・春に酔う ふわり、と鼻先を擽るのは名も知らぬ花の香りだ。丁寧に磨かれた酒器を置いて、綾人はふと視線を流す。この香りは灯台の方から漂っているが、何かしらの香でも炊いているのだろうか。相対していた男が不意に立ち上がるのをよそにその香りを無意識に嗅ぎ分けようとしてしまったのは、いにしえから受け継がれる香道の経験があったため、という理由が半分。もう半分は、その中に決して看過できない怪しげなものを嗅ぎ取ったからだった。どろりと甘ったるいそれは自然由来のものではない、と気づく。脳の奥にじんわりと熱をもたらし、意識をかき乱すような――恐らくは違法な、薬物の一種だろうか。適量であれば『そういった見世』で使用されているものも当然あるのだが、今宵この部屋に満ちたそれは、そのいずれとも違う。何やらよからぬものをこの国に持ち込んだらしい相手は、その綾人の視線の動きに気づいているだろうに、脂下がった笑みとともに綾人の方へにじり寄ってくる。
(さて、何方の伝手を使ったのか)
目前の男程度の身分では、渡来の品などそう易々と手に入れられはしないだろう。もっと大きな家が後ろに隠れている可能性もあるが、秘密裏に国内で新たな甘毒が生み出されているのかもしれない。どちらにしろ、この男の口からあらゆる情報を吐かせる必要があるが、それにしてもまずは捕まえるところから――と、考えているうちに、男の手は綾人の肩にかかる。
恐らく、この媚毒によって綾人が無抵抗だと思い込んだのだろう。随分と使い慣れた様子だ、常習犯だろうなと胸中で吐き捨てつつ険を押し隠した瞳を男に向けた。無言のうちに絡み合う視線。相手の呼吸を図るような瞬間が過ぎて、男は勝ち誇ったような笑みとともに綾人の身体を押し倒す。
「嗚呼、ようやく手に入る……!」
とさ、と軽い音とともに畳に広がった銀の髪を指先で拾い上げ、熱のこもった声が降ってくる。その脂ぎった肌の火照りを見るに、男自身もこの媚毒に侵されているのだろうか。薬を扱うものの基本的なルールすらわかっていないのかと、食い物にされていることに無自覚な相手を憐れむような気持ちに陥ったのも瞬きにも満たない寸暇のこと。
すう、と息をひとつ吸い込む。腹の底に力が籠り、あたりの空気が静まり返った。ひたひたと、水が満ちるように、ご丁寧にも建具の隙間すら埋められた部屋の中が静寂に濡れていく。薄青いひかりが辺りをぼんやりと照らすその様子に、鈍り切った頭でもようやく気付いたのだろう。男は不思議そうにあたりを見回し、そうして、恐る恐る綾人を見下ろした。薬を含ませ、押し倒し、完全に上位に立ったと思い込んだ相手――今宵弄ぶつもりであった、美しい面だけが取り柄だと囁かれている、なよやかな男を。
「――それで?」
ひやりとした声に色はない。動揺も、熱も、男が期待したものはなにひとつとしてなかった。ただ宿るのは、静けさと、冷ややかさ。きんと冷えた雪解け水にも、あるいは、鋭く研ぎ澄まされた刃にも似た声が、男の喉元に突き付けられている。
そうして、男はやっと理解した。この青年が、あらゆる殺意、悪意、嘲弄に侮蔑を含んだ害意のすべてを退けて、今の地位に立っていることを。男に押し倒され、腕を拘束されたとしても、一息で男のそっ首など叩き切ることができる――そういう相手だということを。
もちろん、気づいたところで何もかもが手遅れだったのだけど。
「では、後のことは頼みます」
顔面を蒼白にした男をよそに、最早彼など眼中にない綾人がそう声を発すれば、どこからかいくつかの影が舞い降りてくる。容易く男を拘束し、灯台を引き取っていく彼らに任せておけば、明日にでもあの薬の出所が判明するだろう。そこから先は相手がどれほどの大物であるのかによって動き方は変わってくる。あるいは、報告が上がった時点ですでに手掛かりは蜥蜴の尾のように切り捨てられいるかもしれないが、それでも将軍らに報告するための体裁は必要だった。終末番もそれは弁えているだろう。最速の仕事を期待するしかないか、と嘆息してゆっくりと身を起こす。ざっと換気をされた部屋は、それでも風の通りが悪い。意図して選ばれた部屋だったのか、あるいはこの店すらも一枚噛んでいるのか。考えることは多すぎて、息つく暇もない。
と、そこで聞きなれた足音がひとつ。
「……若!」
「トーマ?」
「お迎えに上がりました。立てますか……?」
部屋の外で待たせていた家司が飛び込んでくる。口元を一枚の布巾で覆っているのは終末番の指示だろうか。どちらにしろ、綾人らと違ってこういった態勢は付けていない彼をここに入れるのは余りよくない。焦りと怒りが滲む翡翠の瞳に心配をかけまいと笑いかけ、甲斐甲斐しく手を貸す彼に従って立ち上がる。ゆら、と視界が僅かに歪むが、それだけだ。慣れぬ薬は確かに綾人の視界を揺らし、幾分か身体の調子を崩すことには成功している。だが、それでこの神里綾人が折れることなどない。
「屋敷まではオレが伴をしますので。無理はいけません」
「心配しなくても、大丈夫だよ。それに、この衣にも香りが染みついてしまっている。トーマには毒だ」
「若にとっても、それは毒です」
ぴしゃりと言われてしまえば、綾人も苦笑するしかない。心配症であるじ想いの家司に、これ以上心労をかけるのもよくないだろう。そもそも今宵はここまでついてこさせるつもりではなかったのに、いかなる嗅覚なのか、トーマから伴を希望して譲らなかったのだから見上げた家司根性である。どこから気づいているのやら。綾人の想像を飛び越えて成長しつつある彼のことを頼もしく思う反面、守りたいという綾人の気持ちが置いていかれてしまうようで、少しだけ寂しいような気持ちにもなる。勝手な感傷だとその澱を飲み干して、彼の腕に半ば支えられるようにして家路を急いだ。
物陰からは終末番もついてきているし、出てきた店が店なだけに、酔っているのだという風にも見えるだろうと周囲を観察しながら、ひそりと言い訳を重ねる。
(多分、ひとりでも大丈夫だっただろう)
きちんと歩いて帰れた。そもそもがある程度織り込み済みの茶番であったのだから。帰り道でも神里綾人の名に恥じぬ姿でいられただろう。帰り着いて自室に戻って、その後は家人たちに任せてしまえばいいのだから。
(けれど、トーマ、きみの……)
腰を支えるように回された腕が、熱い。夜闇にも眩い炎の神の目を持つ男の肌は、いつだって、綾人に熱をもたらす。息つくこともできぬほど深い夜の底でも。粘つく悪意や劣情を浴びた後であっても。その熱と、彼の焦りを抑えたような呼吸と、少し早い心臓の鼓動。それらが、綾人に、こう伝えるのだ。「大丈夫じゃなくていい」と。綾人が完璧でなくても、家司はそれを補って歩けるのだと。虚勢を失くしても、彼がいれば大丈夫だと思える。
それが何と呼ぶべき感情なのか、綾人は今日も知らぬふりをした。未だ足元固まらぬこの時勢、「それ」を自覚してしまえば弱さになりうる。本能的に察したまま、それでも、その恩恵を受け取ることを辞められないでいる。なんとも中途半端で、甘い――けれど、そんな綾人の姿を、この家司は、トーマは。
「……今日は、頼ってくださって、嬉しかったです」
まるで綾人の心の声が聞こえていたかのようなタイミングで、そんな甘言を。ふたりにしか聞こえない程度の声で、照れとはにかみの混ざった甘い音で、耳元に囁きかけてくるのだからいけない。綾人が無意識に抱く甘えを、弱さを、そうやって何でもない顔で許すから。だから綾人は。
「トーマ、……私のほうこそ、今夜はありがとう」
ぐずぐずと熟れる思考はきっと薬のせいだ、と無理矢理に脳の片隅に追いやった。目前に迫る神里屋敷の灯りにほっと身体の力を抜く忠実なる家司に、なんとか当主の顔を作りねぎらいの言葉を渡せば、彼の鼓動はまたひとつ早くなる。
身内と定めた相手に対してはただただ素直で分かりやすくて、それゆえにどうにも御しにくい男だ。
何度目かもわからない評価をひそりと下し、じっとりと熱を帯びた綾人の肌を宥める手によって自室に引き入れられれば、あとはもう何も考えずに目を閉じるだけだった。