海 Oさんが8歳の頃の話。Oさんには13歳年の離れた当時大学生の兄Hさんがいる。HさんはOさんを大変かわいがっており、OさんもHさんのことが大好きだった。
ある晩、Oさんはこんな夢を見た。Oさんから少し離れたところに海が広がっている。Oさんはぼんやりとその目の前に広がる海を眺めていた。すると、いつの間にか見慣れない白い服を着たHさんが何処からともなく現れて、沖の方へと海の中を進んで行く。Oさんはくるぶし、太ももとHさんの体がだんだんと海に沈んで行くのを恐ろしく思い、引きとめようとしたのだという。
兄さぁ
Oさんは大声で叫んだのだが、Hさんは振り返ることもせずに進み続ける。普段、HさんがOさんのことを無視するということなど絶対にない。Oさんは兄の常ならぬ様子にますます恐ろしくなった。このまま兄さぁが海の中へと向かって行くと、もう二度と会えなくなってしまう。OさんはHさんの名前を叫びながら、必死になって彼の元へと走り出した。しかしいつまで経ってもHさんの元へはたどり着けない。兄さぁがいなくなってしまう恐怖がピークに達したOさんはもう一度叫んだ。
兄さぁ
その時、Oさんの口から自分のものではない低い声が飛び出した。歩幅もかなり広くなっている。視界に入る自らの腕は、ベージュの服に包まれていた。これも見慣れない服だった。ただその時Oさんはそれらに対して何も疑問に思うことはなく、Hさんに追いつこうと無我夢中で走っていたのだという。Hさんに追いつき、名前を呼びながら肩を掴んだところでOさんは目覚めた。当時同じベッドで寝ていたHさんを揺り起こしながら名前を呼ぶと、Hさんは
どげんした、O
と言いながらOさんの頭を撫でてくれた。Oさんはそれで緊張の糸が切れ、大声でわんわんと泣きじゃくったのだという。その後Hさんと少しでも離れるとOさんが火が着いたように泣き出すので、その日はHさんもOさんも二人揃って学校を休むことになった。Hさんが普段通学に利用している国道で、乗用車、歩行者共に多数の犠牲者が出た交通事故が起こったというニュースが飛び込んできたのはその日の昼過ぎのことだった。事故発生時刻もHさんが現場付近を通過する時間と一致している。もし普段通りに大学へと向かっていたら…。Hさんは、
Oは命の恩人じゃなぁ
とOさんを抱きしめながら頭を撫でてくれたのだという。
Oさんがその夢を見たのはこの一回きりであったが、今でも内容を鮮明に覚えているのだという。Oさんが大学生となり、日本史、その中でも近代史を主に学ぶようになってから、夢の中でHさんが身につけていた服が旧日本海軍の、自身が身につけていた服が旧日本陸軍の制服であると知った。そして、とOさん。
夢の中の私が出した聞き覚えのない声と、今現在の声変わりを経た私の声は、完全に一緒なのです。