ぱしん。
「……あ」
差し伸べられた手を思わず振り払ってから、しまった、と思った。瞬間、しんと沈黙が落ちる。
「えっと……自分で、立てますから。お構いなく」
「……そーかよ」
小さく低く呟いた山田さんが、その手をすっと引っ込める気配がした。このひとは今いったいどんな顔をしているだろうか、もちろん気にはなるけれど確認する余裕など持ち合わせていない。僕はマット上に視線を落としたまま、気まずさを振り切るように勢いよく立ち上がった。何事もなかったふりをして、すたすたと自陣へ帰る。助け起こそうとしてくれた山田さんと、目を合わせることさえなく。——ああ、やってしまった。攻撃失敗の悔しさから悪態をついたようにでも見えていたらいいけれど——今のはたぶん、側から見ても不自然な態度だったに違いない。
「もう一本!」
山田さんの鋭い声が体育館の天井に反響する。心なしか、苛立っているような声色だった。
コートのミッドラインに沿って爪先を揃えれば、ふたたび僕の攻撃練習の始まりだ。次こそは、うかうか捕まるようなヘマはするもんか。必ず立ったまま帰陣してやる。そもそも僕というプレイヤーは、マットに叩きつけられるなんて極力避けたい性分なのだ。だって痛いから。
——びたん!
ついさっき威勢よくリベンジを誓ったくせに、僕はまたもやマットの感触を全身で味わってしまっていた。
「三点獲得!」
審判役の二年生の声が耳に届く。倒されはしたものの、今度はこの指先でしっかり得点を持ち帰ることに成功したようだ。小さな高揚感に包まれつつも、やっぱり痛いものは痛い。顔を顰めながら立ち上がろうとしたそのとき、僕の正面にさっと回り込むひとつの気配があった。
「どしたよ冬居、今日はらしくねーな。コロコロ転がっちまってさ」
思わずぱっと顔を上げれば、差し伸べられる手がふたたびそこにあった。軽くしゃがんで僕を覗き込む彼と、まっすぐに視線が交わる。その目はやっぱり腹立たしいくらい普段通りの色をしていて、僕ばかりが意識している現状が途端に馬鹿らしく思えてきてしまう。冷静さを取り戻し始めた判断力が、「この手を取ったって僕は動揺せずにいられるはずだ」と、頭の片隅で囁いた。
「……今のはちゃんと、点獲って帰ったでしょ。さっきと一緒にしないでくださいよ」
「わーってるって。ナイスレイド」
目の前に浮かぶ手のひらに触れ、ぎゅっと握る。転んだ僕を幾度となく引っ張り上げてくれた、頼もしい手のひらを。——ああよかった、やっぱり大丈夫みたいだ。数分前、この手を振り払ってしまう直前に頭を過ったようなことは起こらなかったじゃないか。——昨夜の甘い感触を、上がりゆく体温を、あの時間のできごとを今この場で生々しく思い出してしまったらどうしよう、だなんて。安堵の溜め息が自然と漏れる。いつものこととは言え、少し考えすぎだったようだ。
「どこも痛めてねーか?」
「平気です。全然」
握り合う右手に伝わる温度からは、いっそ清々しいほどに特別なところなど見つからない。必死に縋ったり、時にはためらうように押し返したり、しまいには夢中で求めてきたりして——彼が散々僕に刻み込んだあの「熱」は、とっくに冷め切ってしまったらしい。素肌を激しく掴んできた手のひらの感触を、ぎゅっと食い込む指先の強さを、この身体はまだありありと覚えているというのに。
「よっ、と」
力強い腕が僕をぐんと引っ張り上げる。上半身を引き起こされるその勢いのまま、つんのめるようにトトッと数歩、前方へ足が出た。すると山田さんとの距離がぐっと近づき、彼の体温をすぐそばに感じた途端——ほんの少し、悪戯心が顔を出した。
ちょうど僕の唇の高さにある右耳に、そうっと耳打ちをする。周りから見ても不自然でない程度の、「幼馴染み」の距離で。
「……駿君も、平気そうでよかった」
まだ握ったままの手をわずかにスライドさせ、彼の手首の内側を中指の先でくるりとひと撫でする。瞬間、びくりと筋肉の強張る反応。それを感じてからすぐさま手を解放した僕は、その後の様子を確かめることなく、自陣の半ばまで駆け戻った。軽く屈伸をして、脚も腕も頭も問題なく働いていることを確認する。——駿君、今、どんな顔してるんだろ。帰りに叱られるかもなあ、自業自得だからちっとも構わないけど。
今のちょっかいを彼がどう受け取ったか、それを僕が知るのはまだ少し先のことだけれど——「もう一本!」と背後から飛んできた声は、僕にしかわからない程度に、けれど確かに揺らいでいたのだった。