旅立ち君の名前はまだ誰にも知られていない。
人間の世界では特にそうだ。
16年間、君は森の奥深くに存在する、
天族の集落、イーリスで育った。
君は長く伸ばした赤毛を、ポニーテールに束ね、緑色の衣装に身を包み、腰には剣を、背には弓矢を携えている。自然と共存するために身につけた君の武勇の証だ。君は森の木々を駆け抜ける風に耳を傾ける。その音はだんだんと鮮明になっていく。
この世界には人間と天族がいる。
グウェンドリンという天族が、当時、赤子だった君を森で拾った。天族は普通、人間には見えない存在だ。だが君は違った。グウェンドリンは言う。君は特別なのだと。
そして君には確かに見える。
風を操る天族の姿も、その声も。
「おい、いつまで木の枝に引っかかってるつもりだよ、馬鹿」
マリアスだ。
マリアスは君の兄貴分――だった天族。
中性的な見た目で、肩に届かないくらいの金髪には羽飾りが揺れている。風の天響術を使いこなす力はすごい。昔は自分を背負って森を歩いてくれた事もあったが、今は背も体格も自分の方が上だ。
「ごめん、マリアス。迎えに来てくれて助かった」
君が木々の間を抜けながら言うと、ため息混じりの声が返ってきた。
「成人しても僕に世話を妬かれるなんて先が思いやられるよ」
「大丈夫。マリアスは面倒見が良いからね、頼りにしてる。」
「ばっ、お前が一人じゃ危なっかしいから、仕方なく付き合ってるだけだ!…っわ!」
「おっと」
マリアスが地面を這う木の根に躓きそうになるのを、君が支える。
「誰が、一人じゃ危なっかしいって?」
「これは風のイタズラだ」
「お主ら、また言い合っておるのか?」
森の中からグウェンドリンが現れた。
16年前、君を森で拾った張本人でもある。
彼女は年齢不詳の風の天族で、村の長であり、みんなから先生と呼ばれている。長い銀髪を風になびかせて、白と、深い緑色の衣装を纏った彼女は、穏やかな様子で、淑女と言うにふさわしい。学問や医療の知識に長けていて、天響術の腕も良い。ただ1つ難点をあげると、酷い拾いグセがある。その故あって、君もマリアスも彼女に拾われた過去がある。
呆れたように笑うグウェンドリンの手には、傷付いた小動物が抱えられていた。また拾ってきたらしい。
「グウェン先生。
言い合ってないよ、マリアスと話してただけ」
ふん、マリアスがそっぽを向く。
君はグウェンドリンに抱えられた小動物に目をやった。
グウェンドリンはそんな自分たちを見て、仲が良いのは良い事だと呟いた。だが、その顔が少し寂しげになってこう続けた。
「この子は助けが必要だったから助けた。手当をすれば3日ほどで元いた場所に戻れるだろう。お主も、そろそろなのかもしれんな」
その言葉に、君は少し考え込んだ。
人間の世界へ戻る。グウェンドリンがこれまで、何度も口にしていた言葉だ。彼女はいつか、君を人間の世界に返す事を考えているようだ。その言葉を聞く度に、君は導師という存在を思い出す。導師とは、この世界の穢れを祓う者。霊能力の高い人間が、天族と契約を結ぶことでその力を得る事が出来るという。
グウェンドリンからその話を聞いて以来、君は、いつかここを去る時は、マリアスも連れていこうと考えていた。マリアスと契約を結び導師となれば、穢れに弱い天族も、下界で共に暮らせるのではと淡い期待を寄せていた。きっとマリアスも、自分が言えば承諾してくれる。どこかそんなふうに楽観視していた。そもそも、ここは自分の家で、みんなは家族だと思っている君は、この話に、あまり積極的にはなれなかった。
「契約はしない」
はっきりとした口調でマリアスは言い放った。
君は今、マリアスと焚き火を囲んでる。風が木々を揺らし、遠くで獣の鳴き声が聞こえる。マリアスの金髪が、焚き火で光で輝き、羽飾りが揺れる。
理由を問うと、彼は呆れた様子で答えた。
「グウェンの話をしっかり聞いてたなら知っているだろう。導師には使命が課せられる、契約の反動もある。それなりの覚悟もないまま、導師契約なんて結ぶものじゃないんだよ」
至極真っ当な意見に、君は己の考えの甘さを思い知った。しかし、彼は続けてこう言った。
「でもま、不安なのは分からなくもない。だから、君が下界で1人立ち出来るまで、僕が付き合うから、もうそんな顔をするな」
やはりマリアスは、君を放っておけないらしい。それを再認識して、君は安堵した。ひとり立ちするまで、というのもきっと、マリアスの照れ隠しだろう。なんだかんだうるさく言うが、彼はずっと自分のそばに変わらずに居てくれるつもりなのかもしれない。
しかし、自分と下界へ行くなら、彼の穢れの対策はどうするのだろうか。君が尋ねると、マリアスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「僕の力を見くびってもらったら困るな。僕は普通の天族じゃない。多少の穢れくらい、風で散らしてやるさ」
確かに、マリアスの天族としての力は、村の長であるグウェンドリンよりも高い。天族は長く生きれば、それなりの力を有する。グウェンドリンに保護された事実を含めると、マリアスはグウェンドリンよりもずっと若いはずだが…天族には謎が多い。
考え込んでいると、マリアスが君の顔を覗き込んで来た。
「お前、何考えてる?」
「どうしてマリアスは強いのかなーって」
「なんだよそれ、からかってるのか」
「自分でも不思議に思わない?その力は何のために存在してるのか、とか」
「うーん、あまり考えたことなかったな。腕や指を動かすのに理由なんていらないし」
「まあ、そうなんだけど、なんかへん」
「へんってなんだよ、へんって」
その時、静けさを破るように、風が急に強くなる。焚き火が激しく揺れて、森の奥から不気味な気配が漂う。
「なにか来る」
マリアスが立ち上がり周囲を警戒する。
君もすぐに剣を手に取った。
森から姿を現したのは、黒い霧のような影だった。憑魔だ。実物を見た事はないが、君は感覚的にそう思った。グウェンドリンから聞いた知識が頭をよぎる。人間や天族は憑魔を祓う事は出来ない。
影はゆっくりと人の形を形成する。
やがてその影から一人の男が姿を現した。
齢は30前後といったところか。くせ毛の黒髪から、赤く禍々しい瞳が覗く。杖やミトラを被っていることから、どこかの司教のようだ。祭服のような神聖な装いとは裏腹に、禍々しい雰囲気を纏っている。
男は君には目もくれず、マリアスを視界に収めると、ぱっと笑顔になった。
「ようやく見つけたよマリアス」
マリアスが身構える。
「誰だ」
「はぁ、釣れないねぇ
私は君が居なくなった日からずっと、ずっと、ずーっと、探していたっていうのに…
あ、そうか、地脈を巡っている際に、記憶障害が生じたんだね。可哀想に、私が教えてあげるよ。君の、過去を」
そう言い放った瞬間、黒い煙が瞬く間に周囲を取り囲んだ。君とマリアスは、まるで金縛りにでもあったかのように、体が硬直して動けない。男が自らの領域を展開したのだ。コツコツと靴音を鳴らしながら男がマリアスに歩み寄る。動けないマリアスの顎を、男が持ち上げた次の瞬間、マリアスが苦しそうな悲鳴を上げた。君は必死の思いで、剣を構えて男に飛びかかった。男はそれを容易に避けると、「君の帰りを待ってるよ」と言い残し、どこかへ消えていった。
ただ事では無い事が起きている。
君は混濁状態のマリアスと共に
グウェンドリンの元へ、事の次第を伝えに行った。
村に着くと、グウェンドリンが君たちの帰りを待ち構えていた。どうやらこの異変に彼女は、既に気付いているらしい。
「災禍の兆しかもしれんな」
君が遭遇したものや、自身の見識をすり合わせるなり、彼女はそう言った。
「数年前から、王都イルサニアのある方角から不吉な風が吹いておった。おそらく王都で災禍の顕主が生まれたのかもしれない。しかしその穢れが何故ここまでやってきた…」
君とグウェンドリンは、傍らで横になっているマリアスに目を落とした。すると、すでに意識がはっきりした様子のマリアスは、それに気付き目を逸らした。
君はマリアスに尋ねる。
「さっきの怪しい奴の事だけど、何か知ってるんだな?」
「…知らない。お前達には関係ない事だ」
マリアスは君たちと目を合わせないように、立ち上がると「君たちと過ごした時間は楽しかった」と短く言い残し、この場を去ろうとした。君が咄嗟にマリアスの真正面に立ちはだかると、マリアスの広大な砂漠の空みたいな色の瞳が大きく見開かれた。
「あいつの所に行くのか?それなら俺は絶対にそれを阻止する。俺たちは仲間だろ、ひとりで抱え込まないで話してくれよ、マリアス。
俺たちとの時間はこれからもずっと続いていく、そうだろ?」
君の真剣な眼差しにマリアスは目が離せない。グウェンドリンも、横からマリアスの肩にそっと手を置く。マリアスは観念した様子で身を引いた
「君に説き伏せられる日が来るなんて、思ってもみなかったよ」
そしてマリアスは語った。これまで忘れていた己の過去を。マリアスは語った。自分にはある目的がある事を。
これは、今からおよそ500年前の出来事である。
当時、マリアスはイルサニア王国を守護する加護天族だった。その加護は、自らを土地に縛り付け、未来永劫イルサニアに安寧をもたらす、という誓約をかけて行ったものだった。
その甲斐あって、イルサニアはとても豊かな国として栄えていった。マリアスはイルサニアの地下深くにある遺構の底で、それを感じていた。
ある日の事だった。だらしのない身なりの男が、イルサニアの地下遺構の入口を発見した。彼の名前はロベルト・スタンレー。彼は遺構の底で眠るマリアスを発見すると、その力を利用して、天響術のような力を得る事に成功した。
彼はその後、マリアスから得た力を神力として民衆に披露し、瞬く間にイルサニアの大司教の地位まで上り詰めた。彼こそが街の穢れの根源であり、現災禍の顕主である。
マリアスは、彼の産む穢れに蝕まれながらも、自身の中身だけを地脈に逃し、ゆっくりと時間をかけて、このイーリスの付近で最発現した。
ロベルトを止めるためには、自由に動ける新たな体が必要だったからだ。
マリアスは大きなため息をひとつこぼした。
「僕としたことが、こんな大事なことを忘れていたなんて、クソ!僕がのうのうとしている間に、あの男は災禍の顕主にまでなってしまった。…さあ、これでわかったろ。僕にはあいつをどうにかする責任があるんだ。僕を行かせてくれ」
「お前が行くなら、俺も行く。それがダメなら行かせない」
君の言葉にマリアスはますます苛立ちを見せる。
「そうだな、こやつが1人立ちするまで付き合うと言っていたのは、お主なのだからな」
「なんだよ、二人して…、って、グウェン、お前、盗み聞きしたな!」
「風のイタズラだ」
グウェンとマリアスがじゃれあっている。
これまで幾度となく目にしてきてた、日常の風景。
君はそれらを、守りたいと心の底から思った。
「こんなの連れて行くわけないだろ、足でまいとになるだけだ」
「そうかもしれない。だからマリアス、俺と導師契約をしてくれないか。さっきは断られたけど、これは本気の提案だ。」
その言葉に二人は、はっと息を飲んだ。
問われたマリアスの頬に汗が伝う。
「嫌だと言ったら?」
「じゃあ聞くけど、相手が災禍の顕主なら、浄化の力なしでどうやって戦うつもりなんだ。君の力は確かに強いかもしれないが、天響術だけじゃ穢れの根本を絶つことは出来ない。それが分からないお前じゃないはずだ。それとも俺と契約するのが、嫌…なのか?」
マリアスは拳にぎゅっと力を入れ、絞り出すように言った。
「ああ、そうだ。なんで寄りにもよってお前なんだ。最悪だよ。一番巻き込みたくない奴を、巻き込まなくちゃいけないなんて。僕は、僕は自分が情けない。」
マリアスの紛れもない本心に、君は胸が締め付けられる。けれど、それはきっとマリアスも同じなのだと思うと、どうしようもなく嬉しくなる。
「さっき俺に、覚悟もないまま、導師契約なんてするものじゃないって言ったよね。あの時は確かにそうだと思ったけど、今はちょっと違う。もし俺に出来ることがあって、マリアスや皆の力になれるなら、俺はその道を選びたい。」
旅の初日は静かだった。
グウェンドリンや他の天族達に見送られながら、君は山を下る。その傍らで金色の髪と緑色の羽飾りが風に揺れる。朝焼けが導師の出で立ちを照らし始める。森をぬけて丘に出ると、広大な大地のその向こうに、君たちが目指すイルサニアの城壁が見えた。