鋼の心臓 ──自分の心臓は、鋼でできているのだと思っていた。
鋼の心臓
昔々あるところに、ジョンという名の少年がいました。ジョンは体が大きくて力が強い子どもでしたが、ジョンの願いはもっと強くなることでした。
ある日、ジョンは旅人からなんでも願いを叶えてくれる泉の話を聞きました。ジョンはさっそく泉へ行ってみました。
「おーい、泉! 俺の願いを叶えてくれ!」
ジョンが声をかけると、美しい泉の精が現れました。
「あなたの願いはなんでしょう」
「もっと強くなりたい!」
ジョンが答えると、泉の精は頷きました。
「では、あなたに強い心臓を授けましょう。打たれることで強くなり、やがて鋼の心臓になります」
「やったあ! ありがとう!」
泉の精は続けて言いました。
「あなたは鋼の心臓を、あなたの望みのために使わなければいけませんよ」
ジョンは首を傾げながら泉を後にしました。
◇
「チッ」
たった一つの舌打ちで、サイファーの目の前がさっとひらけた。バラム・ガーデンの廊下は広く道行く生徒や教師がぶつかることはまずないが、触らぬ神に祟りなしとばかりにみなサイファーを避けて通る。
「あ、サイファー」
そんなサイファーの背中に声がかかった。サイファーがおもむろに振り向くと、サイファーの幼馴染の一人であるセルフィが大きく手を振っていた。
「どうしたの〜? すっごい不機嫌そう!」
「チキンのやつが見つかんねぇんだよ」
サイファーの言葉に、ああ、とセルフィが頷いた。
「ゼルなら図書室だよ〜」
「図書室?」
サイファーの疑問にセルフィが答える。
「キスティスがね〜、朗読会に欠員が出たから手伝ってくれって引っ張っていってた〜」
「朗読会……ガキども向けのか」
「そ〜、クリスマス朗読会!」
バラム・ガーデンではクリスマスのこの時期、帰省しない・できない年少部の生徒のために図書室で朗読会を開催するのだ。今年はキスティスが実行委員会の担当教諭になっていた。
「ちょうど行くところだから一緒に行く〜?」
「ああ」
素直に頷いたサイファーに、セルフィは少しだけ驚いた顔をした。
「なんだ」
「ううん〜。雷神と風神は一緒じゃないんだ〜?」
「アイツらは買い出した。明日風紀委員のクリスマスパーティーだからな」
「そっか〜」
駐車場入り口前にいた二人はすぐに図書室に着いた。いつもと違ってクリスマスの飾り付けをされている入り口を通り、奥の学習スペースへと向かう。学習スペースでは学習用の椅子が撤去され、広くなった床に赤い絨毯がしかれていた。その奥に、椅子に座ったチキン、あるいはサイファーの恋人、ゼルの姿があった。
──
それからジョンは、仲の悪い友達と喧嘩したり、嫌いな先生を言いこめたり、周りの子どもたちを脅したりしました。そのたびに心臓は燃えるように熱くなり、どんどん強くなりました。
「よしよし、もう少しだ」
──
「なつかし〜」
サイファーの隣に立つセルフィが、朗読を邪魔しないくらいの声で囁いた。
「石の家にあったんだよ〜、あの絵本」
「……知ってる」
サイファーの答えにセルフィがぐいとサイファーを仰ぎみた。
「覚えてるん?」
「読んでたからな」
声が大きくなったセルフィに唇の前で人差し指を立ててやると、セルフィは慌てて手で自分の口を塞いだ。
──
そしてついに、ジョンの心臓は鋼の心臓になりました。
「ひどいわ、ジョン。どうしてそんないじわるなことを言うの」
ジョンが思いを寄せている美しい少女、ジェーン。ジェーンは、ちかごろのジョンの横暴な振る舞いをたしなめました。けれどジョンはジェーンの言うことを認められず、みんなの前で泣かせてしまったのです。
「ふん、お前なんか知らない!」
こうして、誰よりも強い心臓を手に入れたジョンでしたが、周りからは誰もいなくなってしまいました。
──
「サイファー、絵本なんて読んでたん?」
驚きのあまり口調が素に戻っている。サイファーはそれを気に止めることなく無視した。
「なあなあ」
どうしても気になるらしいセルフィがサイファーのコートの袖を引く。サイファーはそれを振り払いながら短く答えた。
「悪いか」
「いや? 小さい子らしいところがあったんやなぁて思うただけや」
セルフィの視線がゼルに戻った。ゼルは二人に気づいているのかいないのか、いつもよりうんと落ち着いた声で子どもたちに絵本を読み聞かせていた。
──
ジョンはずいぶんと孤独でした。そんななか、事件が起こりました。森の恐ろしい蛇が、ジェーンをさらいに町へやって来たのです。
「やめろー!」
ジョンはジェーンに襲い掛かろうとする蛇の前に立ち塞がりました。
「ふん、お前なんて、わたしの牙にかかればいちころだ!」
蛇はジョンの心臓にその牙を突き立てました。しかし、ジョンの心臓は鋼だったので、蛇の牙がぼきんと折れてしまいました。蛇は驚いて森に逃げ帰りました。
「ジョン!」
倒れたジョンにジェーンが駆け寄ります。ジョンの鋼の心臓には、大きな穴が空いていました。ジョンは息も絶え絶えに、ジェーンの手を握りました。
「無事でよかった」
──
石の家の暴れん坊だったサイファーは、隙あらばテレビを独占し、魔女の騎士の映画のビデオを繰り返し観ていた。しかしどうしてもテレビ権を獲得できないことだってあった。そんなとき、サイファーはみんなが夢中でテレビを観ている間、こっそり絵本を読んでいたのだ。だからセルフィが知らないのも無理はない。
今ゼルが読んでいる『鋼の心臓』という絵本は、サイファーが繰り返し読んだ絵本の一つだった。けれど、サイファーはこの絵本のことが好きなわけではなかった。どちらかというと主人公のジョンを嫌っていた。騎士を目指していたサイファーにとって、ジョンは自分のやりたいことに気づけない愚かな少年だった。バカなやつ、と思いながら、それでもどこか惹かれて何度も表紙を開いた。
──
ジョンの心臓が止まる寸前、ジョンは思い出しました。ジョンが強くなりたかったのは、大好きなジェーンを守りたかったからでした。自分の命と引き換えにジェーンを守れたことを、ジョンは誇らしく思いました。
「ジョン」
ジョンがまぶたを閉じたとき、ジョンを呼ぶ声がありました。
「あなたはちゃんと自分の望みのために鋼の心臓を使いました。あなたの心臓を元に戻してあげましょう」
ジョンの心臓がふたたび動き始めました。ジョンはまぶたを開きました。
「ジョン!」
涙でいっぱいのジェーンの顔が見えます。ジョンはジェーンを泣き止ませようと笑いました。ジェーンの涙がたくさん落ちたジョンの胸の内側で、すっかり鋼でなくなった心臓がどくどくと強く打っていました。
──
どうしてあんなにこの絵本が気になったのか、今ならわかる。ジョンはサイファーに似ていた。大切なのに、守りたいのに、素直になれない。いつも泣かせて、怖がらせてしまう。ジョンに自分を重ねていたから、サイファーはこの絵本が嫌いだった。嫌いだけれど、無視することはできなかった。自分もいつかは、と期待していたから。
「お、サイファー!」
絵本を読み終えたゼルがサイファーに気づいて手を振った。子どもたちの視線がいっせいにサイファーに向く。少しの居心地の悪さをサイファーは覚えた。
「キスティ! もう行っていい?」
「ええ、ありがとう、ゼル。ごめんなさいね、サイファー。予定があったでしょうに」
「別に構わねぇ」
子どもたちの外側を回ってゼルがサイファーの元へたどり着いた。サイファーが図書室を出ようと踵を返すと、ゼルがなにかを思い出したように声をあげた。
「あ、そうだ。風紀委員長、今日が誕生日なんだぜ!」
は? とサイファーが振り向くと、相変わらずたくさんの視線がサイファーに集まっている。しかしその視線はどこかキラキラしていた。
「ホント? おたんじょうびおめでとー、いいんちょう!」
「おめでとー」
「おめでとうございます」
たくさんの祝福の言葉を受け、サイファーは思わず後ずさった。横には子どもたちと同じようにキラキラした瞳の恋人。
「……ありがとな」
それだけ言うのが精一杯で、サイファーは足早に図書室を出た。ニヤニヤしているセルフィの姿を目の端に捉えた気がしたが、気のせいだったことにする。タタタッと軽い足音がサイファーに追いついてきた。
「速いって」
「テメェが余計なことするからだろうが」
サイファーの言葉にゼルがぱちりとまたたいた。
「余計じゃなくていいことだろ! せっかくの誕生日なんだ、祝われるのは多い方がいいに決まってる!」
間違いないというふうに胸を張る恋人。サイファーはその姿に呆れたため息をついた。
「テメェはどう考えてもジェーンじゃねぇな」
「ん? なんの話?」
「なんでもねぇよ。オラ、さっさと出ねぇと遅れるぞ」
今日はゼルがサイファーの誕生日を祝うためにバラムのレストランに行くのだ。やっと約束の時間ギリギリであることに気づいたか、ゼルが隣で焦りだす。
「やっべ! 予約間に合う!?」
「車にするか?」
「それじゃ酒飲めねぇだろ! 走ろうぜ!」
言うが早いか走り出した恋人の後を追いながら、サイファーはぼんやり考えた。サイファーにとってのジェーンは、小さな頃からゼルだった。サイファーはジョンと同じようにやり方を間違えて、ジョンと同じようにゼルを失い、そして最後にはゼルを手に入れた。鋼の心臓を捧げたわけでもないのに。どうしてだろう。
「そういやさ」
全力疾走していたゼルが、突然サイファーに話しかけた。
「さっきの絵本の主人公、読んでて最初はあんたに似てるって思ったんだ」
「……そうか?」
なんとなく誤魔化したサイファーにゼルは続けた。
「強くなりたがってたとこがさ。でも、最後まで読んだら全然違ったわ」
ゼルの感想が意外でサイファーは思わず足を止めそうになった。
「あんたは強くなるために誰かに頼ったりしなかったもんな。そんで、盛大に間違えまくった結果、ちゃんと頭下げて戻って来たじゃん」
魔女戦後、ガーデンに戻らずふらふらしていたサイファーたちを発見したのはスコールだった。これも運命とサイファーたちはシド学園長に頭を下げ、裁判を受け、バラム・ガーデンに戻ってきた。そして今、三人ともSeeDとして働いている。
「俺はジェーンじゃねーからさ、もしあんたが魔女のために命を差し出してたら、助けらんなかったかなーとか思ったりした」
サイファーではなくゼルが足を止めた。つられてサイファーも足を止めた。
「ありがとな。帰って来てくれて。誕生日、祝わせてくれて」
青い海の目がサイファーを見上げる。サイファーは思わずその体を抱きこんだ。
「……こっちのセリフだ、馬鹿野郎」
ゼファーでもジェーンでもない、ほかでもないゼルを腕に抱きしめて、サイファーは己の幸運を感謝した。サイファーを諦めなかったゼルに感謝した。
「さ、行こうぜ! マジで間に合わねぇ」
腕を叩かれてしぶしぶ放す。そんなサイファーに呆れたようなゼルは、背伸びしてサイファーの顎に小さなキスを一つプレゼントし、また全力疾走を始めた。