緩やかで少し長い坂道を登る。頂上にある桜の木からは花びらが風になびいて舞い踊り、この時期にしては暖かな気温が鼻孔をくすぐった。
この春に引っ越してきたばかりの僕はまだこの土地について詳しくはない。せいぜいアパートと大学とスーパーの往復だけでとりわけ遊びに行くこともない。友だちと呼べる人も未だにおらず、授業で隣になった人と話すことが稀にあるくらいだ。必然と自室に引きこもる時間が増える。しかし、壁の薄いアパートは住人の生活を簡単に伝えてくるのだ。静かに落ち着ける時間はほとんどない。
僕と同じ時期に引っ越してきて物音すらほとんど聞こえず不在のことが多い隣人のおかげでかなり快適に過ごせている。だが、かれこれ顔を合わせる機会はあるもののくらいで関わりはない。
「後ろすみません」
体を前に傾け通りやすいように配慮する。通り終えた頃に大勢を戻すともしかしてですけどと声をかけられ始めて視線が交わった。きれいなシトリンに目が奪われる。
「お隣の方ですか?」
空色の髪をハーフアップで結び少し疲れたような顔をした見覚えのある顔。確か、買い出しの帰りに慌ただしく部屋から出て行ったのを見た気がする。
「そうだよ。大学は同じだろうと思っていたが、授業まで一緒だったとはね」
「奇遇ですね……俺、今年こっち来たばかりでまだよく分かってなくてよろしくお願いします……?」
「僕もだよ。君と同じだよ」
「良かった」
安心した顔つきになり俺はネロだと彼は名乗った。話が弾み同じ学部であることや授業選択の重複が多いことから打ち解けるまで時間はかからなかった。
「ネロおはよう」
「おはよファウスト」
授業ぎりぎりに来ることの多いネロは息を切らしていることの方が多い。肩で息をしながら落ち着かせ授業序盤は起きているものの後半は舟を漕ぎ手に持つボールペンが動く気配はない。腕に僕のボールペンでつんつんしても起きる気配はなく、授業終了後に慌てて目を覚ます。
「君、ちゃんと寝ているのか?」
「んーまぁ寝てるよちゃんと」
日に日に色濃くなる目の下のクマは彼の嘘を物語る。嘘つかなくていいのに……
「やべ、バイトもう行かないと。ファウストまた明日な」
彼を止めないと……根拠なんてありはしないのに無意識にそう思った。僕の手は迷いなく彼の腕を掴んだ。
「……」
「ファウスト?」
「ネロ……自分の体を大切にしなさい。寝不足だけじゃないだろう最近は危なっかしくふらついていなかった?」
「……」
「ネロ……!」
「わりぃファウスト、俺は大丈夫だからさ」
不安と疲労を浮かべるシトリンは優しく僕の手を振りほどき、苦笑いした。物言いたそうな僕の顔を見ることなく彼は走り去って行った。
それからというもののネロは僕を避け始めた。同じ授業で隣の席に座ることはなく、来ない授業もあった。それと同時に家にいることは増えたように思う。アパートの薄い壁は部屋の主の状態をよく教えてくれる。聞こえてくる咳に体調が良くないことは容易に想像できた。
迷惑だろうか。スーパーでゼリーと経口補水液を購入し、ネロの部屋のインターホンを押した。
「……」
寝ているのだろうか。出直そうというと思ったところで掠れた声に呼び止められた。
「ファウスト?」
「ネロ……君大丈夫なのか?」
コンビニの袋をだるそうにぶら下げ、汗ばむ季節に似合わない長袖のパーカーを身に着けている。マスク越しにも伝わる苦しそうな表情に咳によりどれだけ体力が削られているのかが伺えた。
「だいじょーぶ。ちょっと、せきがひどいだけ」
「ちょっとどころじゃないだろう。病院には行ったの?」
「まぁ」
今まで合っていた視線がすぅっと逸らされる。隠し事が本当に下手だ。心配と呆れからのため息を吐き出すより先にネロの体が限界を迎えた。
「危ない」
家に帰ったことで安心したのか膝から崩れ落ちる。抱えた体の熱は言葉以上に正直で今にも溶け出してしまいそうな熱さだ。
「ネロ!ネロ!」
必死に呼びかけるも焦点の合うことのない眼は意識を手放した。
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あつい。暑い。熱い?
けほけほと咳き込む音にまだ治んねぇのかとため息をつく。すぅっと意識が浮上していく。
「あれ……?俺……?」
「起きた?」
「……?なんでファウストがここにいんの?」
「なんでってここは僕の家だけど。君が目の前で倒れ込んだから悪いけど勝手に自室に連れ込ませてもらった」
「……わりぃ」
「気にしたくていいよ。こうなるまで隠そうとしたことは許せないけど」
ファウストの机の上に先程俺が買ったばかりの薬が並べられている。バレた。咳止めだけでなく解熱剤や陣痛剤も購入していたことを。いつから具合悪かったのと、聞かれ気まずくて布団で顔を隠した。
「いつだろう……ファウストと最後に話した1週間前とか?」
「……」
「俺、バイトしているのは知っていると思うけど、掛け持ちしてんだよ。そうでもしないと学費と生活費が足らないから。休みはないから休めなくて……」
話してもいいんだと感情が素直になり涙が溢れてくる。
「たいしたことないって思っていた咳が止まらなくなって、熱も出てきて、しんどくてもどうしていいのかわからなくて……」
「ネロ。僕を頼っていいんだよ」
「……っ……」
「君は嫌かもしれないけれど、それより僕が信用ならない?」
「……っそんなことはないっげほげほげほ……」
「ネロ!」
咳き込みすぎて肺が苦しい。ぎゅうっと体を縮こませて胸を擦る。ファウストが背中をさすってくれていることが何より嬉しい。
「もうだいじょうぶ。ファウスト手貸して?」
「こう?」
ファウストが恐る恐る差し出す手をぎゅうっと握り返す。落ちていく意識の中、手にぎにぎと絡めて解く。ああ、これだけのことなのに誰かがそばにいてくれるって嬉しいことなんだな。いつも以上に感情の表現が緩くなっている。広角が上がっていることが分かる。
「おやすみ、ネロ。いい夢を」
手を繋いだままのファウストの言葉を胸に眠りについた。
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今まで見たことないほど微笑み眠っている彼の表情に可愛いなとほっぺをつつく。更に広角が上がり表情がゆるゆるな隣人の姿は僕だけの思い出だ。