年上婚約者と秋の夜 サアァと秋雨が降り出した。何も持たず飛び出してしまった手は文字通り手ぶらで、唯一の私物が飴玉1つ。
情けない姿だなと思いながら、飴玉をひょいと口に入れた。カラコロと音を立てて舐めていると、目が痛くなるほど頬は濡れていった。
感情のままに飛び出してしまったのは、婚約者が煮えきらない態度を取ったからだった。婚約者というのは、自分よりも7つは年の離れた男性で、長光という名前を持つ。極東の遺伝子は何処かというほどの美麗な顔立ちに青銀の髪を持ち、瞳は深い群青という色味なのだから、果たしてどこの国の御仁かと思うほどだ。
付き合い始めて数年、婚約者となって1年にはなるというのに、結婚の話にならないどころかそれらしいこともしていないのだ。年下の小娘だからと侮られているのではと考え込んで数ヶ月、とうとう思いの丈を伝えてみると、返ってきたのは煮え切らない反応だけだった。
それ故に同棲していた住まいを飛び出し、傘も持たなかったためこうして濡れネズミとなっている。
長光――津田遠江長光は、伴侶となる相手をそれは大切にしている。寂しい思いをさせている分共にいる時間をとかく掛け替えのないものだとして過ごし、歳下であろうが敬意を持って接する姿は紳士そのものだ。おまけに彼の体躯は人よりも長身で筋肉もあるため、小柄な伴侶に無理をさせないよう注意を払っていた。
そう、全てはこれなのだ。長光が伴侶を大切にし過ぎたが故に、すれ違いが起きている。勿論彼女の不安は最もだ。これに関しては長光に大いに非がある。夫婦ともなればそれなりに行為を行うだろう。だからゆっくりと己を受け入れられるよう慣らして行くべきだと、慎重になりすぎたのだ。
それが、これだ。
彼女は辿り着いた公園の樹の下でしゃがみ込んだ。せめて遊具で雨避けができればよかったのだが、あいにくそんな造りがされているものはなかった。公衆トイレは設置されているが、覗き込む勇気はない。
「長光さんのばか」
声が返ってくるはずもなく、更には雨音で掻き消えていく。ぐるぐると心のなかにわだかまっていた物を吐き出しながら、彼女は雨に紛れて涙を零した。
「ばか。好きなのに。好きだって言ってくれるのに。物だけじゃ寂しいよ。言葉だけじゃ不安だよ。こわい。こわいよぉ、長光さん」
ほろほろと泣きじゃくる。いつしか口の中の飴も形を失せ、更に悲しくなった。まるでゆっくりと熱が冷めていく愛のようだった。
彼女は人を愛したことが余り無い。それは彼女が人に対して恐怖を抱いたり無関心であるからではなく、出会い愛した異性が長光ただひとりだからだ。
故に彼女は、静かにしかし熱烈に愛している長光と別れ離れることを恐れている。長光が己を本当はどう想っているのかも知らなかった恐怖に、捨てられるのではと。
空腹の腹では、思考は嫌に暗い闇へと陥りやすい。
捨てられたくない、ひとりになりたくない、愛を否定されたくないと、彼女はとうとう声を上げて泣き始めた。
「長光さん。長光さんのばか」
誰かに聞かれていようが構わない。どうせ届きもしないと、わんわんと泣いた。
「ああ。馬鹿だ。僕が馬鹿だったよ」
声と共に雨が止んだ。否、背中に微かに当たる雨は感じる。嘘だと顔を上げれば、そこには雨で濡れそぼった長光が立っていた。彼女が雨に濡れないよう、自分が庇の代わりになったかのように、幹に手をついてこちらを見下ろしている。
「ごめん。ごめんね。僕が愚かだった。君が聡明だからって、僕よりも歳下だというのに、分かっているはずだと君との関係に胡座をかいてしまっていた。馬鹿な男だよ。ごめんね。不安をそのままにさせてしまった」
「ながみつ、ながみつさん。長光さん!」
「うん、うん。僕はここにいるよ。どこにも行かないから」
そうして彼女を抱き締めようと手を伸ばし、ふと自分の姿を見留てぎくりとした。それも構わず、彼女は長光に縋り泣きじゃくる。ようやく得た安堵を離すものかと言うように、離れる素振りはない。
観念して、彼女を抱え上げた。早く戻り濡れた衣服を身体から離さねば。風邪をひいてしまう前に温めて、休ませなければ。
冷たい体は、寄り添っても熱を生まない。長光は足早に歩を進めた。
マンションのエントランスに入ると、常駐しているコンシェルジュ達が慌ててカウンターから出てきた。ずぶ濡れのふたりに何があったのかとも聞かず、彼らは事務室の奥にあったタオルをこれでもかと引っ張り出してきた。
長光は他言無用でと頼み、コンシェルジュ達は無論だと返す。夜も深い時間帯で人はいないが、このマンションの住人達は厄介な物事を極端に嫌う。今はそれが有り難い。
1つのエレベーターを貸しきりにして貰い、長光は疲れてうとうととし始めた彼女を再度抱き上げてゆっくりと部屋に戻った。
ロックを開けて部屋に戻り、彼女を先ずはリビングのソファに座らせた。冷え切った身体で顔色は青白く、目は少し虚ろになっていた。
「今部屋を暖かくするから、少し待っていて」
ソファにかけてあったブランケットを掛け、空調をつけた。湯沸かし器とポットのスイッチを入れ、しばらく待つことにした。
ブランケット越しに抱きしめ、少しでも熱を逃さないようにとくっつく。じわじわと温かくなっていく室内で、ただ2人は静かに互いの体温を感じていた。
「もう少しかな」
「冷たくありませんか」
「僕は大丈夫だよ。君は」
「平気です。長光さんがいるから」
「その言葉は嬉しいけれど、君が風邪を引いてしまったら僕が後悔しきれないよ」
ブランケットに包まったままの身体を抱え上げ、長光は浴室へと向かう。カラリと扉を開け、暖房を入れていたおかげで温かい脱衣所に下ろした。
「初めて触れる君の肌が、こんな事でとはね」
「いつまで経っても触れてくれないんだもの」
「ごめんね。これから先、今以上に触れることを許してくれる?」
「もちろんです。……深く触れても、いいんですよ」
「それは出来ない」
すっぱりと否定され、ぷっくりと頬を膨らませる。その様子を見ながら微笑ましい表情を浮かべ、長光は服を脱がせていった。
「今は出来ない。今はまだ、ね」
パチ、とブラのホックを外される。何時の間にか下着だけになっていた事に気付かず、何時の間にか彼女はありのままの姿を恋人に晒していた。
それでも気恥ずかしさは無い。初めて何も纏っていない姿を見せたというのに、隠す事はしなかった。
「ああ。綺麗だ」
「もう子供では無いですから」
どうですか、と腕を広げてみせる愛しい者の姿。だが今は触れる訳にもいかない。そうっと触れた肌は冷えている。早く温めなければ、酷い風邪を引いてしまうだろう。
浴室の扉を開けると、湯気がむわりと出てくる。手桶で冷えた身体を丁寧に温めていき、浴槽に身を浸からせた。ひとまずはと安堵したところで、長光は自身を見てくる彼女の視線に気付いた。
ぴちゃりと水面を揺蕩わせ、ことんと首を傾げる姿は、また愛らしい。
「長光さんは入らないの?」
ぎくりと身体を強ばらせる。婚約しているとは言え、まだ籍は入れていないのだ。同棲状態で肌を合わせている事をしている世のカップルはいるだろうが、彼らはそう言った関係を築いてはいない。これは単に長光の心持ちの所為なのだが、婚約しているとは言えまだ法的に婚姻関係を結んでいるわけでは無い。紳士としては、年の離れた愛らしい婚約者に無理をさせたくは無いのだ。
「長光さん」
だが。
こうもお強請りをされてしまってはどうしようも無い。理性が耐えられるよう呼吸をしつつ、衣服を脱ぐために一度脱衣所に出た。
「狭くないかな……」
「狭くないです。ふへぇ……」
「うん、気持ちよさそうで何よりだよ」
寄りかかるようにして湯に浸かる彼女を見て、長光は気が気でない。彼女の気持ちは先刻や先程の態度で分かってはいるのだが、歳も離れ体格差もかなりある婚約者を心のままに触れてしまえば、壊しかねないのだ。
「長光さん」
そぅと触れられた腕。心が高鳴ると同時に、身体が反応しないよう必死に自制する。柔らかい身体を目に入れるのは毒だ。余りにも猛毒だ。
「こら、悪戯がすぎるよ」
「悪戯にしなければ、触れてくれますか?」
「こら……っ」
唇が触れ、ちろりと舌が舐めていく。熱の籠もった目を向けられ、長光は彼女の腰を抱いた。
「長光さん。――婚約者から、奥さんにして下さい」
「――参ったな。僕の可愛い婚約者を、酷く待たせてしまったようだ」
「本当ですよぅ」
ちゅ、ちゅとバードキスを重ねる。肌を触れ合わせたことはこれが初めてだ。とはいえ、この先深く触れ合う事は、今日はしない。それは彼女も分かっている様で、名残惜しいとばかりに離れる。
「何時にしますか?明日ですか?」
「せっかちさんだね」
「早く長光さんのお嫁さんになりたいんです」
「熱烈なお誘いだ」
「嫌いですか?」
「まさか。頑張って抑えているんだよ」
「抑えなくても良いのに」
「駄目だよ」
むぅ、と唇をとがらせ、ぽすんと長光の胸に身体を預けた。温まった身体を抱きしめ、長光は雨に濡れていた髪に唇を落とす。そしてハッと気付いた。
「そうだよ!あんな雨の中で髪も濡れていたじゃ無いか!早く洗わないと風邪を引いてしまうし汚れも落とさないと!」
「えっ、この雰囲気でそれですか!?」
「大切なことだよ。それに風邪を引いてしまったら、婚姻届を出しに行く日取りも先延ばしだ」
「それだけは嫌です」
がちゃがちゃとシャワーヘッドを掴んだ手からそれを抜き取り、責めての詫びに洗わせて欲しいと長光は言った。髪を梳いていない為綺麗に洗うことは難しいだろうが、それでも快く長光に委ねた。
丁寧に予洗いをしていき、毛先からシャンプーを泡立て洗っていく。頭皮をマッサージするように指で押し揉んでいくと、彼女の表情が柔らかくなっていった。
「気持ちいですぅ」
「それは何より」
「長光さん」
「なぁに」
「またこうやって、一緒にお風呂に入れますか?」
なんとない質問に、長光は答えない。答えられなかった。いつまで経っても返ってこない答えに、シャンプーとトリートメントがしっかりと終わったのを待って、振り返った。
そうして、困ったような熱を秘めた瞳に、身体が射抜かれるような気がした。
「次は、こうやっていられるかは分からないよ」
こくりと唾を飲み込む。濡れた髪をタオルドライされる最中、長光はふるりと身体を震わせていた。
「もうその時は、夫婦だからね」
今も紳士の皮を被っている婚約者は、情欲を必死に抑え込んでいた。