泥梨の桜年中雪の降り積もる極寒の冬国スネージナヤから、満開の桜が咲き誇る温暖な春の国稲妻まで、遠く遠く船を乗り継ぎ海を渡ってその地に降り立つ。長距離の遠征で旅費は当然馬鹿にならないが、仕事の必要経費は全額ファデュイが負担するから気にしない。
鳴神島の離島へ行って港で入国審査と手続きを行った後、再び船に乗って目的の海祇島へと向かう。島国というのはこういうところが少し不便だろうか。
稲妻は現在鎖国中ではあるが、ファデュイは表向き外交組織なため比較的自由に出入りすることを許されている。他国じゃファデュイの密入国なんてザラにあるけど、厳重な鎖国令が敷かれている今の稲妻じゃそれも難しいから、この特権は中々便利だ。
一面を澄んだ水と滝に囲まれた海祇島の、中心で桃色の貝殻が見事に花開く壮麗な珊瑚宮を横目に眺めながら、
(どうせなら観光で来たかったよなぁ……)
と心の中で溜息をつく。残念ながら今日の俺の目的地はあそこではない。
美しい風景に背を向けて外縁の草地を歩き、北東の水月池に辿り着く。ここの秘境は地下にあり、行き方が少し複雑だと聞いたから、地図を片手に用意することも忘れない。
「あーあ、せっかくの機会だったのに、全く面倒なことをしてくれたな……」
今度こそ口に出して小さくぼやき、先月執行官となったばかりの『公子』タルタリヤは、沈んだ瞳で海祇島の空を見上げた。
今回俺に与えられた任務は、宝盗団に奪われたファデュイの機密文書の奪還だ。件の宝盗団たちは野伏衆も巻き込んで稲妻の秘境に立て篭もっているため、それを蹴散らして文書を本国に持ち帰れば終了。扱うのは機密文書だから執行官が駆り出されるのも分かるが、戦闘面では多分何てことの無い任務だ。
実は今回のこれが、俺が執行官になってから行う最初の任務だった。
せっかく晴れて執行官になって、下っ端の時じゃやたらと制限がかかって手を出しづらかった強大な魔物たちと戦えると期待していた矢先に与えられたこの任務。やる気が出ないのも仕方がない。
もちろん秘境と言っても、中にわんさか魔物がいるような秘境は好きだ。狭い内部に犇めく魔物、1歩間違えれば逃げ道を失い一瞬で四方を囲まれてしまう恐怖と向かい合わせのスリルは堪らない。
しかし、宝盗団が逃げ込むような秘境が魔物の巣窟になっているとは考えづらい。むしろ、中は比較的安全で、且つ侵入者を徹底的に阻む仕掛けが施されている謎解きメインの秘境だと思った方が良いだろう。
(…はあ、やっぱり面倒だ)
ぴちゃ、と音を立てて靴が濡れる。うっかり水溜りを踏んでしまったらしい。視界の端でトカゲがちょろちょろと逃げていくのが見えた。
ああ、何だってこんな、雑草が生い茂ってじめじめとした地下通路を歩かなければならないのか。ある明かりは地面に生えた仄かな蛍光を放つ露草のみで、せっかく用意した地図も暗くてよく読めやしない。
入り口から入って階段を降り、所々崩れかけた通路をほとんど手探り状態で進んでいく。こんな薄暗い場所にいては気分も余計に落ち込んで、どうにも文句ばかり出てきてしまうなと思い始めたところで、ようやく秘境の前に辿り着いた。
(よくこんな絶好の秘境を見つけたものだよな。身を潜める場所としては最適だ、逆に拍手を贈ってやりたいくらいだよ)
秘境の上を見上げると、ぽっかりと丸く切り取られた青い空が見えた。ここの上は吹き抜けになっているらしい、どうりでここだけ少し明るいわけだ。以前は井戸か池にでもなっていたのだろうか。
それを見て、だったら最初から、上から飛び降りて直接ここに来れば良かったじゃないかと思い当たる。……くそ、無駄な時間を過ごした。靴も濡れるし、今日は本当にツイてない。
また吐きたくなる溜息を飲み込んで、秘境の扉を躊躇無く開いた。
こんな任務さっさと終わらせて、余った時間を稲妻の魔物と戦うことに使った方が余程有意義だ。聞いた話だと稲妻には、魔偶剣鬼とか雷音権化とか、面白そうな魔物がいくつかいるらしい。任務も遂行せずに遊んでいたとなっては執行官の名折れだが、仕事をきちんと終わらせた後なら、ファデュイの金と特権をちょっとだけ使ってそいつらと戯れたって別に良いだろう。
足を踏み入れた秘境の内部は、パッと見た感じ稲妻のからくり屋敷、といった印象だった。こんな辺鄙な場所にあっては当然だろうが長年使われていないようで、部屋の隅には蜘蛛の巣が張り、床の板はかなりの部分が剥がれてしまっている。乱雑に置かれた木箱や壺、いつ使うのか分からないような大きな太鼓は、もう誰にも触れられることなく、二度と日の目を見ずにこの屋敷と共に朽ちていくのだろう。
この火は宝盗団たちが点けたのか、正直助かるな……と部屋のあちこちに置かれている行灯を見ながら思いつつ、近くの壁に手を掛ける。取っ手が付いているからきっと横に開くタイプの、稲妻にある……確か『襖』と言ったか、そういった類の扉だろう。
そう考えて指先に力を込め、ぐっと横に引いてみたが……、
(……?開かないな、)
……認識が間違っていたのだろうか?でも他に開きそうなところは無いしな……、と思ったところで、はっと気づく。
「あー…………正解だったか」
明らかに落胆した声色で、俺は小さく呟いた。
正解と言っても、勿論今のやり方が正解だったと言いたいわけじゃない。そうではなく、少し前にしていた……ここは『謎解き』がメインの秘境だろうなという予想が残念ながら当たってしまったという意味だ。こういうのは執行官になって卒業出来たかと思っていたのに、まあ事はそう上手くいかないらしい。
仕方無いな、と腹を括って、俺はもう少し奥に向かった。こちらにもう一つ同じ種類の壁があるのは確認済みだ。これも予想にはなるが、多分この壁はパズルのようになっていて、いくつか動かせば先程の壁も開くようになるのだろう。下っ端時代に同じような仕掛けを見たことがある。
奥にあったその壁を引くと、今度はすんなりと動いた。そしてその先には野伏衆がひとり、こちらに背を向けて鎮座していた。野伏衆はすぐ後ろから立った物音を聞いて不審げに振り返り、俺の姿を認識すると大きく目を見開く。そして即座に立ち上がると、さっと刀を抜いた。
「な……何奴!?」
「ファデュイの執行官……って言えば、俺が何しに来たか分かるよね。君は稲妻の浪人だろ?ならひとつ忠告をしておくよ、あんまり宝盗団なんかと関わって、ファデュイを敵に回したりしない方が良い。目先の利益だけを追い求めたら、後々滅ぶのは自分自身だ」
格下の相手と一対一だなんて俺としてもつまらないからせっかく逃げ道を用意してやったのに、野伏衆は俺の言葉に頭を振ると、「余計な世話だ!!」と叫んで大きく刀を振りかぶった。
「……はぁ」
…ああ、今日は本当に、何もかも上手くいかない。
俺は小さく息を吐いてその刀を横に躱すと、至近距離で弓を構えて矢先に激流を込め、彼の頭をそのまま打ち抜いた。
「グッ……!!」
野伏衆が大きく後ろに仰け反ったのを確認してから一旦距離を取り、もう一度弓を構えて矢を強く引く。先程の矢で彼の体内に埋め込んだ水元素の爆弾を、次の矢で爆発させるのだ。
矢先にしっかりと水を集めて、脳天に狙いを定め矢を放つ。青く光る矢は一直線に空間を切り裂いて、再びその頭を貫いた。
瞬間、彼の中で濃縮された水元素は勢い良く膨れ上がって、外に向けて連続で何度も爆散し、殺傷能力のある水滴を周りに撒き散らす。
その爆発は大規模なものではないが、2回の被矢で既にダメージを負っていた彼の体にそれは致命傷となり、野伏衆はその場にがくりと膝をついて倒れ込んだ。
(まあ……剣を使うまでもないな)
うつ伏せに倒れている野伏衆を見下ろしながら愛用している白銀の弓を背負い直し、俺はもうそれに興味を無くして次の壁の取っ手を引いた。
「………!」
スッ、と壁を開いた奥には、また人がいた。
最初に大きな笠が視界に入り、また野伏衆か、と背中の弓に手を掛ける。しかし、そのまま武器を構えかけたところで、大きな笠とは反対にその人物は随分小柄だということに気がついた。
野伏衆は大抵俺が見上げてしまうほど大柄で、その身長は優に2メートルは超えている。それによく見れば、その人物の被っている笠は野伏衆にしては随分と作りが立派で、細かな装飾も施されておりとても明日の生計を立てることにすら困っている浪人だとは思えなかった。
要するに恐らくこの人は野伏衆ではなく、そして格好的に宝盗団とも言い難い………つまり、誰だ?
視線を鋭くして先程とは別の警戒を強めたところで、その人物は笠についた鈴を微かに鳴らしながら、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「………!!」
……その姿を見て、思わず、小さく息を呑む。
(……子供?)
後ろからでは笠から垂れ下がった布に隠されてよく見えなかったが、振り返った彼は想像よりもずっと小さく細身で、そして何より目を奪われたのは、その恐ろしいほどに整った顔だった。
形の良い眉と人形のように大きな目、それを縁取る長い睫毛と、瞳を優艷に浮き立たせる目尻の紅。すっと細く通った鼻筋に陶器のような白い肌、そしてガラス玉のように透き通った青い瞳は俺のことを見つめ、薄い唇がこちらに向けて小さく開かれる。それを受けて俺の心臓が意味も無く音を立てたのは、正直仕方が無いと思う。
「…ああ。先程からやたらと五月蝿かったのは、お前か」
放たれた声は思ったよりも低く落ち着いており、その少年の纏う浮世離れした美しさと雰囲気も相俟って、見た目は子供だというのにどうにも年上と接しているような気分が拭えなくなった。
「……ごめんよ、騒がしくして悪かったね。君は…、迷子かい?こんなところに入ったら危ないよ」
だが、そうだとしても子供は子供だ。
彼が身につけている黒い着物から推察するに、恐らくこの辺りの土地に住んでいる地元の子供だろう。服に付いた一つ一つの飾りはどれも精巧で、もしかしたら高貴な身分の子なのかもしれない。
こんなところに子供がいる理由として考えられるのは、迷子か、好奇心で入ってしまったかのどちらかだ。
俺もよく探検と称して危険な地に入っては、親を泣かせていたから気持ちはよく分かる。危ない場所というのは、別に俺みたいな戦闘狂に限らずどんな子供にとっても興味を唆られるものだ。
ただ、実際に弟妹をもつ兄となってからは、親の心配する気持ちも痛いほど分かるようになった。注意なんて出来る立場じゃ全くないが、子供はこんな危険な場所に入るべきではない。
「一緒に出ようか。途中、ちょっと怖い人たちがいるかもしれないけど、俺の後ろにいれば大丈夫だから」
怯えさせないように屈んで少し目線を下げ、穏やかな声色でそう語りかける。子供の相手は当然慣れている、そう難しいことではない。
しかし少年はそんな俺を見て何故か不快そうに眉をしかめ、額にぴきりと青筋を立てかけた。何か気分を害してしまったかと不思議に思ったが、しかしそれも一瞬のこと。
彼はすぐに何かを思いついたように視線を逸らすと、もう一度俺のことを見上げ、ふっと眉を下げて今度はにっこりと微笑んだ。
「うん、実はそうなんだ。どうにも出口が分からなくて困っていてね。君が来てくれて良かった、そうしてくれると助かるよ」
その笑顔の儚げな美しさに、俺は彼が先程見せた妙な反応のことも忘れて思わず見惚れてしまう。しかし慌てて頭を振って、俺は少年に目を合わせ安心させるようにしっかりと頷いてみせた。
「ああ、任せてくれ。君をしっかりと出口まで送り届けるよ」
そうして少年を連れながら、俺は先程までと同様に壁をいくつか動かしていった。やはりここはパズルになっているようで、他の壁を動かさないと引っかかって動かない壁があったり、壁ではなく屏風に隠された部屋があったりして多少面倒ではあったが、道すがら神棚に祀られた、恐らく鍵となる雷元素の勾玉も入手して途中まで比較的スムーズに事は進んだ。
しかし、最初には動かなかった入り口すぐの壁も無事に動き、2つ目の勾玉を手に入れたところで、俺は行き詰まってしまった。
いくら壁を動かしても、この鍵を使うための扉に辿り着けない。
勾玉を探している途中で一度見た気はするのだが、どこをどう動かしてそこに行ったのか全く思い出せないのだ。
(うーん……本当にあともう1歩なんだけどなぁ)
大体、俺が好きなのは戦闘であって、こんな謎解きじゃない。
四方をそっくりな見た目の壁に囲まれ、同じ景色を見続けることにうんざりしてきていると、ここまで完全に黙って俺についてきていた少年が、突然口を開いた。
「そこの壁を右。1歩前に進んで右手にある壁を左、その突き当りの壁も左」
「……え?」
あまりに唐突のことで俺が対応できずぽかんとしていると、少年は「早くしろ」とでも言いたげにじっとその青い瞳で俺を見つめた。
「あ、ああ……、分かった」
俺は半信半疑ながらも、彼に言われた通りに壁を動かしていった。
3つ目の壁を左に動かすと、その奥に俺が必死に探していた、勾玉文様の浮かび上がる閉ざされた扉があっさりと現れた。
「うわ………、君、すごいね…」
それを見て、思わず感嘆の言葉を漏らす。
しかし少年は顔色ひとつ変えず、褒め言葉に喜んだそぶりも一切見せないまま、感情の読めない瞳で鍵のかかった扉を静かに見つめていた。
俺が今まで接してきた子供たちとは一風も二風も変わっていてどうにも接しづらいなと思いながら、俺は勾玉を窪みに嵌め、扉を慎重に左右に押し開けた。
その先の廊下を抜けると、パッと視界が開ける。そこに広がった景色が暗がりに慣れた俺の目には眩しくて、少しだけ目を細めた。
最奥の部屋には外を一面見渡せるほどの大きな窓があり、その向こうには稲妻の伝統的な庭園が広がって、周りに咲き乱れた桜が美しくその風景を彩っていた。
部屋の中には畳と座布団、そして片隅に机や茶器も用意されており、この邸宅に持ち主がいた頃はここで宴会でも開いていたのだろうかと想像する。この絶景を見ながらの酒は、きっと格別に美味いのだろう。
(……まあそれも、こいつらがいなかったらの話だな)
窓の外にやっていた視線を戻し、侵入者の存在に気づき俺に向かって武器を構え始めている宝盗団の奴らを真っ直ぐに見据えて、俺は両手に力を込める。
背負っている武器に手を出そうとしない俺を彼らは怪訝そうに見ていたが、今がチャンスだとばかりに一斉に飛び掛って来た。
「君、危ないから下がってて」
すぐ後ろにいる少年に一言そう声を掛けてから、俺は手に込めた水元素の力を一気に解放した。
両手に大振りの双剣を創り出して頭上で交差し、目の前の敵に向かって水の刃を振り下ろす。生み出された斬撃は水飛沫すら弾丸となって彼らを襲い、その体を鋭く切り裂いた。
「、ぐゥ……ッ!!」
痛みに呻きながらも何とか俺に傷を負わせようと再度武器を構える彼らを横目に、俺は次の攻撃の準備をする。
水で出来た2つの双剣の流れを合わせて両端に刃の付いた長い槍に変え、絶えず手の平から水元素を供給しながら肩越しに構えてぐっと引いた。
俺の攻撃は、1発目はあくまで下準備だ。
高濃縮の水元素を叩き付けることで相手の体内に未着火の爆弾を埋め込み、その状態を保持させる。俺が本領を発揮できるのは、その爆弾に着火する2発目からだ。
これは野伏衆の時にも行ったことと同じだが、重要なのは、俺が現在構えているのは近接武器であること。そして、俺が最も得意とするのは、圧倒的に対複数戦だということだ。
………そう、例えば、今のように。
「グゥゥ……ッ!!………、…?………ッ、ガぁッッ!?」
俺の放った斬撃は前方の敵全てを纏めて一直線に切り裂き、長い水の槍はその体内の爆弾に火を点ける。火というのは勿論比喩だが。
槍から直接放たれた攻撃にギリギリで耐え、何とか残した体力で慌てて逃げ出そうとした奴らは、自分の体内に残る違和感に気づいてその頭に小さな疑問符を浮かべた。
しかし、その時には既にもう手遅れだ。
体内に埋め込まれた水の爆弾は次々と爆発し、それは近くにいる他の敵にも連鎖して、あっと言う間にその場にいる人数倍の威力となって膨れ上がる。俺から逃げようと出口に群がれば群がるほど、他人と距離が縮まって余計に危険だった。
本来ならば触れようとしても指の間をするすると通り抜け、一定の形を取らずに流れていく水でも、とてつもない速度や圧力を加えれば、人の命を容易く奪う凶器となる。
彼らは滑らかなはずの水に全身をズタズタに引き裂かれ、その場に折り重なるようにしてバタバタと倒れていった。
「ふー………」
それらを見届けてから、視線を前に戻す。もうかなりの数を倒したはずだが、奥からまた新たな宝盗団が出てくるのが見えた。
(どうにも数が多いな………)
対複数が得意だと言っても限度はある。そう言えば少年は無事だろうか…、と後ろを振り向きかけたところで、視界の端に刀を振り上げる宝盗団の姿が見えた。
「…ッ!!危ない!!」
俺は慌てて片手に水元素の剣を創り出しながら、彼の方に向かって勢い良く飛び出した。
……しまった、完全に戦闘に気を取られて、彼のことを失念していた。戦闘が絡むと俺はこうなりがちだから、気をつけろって雄鶏にもよく忠告されていたのに。
自分に舌打ちをしたい気分に駆られながら、少年に向かって振り下ろされる宝盗団の刀を弾くために剣を握った片手を伸ばした。しかし、宝盗団の刀の方が僅かに速い。
(間に合わない……!!)
グッ、と俺が奥歯を噛み締めるのと、宝盗団の切っ先が少年の首に触れるの、そして視界が紫の光で埋め尽くされるのはほぼ同時だった。
「……ッ!!」
辺り一帯が眩いほどの光に包まれ、一瞬全てが無音になった世界で、その中心に立つ少年の瞳が紫色に爛々と輝き、彼の背後に薄っすらと雷神の輪が浮かび上がっているのを、俺は見た。
強い光が弾けた後に遅れて鳴り響く、地割れのような轟音。天を真っ二つに切り裂いた光の筋が消えていくのを見て、今のは落雷だったのだとようやく気づく。落ちたというよりは、まるで雷で大地を殴りつけたような、落雷というにはあまりにも暴力的すぎる衝撃だった。
「……………」
バチバチとあちこちで残っていた雷が消えて地面の揺れが収まり、落雷の残響が完全に聞こえなくなっても、俺は呆然として目の前の状況を把握しきれずにいた。
廊下と比べて比較的綺麗に保存されていたこの部屋は、元の姿など見る影もなく無残な程に真っ黒に焦げ、沢山いたはずの宝盗団は、俺が片付けた奴らも含めて最早灰すら残っていない。
ここまで圧倒的で強大な力を目にしたのは初めてで、俺はこの心臓の高鳴りが、とてつもなく強い人物と出会えたことへの喜びなのか、それとも未知の存在に対する恐怖なのか、判断をつけられずにいた。
「さて、と…」
そんな俺の様子を気に留めることなく、少年は真っ黒な畳を躊躇なく踏みしめて部屋の奥へ向かうと、唯一焦げていなかった棚を開く。
そして、まるでそれがそこにあることを最初から知っていたかのように、平然とした顔で中から丸められた紙を取り出した。
……今の回らない頭でも予想はできる。きっとあれが、今回の目的である奪われた機密文書なのだろう。
「…おい。いい加減目を覚ませ」
「痛゙ッ!!」
文書を片手にスタスタとこちらに戻ってくる彼をぼーっと眺めていると、バチッという音と共に指先に鋭い痛みを感じた。
慌ててそちらを見ると、水に濡れた己の指先が、バチバチと紫色の雷を纏って帯電しているのが見えた。
「感電には気をつけろ、お前にはどうやらすぐ周りが見えなくなる性質があるみたいだからね。執行官になったなら、そろそろ周りの足を引っ張るのは止めてもらえると助かるんだけど」
皮肉めいた口調でそう言いながら、彼は俺の正面まで来ると、指で笠を持ち上げて、座り込んでいる俺の顔を覗き込むようにして見下ろした。逆光で彼の顔には陰が落ちていたが、彼が口の端を笑みの形に歪め、目を三日月のように細くして笑っているのは何故か分かった。
入り口付近で出会った時に見せた柔らかな微笑みとはまるで対照的な、悪魔のように邪悪な笑顔だった。
「……ど、どうして、俺のことを」
掠れた声でそう問いかけると、彼は再びにっこりと微笑んだ。
そして俺からパッと離れると、ゆっくりと庭園に面した縁側に向かって歩いていく。その背中では『惡』の文字が入った布が左右に揺れ、彼の歩みに合わせてチリンチリンと軽やかに鈴が鳴っていた。
「君のことは勿論知っているさ、ファトゥス第11位『公子』タルタリヤ。何せ君は、ついこの間僕の同僚となったんだからね。むしろ君の方こそ、新入りのくせして他の同僚たちの顔すら覚えていないなんて正気を疑うね」
そう言いながら彼は縁側まで辿り着くと、その欄干にゆったりと頬杖をついて外の桜を懐かしげに見上げる。
「ああそうだ、お前を揶揄うのも面白そうだと思ったから今回は乗ってやったが、僕を子供扱いするなんてことはもう二度としないほうが良いよ。僕はひよっ子のお前なんかよりずっとずっと年上だからさ」
背を向けたまま次々と言葉を紡がれて、しかもその内容も衝撃が大きいために上手く話が入ってこない。
それでも頭の中で引っかかった単語を、俺は聞き返すように呟いた。
「……同僚?」
俺の言葉を聞いて、彼はぴたりと動きを止めると、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔には作り物めいた笑みが浮かんでいる。もしかして、俺に背を向けている間ずっと笑っていたのだろうか。
「ああ、そうだった。挨拶が遅れたな」
そう言いながら手すりに肘をかけて欄干にもたれると、まるで一枚の絵画のような外の風景を背に、真っ黒に焼け焦げた部屋の中で。
彼は一番最初に見せた笑顔と同じ顔で、相変わらず見惚れてしまうほどに美しく微笑む。
それを見て俺は確かに、自分が今、彼の作り出す甘美な地獄の入り口に立ってしまっていることを自覚した。
「僕はファトゥス第6位、『散兵』だ。以後よろしくね、頼りない末席くん」