これは場地さんと出会って二度目の夏に差し掛かろうかって時の話だ。学校帰りに見上げる空が橙色に染まるのもだいぶ遅くなり、肌を撫でていく風はぬるんだ熱気を孕んでる。
もうすぐ夏が来る。そう思った途端、ふわふわしたむず痒さが全身を巡って走り出したいような衝動に駆られた。そうなる理由なんてただ一つ、場地さんと出会って全部が変わったオレの世界。その流れのなか、今年の夏も場地さんがいるってだけで浮かれるなって方が無理な話だろ。
場地さん、少しはオレのことも構ってくれっかな。できればその……、個人的に。そんな自分勝手な願いをこっそり抱いてしまうくらい、オレは少しでも多く場地圭介の傍にいたかった。
「じゃーな、千冬」
「おー」
「あとオマエ、さっきから顔ニヤけてんぞ」
「ウッセ!」
からかって小突いてくるツレと別れ、団地の階段に足をかけながら少し反省する。ああは言ったものの、上の空だった挙げ句ニヤけてるとかよくねぇよな。それにさっきだって無意識だったなら、場地さんの前でもそうなってた可能性がある。なんせこの頭は場地さんを知ったあの日から、あのひとを中心に回ってるから。
気をつけねーと。ヨッシャと気持ちを改めたところで、目下心を掻き乱す存在ナンバーワンと出くわした。
「なぁにやってんだ。ンなとこで」
「場地さんっ。な、何でもないっスよ! 場地さんこそ、どっか行くんスか?」
「オフクロが醤油買ってこいってよ」
ぶっきらぼうな言い方に反して場地さんが纏う空気は穏やかで、こういう時のこのひとがオレはすごく好きだと思う。もちろん啖呵切って最前線に躍り出てく時もめちゃくちゃカッケーけどな!
「オレも行っていいっスか」
咄嗟に口走ったオレを怪訝そうに見て、『物好きなヤツ』。一言そう言って場地さんが笑った。
近所のスーパーまで並んで歩き、お目当ての醤油をゲットする。そのままレジに直行かと思いきや、少し弾んだ声がオレを呼び止める。
「釣りで好きなもん買っていいってさ。千冬ぅ、オマエなんか食いたいもんあるか?」
「えッ、そんな。オレはいいっスよ!」
慌てて遠慮すると、直ぐさま面白くなさそうな一瞥が飛ぶ。
「なに遠慮してんだテメー。何かあんだろ、食いてぇもんの一つや二つ」
オフクロさんから預かった千円札と醤油を印籠のように突きつけてくる場地さんを前に、嬉しすぎる気遣いで空回り必至の脳をフル回転させる。ここでの遠慮は逆に失礼にあたると思いつつ、無意識に口をついて出たのは場地さんの好物だ。
「じゃ、じゃあペ、」
「そいつはオレが買うし、好きなもん選べっつってんだろが」
オレの返事を見越したように片眉を上げる場地さんは、顔つきの割にどこか得意気だ。それがまたチームで見せる顔とのギャップというか、素の場地さんぽくて。オレにそれを向けてくれるんだと思うと、この人のためなら本気で何でもしたいと思うし、実際するんだろう。
「えっと……、そしたらこれが食いたいですっ」
今度こそ素直に向かった先は惣菜コーナーで、一個80円のコロッケが並ぶケースの前に立つ。前に腹減った時に買ってみたら、サクサクほっこりの侮れねぇ美味さだったんだよな。しかもこの時間帯は夕方特売で、二個入りと四個入りのセット販売があってお得ときた。
「結構うまいんスよ、このコロッケ」
「これオレも結構好きだワ」
場地さんは迷わず『揚げたてです』の赤シールが貼られた四個セットを手に取ると、今度こそオレたちはレジで精算を済ませて店を出た。さっきよりも暮れた空は橙と淡い紫が混じり合い、ゆるりと夜を運んでくる。
行きと同じく並んで歩く帰り道。ふわりと立ち上る香ばしいコロッケの匂いと、場地さんが足を踏み出すたびカサカサと音を立てるビニール袋の乾いた音に気持ちが安らいだ。格別な居心地の良さに包まれていると、自然と胸が熱くなる。
守りてぇ。オレが生まれた最っ初からの決まり事みたくそう思った。オレより強いこの人を、オレは守りたい。こんな風に一緒に過ごす時間だってもっと欲しい。髪を揺らして颯爽と歩くこのひとの隣にずっといたい。まだ知らない場地さんの色々をどんどん知って、そのうち全部解りたいなんて不遜な願いを抱いちまうくらい、オレの全部が止め処なくこのひとへと向かってく。
自分が一番じゃないと気が済まない男。自他共にそう思ってたのはまだ最近のことだ。けど今は違う。オレが一番を望むのは場地圭介ただ一人。欲深すぎだってことも分かってる。けど場地さん、オレはあなたの一番になれたらって、本気で思うんスよ。
「千冬ぅ」
うっかり思考の海に沈んで反応が遅れたオレを気にせず、場地さんが続ける。
「腹減ってきたし、とっとと帰ってコロッケ食おーな」
「っ、ウス!」
そう言いながらも足を速めなかったのは……。場地さん、あなたもこの時間を好きでいてくれるって自惚れてもいいっスか。
これが少女漫画なら、この瞬間オレの背景はキラキラだ。けどそれをブチ壊すように鳴った腹の虫を恥じたのも束の間。噴き出した場地さんと顔を見合わせ笑い転げるうちに着いてしまった団地を前に、今度は言いようのない寂しさが込み上げるのをぐっと呑み込んだ。
楽しくて嬉しくて寂しくて。このひとの隣にいると、感情がジェットコースターみたく忙しない。目の前に見たこともねぇ扉がどんどん増えていくような、それはもう言葉にできない快感なんだ。
「……おい千冬」
昂ぶる感情を抑えるまでもなく、固い声に隣を振り仰いだオレにもその緊張はすぐに伝わった。
「え、なんスかコレ……」
「オレの気のせい、じゃねーよな」
「っス。オレも多分、同じもの見てます」
オレらの住む団地の棟はもう目と鼻の先だ。けど目の前に佇む建物の異質さに足が止まる。夕方にもなればどこからともなく漂ってくる夕飯の匂い、遊び足りねぇチビ共を呼びつける母親の声、家々の窓をやわらかく照らす明かりに、うっすら漏れ聞こえる生活音の数々。
いつも当たり前に溢れてるそういうもんが、全部ない。オレたちの住む棟だけじゃなく、他の棟を含めた団地全体が息の詰まるような沈黙に覆われていた。
「まるで温度がねぇ」
場地さんの一言は的確だった。ついさっきまで、自分を含めた住人たちの生活が確かにここにあったのに。それが何がどうしてこうなったのか、今は打ち棄てられた空間に残された忘れ物のような侘しさで佇んでいる。
「確かめましょう……っ」
「トーゼンだ」
中がどうなっているか。オレたちの家が、どうなったのか。全部を言えなかったのは張り付く不安からだったが、一歩を促す場地さんの強い眼差しは、あまりにいつも通りにオレの背を押した。
「っ、オイ……」
だが次の瞬間、短い一声と共に場地さんが止まった。警戒よりも多分に困惑を含んだ声音に、慌ててその視線の先を辿る。オレたちの住む棟の階段前に、誰かがいた。数は二人。こちらと同じように、その人影もまた並んで立っている。目を凝らすうちにぼんやりと捉えた姿に向け、自然と開いた口元がぴくりと強張る。
『場地さん』
そう発音しかけた口が、中途半端に開いたまま固まった。場地さんは、ここにいる。今、オレの隣に立ってるじゃねーか。けどそれじゃ……、アレは一体、誰だ。
霧を含んだような暗がりが重く垂れ下がっているせいで、先にいるヤツの顔がわからねぇ。目を凝らせば凝らすほど、立ってんのが数メートル先かもっと離れてんのかさえあやふやになる。
耳鳴りがウルセー。駆け出して確かめたい気持ちを裏切るように足が重たい。なんで、なんで、なんで。渦巻く疑問が破裂したかと思うくらいに頭が痛んだ。
暗い。顔が見えねぇ。けど、オレは知ってるだろ。あれは、あそこに立ってんのは……。
「──ちふゆ?」
不意に落ちた静かな呟きが、聞いたこともない祈りの一節のように混乱する心身に沁み渡っていく。
「……場地さん?」
隣に立つ人は、だがオレを見ちゃいなかった。暗がりを掻き分けるように前方を凝視したまま、場地さんはもう一度、オレの名を口にした。
「来い、千冬」
今度の呼びかけは自分に向けられたものだと分かった。勢いよく駆け出す場地さんをオレも追う。団地の敷地を踏み越えると、その境付近にいた時よりも肌に感じる空気は密度を増して不快を煽る。前方の人影が猛烈に気になった。確かめたいって勢いだけで、気味の悪い場所へ突っ込む理由になり得る程に。
測りにくいと思った距離感は、最初にざっくり意識したモンとそれほどかけ離れちゃいなかった。走ってみたところ、多分二十メートルあるかないかくらい。そこに立つのが誰なのか、近付くたび高鳴る鼓動がその答えだった。
二人のうち、オレの前に位置する相手の立ち姿を見間違う筈がねぇ。
こんなにも意味不明な空間でも変わらない。しっかりと地面を踏みしめて立つあの足は、前に踏み出すことを決して躊躇しねぇんだ。後ろで一括りにされた綺麗な髪も、露わになった形のいい額と意志の強さが顕現したみてぇな眉に見慣れた特攻服も、オレは全部知ってる。
なんで。なんて疑問は吹っ飛んでた。駆け寄ったオレの口が、さっき出来なかった分までこのひとの名を叫ぶ。
「場地さん!」
「よォ、千冬ぅ。やーっぱオマエ声でけぇワ」
んな大声出さなくても聞こえる。そう言って目元を細める場地さんは確かに場地さんなのに、うまく言えねぇけど違う気がした。偽物って意味じゃなく、今オレの隣にいる場地さんとは別というか。一人が二人に分裂したとかでもなく、確かにどっちも場地さんなのに、同じじゃねぇ。
だー! なに言ってっか自分でもわかんね。ただ『違う』と感じる漠然とした根拠みてぇなのを一個上げるとしたら、こっちの場地さんは妙に大人っぽい。それがどういうことなのかは分かんねぇけど。
そしてオレが目の前の場地さんに対してとりあえずの落とし所を見つけた時、隣ではこの状況を意に介さない場地さん節が炸裂していた。
「おまっ、やっぱ千冬だな! なんで老けてんだッ、てかスーツカッケーなオイ!」
「な……っ、え、オレ」
なんだそりゃ。もう一人の場地さんにも驚いたけど、こっちの方が驚きだろ。コイツが、オレ……?
「千冬ぅ。おかしなことになってっけど、どうやら悪モン退治はしなくて済みそうだぜ。な、そうだろ?」
オレと眼前の二人を交互に見やって告げられた最後の言葉は、不敵な笑みと共にスーツの男と特攻服姿の場地さんに向けられた。
「さすがオレ。話が早くて助かるワ」
特攻服姿の場地さんが言い切る傍ら、これまで言葉を発していないスーツの男はきつく噛み締めていた唇をゆっくりと開いた。
「……ば、場地さん……っ。確かにその通りです。にしても……、ッ、ひでぇな。そこはカッケーだけでいいとこっスよ」
震えを帯びた言葉に、一瞬泣き出すのかと思った。けどそんなの気のせいだと言わんばかりに、嬉しくてたまらないという顔が今にも崩れそうなひしゃげた笑顔を上書きしていく。場地さんに向けた瞳の奥に、並々ならぬ熱量を湛えながら。
あぁ。コイツは、オレだ。
その姿を見て腑に落ちた。そう思って見れば似てる、かもしんねぇ。少し大人びた場地さんだって存在するんだ。もっと先のオレがいることだってあんだろ。分かんねぇことで頭悩ます分も、根本的に意味不明なこの場所で場地さんに及ぶ危険がないかに気を配る方が万倍いい。
「で。オマエら状況分かってんのか?」
「ア? 分かる要素がどこにあるってんだ」
「ま、そうか。オレらもいきなりココにいたからな」
「ンだよ。テメーも知らねぇんじゃねーか!」
「ハハ、まーな」
特攻服姿の場地さんの問いに若干の苛立ちを含んで返す場地さんは、自分自身と対峙する戸惑いなんて端から持ち合わせちゃいないかのようにいつも通りで、その冷静さがオレの混乱を制御してくれている。
本当は、オレが場地さんのそういう存在になりてーのに。数えればきりがない不甲斐なさをひとまず後回しにして、オレは現状確認する方へと頭を切り替えた。
「あの、根拠なんてねーですけど。オレたち……、つってもオレと一緒にいた場地さんのことっスけど」
根拠も確証もないばかりか、憶測でしかないことを口にするのは少し勇気がいった。けど手がかりの一つもないよりはマシだろうと言い聞かせる。
「少なくともオレたちがここにいるのは、その……オレのせいかもしれない……っス」
「どういうことだオマエのせいって。ンなわけあるか」
すかさず否定してくれたのは、隣に立つ場地さんだった。暮れていく空の下、この人と一緒にいたいと強く望み、この人の一番になりたいと切に願った。
「けど場地さん、オレ願っちまったんスよ。もっと場地さんと一緒にいてぇって。だからその、変な風にその願いが叶っちまったのかなって」
「……逢魔が時のタイミング、か」
スーツ姿のオレが顎に手をやって呟くのに、二人の場地さんが揃って声を上げる。
「オマエら分かるように言えっての」
「いえ、そっちのオレと同じで確かなことは何も。ただ昔から、日が暮れて夜に移り変わっていく時間帯には妖怪や幽霊の類いやら、不可思議な現象に遭いやすいとされる説もあるんですよ。たとえばこの場合、気持ちが強まるほど想いの塊は存在を確立していき、やがて自分の中で無視できないものになっていくでしょう。それは自分の心の中に、新たな存在を産み落とすのと変わらない。そうして生まれた存在を念と名付けるなら、その元になっているのは強い願いだ。それを抱いたまま昼と夜の境目であるこの時間、つまりは人と魔の境界を超えてしまったとしたら……」
スーツ姿の『オレ』は、オレの懸念をズバリ言ってのけた。居たたまれなさに思わず顔を落とすと、真横から勢いよく伸びた腕がスーツの胸ぐらを掴むのが視界に映る。
「それが理由ならコイツのせいじゃねーよ」
低く唸るような声だった。
「オレも似たようなこと願ったんだワ。で、コイツにオレが負けるとかねーだろ。どう考えても、どっからどう見ても! だから原因になるならオレの念な」
「ちょ、なに言ってんスかっ。これはオレが!」
庇われて浮かれてんじゃねぇぞ。場地さんの言葉を心底嬉しく思いながらも戒めたつもりだったが、頭に食らったのはそこそこ重たいゲンコツだった。
「誰が口答えしていいっつった?」
「っ、スイマ」
下げかけた頭が止まった。礼を阻んでいるのは特攻服姿の場地さんの手だ。顔を上げろと言うように、掴まれていた肩をはたかれる。
「来ちまったモンに、今さらどっちのせいとか関係ねーよ。オマエも、気持ちは分かるが冷静になれ」
窘めるようなそれがオレに向けられたものじゃないと理解するや否や、二人の間で争いが勃発した場合について思わず思考を巡らせる。味方につくならもちろんオレの世界の場地さんなのは当然として、できる限り中立を保ちたいというのが本当のところだ。だってこのひとも場地さんなんだから。
「わかってるんだよウッセーな」
舌打ち混じりに言うとくしゃくしゃと髪を掻き上げて、場地さんはスーツの『オレ』から手を離した。勝手に一触即発かと思っていただけに、解けた緊張から知らず詰めていた息を吐く。その時ふと視線を感じて顔を上げると、特攻服姿の場地さんと目が合った。ほんの一瞬、掠めるような気遣いの余韻をそこに感じたのは、多分気のせいじゃない。
今の自分たちと比べて少しずつ雰囲気の違う『場地さん』と『オレ』。けど確かに二人はオレたちなんだと思える要素が増えていくのが不思議と心強かった。
「とにかく元の場所に戻んねぇと話になんねー。オレは千冬と探るから、そっちはそっちで何か分かったらすぐに知らせろよ」
「連絡手段はどうしましょうか。オレは携帯持ってないですし、そもそも電波が繋がるかどうか」
「アァ? 大人のくせに携帯くらい持っとけよな。つーか、そっちのオレは持ってんだろ」
「お、オレも持ってます携帯っ」
あっちのオレをフォローしたわけじゃないが、一応自分だと思うと何となく挽回しておきたくて挙手をする。
「千冬、繋がるか試すぜ?」
特攻服姿の場地さんが取り出した携帯は、オレの世界の場地さんと同じものだった。番号が押されると、難なく携帯は着信を告げる。
「大丈夫みたいっスね」
「異空間で電波は通じないものとばかり思ってましたが、ラッキーですね」
オレの言葉にスーツの『オレ』が安心したように頬を緩めた。
「それじゃ一旦別行動ってことで。オレらは自分ち確認しがてら行くワ」
「ではオレたちは別棟や、どこかに抜け道のようなものがないかを探ってみます」
もし携帯が繋がらない場合、この場所で落ち合うことを決めて二手に分かれる。オレたちが階段に足をかけたところで、背後から特攻服姿の場地さんのからかうような声が飛んできた。
「オイタすんじゃねーぞ」
笑いを含んだそれにどう返すのが正解か分からずひとまず会釈を返すと、一歩先を歩いていた場地さんが不機嫌も露わにオレを制す。
「千冬ぅ、アイツのことはほっとけ」
「……っス」
ほっとけと言われるほど何かした覚えもなかったが、直感に従って黙っておいた。その代わりに思うのは、現状に対する自分の感覚だ。
たった今別れたばかりの二人が『自分たち』じゃなかったら、平和な日常の一端に組み込まれた踊り場が違和感まみれじゃなかったら。今頃は買ってきたコロッケを食いながら場地さんとダベってた。けどそうじゃない時間に身を置く今、問題なのは現状を忌避しきれずにいるオレがいるってことだ。
やっぱコレって、どう考えてもオレのせいっスよ場地さん。
場地さんといたいって強すぎる気持ちが変な空間を呼び寄せた。いくら二人でいれる世界ったって、こんなの良くねぇって分かってンのに。場地さんの顔が、ちゃんと見れねぇよ……。
「テメー千冬ッ。ボーっとしてんなよ」
強く名を呼ばれて我に返ると、そこはオレんちの前だった。
「わっ、あ、スンマセン!」
「大丈夫かよ。なんか変だぞオマエ」
まー、こんなワケ分からん状況じゃ変になって当然か。あっけらかんとそう付け足された気遣いが今は痛い。しっかりしろと内心でテメェをどついて気持ちを切り替えると、オレは目の前のドアノブに手をかけた。
ガチャ。ガチャガチャ。
回したノブは途中で止まり、玄関扉が開かない。それに暖かなこの時期は鉄製のノブの冷たさは冬と比べて全然違うもんなのに、今は真冬かってくらいひんやりとした冷たさが皮膚を刺す。
「ちょっと待って下さいね」
制服を探って取り出した鍵を差し込むと、今度は軋んだ音を立てて扉が開いた。隙間から漏れ出る空気は別段カビ臭くもなければ湿っぽくもない。けど肌に馴染む生活の匂いってやつをまるで感じねぇ。明かりのない室内は静まりかえり、遠慮なく軋む蝶番の音に何故かヒヤヒヤした。
「なんか、逆にイヤっすね。団地全体の雰囲気もそうでしたけど、ホラー映画みたく明らかに廃墟化してるならまだしも、中途半端なニセモノっぽいのが落ち着かないっていうか」
「さっきはオマエ呆けてたし気付いてなかったろうけど、天井見てみ」
言われて顔を上げると、廊下に設置された蛍光灯が不規則な明滅を繰り返しながら、かろうじてという様子で灯っている。もともと電球が切れかけてこんな風になることもあったが、最近は大丈夫だった筈だ。
「人の気配をなくす方向でいくなら蛍光灯も切れてたらいいのに。うまく言えねーですけど噛み合わせが悪いっつうか」
「人がいねぇのにコレだけ生きててもな。オレらが元いた場所と、微妙に重なってて微妙にズレてやがんのが気持ち悪ィ」
人がいない。その言葉に改めて開けた扉の奥へと意識が向かう。空っぽの玄関に足を踏み入れ、返る声はないと思いながらも呼ばずにいられなかった。
「……ペケ……、母ちゃん……?」
ちょこんとドアの前に座り、いつも出迎えてくれる相棒の姿がない。靴を脱ぎ、部屋に上がる足に擦りつけられる小さな頭としなやかな体。高くピンと立った尻尾をゆったり揺らしながらオレを振り返り、おかえりとでも言うように高く短い声で『ニャア』と鳴くんだ──。
「お邪魔します」
丁寧な挨拶を口にして、場地さんがオレの後へと続いてくれる。背後に感じる温度が文字通りここでの全てなんだと痛感しながら、それが場地さんであることに心底感謝した。ついさっき、そう思うこと自体が問題なんだと自戒したばっかだってのに。
異質な空間の重たい薄闇が、べったりと張り付いた後ろめたさを隠してくれることを密かに願った。オレが正しい道に戻れるまで、どうか。
広くもない室内を見終えるのはあっという間だった。家具や食器、自分の部屋にある物すべてが見知ったものばかりにも拘らず、その全てに拒否られているようなよそよそしさの充満するここが、オレの家──。
ヤベ。なんか、すげー、苦しい。
うまく吐けなかった息が喉を逆流して噎せ返る。引き攣れた呼吸音が泣いてるみてぇに聞こえるのが堪らなくイヤだった。場地さんと一緒にいられることが嬉しくて、場地さんと一緒だから耐えがたい。
「……千冬」
「あ、えっと……ハイあのっ、予想はしてましたけど、やっぱ誰もいないっすね。ホントみんな、どこいっちゃったんだか」
「こっち見ろって千冬」
力強い一語一語に弱気を見抜かれそうで、というかもう絶対ぇバレてるから。あんなにも眺めていたかった場地さんの顔を、オレはどうしても見れずにいた。
「……無理すんなっつってんだよ」
不意に左右の視界が狭まったかと思うと、オレの両頬はがっちりと場地さんの手によって固定されていた。ぐぎぎ、と強引に視線を合わされて込み上げる焦りに拳を握り込む。
「ど、どうしたんスか。オレは別に……っ」
「別に、なんだ」
「……べつに、なんともな」
「オマエは嘘下手ランク最下位決定だな。なんともねぇなら、なんで泣いてる」
「泣いてなんか……っ」
さすがにそうなったら自分でも気付く。重たい熱の塊が通過していく独特な感覚がまだ迫っていないことに安堵しつつ、普段なら絶対しない反論が思わず口をついて出た。
「黙ってろよ」
早口で告げられた一言はらしくないほど小さく、その意図を確かめようとして叶わないことが更なる動揺を呼ぶ。
「あの……場地さ……っ」
自分の身に起きていることが理解できず、言いつけを破って困惑が溢れる。頭上から降る小さな舌打ちと共に、場地さんはもう一度言った。
「いいから、少し黙っとけ」
こくこくと頷くことしか出来ない。徐に伸ばされた場地さんの手に後頭部を引き寄せられ、あやすような手つきでぽんぽんと頭を撫でられながら、オレは自分が思っている以上に自宅の有様を見て動揺し、混乱していたのだとようやく自覚した。
ある日突然、家族がいなくなる。その事実がもたらす空虚さを、オレはもう知っていたのに。それが非日常極まりないこの場所の中では、どこか現実味が欠けていたのも事実だった。あっさりとここへ来たのなら、同じように簡単に戻れるだろうって。だがそんな保証がどこにある。オレたちは本当に、戻れるのか? 部屋を確認するたび、そんな冷たい焦燥にチリチリと平常心を焼かれていた。
気付けば摩耗していたメンタルにとって場地さんの手は最高に心地よく、再び平静が構築されていく感覚にオレはじっと身を委ねた。
「なんも恥ずかしくなんかねぇ。当然のことだ」
独り言のような囁きはオレの不安をそっと撫で、そのままここではないどこかへ静かに流れてくみてぇに余韻だけを残して淡く消えた。無性に場地さんの顔が見たくなったのと、撫でられていた手が離れたのは同時だった。
「お。少しはマシなツラになったんじゃねーの?」
「ウス! 気合い入ったっスよ」
見慣れた強気な笑みの中に、さっきまでの余韻は欠片もない。そこに含まれていたものの正体を知りたいと思ったが、オレは聞くのをやめた。場地さんがオレを支えてくれた。それだけ分かっていれば、十分だ。
◇
「やはり団地全体が一つの塊として形作られてるみたいですね」
「抜け穴ポイントもねーってか」
「残念ながら。あっちのオレがちゃんと気付いてくれるといいんですけど。巻き込んじまってすみませんでした」
二人が団地の敷地内を探索して分かったことは、内部は自由に歩き回れるが、敷地外へ続く道へは一切出られないということだった。外界との区切りと思われる箇所に千冬は手を触れながら、壁を滑るようにしか進まない指先を離して謝罪を口にする。
境界から向こう側の景色は分厚い膜を通したようにぼやけて歪み、仮に強引にこじ開ける方法があったとしても、向こう側に見えているものが『正しい場所』である保証もない。
「オレは一言も迷惑だと言った覚えはねーぜ。おそらくアイツもな」
さらりと言う場地に、やわらかな千冬の眼差しが注がれる。
「あなたのそういうところが、オレはずっと大好」
続く言葉は勢いにまかせて口元を塞いだ場地の手のひらに吸い込まれた。狼狽する場地の頬は赤みがさし、それを誤魔化すように声を荒げる。
「おまっ、年上だからってしれっと爆弾投げてんじゃねェ! それよかッ、携帯も持ってねぇってマジかよ。ンなスーツ着れんなら携帯の一つや二つ持っとけよな大人だろ!」
「……スーツを着てたって、立派な大人とは限りません。現にオレは何もできなかった。それに携帯なら、実はオレも持ってるんですよ」
千冬の瞳が憂いに沈んだのは一瞬だった。すぐに振り切るように顔を上げると、胸ポケットから取り出したものを掲げてみせる。
「あ? なんだこりゃ」
「オレの時代の携帯電話です。通話機能の他にも、これ一つで大抵のことはできます」
つるりと黒光りする画面には、興味深そうに覗き込む場地の顔が映っている。
「マジかよすげーじゃん。つか、じゃあ何で持ってねーとか言ったんだよ。コイツで分かることもあるんじゃねぇの?」
「こっそり試したんですけど、残念ながらこれは使えませんでした」
「ふぅん? ま、オレのが使えンなら別にいいけど」
「場地さんとあっちのオレの携帯が使えたのは、同一のものをそれぞれが持つことで、彼岸のあなたと此岸のあなたとを繋ぐ媒介の役目を担ってくれたのかもしれません。そして昔のオレの番号は、そのどちらの機種とも繋がってますしね。何にしろ、もしオレのが使えたとしても、あっちのオレやあなたの時代にないものを目の前で使うことは避けたかったんですよ。どんな変化が作用して、今が変わってしまうかわからないですし」
慎重さを帯びた言葉に、場地は改めて千冬の顔を見返した。自分の記憶にあるよりずっと大人びてはいるが、変わらない素直さと一本気な気質を宿すその顔を。そして理知に富んだ瞳の底に見え隠れする、深い翳りと悲哀とを。
「……オマエまで死んでんじゃねーよ」
思わず漏れたといった様子の低く掠れた響きに、今度は千冬がはっとして顔を上げる。
「場地さんが遺してくれた言葉、守れなくて……っ。ほんとオレ情けな」
「じゃねーよ、違うだろ千冬ぅ! オマエがのうのうとヤられるタマかよ。そんなワケねーだろ。どうせ最期の最期まで泥臭く足掻いて、そんで……逝ったんだろ……っ」
呻くように言葉を吐くと場地は千冬の頭を引き寄せ、自らの肩口に押しつけた。
眠っていた場地に突如訪れた覚醒は強烈で、突然のことに上下どころか前後左右さえ掴めない感覚に陥ったのはほんの少し前のことだ。もっとも時間という概念があってないようなこの空間において、『ほんの少し』という感覚は、あくまで場地がそう感じたという括りではあるが。
混線したラジオの音声から自分の求める音を拾い出すように、直感が『ここだ』と示す方を無我夢中で目指してこの場所へやって来たのだ。
そして今腕の中にいる男を見た瞬間、わかってしまった。信じたくはなかったが、コイツもまた生を終えた存在なのだと。
「場地さんオレ……、死んで分かったこともあるんですよ。元々眠ってた場所からここに来るまで何度か別の時間軸っていうか、あちこちに引っ張られてたんです。でも、そこでは場地さんに会えなかった。といってもじっくり探す余裕なんてなかったんスけどね。それで引っ張られる感覚が走るたび、場地さんの気配がする方へ意識を寄せていったら、ここにいたんです」
千冬が通ってきたいくつかの空間のうち、そのどれもがどこかしら見知った光景であるにも拘らず場地に会うことは叶わなかった。正しく時が刻まれない不安定さを孕んだ、こういった場所ならもしかして。そう思っていただけに落胆も大きい。現実世界での待ち合わせにしても、些細な出来事ひとつが入り込むだけでタイミングが合わず、すれ違いが生じるというのはよくあることだ。
千冬はひたすら願った。己の中に消えることなく刻まれた場地圭介の存在を、彼との巡り合わせを。やがて今までの比ではなく強く意識が引かれる瞬間が訪れた時、そこへ行きたいと全身全霊で願ったのだ。そうして次に目を開いた時、千冬の隣にはひと目会いたくて堪らなかった男が立っていた。
「上手く言えないですけど……、オレはまたこうして場地さんに会えたってそれだけで、すげぇ嬉しいっス。嬉しくて嬉しくて、おかしくなりそうなくらい。またこうして会えたのは、すごい奇跡なんスよ」
千冬の声は穏やかで、顔を見た最初から声を荒げたくて堪らなかった場地のこころを鎮めた。言いたいことは山程あるが、そもそも千冬を残して先に逝ったのは自分であるし、そうでなくとも千冬自らが選んだ道を責める資格など誰にもないのだから。
引き寄せた千冬の体にさらに力を込める。存在の確かさを実感できるのが生を終えた者同士だからなのか、はたまた特殊な状況がそれを許すのか。理由は何だってよかった。
「あぁ、そうだな。オマエにまた会えて、よかった」
言うべきことがあるとすれば、これ意外にあるか。口にすることで、この再会が千冬の言葉通り奇跡であることを、場地はようやく実感と共に噛み締めた。
肩を震わせ、それを隠すように身じろぐ千冬をきつく抱き込みながら、この場所で顔を合わせた最初の瞬間が甦る。見開かれた瞳に目まぐるしく浮き沈みする感情の奔流と、息を呑み、出てくる言葉のないまま戦慄く口元とを目にして、千冬の中で己の存在が今なお消えていないことを痛感すると共に、この実直すぎる男に背負わせてしまった枷の重さを思い知った。
「よく頑張ったな、千冬」
「ッ、ぅ、ぐ……ッ、場地さん……ッ!」
労ってやりたいという思いから自然とこぼれ落ちた場地の言葉に、千冬の肩が一層大きく震えを帯びる。開いた年の差の分だけ、千冬が背負ってきただろう荷の数々を少しでも軽くしてやりたかった。たとえ未来へと続く道が、とうに閉ざされた後なのだとしても。
ようやく、千冬は泣いた。場地を喪ってから腹の底に沈めた慟哭を、数えきれない眠れぬ夜にこびりつく拭えない葛藤を、その全てを、解放するように。喉を振り絞り、声の限りに千冬は泣いた。
この場所に来て、千冬が最初に視界に映したのは抗争で命を落とした場地だった。それだけでも感極まるというのに、衝撃はさらに続く。『今』に存在する過去の自分と並んで歩く、まだ生きている場地圭介をも目視した時、千冬は叫び出したい衝動を必死で堪えた。周囲へ鋭い警戒を怠らない場地が自分の姿を認めた直後、見る間にそれを解いて気安く声をかけてきたあの瞬間。全神経を総動員しなければ、溢れ出る感情を抑えることは出来なかっただろう。
「オマエ、あいつらにオレらが死んでること隠したかったんだろ」
ひとしきり声を上げ、やがて小さくなる嗚咽を締めくくるように深呼吸をした千冬の背を撫でて、その胸中を察するように場地は質問を口にした。
「……はい。あの様子だと、オレたちの姿は普通に存在しているように見えていると思って。本来知ることの無い未来を知らせたくなかった、というのもありますが」
自らの中で筋道を立てるように言葉を切った後、目元に涙の名残を残しつつも随分すっきりとした面持ちで千冬は続けた。
「携帯電話のこともそうですが、彼らに余計な干渉をしたくなかったんです。今から話すことはオレが死んだ時には知らなかったことなので、曖昧な部分が多いことを前提に聞いてくださいね。この空間に来るまでに何度か別の場所へも行ったって言いましたよね。その時、オレとは異なる時間を進んだ『オレ』の思念の断片というか、そういうものに触れたんです。それによると、タケミっちは元々いた未来と過去とを行き来しながら東卍を、オレたちを救うために一人で闘ってたんスよ。そしてそれは、この時間軸でも同じ筈なんです。オレたちが過去の自分と遭遇したのはタケミっちの介入とも異なるし、原理もよくわからない。だったら出来る限り干渉は控えて、タケミっちの動きの妨げになることは避けたかったというか」
これが正しいかどうかは分からないんですけどね。眉を寄せてそう言う顔は、弱気とも諦めとも異なる、限られた情報の中で最善を尽くそうとする顔だ。
「……タケミチか。短い付き合いだったが、妙な迫力のあるヤツだったな。そうか、アイツそんなことしてたのか。んで、このワケ分からん場所が他にもあるってか」
「一つの選択で変わった未来や、変わり損ねた時間の残骸ってやつがあるとすれば……。オレたちが今いる場所から見ると、それらは薄布を介して重なり合う多重空間のような構造なのかもしれません。どれもこれも曖昧で想像の域を出ない現状なんで、あっちのオレたちには境界を越えて欲しくなかったんですけどね」
「あっさり来やがったな」
最初に踏み越えたのが自分だっただけに、場地は面白くなさそうに頬を歪める。
「オレは嬉しかったですよ。場地さんが今のオレの姿をものともせずに近付いて、声をかけてくれたこと」
やわらかな笑みを真っ直ぐに向けられて、場地は返す言葉が見つからずに視線を逸らした。居心地の悪そうなその様子に笑みを深め、千冬は満足したとばかりに話を戻す。
「それに、この空間が存在するために必要なパーツがあっちのオレたちだとしたら、彼らを呼び込むためのトラップの役割で自分たちが呼び寄せられたのかもしれません。逢魔が時は黄昏時ともいって、薄闇の中で出会う相手が人か魔物か分からないという夕暮れ特有の状態を指した『誰そ彼刻』からできた言葉のようですし」
「なんかよく分かんねぇけど、『誰だあいつら』つって確かめたくなるように連れてこられたってことか?」
「憶測ですけどね」
「まー実際そうなったワケだけどよ。なんか癪じゃね? 正解がわかんねェんなら、オレは自分の意志でここ来たってことにしとくワ。起こされたきっかけが罠の役目を押しつけられたせいなのか、あっちのオレがオマエといてぇって思ったからなのか、それも確かめようがねぇなら尚更な。オレがここにいんのは、テメェの意志で此処だと思う方へ向かったからで、ベルトコンベアーで運ばれてきたわけじゃねぇんだ」
宣戦布告のように強い眼差しだった。場地のそれは死してなお背負おうとする千冬の荷を肩代わりするかのように、強く千冬の胸に響く。
千冬が抜けてきた幾つかの時間の中に、場地の気配はなかった。それを証明するような、各々の場所で触れた自身の思念の欠片たち。武道が奔走しても、場地は戻らない。常識では図れない程の突飛な力を用いても、駄目なのだ。
場地の人生の幕引きは、場地圭介自身が定めた終わりによってしか成り立たない。その事実を前に出来ることがあるとすれば、自らの不用意な介入によって本来無事である筈のその過程にイレギュラーな危機を投げ込まないよう細心の注意を払うことくらいだった。
慎重が過ぎる程の千冬の在り方をも見通すように、挑むような場地の視線はじっと注がれたまま逸らされることはない。背中を押された気分で千冬は頷きを返す。
「オレも同じです。オレはオレの意志で、ここへ来た」
「フハッ。変わんねぇな千冬ぅ。けど嫌いじゃねーぜ、オマエのそういう頑固で融通効かねぇって感じの目」
場地は愉快そうに笑い声を上げると、ほんの一瞬、懐かしむように目を細めた。
◇
「オレ腹減ったんだけど」
いつもより三割増しでローテンションな場地さんの呟きに、オレはすっかり忘れ去っていたコロッケの存在を思い出す。
「そうだコロッケ! 食いましょ場地さんっ」
伸ばした足下に放置されていたスーパーの袋を引き寄せると、ベッド代わりの押し入れに腰掛けていた場地さんが素早くオレの隣に降りてきた。さすがに冷めてしまったものの、表に貼られたシールといい見慣れた食べ物であることといい、今まで無意識に享受していた普通が今はとんでもなく懐かしい。
これまでも何事につけ、それがあって当然という感覚は薄かったように思う。けど今は、赤い縁取りの揚げたてですシール一つにも大切な日常が詰まっていることを実感する。
「……あっちの場地さんたち、今はオレんちにいるんスよね。もしかしたら腹空かしてるかも」
ちょうど四個あるコロッケを見下ろしながら言うと、すかさず不機嫌な視線がオレを刺した。
「千冬は別にしても、アイツに構うなっつたろ」
「構うなって……、でもこんな状況だし。オレたちだけ持ってるモンがあるって、なんかスッキリしねぇっスよ。あっちのオレがいいなら、なんで場地さんだけダメなんスか。場地さんが話したくねぇなら、オレが直接持って行」
「ッたく、聞いてやるからケータイっ」
地を這うような低音と忌々しげな舌打ちに、浮かしかけた腰をそろそろと下ろして携帯を手渡す。場地さんは今しがた通話を終えたばかりの相手へ再びかけてくれたが、最初からオレがかけるって選択肢がないのが少し気にはなっていた。
二手に分かれて探索してみたものの、得られた情報はないに等しい。ここにオレら以外の人間はいないこと、それから出口らしいものはないこと。そうじゃないかと思っていたことがはっきりしたってだけだ。
未知なことばかりでめぼしい情報を得ることは難しいとどちらもが思いつつ、それでも一応の情報交換をした最後にあっちのオレが言っていた。
『見たところ出口はなかったけど、入ってきたということは何らかの条件を満たせば再び外へ通じるかもしれない』と。確証はないと苦笑していたが、どこかでそうだったらいいという思いがあった分、たとえそれがもう一人の自分の言葉だとしても、希望として捉えることを肯定されたようで嬉しかった。
場地さんはそこまでを話した『オレ』から電話を替わるよう言われ、オレはその時言われた言葉がずっと頭から離れずにいる。
『──場地さんを頼むぞ』
真摯な声音に思わず背筋が伸びた。当然だ。このひとと出会ってから、いつだってそう在ることがオレの最善なんだから。
『そっちこそ、場地さんを頼んだぞっ』
そう返したオレに、わかっているとだけ応えたアイツ。未来の自分とはいえ、感覚的には信頼できる他人に近い。だからこそ、改めて頼むと伝えられたことが胸に残っていた。逢魔が時に、アイツの言葉を借りるならオレの強い念。仮定にしろそれらが事の始まりに関係するとしたら、ここから出るのに必要なのもまた、それに類するモンじゃねーのか。
「千冬ぅ。あいつら腹減ってねぇし、色々積もる話があんだとよ。だからオレらで食えってさ」
「そうなんスね……。じゃあ、さっそく腹ごしらえしましょう!」
沈みかけていた思考はひとまず置いて場地さんに向き直ると、注がれる視線にはやはり釈然としないという色が浮いている。
「……場地さんあの、オレなんか気に障ることやっちまいましたか?」
何となく気まずさが漂う中でもいつも通り二人同時に手を合わせ、『いただきます』と言えたことがオレに質問する勇気を与えた。
それでも場地さんに対する気掛かりを一つ抱えてるってだけで、割り箸で一口大に切り分けたコロッケ本体から崩れたじゃがいもが何だか侘しく見えちまう。珍しく煮え切らない物言いや視線の原因が、自分にあるなら今すぐ知りたかった。
「オマエじゃねーよ」
こんな時だってのに、手荒く掻き上げられた髪の一房が骨張った指の間からはら、とこぼれるのに見入る。そんなオレのヤマシサには気付かないまま、苦虫をかみ潰したような顔で場地さんは吐き捨てた。
「すげぇムカつく相手がテメエ自身って、納得いかなくネ?」
「あの、それずっと気になってたんスけど、何で場地さんはあのひとを嫌うんスか?」
「だからそりゃ千冬ぅ、オマエがそうやって気にするからだろが!」
「えっ。じゃあやっぱオレが原因じゃないっスか! でも、そりゃ気にしますよ。場地さんなんだから」
「……言い直す。おまえにとっての『場地さん』はオレかアイツか、どっちだ」
ずいと顔を寄せ、思い切りガンくれる場地さんをこんな間近に拝めるとは。研ぎ澄まされた迫力に、これまでこうしてメンチ切られたヤツらへの嫉妬が沸々と湧き上がる。って、あんまりカッケェから脱線しちまった。ていうかこれって、何かまるで……。
「そりゃ今、目の前にいる場地さんに決まってますよ!」
「ならあっちは気にすんな。オマエ色々顔に出すぎなんだよ」
言われて思わず頬に手をやる。そんなつもりはなかったが、もしそうならどんな顔をしていたのかと気になったからだ。
「それってどんな」
顔ですか? 言い終える前に場地さんが言葉を被せる。
「オマエの漫画に出てくるみてーなツラだよ。いつもはオレの前でだけなのに、アイツにはそうじゃねーとか腹立つワ」
不機嫌も露わにオレを睨む目も苛立った低い声も、掴まれた顎がぎりぎり痛ぇのも全部、忘れねぇように刻みつけた。そうする間にも走馬灯みてーに駆け巡る推し漫画の名シーンたちと現状とが、答え合わせをするみてぇに合致していくのに思わず前のめる。
「わかりましたよ! それ嫉妬ってヤツです場地さんッ」
「……ぁ?」
「つまり、オレが場地さんを大事に思ってるみてぇに、場地さんもオレのことを……その、お、想ってくれてるって、ことです……?」
場地さんの不機嫌の理由がわかって気分爽快だったのが、言葉にしようとした途端尻の座りが悪くなる。
「片言になってんぞ千冬ぅ。嫉妬なんてンなもん誰がするかって言いてぇとこだけど……、言われて見りゃ確かにそうかもな」
「え!」
「自分で言っといて何驚いてんだ。つまりこういうことだろ。自分だけに腹見せると思ってた猫が、他の野郎にも同じことしてるの見ちまったら複雑じゃね?」
猫って部分に引っかかりを覚えつつ、一応ペケに置き換えて想像してみる。オレや場地さん以外に懐くペケ……。可愛がってもらってよかったな! ってのが真っ先に浮かんだとはちょっと言いづらい。ペケは可愛くていいヤツだし、人を見る目もある。なんたって、オレより先に場地さんを見つけたんだから。けど場地さんが言ってるのは、多分そういうことじゃないだろう。
「言っとくけど、オマエを猫扱いしてるってワケじゃねーからな。喩えってやつだ」
どう返すのが相応しいのかわからず口籠もるオレに、場地さんが気を遣ってくれている。それだってスゲェことなのに、欲張りなオレは顎から離れちまった体温をさみしいとか思ってる。つまりは嫉妬つっても温度差があって当然だし、含まれる意味合いだって同じじゃねぇ。けど程度はどうあれ、その単語を用いることへの同意は得られたんだからと思い直した。
「ほら、食えよ。ワケわかんねー状況で腹減るから難しく考えるんだ」
オレの顎から割り箸へと持ち替えた手が、促されて開けた口にコロッケを放り込む。
「冷めてもうまいっスね!」
さっきは侘しいとか思ってたくせに、些細なきっかけであっさり手のひら返しやがる感情ってのは、良くも悪くも厄介かつ単純だ。場地さんの言う通り、空腹がよくねぇってことも。咀嚼して味わったコロッケが胃に収まると、気のせいでなく人心地がついた。
オレに食わせた後、同じくコロッケを口にする場地さんに目をやりながら、ふと思いついたことを言ってみる。
「オレら今フツウに食ってますけど、もし今後場地さんが今みたいな状況になった時は、そこで見つけた食い物は絶対食っちゃダメっスからね」
「どういうことだよ」
「黄泉戸喫つって、異世界の食べ物を食っちまうと二度と元の世界には戻れなくなっちまうらしいです。今食ってるコロッケはオレたちの世界の物だから、元いた場所に肉体を留めて結びを強めてくれるんスけど、たとえばこの空間で見つけた食べ物だとしたら、身体がこっち側に属しちまうんで帰れなくなるってワケです」
二つ目のコロッケを頬張りながらしげしげとオレを見やる視線には、呆れとも感心とも言いがたい色が入り交じっている。
「大人な千冬もよく分からんこと喋ってたけどよォ、やっぱベースはオマエなんだな。つか何でンなこと知ってんだよ、もしかして授業でやったか?」
授業のワードで前屈みになる場地さんに、初めて会った時のことが甦ってふわりと胸が温かくなる。
「授業ではやってないんで安心して下さい。オレの場合、前に世界が滅びるとかの予言が流行った時に、それがすげー怖くてヤだったんすよ。で、克服するにはまず敵を知ろうってことで、そっち方面の色々を見たり読んだりした結果の雑学なんで」
いつか本当に世界の滅びが訪れるとして。それならそれで、オレは自分の意志でその絶望と向き合いたい。
「ふーん? てことは、あいつらにしたらこのコロッケは食っちゃいけねぇもんなのか」
「少なくとも、オレたちの世界に大人のオレやもう一人の場地さんは同時に存在してないですからね。さっきは気が回らなくてみんなで食べられたらとか思ったけど、断ってくれてよかったのかもしれないっス」
最初、この現状を一種のアトラクション感覚で捉えていた自分の馬鹿さ加減にはいまだに呆れる。その後空っぽの家を見て動揺して、オレは安心したがっていた。みんなでパックのコロッケ囲んでわいわい食って、そうやってテメエの安易さを誤魔化したかったんだと今ならわかる。
「心配すんな。オレらと元の世界との繋がりはコレ食って強まった。そんでアイツらは食ってねぇ。双方問題なしだ」
最後の一口を胃に収めて事も無げに言うと、場地さんが手を合わせた。パンと乾いた音にはっとして、オレもそれに倣う。
「ごちそうさまでしたっ」
いただきますと同様に重なった声が力を与えてくれる。
このひとが好きだ。
コロッケが美味いのと同じくらいシンプルに、そう思った。
◇
不機嫌を隠そうともしない声を可笑しく思いながら、場地は通話を終えた携帯を特攻服のポケットに落とした。
「自分に嫉妬とか器用なヤツ」
「嫉妬、ですか……?」
異様な空気に包まれていようともかつての自室は懐かしく、千冬は勉強机代わりの押入れの前に置かれた椅子に腰掛けながら、背後のベッドに凭れて座る場地へと視線を向けた。
「オレが千冬に構うのが面白くねぇんだろ。千冬は千冬なりに、オレとアイツとで差別化図ってんのにな」
例えば自分たちが対立した場合、千冬は自分の隣に立つ『場地圭介』の肩を持つことなど目を見れば分かりそうなものだと思いながら、近くにあるものほど見落としやすいという皮肉に苦く頬を歪めた。
「こんな言い方はオカシイかもしれないですけど……。こうして場地さんと話ができるなら、自分が死んだことも最悪ばっかじゃなくて良かったって思っちまいました」
「また会えたってことに関しちゃ同感だワ」
言いながら、場地の胸中では先程鎮まってくれたばかりの嵐が再び吹き荒れる。死んで欲しくなかった。生きていて欲しかった。最期はどんな風に、死んだ──。
どれもこれもが口にしたところでどうなるものでもないばかりか、千冬に負い目を抱かせるだけだと分かってもいる。それに一度はもう言ってしまった。
それでも思わずにはいられないのは、始めて出会ってから決して平坦な道ばかりではなかったにも拘らず、如何なる時も自分を信じ付いてきてくれた親友に対する情の深さがそうさせた。これ以上千冬を傷つけたくはないという沈黙の中に激情を内包した台風の目が、場地の中に重く居座っている。
「神様なんていないと思ってたけど、案外融通効かしてくれるもんなのな」
纏った漆黒の左腕、そこに堂々とした金糸で描かれた『卍壱番隊隊長』の文字を撫でながら言った。何でもない話をしたかった。自分にはどうにも出来ない千冬の死について平静を失うより、二度とあるか分からないこの機会を、せめて千冬が良かったと思えるひと時にしてやりと心から思う。
「それ最初に思ったんですよ、よかったってっ。やっぱり場地さんにはその特攻服が一番ですから! オレも服装は最期の時のまんまなんですけど、身嗜みの点ではちゃんとなってたからスゲェほっとしましたもんっ」
ペタペタと体に触れながら、千冬はどこも汚れていないことを得意気に見せつける子どものような顔で笑う。それは場地の記憶にあるものと何ら変わらない明るい笑顔だったが、今はもうそれだけでは済まされない、千冬の中にひたと沈む翳りが彼を苦しめただろうことも知ってしまった。
それでもこの瞬間、千冬は少年時代と変わらぬ笑みを場地に向け、場地もまた他愛ない時間を二人で過ごした時へと遡ったかのような心地でそれを受け止めた。
かつても、そして互いに死してなお千冬の存在の温かさに救われていることを自覚した時だった。熱い感情が衝き上げ場地の胸に巣くう台風の目をも貫くと、それは喉を押し開き、震わせ、嗚咽となって場地の胸を喘がせる。
「ちふゆ……っ」
凭れていたベッドから上体を起こし、場地が無意識のうちに伸ばした腕の先には千冬がいた。躊躇いながら、それでも何かを掴もうとするかのようなその手に千冬は自分こそを掴んで欲しいと願い、自らの手をそこに重ね、そっと握り込む。
「ありがとな、千冬」
全身から熱が、音が、色が遠のいていったあの瞬間。静かに幕が下りるように閉ざされていく視界に最後まで映り込んでいたのは、広い空と涙でぐしゃぐしゃに顔を歪めた千冬の顔であったことが鮮明に甦る。
あの時、自分を抱き支えているせいで溢れる涙を拭えずにいた千冬を抱き返してやりたかった。だが力が抜け落ち脱力も甚だしい両腕ではそれが叶わないことは明白で、刻一刻とその事実を突きつけられてなお現状を不幸とは捉えない心身から欠け落ちたものについて、ほんの僅か思いを馳せたりもした。
死に場所を求めていたわけでは決してない。それは向き合うべき事柄から目を背ける最たるものだと解っていたからだが、それでもあの瞬間自死を選んだのは今度こそ守りたい相手を守るため、それを可能にする唯一の手段と考えたからに他ならない。
その選択を選んだ結果、涙を流させる者がいるとわかっていても、場地にとっては最善だったのだ。
「大丈夫です。あの日も今も、ちゃんと伝わってますから」
穏やかな声音は場地の魂深くに染み入ると、本人ですら捉えきれない深層の痛みをやわく包み、奇跡的に再会を果たした親友へそれを伝えることを後押しした。
「おまえを泣かせて、ごめんな……!」
振り絞るように告げられた感謝と謝罪を前に、千冬は堪らずその背を引き寄せる。少し前、自分にそうしてくれたように。
「オレはわかってますから……っ。大丈夫、大丈夫です。なんせ場地さんと出会ってから今に至るまで、オレはあなたの背中をずっと追いかけてきたんです。だから、大丈夫なんですよ」
情に厚く仲間思いなこのひとだからこそ、自分一人で背負ったまま逝ってしまった。千冬は戦慄く背を愛しさを込めて撫でながら、その一方で手のひらに伝わる感触に目眩を覚えた。しなやかな背筋は成熟に至る前特有の瑞々しさを宿し、腕の中の存在がまだ少年であることをこれでもかと突きつけられる。
誇りを胸に同じ特攻服を纏って喧嘩に明け暮れたあの頃は、千冬もまた少年だった。格好良くありたいという信念とそれを示し貫くための力を若い心身に漲らせ、志を同じくする仲間と共に怒号の中を駆け抜ける。拳をぶつけ合いながら己とどう向き合い、どう行動するかという選択を常に迫られるなか、指針となり千冬を導いたのが今腕の中にある男の存在だ。
場地を慕い、言動に憧れ、傍らに立つ喜びが自分の全てであったおよそ一年半という短い期間。場地を守るために自分があり、そのためならどんなことも実行してみせる覚悟はあの頃に備わったものだ。それは長い年月を経ても色褪せず、傍らが空白に呑まれてなお千冬の意志を燃え立たせた。
だがおそらく場地は自分へ向けられるそういった忠誠を解っていたからこそ、一人で抱えるには重すぎる荷を千冬に預けることを良しとしなかった。それがどれほど過酷であるか。そこに思いが及んだのは、場地が生きた時間を追い超してからの話だ。
「オレは、おまえにすげー守られてたんだよな。わかってるつもりだったけど、全然足んなかったワ。今だって……っ」
溢れる感情を堪え、頬が歪むのも構わず真っ直ぐ向けられる眼差しに笑みを返しながら、それが泣き笑いのようになってしまうのを千冬は抑えられずにいた。
「場地さんはオレの全部だから。オレはあなたに会えたことで、オレのなりたかった『松野千冬』になれたんです。それで、これは今だから思うことですけど……」
言葉を切り、ひりつく喉を潤すために唾液を飲み下す。ずっとそう出来たらと思っていた、叶わぬ夢物語を千冬は口にした。
「これはオレの勝手な言い分ですけど、オレは大人としてあなたを守り、助けに行きたかった……っ」
自分にとっての場地と同じく、場地にとってそういう立場にあっただろう佐野真一郎のように。代わりになるためではなく信頼できる大人として、過酷な道をひとり歩き続ける少年に手を差し伸べたかった。本人が望むと望まないとに拘らず、そういう存在が必要だったと何度思ったか知れない。
償う機会のないまま罪を抱えて生きる重みに気付けていたら。おそらく無意識下で癒えない傷を守り育てた結果生じたであろう強い自己犠牲心が育ちきる前に、別の道が存在する可能性を一緒に考えることが出来たなら。また違った未来が場地の前に開けていたかもしれないと、ひとり年を重ねるたび思わずにはいられなかった。
「ふは……っ、なんだそりゃ。もしそんなことが起きても、オレぁ簡単には懐かねーぜ?」
吐息に混ざる笑みが濡れていることには触れないまま、その言葉にこそ自分が救われたような心持ちで千冬は場地を抱く背に力を込める。
「いいんです。場地さんが懐いてもいいなって思ったらそうしてくれれば。どんなに冷たくされても、オレ絶対めげないんで。それだけは絶対なんで」
「オマエが言うとジョーダンに聞こえねぇから怖いワ」
「もともと本気しかないですから」
「……そーゆうとこな」
軽口を交わしながら、どちらもが分かっていた。放たれた時間の矢は未来へ飛ぶのみ、決してつがえた弓へ戻ることはないのだと。それでも武道のイレギュラーさを否定する気にならないのは、自分たちが不意に陥った説明のつかない状況と同じように、世界には理解の及ばない仕掛けがあるのだと素直に思えたからだった。
「千冬……。あっちのオレらに本当のこと言わないでおいてくれて、ありがとな。もし仮にあの抗争でオレが死ななかったとしてもだ、それとは別の機会がきっとオレを呼び込んだ。因果応報って言うなら、この命の返しどころは一虎とマイキーを守るためがいい」
足跡ひとつない雪原のような静けさを纏わせながら、場地は小さく『ごめん』と呟いた。二度目の謝罪に千冬は緩くかぶりを振る。
「言ったでしょう? わかってるって。だからもう、謝らないで下さい。そんなあなただからオレは、大事で大事で仕方がないんですから」
「そういうもんか……」
「そういうものです」
千冬が言い終えるや否や、ぐいと胸を押されて距離が開く。場地さん、名を呼ぼうとした唇がやわらかく塞がれたかと思うと、雪解けのような余韻を残してそれは離れた。
「……さっきの、大人のおまえでオレを助けに行きたいっての、結構嬉しかったぜ」
犬っころみてーなオマエも十分だったけどな。
そう付け足すと、場地は悪戯が成功した子どものようにくしゃりと笑う。あっけらかんとしたその姿を前に、千冬は慌てて手のひらで口元を覆った。
「オレ、死んでてよかった……! 生きてたら場地さんの唇の感触消したくなくて、二度とメシ食えないとこでしたよ……!」
「ブラックジョークかよ。つうか、オレの話聞いてた?」
「もちろんですよっ。一言一句刻み込んでますから! あともう、こうなったらオレもぶっちゃけますけど、オレずっと場地さんのこと好きだって言ってましたよね? でも今のオレが何かしたら犯罪になっちまうと思ってスゲェ我慢してたんスよっ。なのにこんな……っ、もうオレ何も思い残すことねーですッ」
前のめりで捲し立てる千冬に退き気味になりながら、こんなに軽やかな気分はいつぶりかと思わず過去を振り返り、よりにもよってそれがこのタイミングだったことに場地は笑った。
「そりゃお互い万々歳だな。それと、やっぱオマエはその喋り方のがしっくりくるワ」
「場地さん……!」
ほどけていく。抱え込んでいた慟哭も、遣り切れなさも、後悔も。ほろほろと甘く溶けて崩れ、後に残ったのは愛しさだけだ。
「おま、大人になっても声デケーまんまかよっ。猫かぶりすぎだろ!」
「だって、ちょっとでもカッコイイって思われたいじゃないっスか!」
なんといっても相手は場地なのだから。会いたくてたまらなかった。夢で逢えた日には、それだけでその日を生きる糧となった。千冬にとって唯一の存在なのだから。
「……もう一度だけ、いいっスか?」
おそるおそる訊ねた問いかけに、ぶっきらぼうだが緊張に掠れた声音が返された。やがて、重くのしかかるような閉塞感に満ちた室内に、控え目な水音が割って入る。まるでこの空間を浸食するかのようなそれは、確かな存在感を放ちながらどこまでも甘やかに響いた。
◇
なんか今──、空気が変わった?
まるでいつも通りの放課後みてぇに場地さんと取り留めのない話をしている最中、ふとそう思った。『いつも通り』をなぞることで、テンパって強引に嵌め込んじまっていたピースを正しく嵌め直すゆとりがもたらされ、オレは自分が修復されていくのを強く実感していた。
こっちに意識させない微妙なラインでいつもより多く話題を振ってくれる場地さんは、それがオレのステータス異常を回復させる一番効果的な方法だと分かってるみてぇな気さえした。
「今回のことで何度も思ったんスけど、やっぱ場地さんはカッケエっす」
「あ? ンだよいきなり。そりゃオレのが年上なんだから当然だろ」
「いえ、もしオレのが年上だったとしても無理っスよ」
あなたは決してオレに背負わせない。少し傷がついたり欠けてしまったり、他の人が気付かないような変化にも気付いてしまうあなたの目は、多分ちょっとよく見えすぎてしまうのかもしれない。傷口を見つけてもらった側は感謝ができる。でもそれじゃ、場地さんの分は? あなたが傷ついた時、気付いてくれる人はいるんですか。
「はッ、何言い出すかと思えば。オレとオマエは別々の人間なんだから違って当然なんだよ。大体オマエが何も考えてねぇつまんねーヤツなら、そもそもつるまねぇだろ」
「……ウッス!」
自分を卑下してるワケじゃねぇ。この人の懐があんまりデカくて温かいから、オレもそうなりたいと思う気持ちがちょっとばかり焦っちまうんだよな。けどそれで空回るくらいなら、時間がかかったとしてもしっかりとその背を目に焼き付けて着実に進もう。
このひとがオレを見てくれるように、オレが場地さんを見てる。オレにそうしてくれたように、オレがあなたの盾になる。
そう気持ちを新たにしたところで、さっきの違和感が気のせいじゃないことを後押しするみてぇに、肌に感じる変化の度合いが膨らんだ。明らかに全身に纏い付く不快がやわらいでいる。密度が希薄化したみてぇな呼吸のしやすさは、気持ちの問題だけじゃねぇ気がして場地さんを見た。
「オマエも感じたか」
「っス。やっぱ空気変わりましたよね。何かが作用したせい……だとしたら、それを強めていけばもしかして」
ここから出られるかもしれない。そう続けようとしたところで、着信を告げる携帯が震えた。
「もしもしオレですっ。ハイ、それはこっちでも。……って、えぇッ。あ、あのもしもし!」
「おいアイツだろ、なんて」