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    janjack_JAJA

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    janjack_JAJA

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    冥境滞在記(開演戯曲の侵略者2/2)

    The show must go on. この世は舞台、人間はみな役者。

     役者は揃った。舞台は整った。
     物語の主役は光輝ける二人の兄妹。悪役は異界からの来訪者にして侵略者の怪物、海流の悪魔。彼らを救うは異形の獣。
     さて始めよう。祝いの花は血に染めて、歓声には哀れな主人公たちの悲鳴を添えよう。
     輝き、輝き、足掻いて、足掻いて、伸ばして、伸ばして、伸ばした手を俺は嗤ってもいでやろう。
     お前たちに、舌と目と耳の肥えた観客を沸かせることはできるかな?

     さあて、ここからが開演、ここからが戯曲の始まりだ。
     最上で最悪の喜劇をどうぞご笑覧あれ。


    ***


     悪意の乱流に揉まれる。
     右も左も、上も下も分からない轟々とうねる海流の中で、獣は疾駆する。
     己の権能たる櫟の防御と、公による加護でどうにか体を支えているが、少し気を抜けば流れに体を取られ、足を掬われる。
     横から叩き付けられる。上から押し潰される。水圧に息を奪われる。
     いつか、異界を渡る際に酷い嵐に見舞われ、その中を傷付きながら駆け抜けた記憶がふと過った。

     逆巻き荒れ狂う海流の渦の中で、ぼんやりとした「何か」の残滓と、思念を見たような気がする。

     温かな光。痛みと叫び。情念。焦燥。憎悪。憧憬。

     しかし、獣王はそれら過去の光を振り返ることはなく、ただ走り抜けた。


    ***


     轟音と共に、世界の壁は突き破られた。

     悪魔と応戦するカノープスとチコーニャは、その身が千切れ砕けようと、なおも立ち続けていた。悪魔の狂乱の笑みを睨み据え半ば極限状態にあった二人は、しかし、突然の地響きに態勢を崩しかけ我に返った。ハッとして振り向く二対の視線の先には、見たことのない獣がいた。全身が濡れていたが、地面に降り立つと即座に水分が乾き……いや、全身を覆う枝葉に吸収され、堂々たる姿で荒れた大地に立つ。白い毛並みに、長い牙。煌々と輝く赤い目。見上げるほどの巨躯の獣。傷付きながら戦い続けていたために思考が伴わず、それが一体なんなのか、即座に理解をすることができなかった。

     「新手か?」と唸るように呟くチコーニャは、その目がギラつき大剣を構える。いくら再生能力が高かろうと、その服も髪もボロボロで、治りきっていない傷が生々しく覗く。極限状態に陥り判断能力を失っている義妹につられ構えかけたカノープスだが、しかしふとその獣の目を見返す。煌々と輝く赤い目、暗く荒々しくも、静謐な櫟を纏うその姿。見覚えがあった。いや、あのときはニブルヘルの街中であり、彼もまだヒトの姿を保っていたが、あれは──
     とうにバイザーも砕かれ晒された目が大きく見開かれる。

    「……幽谷、ですか?」

     その問いに獣は答えなかった。ただじっとカノープスを見返し、隣りにいるチコーニャを見た。それが、獣からの回答だった。
     チコーニャは義兄の言葉にまたハッと我に返り、まじまじと獣を見やる。閉ざされた戦場の真っ只中で、彼らの背後には恐ろしげに笑う悪魔がいる。だが、完全に隙を見せた二人に、別段攻撃を仕掛けてくるわけでもなかった。その様子を愉快そうに眺めているのを、獣は見据えていた。

    「えっ、幽谷……さん……すか……?……え、ええっなん、なんか、見た目全然違うんすけど」

     頓狂な声を上げるチコーニャだったが、声の調子がいつもの明るい彼女のものになっている。どうやら予想外の出来事に、ギリギリと張り詰めていた緊張の糸が緩んだらしい。つい先程まで高潔な騎士であり、荒ぶる雷霆の怒りで己の身を顧みずに戦っていた彼女は、いつその集中の糸が途切れ動けなくなるか分からないほど追い詰められていた。それは、体を半ば異形に変えながら戦うカノープスも同様であった。尋常ならざる力を持つ二人でも、若い苗木のように未熟な精神である彼らが、ここまで傷付きながらも尚も悪魔に食い下がっていたのは、称賛に値する。そこへ、彼らが強さの象徴として見る幽谷……真体の姿で現れた彼は、果たしてどう映ったのだろうか。
     二人を一対の赤い目で見やり、再び悪魔を見据えた獣が見たのは、興奮に目を輝かせ嬉々とした笑みを顔いっぱいに浮かべる男の姿だった。

    「劣勢気味の少年少女を助けにきたのか!ヒューっ!宛らヒーローだな!」

     大仰な仕草で手を叩き、肩を震わせて笑うその悪魔の姿は、どこか道化じみている。心から浮かべる笑みには残忍さを滲ませ、弓なりに歪めた目には悦楽の色を浮かべている。義兄妹との戦いでダメージを負ってはいるようだが、それでも、二人と比べればまだまだ余裕そのものだった。無理矢理に自分の領域へ介入してきた幽谷を見ても動じず、むしろ「これを待っていた」と言わんばかりに悦び、どこか浮足立っているようにすら見える姿はあまりにも不気味だった。楽しげでありながら、どこかが決定的に"ズレて"いる。その笑みも視線も破綻者の持つそれであった。
     案の定、幽谷に気を取られていた二人はまた悪魔に向き直り、嫌悪感と敵意を滲ませ睨み据える。その目線すらもこの男は楽しんでいるようだった。

    「いいね、いいね、盛り上がってきたじゃん。やっぱり舞台はそうでなくっちゃあな。未熟で無鉄砲、バカ正直な『英雄の卵』を、その危機から救うヒーロー!正しく王道!陳腐ですっかり使い古された展開でも、王道は王道。だからこそ観客の心を掴むってもんだよなぁ!いやーホント、お前らそういう才能あるよ!」

     興奮のままに捲し立て敵対する義兄妹二人を何故か称賛する悪魔の姿は、どこから見ても異様そのものだった。そして、カノープスもチコーニャも、その言葉に明らかな不快感を表しまた武器を構える。沸々と、殺意が浮かんでくるようだった。

    「貴様の戯言に付き合うつもりはない」
    「同感です。幽谷が来たからとて、僕たちのやるべきことは変わらない」
    「貴様は、此処で!私たちが討つ必ずだ」

     チコーニャの声に呼応し、雷霆が轟く。憔悴しきった彼女の心そのものを奮い立たせ鼓舞するように、閃光が走る。再び走り出しかけた彼女と追随しようとするカノープスの姿に、悪魔はにたりと嗤ってみせた。「ほうら、やっぱバカ正直なんだって。ヒーローが来てテンション上がったか?」
     そしてちらりと、現れた幽谷に目を向け、また嗤う。
     助けてやれよ、ヒーローらしく、彼らと、何より俺の期待に応えてくれ?
     お前はそういう『役』だろう?

     悪魔の悦に満ちた目はそう語っている。無鉄砲でバカ正直な義兄妹を主役と見ながらも、まるで彼らを見ていなかった。
     男にとって、この場のすべてが舞台なのだ。介入する変数すらも、悪魔の手の内にある舞台装置に他ならない。

    『……確かに虫唾の走る、イカれた野郎だな』

     喧しいんだよ、と……獣はここに来て初めて己の言葉を発する。それに一瞬目を丸くした悪魔だったが、次の瞬間、獣が大きく咆哮を上げた。
     荒涼たる大地を突き破り木々が現れる、が……それは悪魔を囲うものではなく、突っ込みかけていたカノープスとチコーニャを足止めるものだった。突然眼前に現れた木々に二人は目を見開き、驚き後ろに飛び退る。間髪入れずに、二人のいた場所に真上から巨大な尾鰭が叩き付けられた。地面が揺らぎ土埃が上がる。地面には、くっきりと尾の跡が残り、その形に陥没していた。あと一歩踏み込んでいれば直撃は避けられなかっただろう。
     二人が物言いたげに幽谷を振り返る。何かを言いかけた口を、しかし獣は体の奥底から震わせる低い声で遮った。

    『お前ら、本当に勝つ気があるのか?』

     息を呑む音。そして、チコーニャからの鋭い視線。当然だ、そのために私たちは此処に立っている、と真っ向から反論した。カノープスは、何も言わなかったが……強い目で己が敬意を示す強者を見返す。その視線を受け止めた獣は、グルグルと喉の奥で唸った。

    『ほざけ。お前らのそれは、ただ当たって砕ける自殺行為だ』

     それでよくもまぁ、今の今まで立っていられたな、と、獣は二人を正面から見据える。若い苗木の二人は、ただただその視線に無言で応じていた。上空を飛ぶ巨大な怪魚の尾がまた二人に向かって襲い掛かるが、幽谷が長く靭やかな枝の尾で薙ぎ払う。

    『純粋な力と、気力だけで勝てるなら苦労はしねぇよ。実際、お前らにはその気概がある。孤立無援のまま、よくぞここまで持ち堪えた』

     だが。
     一度言葉を切り、数瞬息を吸う。獣の背を覆う枝葉が呼吸に合わせてざわつき、広がっている。

    『それでは、生き残れない。それだけでは、生き抜くことはできない』

     二人の目が見開かれる。澄み渡る青空の色と、輝ける朝焼けの色。これから進む未来を見据える、純粋で、直向きに前を見続ける、愚直な瞳。
     同時に、負い続けた傷を隠し続け決して涙を見せることのない、幼子の双眼だった。苦しみ続け、藻掻き続け、痛みに喘ぎながら、それでも進み続ける者の眼差しだった。

    『これは、お前たちの戦いだ。お前たちの誇りをかけたものだ。此処で燃え果ててもおかしくない……お前たちの魂の戦場だ。だが……否。燃え果て、尽きて、此処で斃れるつもりか?死なぬ身が故と、己を顧みぬ生ける屍を望むか?否……違う。お前たちは、今を生きている。お前たちの無事の生還を望む者は、今もお前たちを信じて、待ち続けている』

     故に。
     獣は真っ直ぐに彼らを見据える。神としてではなく、彼らの先を征く者として。未来に芽吹くその芽を信じる……幽谷として。

    『生き抜け。生き残れ。そのために、あらゆる手段を使え。お前たちが、また明日を生きるために』

     青空と、朝焼けが、瞬く。
     傷だらけの顔を上げ、獣の姿をした大樹を見上げる。先程までの、がむしゃらで向こう見ずな高揚は失せ……理性的で、それでも愚直な彼らの光が浮かんでいる。拳を握り締め、息を吸う。吸って、吐いて、口を開いた。

    「僕たちを援護してください、幽谷」
    「私たちで必ず、あの男を倒す。私たちの大切なものを守るために。だから幽谷さん、力を貸してください」

     ──人は、一人では生きていけない。
     彼らはもしかすれば、一人で生きていける力と胆力を持ち合わせているかもしれない。だが、それは今ここで向こう見ずに走る蛮勇ではないのだ。
     それが彼らに伝わっただろうか。
     その二つの空の色が、曇り空さえも払拭する程の光が、その答えであると願っておこう。
     獣は笑う。普段ですら滅多に笑うことのない厳めしい顔付きだが……見守る者として、微かに口角を持ち上げた。

    『然り』

     白毛の獣は空を仰いだ。彼らの頭上で悠々と泳ぎ回り、とぐろを巻く不気味な魚。輝く兄妹の光を遮る終末の海流であり、この場を我が物顔で支配する悪魔の化身。
     目障りで、生臭いにも程がある。少しは同じ目線から「舞台」を眺めてみてはどうだ、戯曲の道化よ。
     バキバキと音を立て、獣の背を覆う枝葉が拡がっていく。大樹が宙空にその枝先を伸ばすように、翡翠の色を帯びながら、岩肌も剥き出しの大地を侵食する。
     始終愉悦の笑みを浮かべていた悪魔だが、異変に気付きパチリと片目を瞬かせる。瞬間、上空の怪魚の尾鰭と悪魔の異形の腕が義兄妹ごと叩き潰そうと獣へと迫り来る。カノープスとチコーニャは咄嗟に幽谷を守ろうと武器を構え迎え撃とうとするが、それよりも早く大地を突き破って木が伸びた。尾鰭も悪魔の一撃も鬱蒼と生い茂る木々に阻まれた。
     今や真体となっている幽谷の防御は硬く、加えて結界公の加護も得ている。巨大な怪物の一撃二撃程度でその櫟がへし折れることはない。
     木々はさらに増え続け、悪魔と、義兄妹を大きく囲う。荒涼の大地に森……幽谷の言うところの「谷」が形成されていく。

    『我は「谷」の支配者、我は雪渓の狩人。招かれし客人よ、嘲る獣よ、此処に現るるは獣王の「館」』

     朗々と獣王の言葉が響き渡る。空間を蝕み、大地を侵食し、悪魔の舞台を塗り替えていく。幾重にも編まれ堅牢に構築された他者の空間を上書きすることは、セフィロトの幽谷であろうと容易なことではない。しかし、今尚前を向く兄妹の樹蔭となるために、出し惜しみは決してしない。例え領域侵犯のカウンターで、己の体の内が悪魔の牙に食われ冒されようとも。
     獣の体を覆う翡翠の枝が一部、音を立てて砕ける。空間そのものが侵食に対抗し、侵犯者に見えない牙で喰らいつき必死の抵抗をしているようだ。だが、その程度の「甘噛み」で全てを折られるほど幽谷の櫟は弱くはないのだ。

     岩肌剥き出しの大地に暗く静謐な櫟の領域が出現し、陰鬱な湿り気を帯びた空気の中に、冷気が混じる。暗い櫟の枝葉に、剥き出しの地面に、白い結晶が積もりゆく。義兄妹は、果たしてこのような風景をこれまでに見たことがあるのだろうか。
     気付けば、一面が冷たく、柔らかな雪の白に覆われていた。まるで何もない……何かあることを拒んでいたかのような荒野の世界は、狩人により構成された雪山の「谷底」へと変貌する。
     これには流石に、愉悦の笑みを崩さなかった悪魔も驚嘆したらしく、呆気に取られて周囲を見渡している。低い唸り声が雪渓に響く。この場を支配するのは、宙空に浮かぶ怪魚でも、愉悦の道化でもない。

    『獣よ。疾く衣を下ろせ、牙を捨てよ。汝は我が手中、我が元に屈せよ』

     静謐の雪渓の空気を切り裂く咆哮が轟く。雪に覆われた櫟の領域が大きく鳴動する。
     幽谷の間近にいたカノープスとチコーニャも、その迫力と、それ以外の目に見えない重圧に思わず身を強張らせ肩を竦めてしまう。しかし、それ以上体が沈むことはなかった。カノープスは妙な感覚を覚えて咄嗟に自身の腕を見る。目には見えない、自分の体の表面を何かで覆われ包まれるような気配がした。同時に、周囲の静謐さと雪の冷気が体の内側に染み入り、昂る精神が凪ぎ、研ぎ澄まされる感覚。それはチコーニャも同様だったようだ。
     そして、相対する悪魔にも変化が起きる。突然呻き出すと、何かに抑え付けられたかのように体躯が前屈みになり、片膝を地面に突きかける。どうにか持ち堪えはしたようだが、ハッとして空を仰いだ。上空を泳いでいた悪魔の化身が空中で大きく身をくねらせ悶えている。動く度に空気が揺れ、怪魚の苦しげな喘鳴が降ってくる。そして、領域が組み替えられたことにより自在に泳ぐ水場を失った怪魚は、そのまま谷底へ、大本たる悪魔の頭上へと落下した。大地が揺れ、地響きが鳴り響く。衝撃で櫟の枝葉が激しく揺すられ積雪が怪魚の体に降り注いだ。
     セフィロトの領域顕現による加護と罰。招かれし客人には守護を、喰らうべき獣には平伏を強制する幽谷の権能だった。

     墜落した怪魚によって潰された悪魔だが、無論、この場にいる誰もがそれで仕留められたとは思っていない。案の定、谷底に横たわる巨体が突如持ち上がり、その下から悪魔が姿を現した。頭部から血を流しているが、それでも身体は健在そのものだった。

    「おいおい、獣の兄さん。舞台転換なんて流石の俺も予想してねぇよ?つーか、体怠くて重すぎる。俺、兄さんには何もしてないよな?」

     そんなのアリかよ、と悪態を吐いていても、その口元には残忍な笑みが浮かんでいる。面白くなってきた、と言わんばかりの表情だった。

     不意に、チコーニャが何かの気配を感じて振り返り、目を見開いた。巨躯の獣の姿をした幽谷の傍らに、黒い毛並みの大きな犬が静かに控えていた。「ユダ姉!」と声を上げかけたチコーニャだが、すぐに言葉を呑み込んだ。彼女の慕う黒犬は全身が艶めかしい真っ黒の毛に覆われている。しかし、そこに居るのは、黒犬の彼女と同じ黒い毛並みの中に、雪のような白い毛が混じっている猟犬だった。違う、あの犬はユーダリルではない……と、チコーニャがあ然として見つめていると、似たような毛色の猟犬がもう一匹現れた。血の色をした二対の猟犬の目が、チコーニャをじっと見返し、どこかチコーニャのことを品定めしているような雰囲気を滲ませていた。

    『……その二匹は俺の化身だ。言葉は発しない、だがお前たちに合わせて動き、援護する知恵はある』

     二人は幽谷のことを見上げる。獣の視線は悪魔から外れることはなく、兄妹の視線には応えない。しかし、彼からはっきりと意識だけは向けられていると、全身を覆う櫟の加護を通して伝わっていた。
     空気と、空間を震わせる咆哮を上げていた獣は、雪渓の静けさに沈む低く響く声で告げた。

    『俺はこれ以上手を出さない。ここまでやってやれば、まぁ十分だろう。……いいか、ここまでやって、お前たちは漸くあいつに手が届く段階だ。完全に有利になったわけじゃない』

     気を抜くな、生きて勝ち残れ、と最後は短い助言だった。それきり幽谷は、幽谷としての言葉を二人にかけることはなく、新たなる空間の支配者としてこの場を睥睨することに決めたようだ。

     獣王に向かって半ば睨み付けるように目を細めている悪魔は、禍々しい赤い目をまたパチリと瞬かせる。愉悦と興奮、そして、多少の不平を訴えていた。
     お前の『役』はそうじゃあないのにな、これもこれで盛り上がるが、それじゃあ俺の期待外れだ。

     それに言葉を返すことはないが、獣王はただ一言。
     喧しい。
     同じく言葉を発することはなく、悪魔の期待と不平を一瞥で退けた。

     悪魔と獣の短い無言のやり取りは、どうやら義兄妹には気付かれなかったらしい。自分たちを見ることはなく、しかし、それでも自分たちを信頼し後のことを任せた幽谷に、何も言わずに頭を下げる。
     改めて悪魔に向き直り武器を構えた義兄妹と、それに追随するように静かに彼らの両脇に佇む双子の猟犬。
     場の雰囲気のせいだろうか、先程よりもしんとした静けさに満ち研ぎ澄まされているカノープスとチコーニャには、もはや迷いも無鉄砲さもなくなっていた。
     あるのは、満ち満ちる闘志と「生き残る」という意志である。

    「先程のようにはならない。これで、僕たちはようやく、同じ位置に立ちました」
    「今度こそ、貴様を討つ……ドグマ!」

     積もる雪を跳ね上げて、二人は走り出す。既に獣王から視線を外した悪魔は、最初に見たときと同じ、にたりと、嫌らしげで恐ろしげな笑みに戻り、この舞台の「主役」たちに立ちはだかる。忌み嫌われる絶対の「悪役」として。

     若き神格である獣王……幽谷は、ただその光景を静観する。若く、青々しい苗木の彼ら。未来へと進み続ける眩い二筋の光。
     ふと、公が幽谷に向かって「眩しくて、目に染みる」と言ったことを思い出した。今なら公の言葉に、少しばかり共感できるような気がした。
     眩しく、曇りがなく、それが目に刺さって痛い程だ。故に、目を掛けてしまうのだ。愚直でバカ正直な彼らを。
     雪渓を支配する狩人の呆れたような苦笑は、静謐な雪の白の中へと人知れずに溶けていった。

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