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    an_j_j

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    an_j_j

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    ⚠️
    生理ネタ
    女装
    なんでも許せる人向け
    殺してはない

    灰谷蘭は、スカートをはためかせて、楽園を作る機会を伺っていた。カビ臭くて、薄暗い部屋。ここが私の世界の全てで、これ以上もこれ以下もない。部屋の隅に、新聞をビニール紐で束ねて置き去りにしてある。キッチンは水が出なくて、当たり前に部屋の電気だって点かない。ギイギイ音を立てる埃だらけのベットに腰掛けて、読めもしない雑誌に目を通した。
    綺麗な顔で、綺麗な服を着た女の人達がいろんな服を着ている。文字が沢山書かれていて、私はそれを読むことはできないけれど何が書いてあるのかは気になっている。今日は来てくれないのかな。特に何もやることが無くて何度も見ている雑誌を適当にパラパラと捲ったその時、静かな空間に土を踏んだ足音が聞こえて、思わず小走りで外に走った。

    「わっ、危ねえじゃん」

    驚いた様子の金髪のお団子頭の男の子、竜胆くんがじとっとした目を私に向ける。アパートの外に生えている桜の木から、はらり、と桜の花弁が舞い落ちた。その後ろにいるのは、フリフリの服を着た竜胆くんの兄弟。白いブラウスに鮮やかな紫色のスカートは生地が高級そうで、私の着ているクタクタでしわしわのティーシャツとは比べ物にならない。彼女は金色の三つ編みを揺らして、にっこりと笑ってみせる。
    竜胆くんは名前を教えてくれたけど、彼女は名前を教えてくれないし声も聞いたことがない。竜胆くんが名前を言おうとして、垂れた目でギロリと睨んでいたのを見た時、私は彼女は私の事があまり好きでは無くて名前を教える程の中じゃないと思っているんだろうと思った。その辺りの彼等の事情は私にはわからないけれど、 わかりやすい言葉で説明をしてくれた時、秘密基地を探していたらここに辿り着いて、それからよくここに遊びに来てくれる。

    「いらっしゃい!二人とも!」

    満面の笑みで二人を招くと、私が飛び出してきたことに怒っていた竜胆くんも、ゆるりと笑みを浮かべていた彼女も、ふっと笑ってくれた。



    竜胆くんは、わからない事が多すぎる私にいろんなことを教えてくれる。
    雑誌を開いて、これはこう、と読み方を教えてくれて、ひらがなで「はいたにりんどう」と書かれた本で私に数字を教えてくれた。わからなくて私がうんうん唸っていると、彼女がそっと指を指して教えてくれる。二人とも学校にはあんまり行ってなくてそんなに頭が良くないらしいと行っていたけど、私に教えられるくらいには頭がいいよ、と言えば苦笑いをしていた。
    暫く勉強していると、私の横にいた彼女の三つ編みが揺れて、私に抱きついた。竜胆くんが「飽きたの?」と聞くと彼女は縦にこくんと頷く。割とすぐに飽きてしまう彼女は、飽きるとすぐに私にだきついてくるのだ。彼女はいい匂いがして、本当に私とは違うんだなあ、と思ってしまう。
    きっとステキなお家に住んでいるんだろう。お手入れされた艶のある髪に白くて綺麗な肌。お家の匂いなのか、香水なのかはわからないけれど、ずっと嗅いでいたくなるようないい香り。彼女が私の背中に頬擦りをするから、「じゃあ、今度は何しよっか?」と彼女に話を振る。抱きしめる腕は離れる事が無くて、こんなに薄暗い部屋の中なのに二人と一緒にいるこの時間だけはいつもよりも部屋の中が明るいような気がした。竜胆くんは何故か呆れたような顔をしていて、わたしはそれが心底不思議だった。



    彼等はある程度の時間になると帰っていってしまう。私は二人に帰って欲しく無いけれど、それは彼等のお家の事情だから仕方がない。
    明らかに落ち込む私に二人は「また来るよ」と私の頭を撫でてくれた。彼女は一度抱きついてから私から離れる事はなくて、ずっと私に密着していたし、最後に帰る時もいやいやと首を横に振っていたのを竜胆くんが何とか引っ張って、私の家から出て行った。
    二人がいなくなると私の家の中は急に静かになる。薄暗くて、カビ臭くて、人の体温がない部屋。こんな部屋だけど、こんな場所だけど、ここは私を現実から遠ざけてくれている。
    ギイ、とドアを開けて玄関のドアを開けた。一階にある私の部屋は、本当はお金も払っていないただの空き部屋だ。強い風が吹いて舞う桜の花弁が、私の行く手を塞ぐみたいに視界を埋めた。
    このアパートに私達以外の人は居ない。
    ジャンプでもしたら床が抜けてしまいそうな錆び付いた階段を上って、一番奥の部屋のドアを慎重に開ける。薄暗いのは変わらない。けれどこの部屋は、明かりがつくのに意図的に点けていないだけだ。ドアを開けた瞬間にムワ、と鼻を刺激するアルコールと腐った臭い。掃除されていない部屋の中はゴミ袋で床の畳が見えないし、キッチンの銀色のシンクは同じ銀色の感が山積みになっている。ゴミ山の真ん中に敷かれた草臥れた布団の山は、すう、と上下の動きを繰り返している。今は眠っているらしい。それに安堵して、数日前に買ったパンを一口齧った。水道からコップに水を注いで、飲むついでにお湯が出るかを確認した。まだみずまわりは止められていないみたいで良かった。
    この間、一度大家さんが怒って家に来たけれど、布団に入る父はろくな対応をせず、いつどうなってしまうのかわからない。家賃を払えないくらい、お酒ばかりを飲んでいる父が働いている様子も無いし、 このアパートも古くなってきたから壊して土地を人に譲りたいと言っていた。それができないのは父がずっと居座っているからで、家賃も払わない、部屋も汚いこの部屋をどうしようかと大人達が悩んでいるのを外で見てしまった。学校に行く事が出来ない私に何か思う事があるのか、周りの大人達は可哀想に、と言ってくれるけれど、警察に通報してくれるなんて事はない。電話は置いていないしお金もない。警察署がそこにあるのかもわからないし、私は結局身近にいる大人である父のそばにいることしかできない。
    お風呂で体を洗って、タオルで体と髪を拭く。本当に、身なりの整った竜胆くんと兄弟である彼女。私とは住む世界が違いすぎるのに、私と会話をして私に会いにきてくれる。嬉しいなあとほくほくしていても、私はいつこの家でどうなるかわからないし、あの二人にももしかしたら迷惑をかけてしまうかもしれない。こんな目に会うのは私だけでいいし、あの二人が危ない事になるなんて私が嫌だ。乾かしていないままの髪をそのままにして、下の階に逃げようと風呂場のドアを開けた時、目の前でゆらり、と大きな体が揺れて、心臓が飛び出るかと思った。

    「おはよう、お父さん……」

    当たり障りの無い言葉をかけた筈だった。でも、何が父の勘に触るのかわからなくて、私の言った言葉は今の父にとっては良く無い言葉だったらしい。濡れた髪を掴まれて、ゴミ袋の山に投げられた。大きな音が鳴る。何か、聞き取れないような言葉を吐いて、みるみる顔が真っ赤になっていく。今、お酒を飲んでいるのか、お酒が無くて悲しんでいるのかはわからないけれど、いつしか父の言葉をまともに聞き取ろうとする気は無くなってしまった。
    また髪を掴んで今度は体を殴られる。けほ、と唾液を吐いて、私を殴っている父は、何故かわからないけれど泣いていた。
    服を着ていればわからない場所をただひたすらその手で殴って、力では敵わない私はそれを耐え続けるだけだ。何も悪い事はしていないけれど、ただ謝る。ごめんなさい、と言っている私の言葉は届いているのかな。私が父の言っている言葉をまともに聞き取ろうとしないみたいに、父もまた私の声をまともに聞いていないのかもしれない。
    殴られて、蹴られて、耐えて、謝って。ただそれを耐えしのぐ事だけが私の日常だ。辛くてどうしようもない時は、あの二人の事を思い出す。何も教えてくれない親よりも頼れる私と同じ子供である二人。学校に行っていなくて何も知らない私に何も聞いてこない優しい二人。
    何より、三つ編みの彼女は大切に私に触れてくれる。抱きしめる力はそんなに強く無くて、たまにスカートなのを気にせずにあぐらをかいて中が見えそうになっているから、お淑やかな見た目をしているのに中身は意外と大雑把なのかもしれない。淡い紫色の瞳が私を見つめると、私はその瞳の中に彼女が私に伝えたい感情が幾つも渦巻いているのが見えてしまう。
    なにか理由があって私とは話してはくれないけれど、彼女の体温を感じられるのは安心する。そんな風に楽しい事を考えていたら、いつのまにか痛みに耐えられなくなって気絶していたみたいだった。目を開けた時、もうすぐ夕方になると思っていた外の景色はカラッと明るくなっていて、朝になっているみたいだった。体が冷えていて、足先が氷のように冷たい。身体中が痛いから、動くのもやっとだ。家の中を足音を立てないように慎重に歩いてみると、どうやら父は出かけているみたいだった。いつも布団で横になっているか、何処からてにいれたのかわからないお酒の瓶を持って機嫌良さそうに顔を赤くしているしかないのに、珍しいな、と思いながら、一応着ていた服を洗うために脱ぐ。
    鏡に映る自分の体は、赤や青の痣だらけで、きたない。殴られた場所が冷たい空気に触れて余計に痛むような気がした。服を着替えて、洗剤をかけて手で洗ってから乾かした。妙にお腹が痛む。昨日どのくらい殴られていたのか覚えていないけれど、ここまでお腹が痛いって事は、かなり殴られたんだろう。ベッドに腰掛けてから、座っていられなくなって、畳の上に転がった。ジクジク、ズキズキ、お腹が何故か妙に痛くて仕方ない。こんなの初めてだ。もしかして、あんまり良くないところを殴られてしまったとか?無知な私には、お腹の下になんの内臓があるかなんて知らなくて、ただひたすら丸くなって痛みを耐えるしかない。じわり、と下着がなんだか気持ち悪い気がして、なんとか起き上がってから自分が転がっていた場所を見てギョッとする。畳に赤色が広がっていて、自分の服もズボンとパンツが真っ赤になっていた。血が止まる様子も無くて、やっぱり、昨日お腹を殴られすぎたんだ。なんだか気分も悪くなってきて、どうしたらいいか分からなくて、泣きそうだ。

    「おーい……あ?どうした!?」

    土を踏んだ足音と、錆び付いた立て付けの悪いドアが開いて、竜胆くんの声がした。いつもなら笑顔で二人をお迎えするけど、そんな元気も無くて、お腹が痛くて、返事をする事もできない。蹲ってる私を見て、竜胆くんが慌てた様子で私の背中を撫でてくれる。
    それを見ていた三つ編みの彼女が、ぼそ、と竜胆くんの耳元で何かを囁いた。竜胆くんは嫌そうな顔をして「いや、見た目で言えば兄ちゃんの方が」と抵抗して、またいつものように睨まれたんだろう。わかったよ、と言い残して、竜胆くんは部屋を出ていってしまう。どんどん遠ざかっていく足音に心細くなって、兄ちゃん、って竜胆くんは言ってたけど、本当は男の子なの?とか、そう言った質問なんてできるわけがなかった。

    「ううー……」

    お腹が痛いし、下着も気持ち悪い。彼女が、着ていた暖かそうな上着を私に掛けようとしていて、ハッとする。

    「だめ、そんな高そうなお洋服、私汚しちゃうかもしれない」

    彼女は、ムッ、と顔を歪めた。自分のした事が拒否されたから、不機嫌になった様な、そんな気がして、私は思わず「ごめんね」と謝ってしまう。

    「昨日、ちょっとお腹痛くなる事があってね。多分それのせいなの。迷惑かけてごめんね。大人しくしてれば収まると思うから……」

    そう言うと、彼女は腰の辺りをゆっくりと撫でてくれる。ありがとう、と言っても、紫色の瞳にじっ、と見下ろされるだけでなにも言われることはない。洋服は変わらず気持ち悪いけれど、人の体温に触れて、撫でられただけでなんだか体調が少しは良くなった気がする。

    「お前のそれ、生理っつーの」

    急に降ってきた声に、反応が少しだけ遅れた。
    竜胆くんが帰ってきたような足音は聞こえなくて、今この部屋の中には私と腰を撫でてくれる彼女の二人だけしか居ない筈で、じゃあ今喋ったのは?
    きょとん、としたまま彼女の顔を見上げると、垂れ目が呆れたように細められて「……なに」とぶっきらぼうに口が動く。思っていたよりもずっと低めだったその声。さっき竜胆くんが言っていた兄ちゃん、と言う発言は間違いでも何でもなかったんだ。

    「……喋れたんだねぇ」
    「敢えて喋ってなかったんだよ」
    「なんで?私と喋りたくなかった?」
    「そういう訳じゃねえよ。俺にも事情があんの」

    彼の声は、なんだか耳に馴染んで落ち着くような気がする。今まで口を開いてくれなかった理由はまるで教えてくれないけれど、私が今血を流しているのは生理という女の子の当たり前の症状なんだと教えてくれた。女の子じゃないのにそんな事知ってるんだ、と言ったら、まあ、と愛想の無い答えが返ってくる。詳しくは大人の女の人に聞け、と言われて困ったけれど、大人しくうん、と頷いておいた。
    彼は私の頭を膝の上に乗せて、腰を撫で続けてくれた。換えの服ある?と聞かれたから、この部屋にはない事を伝えると何も言わなくなってしまうのが寂しくて、また質問をした。

    「ねえ、そんな事より、お名前なんて言うの?」
    「なんて言うと思う?」
    「わかんない」
    「竜胆から聞けばいいじゃん」
    「それでいつも竜胆くんのこと睨んでるでしょ。それに、どうせお話できるなら直接聞きたい」

    するとまた、彼は押し黙ってしまったけれど、暫くして「蘭」と小さく呟く。

    「蘭?蘭くん?」
    「……あー、まあ、そう」
    「蘭くんと、竜胆くん。ふふ、素敵な名前だねぇ」

    前に、竜胆くんの名前の意味はどういう意味なのかと聞いたら、お花の意味なのだと言っていたけれど、蘭という名前の付く花があるのは元々知っている。だから、二人とも男の子なのにお花の名前で、とっても素敵だなぁと思った。私がくすくす笑っていると、外から足音がして、勢いよくドアが開く。竜胆くんが少し汗をかいてビニール袋を持っていて、それを私に差し出した。

    「なあに?」
    「いいからこれ持って、あと、新しい下着と服持ってトイレいけ。使い方は見ればわかるんじゃね」
    「ううん」

    透明のビニール袋の中に入った、茶色い紙袋。言われた通りにトイレに行くと、なんだかオムツみたいなそれは、確かになんとなく、使い方がわかるようなわからないような、という感じだった。相変わらずお腹は痛いけど、竜胆くんが買ってきてくれた薬を飲んで、今度はベッドに横になる。少し埃っぽい布団を被せられて、狭いパイプベッドに蘭くんも入り込んできた。背中側に回った蘭くんが、私をぎゅう、と抱き締めて、お腹に手が回った。それが、痣のある部分に当たったみたいで、「いっ」と大きな声が出てしまう。竜胆くんに「まだ薬効かねえ?」と心配されてしまったけれど、大丈夫だと言って、大人しく丸くなっていれば、段々眠くなってきた。蘭くんに抱き締められて、暖かいのもあるかもしれない。うとうとと瞼が落ちる中、何かを言われたような気がしたけれど、その時にはもう意識が遠ざかっている最中だった。



    ◇◆



    灰谷蘭は、いつ母親の期待を裏切ってやろうかと機会を伺っている。あわよくば、殺してやろうとも考えていた。そのくらい母親は、自分たち兄弟にとっては悪でしかない。
    娘が欲しい、と父親が言ったらしい。それで産まれたのは俺達兄弟、どっちも男。女が産まれた時につけようと思っていた蘭という名前は俺のものになり、そのまま女として育てられるようになった。
    父親はとっくの昔に家を出ていってしまったから、俺が女でいる必要は無い。それでも、多分頭のネジが何本か抜け落ちてしまったんだろう母親は、もうずっと俺の事を娘のように扱って、フリフリの動きにくい服を着せて、髪を伸ばして三つ編みにして、俺の事を「蘭ちゃん」と呼んだ。心底気持ちが悪い。段々声変わりするようになって、低い声が出るようになってからは俺に外で話す事を禁じるようになった。外で話したらどうなるか。おかしい大人のする事なんて暴力以外の何も無い。殴る、蹴る、を繰り返して、どうして言うことが聞けないの、と泣く。馬鹿らしい。俺は正常で、異常なのはお前だろ。そう言ってやりたかったが、俺が男らしい言動をして竜胆も殴られるのは違うだろうから。ふつふつと俺だけを殴らせて、蹴らせて、罵倒させて、時折抵抗をすればもっと酷い事をされて。そうこうしているうちに、いつしか母親を殺してやろうと考えるようになっていた。
    自分の中の暴力性にはとっくに気が付いていた。それは竜胆も同じだったらしく、顔も知らない父親の遺伝かもなぁ、と他人事のように話して。桜の花弁がウザったいくらいに舞う人の気配のないアパートで、花に負けないくらいの笑顔で迎えるあの女を思うと、自然と気持ちは落ち着くような気がした。母親の言いつけを大人しく守って、言葉を発さないようにする。いつ誰が何処で聞いているかわからない世界の中で、俺が話した事が母親にいつ漏れるかわからないからだ。そうしたらまた面倒臭いことになる。ヒステリックを起こされると、酷く暴れ回るから。
    俺と竜胆が本気で手を組めば、そのくらい対処できるだろうが、親元を離れて保護施設に連れていかれるというのも気が進まない。だから大人しくこの母親の指示に従って、俺と竜胆だけで生きていけるようになったら、ボッコボコにしてやろうと企んで、まだ周りの手を差し伸べもしない大人達に舐められている子供のうちは、大人しくしていようと竜胆と二人で手を握る。



    今日も学校に行くことをサボって、俺達は二人、あのアパートに向かう。

    「なあ、あいつ、ここで一人で生きてんのかな」

    平日の昼間、人のいない住宅街を歩いている中、竜胆がポツリと呟いた。ガリガリで、女だと言われなければ性別もわからないような見た目をした、ボロボロのあの女は、アパートの一室でいつも一人で過ごしている。玄関付近にあるスイッチを押しても電気は付かず、トイレもキッチンも水は流れない。あいつ以外人間の気配がないあの場所で、質素で生活感のない部屋で、あいつがずっと生きているのかと考えると、あいつもろくでもない親の元に産まれちまったらしい。その割には綺麗な笑顔を俺達に向けて、無知な事を恥ずかしげもなく晒し、俺達にあれはなんだこれはなんだと聞いてくる。なんだかんだで気に入っているのは明らかで、あの女には酷いかもしれないがペットのように思っているところもあるかもしれない。自分たちに懐いているやせ細ったペット。そう考えると笑えてきて、思わず笑みが溢れた。
    アパートの前まで行くと、何やら騒がしい。「なんだろ」と竜胆が呟いて、小走りになった。外では徹底して話さないようにしている俺は、無言で竜胆の後ろをついて行く。ヒラヒラはためく膝丈のスカートが邪魔くさくて、妙にイラついた。

    「やめて!」

    今まで聞いたことのないような、あいつの大きな声だ。ハッとして走って、桜の花弁で足が滑りそうになった。竜胆があいつがいつもいる部屋のドアを開けて、中身を一通り確認した後「兄ちゃん、ここじゃない!」と叫ぶ声を聞いて、ガタン!と大きな物音がした二階へと駆け上がる。錆び付いた階段は、本当に人が住んでいてもいいのかと疑ってしまうくらいには抜けてしまいそうな造りになっていた。階段を上がって一番奥の部屋のドアが開いていた。勢いよくそのドアを開くと、あいつが知らない男に馬乗りにされているのが見えて、頭にカッ、と血が上る。男の手があいつの首を締めていて、近場にあったビニール傘で男の頭を殴る。こっちを見ていなかった男の頭に見事に当たって、男は畳の上に倒れこんだ。苦しそうに咳をしている彼女を背中に隠して男を睨むが、男はそこから立ち上がらない。殴りかかった時に傘の骨は折れてしまったし、この程度じゃ死にはしないだろう。心配になったのか、俺の背中を握った彼女が、小さな声で「お父さん」と言った。何がお父さんだよ。お前を殺そうとした奴だぞ。とにかく、大人の男相手じゃ俺なんかの力じゃ敵わない。駆け上がってきた竜胆がいても、それはきっと敵わないだろう。子供二人が、自分よりも何倍も大きな体をした大人の男には勝てない。それは充分に理解していた。彼女を背負って、とにかくアパートから離れる。外はすっかりオレンジ色に染まって、夕方ももう終わろうとしていた。人気のなさそうなボロ屋を見つけて中に入ると、埃だらけだし蜘蛛の巣も酷いが、誰も住んではいないようだった。できるだけ綺麗な場所に彼女を下ろして、「大丈夫かよ」と声をかける。背負われたまま、彼女はずっと泣いていた。ひっく、としゃくりあげて、お父さん、と時折呟く。
    泣いたままの彼女から話を聞いていれば、こいつの父親も相当のクズだった。酒を飲んで、娘を殴り、蹴り、金は尽きて。あの時、こいつは「借金を抱えて、もう生きていけないから。一緒に死のう」と言われたらしい。

    「お父さん、うっ、お父さん……」

    ポロポロと、透明な涙が彼女が着ている服に吸い込まれていく。竜胆がよしよし、と彼女を慰めていて、しかし当の彼女は泣き止む気配はなかった。殴られて、蹴られて、大人だからと子供を見下して、しまいには自分のせいで膨らんだ借金を言い訳にして、娘と心中しようとする。救いようのない大人だ。どうしようもない馬鹿だ。それなのに、彼女は父親の事をずっと呟いて、まるで自分の世界には父親がいればそれでいいと言っているみたいで、気に入らない。そんな父親の何がいいんだよ。すすり泣く彼女を、何処か冷めた目で見て。俺は、俺の世界には竜胆だけが居ればいいと思っていたけれど、こいつも入れてやってもいいかもな、と思った。
    そうだ。大人に見下されないように、俺が強くなって。こいつの父親も俺達の母親もいない世界で、俺と竜胆とこいつの三人だけの世界を築き上げたらいいんじゃないか。そうしたら、女の格好をしなくても済む。そうしたら、殴られなくても済む。そうしたら、心中なんてしなくても済む。なんだ、いい事ばかりじゃん。大人なんて要らない。すとん、とその考えが素直に心に落ち着いて、一度そう考えてしまえばもうそれ以外にはないんじゃないかとさえ思う。

    「なぁ」

    声を掛けても、目の前でポロポロと涙を零し続ける彼女は、俺の方を向かなかった。

    「お前の父親って、そんなに大事?」

    ピタ、と、泣いていた体が止まる。兄ちゃん、と怒った顔をした竜胆が俺を睨んだが、俺の視線はただ彼女を見つめ続けた。

    「お前の体に痣作って。挙句の果てには殺そうとして。そんな親、居ない方がいいんじゃねえの?」
    「そんな、こと」
    「あんな親と、俺たち兄弟。お前の事大事にしてやれんのはどっちだぁ?」

    押し黙る。視線をキョロキョロと動かして、悩んでいるらしい。ずっと傍にいた情が残っている父親と、出逢ったばかりで裏切るかもしれない二人の歳の近い男達。俺からしてみれば、こんなの即答できてしまう質問だけど、彼女にとってはそうじゃない。簡単に答えを出す事の出来ない選択肢。
    彼女の視線に合うようにしゃがむと、スカートがふわ、と空気を含んで膨らんだ。母親から口酸っぱく言われ続けた「女の子らしさ」という呪縛が、まだ俺の周りに蔓延っている。けれど、それも今この時だけは良かったのかもしれない。竜胆を視界に入れて、ビクリと肩を揺らしたと思ったら、怯えた表情を見せていた。俯いて、俺がしゃがみこんだ時、同じく肩を揺らして怯えたこいつは、ひらりと揺れるスカートを見て安堵の息を吐いた。父親にされた事が、もしかしたら無意識にトラウマになり掛けているのかもしれない。俺が男だとわかっているけど、格好が格好だから、彼女の落ち着ける場所になるのかもしれない。癪だが、この時ばかりはあのクソッタレな母親にも感謝した。
    ゆっくり頬に触れると、涙で冷たくなっていた。水を溜めた瞳も、泣いて赤くなった顔も、女らしさを微塵も感じない体も、白い肌も、細すぎる腕も、彼女の全てが、可哀想で愛おしくて、可愛らしい。

    「な、蘭ちゃんがこれからずぅーっとお前の傍にいてやるから。だから、あんな父親捨てちまえよ」

    女のように聞こえてしまうこの呼び方を、まさか自分が言い始める時が来るなんてな、と我ながら思う。竜胆も俺に目を丸くしていたけれど、彼女は俺のスカートの端を握って「本当?蘭ちゃん」と、縋るような瞳を向けてくる。
    ずっと傍にいた父親に裏切られるという気分はどういう物なのか。きっと、深くは知らない関係性の、少しでも親しい人間に縋ってしまうくらいには、心がやられてしまっているんだろう。どこか危うさを孕んだ、彼女の心の隙間に入り込む機会を、もしかしたら、今の今まで無意識に探っていたのかもしれない。

    「お前を殴ったりしないし、ずっと傍にいる。一緒に死のうなんて言わねえし、美味いご飯だって幾らでも食わせてやる。な、俺達と一緒にいた方がいいだろ?」
    「うん……うん、蘭ちゃん、私、蘭ちゃんと竜胆くんと、三人だけがいい」

    また、べそべそと泣き始めてしまった彼女を、二人で抱きしめるように包み込んで。片割れである兄弟と目を合わせて、呆れたような視線を向けられたけれど、決して満更でもなさそうな所が可愛い。
    外はすっかり暗くなっていた。明かりのつかない屋内は、夜というより闇と言った方が近いのかもしれない。これからは、大人のいない俺達三人の世界で、何者にも邪魔されること無く生きていくのだと思うと、もしかしたら、ここは楽園なのかもしれないな、とさえ思えた。
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