おとしものなくしもの ペンケースの中には、角がたくさんついた『消しやすい』と噂の消しゴムと、方眼の入った定規、シャープペンシルが所狭しと肩を並べている。ティルはそのスポーツブランドが描かれた硬いペンケースを親指でぐっと押さえながら、片側の頬を膨らませた。
机の上に乱雑に置かれた教科書とノート。音楽と書かれたそれはティルの好きな科目だ。だからこそ心踊るはずなのに、片眉をあげてティルは膨らませていた右頬を凹ませる。
──このところ特におかしいと思うのは、自分の気のせいだろうか。
見た目は変わらぬどこにでもあるようなペンケース。白と黒のモノトーン調のそれは、一目で男子高校生のものだろうと推測ができるだろう。ティルがそのペンケースを揺らすたび、小さな赤い花のストラップが机に当たって柔く金属音を鳴らした。
「また無くなっちゃったかな……」
ぼそりと勝手に口から漏れ出た言葉は、移動教室を前に友人を誘うクラスメイトたちの雑音で隠れる。ティルは視線をあげて、黒板の上に引っかかっている掛け時計を見た。移動時間を考えると、あまり悠長にしていられないようだ。
──ティルがこのごろ『おかしい』と感じているのは、私物が無くなることである。
消しゴム、イヤホン、教科書。どこかに置いてきてしまっているのか、はたまた誰かに盗まれているのか。……『盗まれている』という可能性を、ティルはあまり考えていない。
人と比べるのも意味のないくらい、どこか忘れっぽいのだと、そう捉えている。
そうじゃないと説明できないことが多かった。──だって返ってくるのだ。無くしたと気がついたものは全てこの手に。ブレザーをなくした時、セーターの袖口を引っ張って寒さを堪えていたところを、椅子に引っかかっていたと見つけてくれた友人が、……友人、そう、彼はまあ友人だ。
赤い花のついたピンをなくして半泣きになっていた時、一緒に探そうと声をかけてくれた。見つけ出してくれたのもその男だった。
そして、体操服をなくした時は、まさか誰かに盗られているのではないだろうかと疑った。そんな大きなものをどこになくせるのだろう。ティルは小学生が使っているような、もちものチェッカーを用いて管理しているというのに。
その際の体育の授業では、友人は凍えて震えているティルを嘲笑うかのように八重歯を見せて笑ったあと、ストレッチで思いきり伸ばしてきた。ティルの悲鳴をにっこりと受け止めるあの笑顔を思い出すと、少しぞわっとする。
結局、体操服は机の横のフックにかかっていた。そこは確認したはずだったけれど、ティルはあまり、自身の注意深さを信頼していない。
あった!と声をあげて喜び安心した。そこで、「よかったね」と声をかけてきたのが、
「ティル。音楽室まで行かないの?」
ティルの後ろから、黒髪を揺らして男が──イヴァンが問いかける。ティルは睨めつけるように、左側に立つ男を見上げた。
「赤ペンがなくなったんだよ」
「アハハハ」
「何笑ってんだバカ野郎」
「それは大切なもの?」
感情があるのかないのかわからないような声で、イヴァンは笑う。ティルは彼のそんな態度を、慣れたように罵倒した。イヴァンは泰然自若に、ティルの肩に両手をかけて体重をかける。ぐぐぐとティルの顔が机に近づいた。鼻がくっついてしまいそうだ。
「たいせつ、ってか、今ちょうど欲しかったん、だよっ、楽譜に色々書きたく、って、ッ重えよ!」
「ふーん」
潰されながら息を吐くように、ティルが質問に答えた。かけられる体重に抵抗するように声をあげると、イヴァンの気は済んだのか──ティルは何もしていないはずなのだが──すぐに解放される。ぐへっ、と妙な声をあげて喉を撫でているティルを見つめながら、妙な友人であるイヴァンが、仕草を真似るように片方の頬を膨らませて戻した。
「もう時間も少ないから、俺の使っていいよ。この教室、音楽室まで遠いんだから。あぁそうだ、代わりにティルの消しゴム貸してくれる?」
「お前に消しゴム貸したら食べられたからもういやだ」
「すぐ吐き出したのに」
ティルが席を立って手荷物をまとめると、イヴァンはそのさまを確認するように待ってから、ティルの真隣につく。──どんなギャグなんだ。ティルのなかでイヴァンという男は、友人という枠組みの中でも、限りなく変人に近かった。
(こいつ今のを嫌がらせじゃなく本当に面白いと思って言ってんなら、相当壊滅的なセンス)
ティルがイヴァンに向けて訝しげな表情を浮かべるのもいつものことで、そんなティルに対してどこか満足げに瞳を細めているのも、イヴァンの通常運転だ。ティルは彼に出会ってから早々に、彼を理解することを諦めている。付き纏ってくるという言い方もできるが──、機微を見つめていると、純粋に変なやつなのだとわかるのだ。数ある行動の裏に、深い思考は紛れ込んでいないのだと。
自分の隣の席に座る女の子が可愛いから、アピールしたいわけではない。友達がいないからこちらに向かってきているわけでもない。彼は単純にティルをおもしろがっている。
話すのが楽しいのだと、直接言われたことがある。
反応が楽しいのだと。自分より大きなリアクションをくれる友人が、イヴァンには山のようにいるだろうにそう言われたのだ。
「ティル?」
艶のある黒髪。烏の羽のように輝いたその髪に、一度でいいから触りたいと願う女の子が、たくさんいることを知っている。
口の端から覗く八重歯に、骨抜きにされた女の子が、ティルを介してラブレターを渡そうとしてきたこともある。自分で渡せと言い返したが、どうしてもと言われて断れず、自分ではなく女の子からだと説明をしてから、イヴァンに渡した。
その時のイヴァンはとても機嫌が良さそうで、けれどラブレターを受け取ることは無かった。そのうえ、「ティルが断っておいて」と簡単に言ってのけたのだ。
──その時に悟ったのだ、イヴァンは価値観がズレていると。
なんで俺が!と反抗したのに、イヴァンがどこか嬉しそうに、愉悦さえ感じていそうな瞳で首を傾げたものだから、ウヘェ、と項垂れた。案の定、ラブレターの送り主にネガティブな感情をぶつけられたのはティルだった。
勝手に板挟みにあっている俺の身にもなってみろ。イヴァンにそんな言葉は通用しない。
彼は良いように言えばマイペースで、実質は自己中心的なのだ。我を通す自由人。そのことを他人と共有してみても、あまり同意を得ることはできないが。
「……変なやつ」
「ティルがね」
「うるせぇよ!」
廊下に出たところで、教室の電気が消える。誰かが待っていてくれたのか偶然なのかわからないが、そういえば移動教室の際には、最後に出る生徒が電気を消すのだった。
──やはり思い込みで、自分は単に忘れっぽいのだろう。ティルは存在を確認するように、赤い花のついたピンを撫でると、安心して浅い息を吐く。よしっ、と気持ちを切り替えて、教科書とノート、ペンケースを両手で抱え直した。イヴァンがその一部始終を見つめて、最後に教室から出てきた生徒にきさくに声をかける。
「ミジ、よければ一緒に行かない?」
「ミ!?ミッ、……ッ?」
飛び出てきた女性名にティルの舌が震えた。ツインテールにまとめた、桃色の髪を揺らして、ミジは長いまつ毛をぱちりと瞬かせる。
「イヴァン!ティル!一緒に行きましょう。スアもほら、手を出して?」
少女の声に癒しと喜びを感じながら固まってしまったティルの腕を掴んで、イヴァンは頷いた。スアは小さく返事をしてミジと手を繋ぎ歩き始めたが、イヴァンを見やる瞳はどこか軽蔑を含んでいる。気づいたイヴァンが笑みを深めた。──スアのくちびるから、サイアクなヤツ、と本音が漏れたことに、ミジとティルは気が付かない。
「ティルが赤いペンをなくしたんだって。ミジ、赤いペンは持ってる?」
「へっ……ッ!あ、あか、赤くなくてもっ、」
イヴァンが高い身長を小さくかがむようにして、ミジに声をかける。ミジに自身の話題が振られたことに、ティルは頬を染めて汗をかいた。──照れてしまってうまく話せない。それを自覚しているからこそ、緊張がどんどん増していく。吃りながら、最後には「ミジが貸してくれるなら、」と細い声を俯きがちに放つ。
天真爛漫なミジが、ティルの態度を訝しむでもなく、大きく頷いた。
「いいわよ!何色がいい?えぇっとね、イエローと、グリーン。ティルは意外とピンクなんかも似合いそうね!今いちばん新しいのがこのライトブルーよ」
「な……なん、なんでも……」
「じゃあこのライトブルー!すごく柔らかい素材でね、線が引きやすいからおすすめなの」
ミジがティルのペンケースに、ライトブルーのペンを差し込む。彼女の癖なのか、ミジは星が出るかのような可愛らしいウインクをして、「赤いペンが見つかったら返してね!」と明るく声をかけた。ティルは声も出せずに、こくこくっ、と素早く頷いている。
イヴァンが低音を出す声帯を静かに震わせた。
「よかったね。ティル」
──それは思いの外、四人しかいない廊下に、重量をもって響いている。
「よ、よか……よかった、」
「ミジ、時間がないかも」
「えっ!急がなきゃ!うふふ、廊下って走ってなんぼよね〜〜〜ッ!」
スアの言葉を受けたミジが、ばびゅんと漫画のように風をきって走り出す。おてんばな娘を前に、クールなスアがにぶく笑みをつくった。
「もう、はやいよミジ……転んでるし」
どて!と音楽室の前で転んだミジを視認したティルが、心配した表情で走り出す。教室を複数挟んだ距離は走らなければ簡単には埋まらない。
──残された優等生に与えられたのは、冷たい沈黙だ。
「……」
「……」
窓の外から種類もわからない鳥の声が聞こえる。木々の葉がこすれあい、涼しげな木漏れ日が廊下を飾り付けている。合わない歩幅を両者が無視して、ミジはそのうつくしいかんばせを、見下すように歪ませた。
「……あなたのその手癖の悪さはどこかで習ったの?」
「さぁ。スラムで育ったりしたら、例えば万引きも厭わないのかもしれないね」
「失礼だし答えになってないけど。育ったの?そこで?」
「どうかな?俺は興味ないけど」
噛み合わない応酬に、スアの眉が寄せられる。彼女の育ちの良さは、舌打ちの方法さえ身に覚えさせていることはないけれど、どこまでも軽蔑の色を浮かばせた表情だった。
──スアの瞳にうつるのは、ティルに声をかけたその一瞬で彼の手に渡っていた、見覚えのありすぎるスカイブルー。
「返してとは敢えて言わないでおくわ。どうしてそれを、『あなた』が持つの?」
「もちろん返すけど。このあとすぐ、授業が始まって、ペンケースを漁るティルが震えだすだろうから。深い意味はないよ。楽しいだけ」
「悪趣味。なくしたものを見つけてあげるヒーローにでもなりたいの?呆れる。私あなた好きじゃない」
否定の言葉を投げられたというのに、イヴァンは依然として余裕のある態度を崩さない。スアは女の子らしい頬を軽く膨らませて細く息を吐いた。──変な男。妙な男。この男は掴みどころがなく、本音を表に出しているフリをする。
「約束して。返すって。それはミジのペン」
「目の前で返してあげるのに。これが俺のペンで、たまたま同じものを持ってたとしてもそうやって言うの?お前」
「サイアクなヤツ」
「聞こえてるよ」
合わない歩幅を助長するように、イヴァンの一歩が大きくなる。ピアノの音色が漏れ出ている教室の大きな扉から、クラスメイトの談笑が聞こえた。レディファーストを思わせないイヴァンのステップに、スアの機嫌がさらに悪くなる。大きな音楽室の扉が閉まりかけたのを、すんでのところで少女の華奢な指が支えた。──嫌がらせも甚だしい。ここで不機嫌をあらわにすれば、まるで乙女な思考を持ち合わせた、期待した女になってしまうのだ。反吐が出るようなイヴァンの態度に、スアはもう一度思った。
──この男のことが好きじゃない。
「いつか刺されてるところが目に浮かぶ」
スアを見下ろしながら、イヴァンは自身の喉仏を撫でて、声を確かめるように囁く。
「……どちらかというと側にいたいな。病室や家で」
「え?」
扉を閉めているスアの後ろから聞こえてきた言葉に、訝しさのあった表情から、スアは疑問符の浮かんだ顔つきに変わった。さらりと落ちるうつくしい髪がたなびいて振り返る。イヴァンはティルに声をかけて心からの笑顔を向けていた。座り込んで、石のようにカチンコチンに固まっていたティルが、段階を踏んで意識を取り戻す。
──スアから見れば、ティルがミジを想っているのだろうことはなんとなく伝わってくる。けれどわざわざ意識したことは無かった。理由は簡単で、ミジはモテるからだ。いちいち気にしなくたって、告白するような勇気を持っている人間じたいがそう多くない。
だからこそわからない。あの男が何を楽しんで、何を求めているのか。ああもう、イヴァンがミジを巻き込まなければこんなに気にすることもなかったのに。
まるでキューピッドのように、くっつかせようとしているかのように見えて、本質がズレている。イヴァンの抱えるものが彼なりの愛なのか、嫌がらせなのか──単なる変人なのか。そのどれにも頷けないまま、スアは席についた。
ああ、一番前の端の席でよかった。視界に入れるのも面倒だ。思考を奪われるのが何より勿体無い。
後ろのほうから、ティルの「ありがとう」という心からの声が聞こえる。イヴァンの返事がどんなものであれ耳にしたくなくて、スアは駆け寄ってきたミジの両頬を餅のようにつまんで伸ばした。
END