずにそのままコウの体は床に沈み込む。
慌てて駆け寄ってようやく雷我が触れたその体は、信じられないほどに熱かった。
――風邪ひいた、どうしたらいい
唐突に雷我が夜鳴のグループラインに送ったメッセージはすぐに既読が増えていく。雷我君が?大丈夫か?そんなメッセージは無視をして、病院には行きましたか?というメッセージにだけ、行ってない、と返事を返す。
ぽたぽたとまだ雫が下がったままのコートが部屋にハンガーにかけられていた。風呂場は特に使われた様子もない。もともとそんなに丈夫な方でもないだろうに、雨で冷えて帰って特にあったまりもしなかったのだろう。雷我はばっかじゃねぇのと布団の中で荒い息を吐きながら朦朧としている男に言いかけて、そもそもは自分のせいなのだと口をつぐんで頭をかきむしった。
母親に聞いたけど水分はしっかりとれって。そんな有益な情報に目を通して、質問を続ける。
――なんか食ったほうがいいか。
――んーと、食えるなら食った方がいいけど無理して食べなくてもいいって。でも水分だけは取っとけって。取れないなら病院行った方がいいって。
助かった。それだけ返事をして雷我は携帯を置いた。きょろきょろと部屋を見渡して、自分の部屋と同じ位置にあるだろう冷蔵庫を探す。開けて見たけれどそこには案の定何も入っていない。
ホテルの売店で適当に水分と、それから食べやすいだろうと思ったゼリーをいくつか購入して部屋に戻る。帰ってきた時も変わらず真っ白な顔をして真っ白なシーツに横たわっているコウの肩を揺さぶって起こす。
「ほら、水。買ってきたから飲め」
う、と唸りながらぼんやりと瞳を開けたコウはこちらの姿を見ていらないと首を振った。
「……きみにそこまでしてもらわなくていい、うつるとわるいから、へやに、もどりなさい」
熱が酷く、呂律も上手く回っていないというのに、それでも距離を取ろうとするコウに、雷我はギリリと唇をかみしめる。ああそうですか、雷我は喉元までせり上がった言葉を飲みこんで自らの太ももをつねった。
「うるせえ、聞こえねぇ。いいからこの水飲め。飲まねぇなら担いで病院つれてくけど」
病院、という単語を聞いて観念したのだろう。しぶしぶというように起き上がって渡されたペットボトルにコウは手を伸ばす。それでも喉が渇いていたのだろう、その水は一気に半分ほどになった。
「……ゼリーとか、あるけど」
ふるふるとコウは首を振った。意地でも遠慮でもなく、本当に何もいらないらしい。ベッドサイドにペットボトルを置いてコウは再びベッドに沈み込む。この男の趣味なんてわからなくて、適当に大量に買い占められたゼリーや飲み物は全部冷蔵庫に突っ込んだ。
灯りを消して真っ暗な、いつもよりも荒い息が響く静かな部屋で、雷我は横に座って黙ったままその姿を眺め続ける。真っ白だった顔に少しだけ赤みがさして、額にうっすらと汗が滲んできたころ、ようやくコウは眠りに落ちていく。寒がっているときは熱が上がって、熱くなってきたら熱は下がる頃なんていう雑学を思い出して、雷我はゆっくりと息を吐いた。
体温の低い左手で雷我はコウの頬に触れる。それが気持ち良かったのだろう、無意識に擦り付けるようにコウはその手に頬を寄せた。そしてぼんやりと色の違う瞳を開く。未だに夢見心地なのかその焦点は合わない。
「……あつ、ひで?」
寝ぼけたままのコウが此処にはいない男の名を呼ぶ。触れた手を拒まれなかった事実と、呼ばれたのが自分のものでない事実に胸がぐちゃぐちゃに掻き回されて、雷我は酷く泣きそうになってしまった。
***
敦豪が雷我から連絡をもらったのは、夜十一時頃、コウの家にいる時の事だった。広島出張のコウの代わりに信乃の面倒を見ようと今日はこの家に泊まる予定だったのだ。
曰く、体調を崩したから明日帰れそうにない。もう一泊していくから心配しないでほしい、自分ももう一泊していくという雷我にそれには及ばないと返事をする。
「明日朝イチで車で迎えに行く。チェックアウト時間には間に合うように行くから、部屋番号だけ教えてくれ。迷惑かけて悪かったな」
そうですか、というその声にいつもの様な覇気は無かった。いつもは馬鹿みたいに威勢が良くて跳ねっ返りも強いというのに。何かあったんだろうなぁと想像して、どうせ聞いても答えちゃくれないだろうからと敦豪は聞くのをやめた。
「……あの」
受話器越しに珍しく躊躇うような声が聞こえた。
「なんだ?」
「その……天神サン、アンタの名前、うわ言で呼んでましたよ」
不満そうな、泣きそうなその声。この年下の男がコウになんだかんだで執着しているのも知っていたし、コウがなんだかんだでこの男を可愛がっているのを敦豪は知っていた。まだ若いな、と苦笑して少しだけ意地悪をする。
「そりゃあ俺はアイツになんかあったら呼べって言い続けてるからな。お前も、呼んで欲しかったら呼んで欲しいっていってやらなきゃアイツの性格じゃあ絶対に呼ばねぇぞ?」
いや、別に、そんなわけじゃあともごもごと繰り返す姿は、いたって普通の高校生で微笑ましくなる。そんなことは素直に言えない男だとはわかっていた。きっとコウが体調を崩した原因も半分くらいはこの男なのだろうとわかった上での嫌がらせだ。
悪いが朝まで頼んだと告げて電話を切る。信乃が心配そうに敦豪を見ていた。
「頭領、なんかあったのか?」
「どうも風邪ひいたらしい。明日五時頃、支部ででかい車借りて広島まで迎えに行くがお前も行くか?」
「行く、それじゃあ車で寝られるよう毛布とかも持ってった方がいいな。飲みものとか食べ物も用意しとくぜ」
「おう、そういうのは頼んだ。あと黒崎にも連絡しといてやれ」
「隆の兄貴も一緒に行くかな?」
「いや、行かねぇんじゃねぇか?」
「どうして?隆の兄貴なら飛んできそうなのに」
「コウが体調崩したってなりゃあ明日からの業務やスケジュールの調整とか色々大変だろうからな」
さて、車を借りる手配でもしておこうか。敦豪は視線を携帯電話に落とす。連絡先を一生懸命探しているうちにふと視線を感じて顔を上げる。ニコニコと笑いながら信乃が敦豪を見上げていた。
「なんだ?」
「いや、やっぱ敦の兄貴も隆の兄貴もすげえなって」
どうしてか酷く嬉しそうに信乃が笑っていた。
3.
ふと目を覚ました時にはもう部屋は明るかった。閉めきられていなかったカーテンの隙間から漏れだした光が狭いホテルの室内を照らす。耳に響くのは晴れているというのに雨音のようなノイズ音。いつの間に眠ってしまったのか。ベッドサイドの椅子に逆に座ってそのまま背もたれにもたれるようにして寝ていた雷我は、寝ぼけ眼のまま空になったベッドを見る。
体調が悪いというのにあの男はどこへ行ったのか。軽い苛立ちと共に立ち上がると何かが雷我の肩を滑り落ちて床にずり落ちていく。その薄い白い布は、昨晩は確かにコウがかけて寝ていたはずのシーツだった。
ふと先ほどまで耳に届いていたノイズ音のような音が途切れた。まだ半分夢の中だった思考がその音がシャワーの音であったことにようやく気が付いたのは、シャワー室の扉が開いた瞬間だった。
まだ乾ききらない濡れ髪をタオルで擦りながら出てきたコウは、まさかもう雷我が目覚めているとは思わなかったのだろう。見つめてくる雷我の視線を受けて、左右色の違う瞳を見開いてから気まずそうにふいと視線を逸らした。
相も変わらず真っ白いし、目の下の隈も変わらないし、薄っぺらい体は少しふらついている。それでも昨日の今にも死にそうな顔色よりは幾分かマシだった。
「……多少は良くなったかよ」
おずおずと視線を返したコウは、一つ、ゆっくりと頷く。
「そうかよ」
いたたまれない空気から逃げ出したかったのは果たしてどちらの方だったか。それっきり二人の視線は途切れる。
沈黙が落ちた部屋、先に動きだしたのは雷我の方だった。他人の部屋の冷蔵庫をまるでわが物かのように開けて中に昨日買って適当に突っ込んでいたものを、袋ごと全て取り出していく。
「……杁サンには全部連絡済み。チェックアウトに合わせてアンタを迎えに来るって言ってたからもう今頃車の中だと思う。部屋番号一応教えといたけど、もっかいアンタも連絡した方がいいんじゃねぇか?」
ガサガサとなるビニール袋の音がやけに煩い。雷我は連絡事項を早口言葉のように唱えて、まるでアクアリウムの中の様に生温く、息苦しさを感じる部屋から逃げるように出て行った。
部屋に戻ってチェックアウトの時間まで眠るつもりだったのに、汚れていない真っ白なベッドに寝転がってみても一向に眠気はやってこなかった。何度も何度も寝返りを繰り返して何度も鳴き声を上げるベッドのスプリングとくしゃくしゃになっていくシーツ。
投げ出した携帯電話を覗いて、昨日のラインに目を通す。どれもこれも今更返事をするようなものでもなくて、ただただ既読をつけて閉じた。惰性の様にやりなれたソシャゲのアイコンをクリックして、音楽が流れ始めたところで面倒になって携帯を投げ捨てる。
ふうと一つため息を吐く。腹の中がぐるぐると気持ちが悪い。形のない感情ばかりが言葉にならないまま奥の方に降り積もっていく。
コンコン、とノックの音。一瞬動くのを躊躇ったら今度は部屋のチャイムが鳴った。ドアスコープ越しに見えたのは弱っているカミサマとお付きの二人。いつものやかましい男はどうやらいないらしい。少しふらついたコウの体を杁が支える。拒むことなく身を預けた様が驚くほど自然でどうしてか苛立った。
「……なんスか」
わざとゆっくりと扉を開けたのはあまり顔を見たくなかったからである。誰の顔を見たくなかったのかは雷我自身にもわからない。
「コウが世話になったみたいだな、悪かった」
「これ、家にあったもんで申し訳ないが礼の品だ。頭領お気に入りの明太子だ。荷物になってすまねぇが保冷材もついてるからそのままカバンにでも突っ込んでくれ」
信乃から手渡された小さな袋は、見た目のわりにずっしりと重い。この男が好むものだ、おそらく高いものに違いない。
「じゃあ邪魔して悪かったな、お前も気を付けて高知に帰れよ」
じゃあな、と扉を閉じようとした瞬間、それまで黙っていた男が何かを伝えようと口を開く。けれどそれは空気を揺らしただけで声にならない。喉を押さえて焦ったように男は口を開いたけれど、やっぱり掠れたような音が漏れただけで言葉にはならない。
「いい、喋んな」
何を伝えたかったのかは一つもわからない。風邪のせいか、昨夜の乾燥した部屋のせいか。カミサマの武器であるはずの声は一つも使い物にならないようだった。困惑したような瞳がおろおろとあちこちに彷徨って、最終的に助けを求めるように敦豪を見上げた。
雷我の中で何かがぐしゃりと潰れたような音がした。やっぱり形にはならないけれど確実に存在するそれにもはや目を背けるようなことは不可能だった。握った掌に食い込む爪の感触。
「ちょっと、待ってろ」
そういえば、と雷我は思いついたように部屋に戻る。投げ出したままだったビニール袋から取り出したのど飴の小袋。投げるようにしてコウに押し付けた。
「用件ならまた今度にしろ。これやるからさっさと帰れ」
オダイジニ。酷く温度の低い労りの言葉を述べて今度こそ扉を閉める。ゆっくりと遠ざかっていく三人の足音が消えるまでドアの前で立ち尽くしていた。
広島からは朝イチでバスに乗って帰る予定だった。もうとっくに過ぎてしまったバスの乗車券を雷我は丸めてゴミ箱に捨てる。一日に二本しかない次の直行便は夕方だ。
多少乗り換えが面倒ではあるけれど夕方までここにいるよりはましだろう。そう判断をして新幹線に乗ろうと広島駅へと歩き出す。
昨日はあんなに降っていた雨はもう影も形も無い。幻のような、泡沫のような雷雨だった。いっそ本当に泡沫のように何もかもが消えて跡形もなく無くなってしまえばよかったのに。
見上げた空は雲一つなく青い。自覚してしまった感情を抱えながら、雷我は迫りくる夏の事を思った。
4.
梅雨の気配残る初夏は過ぎ去って季節は焼けるような盛夏。蝉の声が賑やかに木霊し、鼻をつくのは草花の枯れる匂いとアスファルトの焦げる匂い。差し込む強い日差しに思わず足を止めて、ゆらりと滲む陽炎に目を細める。
眩い夏は高知でも福岡でも変わらないらしい。少し違いを言うならば福岡は潮の匂いがしない。
D4会議のために新幹線で降り立った博多駅は今日も祭りでもあるかのように人でごった返していた。土地勘があるせいだろうか。少し得意げなノラがすいすいと人混みを抜けて福岡支部への道を歩いていく。事前連絡で付いたらタクシーを呼ぶから言いなさいと言われてはいたけれど、タクシーで向かってしまえば仰々しいお出迎えを受けることがわかっていたので断った。そういうのものに雷我は、いや夜鳴は慣れていない。
あの日、夜に届いたラインには「迷惑をかけてすまなかった。世話になった、ありがとう」という簡素なメッセージが届いていた。体調は良くなったのか、熱は下がったのかとか、それからあんなことを言って悪かったとか。雷我には言いたいことはあったし、言わなければいけないこともあったのに、何一つ打ち込めなくて既読だけ一つ残してトーク画面を閉じた。それからは何もない。
雷我は信号待ちの間アプリを起動してガチャを引く。違う土地に来れば良いものが出るかもしれないと思ったのに、今日も見事なドブだった。
福岡支部に到着するやいなや落ちてきたのは、博多駅に到着したら言ってくださいとコウ様が言っていたでしょうという赤く煩い男からの小言だった。忘れてました、と雷我が一言嘘を吐けばどうにも信じていない目で見返される。まぁ本当に嘘だし隠してもいないし弁解する気も無い。
この暑さで熱中症にでもなったらどうする、と小さなため息と共に渡された紙切れ。そこにはワイファイのIDとパスワードが記されていた。
「いや、ここのやつ前に登録してるんで大丈夫ッスけど」
一応その紙を受け取って自分より少し高い位置にあるルビー色の瞳を見つめた。
「一応だ、一応。文句を言われてはかなわんからな。それならば次回からはお渡ししなくても大丈夫ですね」
「ウス、お気遣いありがとうございマス」
気持ちだけ頭を下げる。パチ、パチと綺麗なワイン色が瞬きをする。少しの間のあと、礼とか言えるんだなと降ってきた失礼な声は無視をして雑にポケットにその紙をしまい込んだ。
何度か訪れたことのある福岡支部は案内する方も案内されたほうも慣れたもので寄り道も無く控室へ到着する。隣はハイタイドの控室らしい。すでにガヤガヤと賑わっていて笑い声が廊下まで響いていた。
廊下よりも部屋の中は冷房がよくきいて少し寒いくらいだった。炎天下の中歩いて体中に滲んだ汗が急激に冷えていく。それでは、と案内をしていた隆景が部屋のドアを閉める直前廊下化の向こうから、雷我はあの日以来の声を聞いた。
「あぁ、隆景。連絡が無かったが、夜鳴の皆がもう着いたと聞いて」
「はい、どうも歩いてきたみたいです」
「この炎天下だと言うのに。体調は崩してはいないかい?」
「若いから平気なのでしょう。では俺は他の仕事に戻ります」
ドアの向こうで交わされたやり取りが終わって、コンコンと扉が叩かれた。扉を開けて現れた男は、いつかのように弱ってはいなかった。当たり前だ、もう一か月ほどたっている。体調だって平素に戻っているだろう。
けれど雷我の脳裏には、未だに弱った体を他人に預けていた姿が焼き付いたままだった。それに気が付いて、目の前の姿に少し戸惑う。ようこそ福岡支部へ、と目を細めて少し小首を傾げて告げる堂々とした様に、まるで夢から覚めたあとの気持ちにさせられた。
「外は暑かっただろう、会議までまだ時間もあることだしゆっくりくつろいでいてくれ。今お茶も用意しよう」
「あ、いいですいいです。そんな気を遣ってもらわなくても……」
「気を遣っているわけではないよ。最低限のもてなしだ、――と言ってる間にお茶の準備が出来たみたいだな。ありがとう」
おそらく福岡支部の職員であろう、見たことがない若い男が四つお茶を置いて茶菓子代わりにひよこの形をしたお饅頭を並べていく。その流れを眺めているとふと視線を感じた。目線を上げると青と緑の瞳とバチリと視線が絡む。少し何かを言いたげに口を開いて、何か迷ったように口元に手を当てた。数秒悩むように視線を足元に落として、再びこちらに目線を寄越した。
「和食君、少し話が」
ヘッド同士のあれやこれやの関係だろうと判断したのだろう。すでにひよこ饅頭に夢中になっている他の三人はこちらに目もくれない。雷我は手招きされるがままに部屋を出て、真っ白い背中を追いかけていく。
あの日ぐちゃぐちゃに濡れていたコートはもう染みも皺も一つなく目の前で揺れている。カツカツと音を立てる革靴はあの日と同じものかはわからない。たどり着いた部屋はどうやらdevaの四人が使っている部屋のようだった。
資料やら何やら机の上に所狭しと乗せられている机が二つ。それからあまり使われていないだろう机が二つ。コウのものと思わしき机にはつけっぱなしのパソコンと名前も知らない花瓶に飾られている花とそれから少しレトロな小瓶が並ぶ。小瓶の中身は多分飴。こいつも仕事中にお菓子とか食べるのかと雷我は意外に思った。
「この間は――」
パタンと扉を閉めて、髪をかき上げながらコウが喋りだす。
「君に大変に世話になった。ちゃんとお礼を言っていなかったと思って」
「……別に。大した事してねぇし」
アンタが体調崩したの俺のせいだし、とはさすがに言えなかった。多分も言われたくもないだろう。知らない他人んの部屋は酷く居心地が悪くて落ち着かない。ソファーに座るように促されたけれど無視をした。ソファーも机もあるのに、部屋の真ん中で二人立ち止まったまお互いにま少しづつ視線を外して会話を続ける。
「いや本当に助かった、何か礼をしたいのだが」
「別に何もいらねぇ」
「……そうか」
部屋に沈黙が落ちた。くるくると指で髪をもてあそんでいるコウが沈黙に耐え切れないように話題を求めて口を開く。
「和食君は、その、少し日に焼けたか?」
雷我の体を上から下までコウの不躾な視線が一往復する。
「え、まぁ、もうすぐよさこいあるし、その練習で」
「そうか、そんな時期か。よさこい祭り、見てみたいな」
「……今年見にくればいいじゃねぇか」
「あ、え、でも、この時期じゃあもう宿は埋まっているだろう」
「ならうちに泊まれば?」
え、と形のいい唇が小さく紡いで固まった。しくじった、雷我はそう判断して自分の言葉を急いで撤回する。拒否されるのを怖がってんのかよ、といつもの煩い自分自身が心の中で笑った。
「冗談。アンタがうちに泊まるなんて口煩くて気が休まんねぇよ。本気で見に来る気あんなら知り合いの旅館に聞いてみてやってもいいけど」
「……それは迷惑ではないのか?」
「迷惑なら言ってねぇ。知り合い呼ぶの、よくあることだし」
「……本当にいいのか」
「絶対に確保できるかは保証できねぇけど。早めに人数言え、じゃねぇと聞くもんも聞けねぇ。どうせあのでかいの二人とガキも誘うんだろ」
「え、あ、そうだな……」
何かを考えているかのようにコウの視線が空間を彷徨った。やがてざわざわと廊下が騒がしくなる。どうやら広島本部のメンバーのお出ましらしい。
「引き留めて悪かった、どうしても直接礼を言いたかった」
その言葉を背中に受けながら飛び出した廊下は、良く冷えていた室内と違って生温い。僅かに首元に滲んだ汗をシャツで適当に拭って控室へと戻っていく。
一人で行くので良かったら宿をお願いします、と連絡が来たのはD4会議から数日後のことだった。
5.
踊れ、狂え、はしゃげ。
盛夏の空は青く、手を伸ばしても永遠に届かないくらいに遠い。徐々に上がる気温と、上がる踊り子のボルテージ。各地で響く感性はは街中を包み込んで、まるで一つの音楽のようで。鳴子とはそもそもは鳥を追い払う農機具だったらしい。ところが今はどうだ、一つ、二つ、三つ、音を鳴らすたびに追い払うどころか観客との距離が近づくような錯覚。
そんなよさこいの熱気に土佐の街は包まれていた。
「雷我君は、いったい誰を探してるんですか?」
音楽が途切れた曲と曲の間の隙間。ペットボトルの水を飲み干しながら真夏の空と同じ色の髪をした男が雷我に尋ねる。
「……別に誰も探してねぇけど」
誰かを探している、だなんて尋ねられるまで一つも自覚していなかった。あー、と頭を掻きながら思い返していく。振り返れば確かに自分は人を探していた。
「へぇ、そうですかぁ」
ノラに対して隠し事はできた試しなどない。適当に誤魔化したところでで全てバレてしまうことなんて雷我にだってわかっていた。けれど嘘をつき、否定をしたのはこれ以上突っ込まれたくはなかったからだ。ノラは他人の思考に対して機敏な男だった。言葉を濁し続ける雷我の表情に意味深笑って、それ以上は追及をしなかった。
それは深く聞かれたくはないことを察した優しさなのか、もしくは今聞くよりも後で聞いたほうが面白そうだと判断したのか。前者だとありがたいが、そう思いながら雷我はまた群衆を見回す。
目当ての淡い茶色の柔らかな髪の男は見つけることができなかった。
宿をとってやると言ったのは雷我からだった。「よさこい祭りを見てみたい」と言ったのはきっと社交辞令の一種だったことはわかっていた。それを半ば強引に誘い込んだのだ。
強引にいったところで断れない性格ではないことは知っていたし、万が一来るのなら勿論同じ支部の幹部たちも一緒だろうと思っていた。それだというのに、その数日後に返ってきた「一人で行く」という返事はさすがに雷我を驚かせた。
一人分の宿を頼み込んだ知り合いからコウが宿へとチェックインしたと連絡が入ったのは昼過ぎのこと。だからこの地へ到着しているのはわかっていた。
天神コウがよさこい祭りに来ている。それだけでどうしてか落ち着かない。それは自覚してしまった、夏の太陽よりも低温で、じわじわと焼け焦げていくような感情のせいだろう。
次の曲が始まる。大きく一つ深呼吸。カチン、と鳴らされる鳴子の音で意識はすべてそちらへと。確かに雷我はコウの姿を探していた。けれどそれは曲の鳴らない空白の時間だけだ。曲が始まれば全身全霊、意識も体もすべてよさこいに捧げる。それは魂に刻まれている、息をするよりも自然な流れ。
結局本祭の二日間、雷我は探し人を見つけることはできなかった。
***
祭りが終わったあとの夜は少し物寂しいのは古今東西、昔から変わらない。あとは大会と後夜祭を残すだけとなった今年のよさこい祭り。未成年だからとまだまだ盛り上がる慰労会から追い出されて、雷我は穏人とともに夜道を歩いて帰宅した。
雷我以外の家族は未だ宴会場で酒に飲まれたまま。一人きりの静かな家で一昨日からろくにしていなかったソシャゲの周回をこなしていた二十二時のこと。不意に握っていた端末にラインのメッセージが届く。
一瞬だけ息を呑んだのは、それがこの二日間音楽が鳴りやむたびに無意識に探し続けていた男の名前だったからだ。
――今、電話してもいいだろうか?
断りなんかせずに直接かけてくればいいのに。その場で通話ボタンを押したい気持ちを抑えて、いいけど、と雷我は素っ気なく見えるように返事をする。ややあって鳴りだす着信音、一コール、二コール、三コール、そこまで数えて少し汗ばんだ指先で通話ボタンを押した。
『もしもし』
受話器越しに聞こえた声。その向こうは人の声が行き交い賑やかだ。一際大きく鳴り響いたのは電車の発射音。そろそろ福岡へ着いた頃なのだろうか。
「……何だよ、こんな時間に」
「すまない、迷惑だったならかけなおす」
「いや、別に。なんか用事でも?」
「……お礼を、言わねばと思って」
電波の向こう側に響き渡る車掌の声。その声にふと違和感。――何故かその声が告げる電車の行き先はよく聞きなれた地名。
「ちょっと待て」
「え?」
「アンタ、まだ高知にいんのかよ」
すぅと息を呑む音がした。躊躇いが伝わるような沈黙のあと、コウは口を開く。
「……あぁ、実は。祭に見惚れてぼんやりしていたら今日中に福岡に帰るための新幹線を逃してしまって。仕方ないから朝一番に帰ろうと駅でぼんやりしていたところだ」
どうせ宿をとったところで眠れないだろうし、そんな自虐的な笑い声はもはや雷我の耳には入ってはいなかった。まだ高知にいる、それを知った時点で自然と足が動き出した。
「今からそっちいく」
通話終了のボタンを押す直前、コウが何かを言っていたことだけはわかっていたけれどそれを聞く余裕はなかった。玄関を飛び出した雷我を迎え入れたのは夏の夜の匂い。帰宅してきたときよりも少しじめっとした湿度の高い空気があたりに充満していた。西の空が一瞬だけ明るく光る。深夜にかけて訪れるという天気予報をいまさらながらに思い出す。
よさこいで疲労した脚に気合を入れて、逸る気持ちのまま雷我は駅に向かって走り出した。
***
駅で雷我を出迎えたコウの第一声は「未成年がこんな時間に出歩くんじゃない」だった。いやアンタのほうが未成年に見えるだろう、と売り言葉に買い言葉。一通りの言い争いをした後、いやこんなことをするためにここに来たのではないのだと思い返して雷我は頭をかきむしる。目の前の男もちょうど同じように思ったのであろう、まだ言い足りなさそうな小言をしまい込むように一つ咳ばらいをした。
「和食君が夢中になるよさこいとはどんなものだろうとずっと気になっていた」
コウは静かに、それでもよく通る口調で雷我に語る。視線を伏し目がちに、ゆっくりとそのデッドした手が髪をかき上げた。
「……素晴らしかった。すまない、今の私ではうまく言葉にできない。ただとても美しかった、心が躍った」
「……当たり前だろう」
いつだって正反対のことばかり口にしては反発を繰り返してしてきたのだ。それなのに今、自分の愛しているものを素直に褒められて調子が狂う。照れで少し声の上ずった雷我をコウがくすりと笑った。
「それにしても君はどこにいても目立つな。群衆に紛れていてもすぐに見つけられる」
「アンタ俺のことも見たのかよ」
「勿論。見たというより見させられたというほうが正しいか。和食君がいるだけで目が離せなくなる」
コウは口元に指を当てて柔らかく微笑む。その声色と仕草だけでぶわりと雷我の心の底から何かが沸き上がった。お互いにいつもよりも口数が多くて饒舌で、だから、そう、今まで言えないままに雷我の腹の中で燻っていた言葉が液体のように雷我の口から零れ落ちる。
「……その、前に、アンタが枕営業をしてるって言ったことがあったろ」
枕営業、という言葉に今まで和やかに微笑んでいたコウの表情が凍り付いた。けれどそれを悟られないように、ぎこちなさそうではあったけれど、瞬時にコウは口元だけで笑みを作り直す。
「――あぁ、そんなこともあったね」
コウが視線を足元に落とす。伏せられた睫毛がわずかに震えていた。
「悪かった……アンタを傷つけた」
ずっと言えなかった謝罪の言葉。言葉はすぐに伝えなければいけないなんて自分が一番よくわかっていたはずなのにずっと内に留めてしまった言葉。雷我はまっすぐにコウを射抜くように視線をおくる。当然それに気づいているだろうに、コウは視線をわずかにそらしたまま。
「えっと、何を謝罪されているのかがわからない。傷ついたなんてこともない、だからこの話はもう……」
「じゃあなんでアンタ、あの時あんな顔したんだよ」
「あんな顔ってどんな……」
雷我の脳裏には今でもあの迷い子のような表情が焼き付いたまま。それを振り払うように小さく舌打ちをする。
「……別にアンタが本当に枕営業をしてるなんて一ミリも思ってなかった。ただ、あんな記事のせいでアンタのこと変な目で見るやつがいたんだろうと思ったら、なんか、腹が立って……」
僅かにずれていた視線が絡み合う。左右色の違う瞳が今まで以上に大きく揺れた。
「アンタは悪くねぇのに当たった――」
「わじ、き、くん」
「多分嫉妬してた――」
「わじきくん、それ以上は、ダメだ……」
「え?」
「その言い方はいけない。その言い方はまるで君が俺のことを好きみたいに聞こえる、勘違いしたらどうするんだ」
「……勘違いじゃ、ねぇけど――」
雷我は右手を伸ばして、真っ白な頬に、耳に、腫物を扱うかのように優しく触れる。目の前の体がはじかれたように大げさに跳ねた。それでもいつかの夜のようにその手は弾かれなくて、安堵で泣きそうになる自分に雷我自身が一番驚いている。
頬に触れていた雷我の手の上からコウがさらに掌を重ねた。少しだけ甘えるようにコウは触れている手に頬をすりっと寄せてみせる。
「……本当にあんなものに傷ついてなんかなかったんだ。あること無いこと言われるのには慣れていたし、そう思っている人間に対してはこれから違うということを伝えていけばいいと、そう思っていたのに――君は信じるのかと思ったら、一瞬、頭が真っ白に、なって……」
「……アンタこそそういう言い方すんな、勘違いするだろ。まるでアンタが俺のことを特別だって言ってるみたいじゃねぇか」
「……勘違い、じゃないと言ったら?」
沈黙は重く、二人を包む。どちらも動けないまま立ちすくんでいた。そんな二人を急かすような遠くで響く雷鳴の音。おそらくもうすぐ土砂降りになるだろう。
「えっと、今、家親いないんだけど」
よかったらうちに来ませんか。ようやく吐き出せた言葉は、雷我が一生自分は言うことはないだろうと思っていたベタすぎる台詞だった。
6.
雷我が部屋の入り口で所在なさそうにうろうろしていた男をベッドに腰掛けさせたのを後悔したのは、よく冷えた麦茶のコップを二つ持って部屋に戻ってきた時だった。別段好きなシチュエーションでもなければ意識もしていなかったというのに、自分のベッドに好いた人間がいるというのはどこか特別で、思わず目を背けざるを得ないようなそんな何かに心が浮足だったように落ち着かない。
握っていた麦茶を差し出してコウの横に座る。二人分の重さは堪えるのだろう、ベッドのスプリングが初めて聞くような悲鳴を上げた。雷我の隣に座る男も落ち着かないのは同じ。渡されたコップを両手で握って、絶え間なくちびちびと麦茶を口に含む。
窓の外は雨。開けていた窓を閉め切って湿度の高い部屋にエアコンの電源を入れた。僅かに空いたカーテンの隙間から漏れた稲光。徐々に近づいてきていたはずの雷は急速に距離を縮めたらしい。稲光からたった一秒ほどで轟音を上げ、窓ガラスをびりびりと震わせた。
麦茶を口に含み続けていた男がふと顔を上げ窓の外を眺める。その仕草がどこか、あの日の会議で見た横顔と完全に重なった。
「なんだよ、雷、怖ぇのか?」
パチリ、と大きな瞳が瞬きをして雷我を見つめる。
「いや、ただ」
「ただ」
「雷を見ると、君を思い出す、そう、思って……」
最初は流暢に言葉を紡いでいたはずの唇が、言葉の途中で勢いをなくす。喋っているうちに恥ずかしいことを言っているという自覚が芽生えたのだろう。
「いや、その、君の名前に、雷という文字が入っているから、それで」
コウは焦ったように言い訳じみた重みのないコウの言葉。
そもそもあの日も、今も、本人が目の前にいるというのに思い出すというのはどういう了見だろうか。雷我が大声を出してかきむしりたくなったのは頭か、はたまた胸だったのか。そんな衝動のままにまだ言い訳を重ね続けるその唇をふさいでしまう。長い睫毛がバサバサと顔に触れる気配がした。いい加減キスするときくらい目を閉じてほしい。
唇を離して、ゆっくりとその肩を押す。特に抵抗なくベッドに倒れこむ身体。ミルクティーの色をした髪の毛がシーツに零れた。
再び雷鳴が轟く。それが合図だったかのように少し震えていた唇が言葉を紡ぎだす。
「あと……雷の音は、まっすぐで、強烈で、君の言葉とよく似ている。だから音を聞くたびに和食君の顔が浮かんで、背筋を伸ばさないとと思う」
なんだよそれ。
恋慕した相手の心の内に自分がいるのは嬉しい、けれどこちらはこの男の弱いところが見たいのに、背中を預けられたいのに。雷我はそんな複雑な心境になんとも言えないまま顔を背ける。背けた頬に、コウデッドした手が触れた。
「続きはしないのか?」
まだ心はぐちゃぐちゃのままだったけれど、そんな思い人の声に抗えるはずもなく、雷我はもう一度その唇に口づけを落とした。
***
なんだか寝付けないまま二人は朝を迎える。不眠症のコウにとっては珍しいことではないが、雷我にとってはなかなか無い経験ではあった。お互いに起きていることがわかっていながら背中合わせのまま眠ったふりをする。そうするうちに夜半の雷雨も通り過ぎて、稲光の代わりに差し込んだのは夏の朝の陽ざし。
「その、泊めてもらったのに家族に挨拶とかはいいのだろうか」
「まだみんな寝てっから。つーかアンタ、なんて挨拶すんだ?お宅の息子さんとお付き合いさせていただいてます?」
「おつ、きあい!?」
「ちげーの?変わらず体だけの関係ってやつ?」
アンタがそういうつもりならそれでいいけど。雷我が発した言葉は本人が思うよりも随分と悲しげにコウの耳に届いた。それにいたたまれなくなってコウは大きく首を振る。
「お付き合いで、いい」
「『でいい』ってなんだよ」
その言葉に含まれた安堵はいかほどか。挨拶だとか礼だとかそれでも渋るコウを無理矢理に家から連れ出して雷我は始発の待つ駅へと歩き出す。
雨に濡れたアスファルトが東の空のまだ低い位置にある太陽に照らされてきらきらと光っていた。
並んで歩く二人の間には相も変わらず無言が横たわる。ベッドの上以外で二人っきりになると何を喋っていいのか雷我にはわからない。けれどそのうちわかるようになればと思っている。
始発を告げるアナウンスがなる。改札の向こうに消えていく男は雷我に小さく頭を下げ、それに応えるようにして雷我も小さく手を挙げた。
一人で帰る帰り道。祭りの最終日を迎える眠っていたこの街が徐々に目覚めて賑やかになっていく。少しだけ肌寒い朝の空気に、雷我は近づく晩夏を感じていた。