眠り欠け 青白い感触が頬を滑り落ちる。
冷たいそれは自分の汗や海水のようにも思えるし、触れることの叶わなかったてのひらにも思える。目を閉じているのでなにかは分からない。だけどそれは毎夜ミスラを訪う。
頬や髪にさらりと絡みついてはほどけ落ちて、目を開ける頃には消えている。
今夜分の来訪は満足したのか、離れた冷たい塊は戻ってこない。ゆっくりと瞼を持ち上げると、やはりなんの痕跡もない。
なにかに触れられるとき、これが夢だったいいのにと思う。
あれから三日。ひとり死の湖のまんなかで、過ぎ去る時をおぼろげに眺めている。賢者を伴っていないから、眠ることはできない。それでも魔法舎に戻らず、使いこんで布地の張りの失われたくたくたのシーツに身を沈めている。それを選んでいる。
眠れないから、夢ではないとわかっているのに。フウィルリンの指先が肌を撫でている夢をみているのだと、思い込んでいる。
水のなかで生きる者。触れることはなかったが、人間の姿の彼でも、陸で生活する自分たちより冷たかったのではないかと思っている。賢者に聞けば分かるだろうが、もし体温があったと答えられれば、夜毎の訪いに想像を重ねられなくなってしまう。
もし命の炎が搔き消されたあと死体になれるのなら、落下する身体を受け止めて手を繋いでみたかった。できることならそれよりもっと前――戦闘の中断を提案された時に、手を繋ぎたかった。
ミチルの傍で、ルチルが手を繋いだままでいてくれた夜。あのときに得たのと同じものをフウィルリンにも与えられたら。もし同じ結末を辿ったとしても、こんな風に手放せない靄を抱えずにいられたように思えてしまう。
窓の外を眺めれば、とうに陽が昇っているのに薄暗いままの空と湖面。
丘を消し、ありったけの鹿や猪を狩った。けれどどれだけ暴れても腹を満たしても、血のように凝っているものをうまく飲み込めていない。あの晩に食んだフウィルリンの石がまだつっかえているように。マナ石はたしかに溶けてミスラの魔力に迎合したのに。当然ながら体内に彼の存在を感じられることもない。
もう何度石を口にしてきたか分からないし、飲み込んだ石のことなど覚えていない。だけど今回だけはそのことが引っかかっている。
虚しい風が傷口のうえを吹きすさぶのに、膿み始めたその場所を見つけられないままでいる。そんな気分だった。
外へ出て湖面に張った厚い氷を叩き割る。波立たない湖に魔法で水流を作ると、ぶつかった氷の塊が鳴きだした。降りしきる雪とともに冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、声を乗せて吐き出した。耳に届く声が自分のものとは思えない方向がこだまする。喉から血が出るまで繰り返しても、気が晴れることはなかった。
久しぶりに魔法舎に戻ったものの、談話室や食堂どころか自室にも入らず、キッチンに足を踏み入れ、台の上に鹿を置いた。
包丁を研いでいたネロの手も鼻歌も止まり、視線はミスラに釘付けになった。夕食にどうぞ、そう言うとネロは僅かに肩を抜き、研いでいたのとは別の包丁を手にとった。
「あ」
「え」
皮を剥がれ、切り分けられるからだを見ているうち、急に合点がいった。体温を失っていく鹿を抱えてここまで向かうとき、短い毛と皮膚包まれた骨や関節の感触がなにかに似ていると思っていたのだ。
「オーエンですよ」
「……なにが?」
首を傾げるネロをよそに、箒を出して跨る。
「今日はやっぱりあっちで眠るので、料理した鹿肉はとっておいてください」
「は? あ、おい!」
何か言いたげな声を振り切り、再び死の湖を目指した。
乱れたベッドに身を潜らせると、ついにシーツの端が外れたようで、足先がマットレスに触れる。魔法で直せるけれどそのままにして、目を閉じた。
眠れないまま、頭の中で繰り返す。
倦怠感、集中力の低下、頭痛、めまい、食欲不振。そして記憶力の低下。
様々な文献をあたって得た、不眠が身体に与える影響の数々。
忘れたかったのだと、思い当たる。
彼のことを。出会いから別れまでを忘れてしまいたかったのだと。
だからあんなに眠りたかったにもかかわらず、賢者の手のない場所に籠っていた。
忘れるときは忘れるし、覚えていることは覚えている。それだけのことと思っていたのに、自ら忘れようと努めていた。
じっとしていると、今夜もまた枕元に現れる。
顔や肩に触れる冷たくなった生肉のような感触を、フウィルリンの手だと想像する。彼と戦う時間はなによりも楽しかったけれど、食事をともにしたり、任務に赴いてみたかったのかもしれない。これから戦うというのに約束のことを話せたのも、そのことを肯定してくれたのも彼がはじめてだった。だからきっと、これまでとはまったく違う関係を築けたのかもしれない。
今、そして毎晩、ミスラに触れる男のように。
離れかけた指を掴み、ベッドに引きずり込んだ。小さな頭を掻き抱いて、「もう、魔法を解いたらどうですか」と囁く。
目は閉じたままだけれど、魔法で押さえ込まれていたにおいや感触が伝わってくると、相手が誰なのか確信できた。
「いつから気付いてたの?」
「はじめから」
「なんでずっと寝たふりをしていたわけ」
「ふりもなにも、眠れないので」
「…………」
「…………」
「…………」
「夢をみてみたかったんです」
「……寝れないくせに」
「別れるのには慣れてるはずなのに」
「ねえ」
「これだけ生きてきて、たくさん殺してきたのに。いまさらなんなんですかね」
「目、開けて」
「…………」
「開けろってば!」
叫びとともに、顎を掴まれる。唇を包んだのは柔らかい感触だけではなく、ひどく冷たくて硬いものが混ざっていた。舌で口内に押し込まれたそれはすぐにとろけて消え失せてしまう。紛れもない、彼の石の欠片だった。
眠れないまま目を閉じるミスラのもとを訪れていたのはオーエンだった。気配を全て消し去り、フウィルリンの欠片を忍ばせて、ミスラに触れてきた。
魔法舎にも現れないミスラを嘲笑いたいのか、はたまたミスラには考えもつかないような悪趣味な意図だったのかは分からない。だけどその手を、死者の訪いとして受け入れて、都合の良いように彼のことを考えていた。
「魔法舎に来てからはずっとひどかったけど、それよりもっともっとどろっとして見える」
「眠れてませんからね」
「帰らないの」
オーエンが、帰るという言葉を遣ったことに驚く。あの時もそうだった。真正面からミスラに、守った、そういった。普段は小難しいような言葉を並べ立てて長々と喋るこの男が、短く簡素な言葉を、攻撃魔法よりも重たくミスラの心臓にぶつけてくる。
「……帰りますよ、明日」
「ふうん」
「俺がいないと、任務も終わらないでしょう」
「お前ほとんど参加しないくせに」
「あなたに言われたくありません」
「っ……!」
腰に脚を巻き付けて身体を引き寄せる。ジャケットのボタンを外してベルトを緩めると、シャツの裾から手を入れて背に触れた。
薄い皮膚に浮き出た背骨や頸椎を、ひとつひとつなぞっていく。
オーエンはじっと黙って、ミスラの手を受け入れていた。
マナ石に遺志など宿っていないし、食べたとて意識が混ざるわけでもない。少なくともミスラはこの世界にあるどんなマナ石を口にしても、自我を失うことなく、ただ増した魔力を実感することしかできない。
どんな魔法使いを殺しても、石を食べても、その死体に触れることはできない。
だけどこの男だけは違う。
生体も死体も、すでに何度も抱き上げた身体の感触は、千年ほど繰り返すうち、しっかりとミスラの手や舌やこころが覚えている。
いつからかこの男を抱きしめるたび、安心を得ていたのだろ気付く。いつもと変わらない感触に、いつ本当に殺したとしても、この身体を忘れることはないと。
満足して背から抜き去った手で、またオーエンの指を絡めとった。
「……なに」
「こうしていてくれませんか」
懇願するように掠れた声が情けなくて、ついオーエンを殺したくなるけれど、堪えるようにぎゅっと手を握った。
「僕は寝るけど、殺すなよ」
「いいですよ、今日だけは。でも、」
「わかったってば」
ゆっくりと曲げられた指先が、ミスラの手の甲に触れる。
粘膜を直に擦れ合わせたことはあるのに、こうして手を繋ぐことを目的として手を繋ぐのは、はじめてだった。
眠りという最後の一線はこえられないけれど、深く、深くまで潜ったときのように重く冷たい場所に意識を沈めていく。
生きているときも、死んだときも触れられなかった指先。もし賢者の遣いとして選ばれていたら、一度くらい触れることがあっただろう。オーエンとは違うけれど、ファウストより近しく、シャイロックのように心地いい相手になれたかもしれない。そんな可能性を消し去ったのは紛れもない自分で、そのことに後悔があるわけではないけれど。
人間が墓をつくり、偶像に語りかける意味がすこしだけ分かった気がする。持ちうる限りの記憶を取り出し、思い思いに触れて確かめることでしか、埋まらないものがある。
今日だけ彼のことを考えたら、明日は魔法舎に戻り昼間だろうと賢者の手を取って眠ろうと思う。そしてちゃんと記憶に刻み、忘れてしまうまで、思い出したいと思う。
「あなたを殺すのは、厄災の傷が治ってからにします」
「は?」
「眠れるようになってから、殺します」
「意味わかんない」
目を閉じていても、瞼の裏などという空想のキャンバスではなく、微細な部分までしっかりと思い浮かべることができる。眉頭に寄った皴、つんととがった薄い唇、波立つ赤い瞳——は、いまはなぜか片方だけ黄色い。表情だけでなく、そのひとつひとつの感触も、手のひらに浮かび上がるくらい鮮明に想像できる。
いつか対面するこの男の死は、不眠に阻まれずに記憶に焼き付け、鮮明に覚えていたい。何百年、何千年経ってもすぐそばに思い出せるように。
「ねぇ、どういう意味なの」
いつもミスラの思考が鈍磨だと嘲るオーエンが、言葉を理解できず愚かな顔をしているのだと思うと、眠れそうな気さえしてくる。そして死体のような手を繋ぎとめることで靄の晴れた自分もあまりに愚かに思えて、だけどようやく口元が緩み、寝息のような呼吸を零れ落とすことができた。