マナ石とレノックス かつて仲間の姿をしていたその石を、レノックスは袋に入れて持ち歩いている。
皆口々に『死んだら食べてほしい』と願っていた。その気持ちもわかる。そう簡単に命を落とすつもりはないのだけれど、レノックスだってそう願うだろう。だが、マナ石を食べるということがうまく想像できなかった。想像できなくとも実践してみればよかったのだろうが、なんとなく、で口にしていいものとも思えず、かといってどこかにしまっておくこともしてくなくて、炭坑夫をしていた頃から身に馴染んでいる、質量と大きさを変える魔法を使って小さく、軽く、一見マナ石にも見えないような小石にしたそれを、腰に下げた革袋に溜め込んでいる。
だから、それを叶えてやれていないのは、自分が薄情だからだろうかと考えたこともあった。誰よりもそれを食べられることを望まれ、そして叶えてきたレノックスの主人であるファウストにそう、こぼしたこともある。
そのとき、ファウストは上背のあるレノックスを見上げ、その菫色の目が、強い光を宿し、まっすぐレノックスの目を捉えていったのだ。
「レノックスがそうしたいなら、それでいい」
食べて己の一部にする、肌身は出さず持っている。同じことだと。
そう思っていたから、誰になんと思われようと言われようと(言われたことはなかったが)関係ないとはわかっていたけれど、それをまた、外側から、ファウストから、言葉をもって伝えられると、胸のつかえが取れるようであった。
「はい」
「それなりにあるだろう、重たくないのか?」
レノックスが腰に下げている革袋を開けてみせると、朽葉色の髪をゆらしたファウストが袋の中を覗き込む。
「重さや大きさを変える魔法は得意なんです。以前、炭鉱でよくやっていたので」
「そうか、それいいな。今度、僕にも教えてくれないか」
革袋の中に向けられていた菫色が、不意に先ほどとは違う輝きを宿してレノックスを捉える。興味と好奇心、指導者であるときとは異なる年相応の輝きだ。
「ファウスト様にお教えできるようなものではないのですが」
言い淀めば、ファウストは少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。仲間達の前では、実年齢がわからなくなるほどに凛としている彼だけれど、アレクとレノックスの前では年相応の姿を見せることが多い。
「でも僕はそのやり方を知らないから。知りたい」
「……そうおっしゃるなら」
まっすぐに請われれば断ることは容易ではない。押しにも弱い方だと思うけれど、押しも強いのである。うん、よろしく。目を細めて微笑んだファウストの朽葉色の髪が、風にまかれて揺れるさまを、そのときの思い出とともに覚えていた。
火に炙られて揺れる朽葉色の髪を見た時、レノックスの頭の中が真っ赤に染まった。
その後のことはよく覚えていない。ただ無我夢中で人間と炎の中から、ファウストを連れ出すことだけを目的として動いた自分が何をしたのかはわからなかった。
背にかかる重みと熱さすら感じる温もりに、まだ、レノックスの主人が砕けてはいないのだとわかる。それだけが、魔力も体力も使い尽くしかけているレノックスの足を動かす原動力だった。
今行ける範囲で、できるだけ安全な場所へ。箒で飛ぶよりも、走りながら背負ったファウストへ治癒魔法をかけ続けることを選んだのは、その身を焼く炎の中から連れ出したはいいが容体をきちんと確認できておらず、けれど決して軽い怪我ではないことだけ理解していたから。飛んだ方が早いけれど、いまの状況を鑑みればその方が目立つ。森の中、山の中、人間にとって踏み込みにくい地上を通っていく方がいい。
継続した治癒魔法なんて使ったことはなかった。けれども、いまはそんなことも言っていられない。おそらく魔力を無駄にしている部分もあるだろうが、それでもできることをやらないわけにはいかなかった。
走り続けるための自身の身体への強化魔法は、幸いにも得意分野で、身に馴染んでいる。つい魔法を使うことを忘れて飛び出すレノックスに、北の大魔法使いの元での修行を終え、多くの知識を得て軍に戻ったファウストが、質量や大きさを変える魔法の礼だと教えてくれたものだった。
『かけつづけるものより、ある程度の時間や回数を絞って一度かけたらそれを使い果たすまで、という方法がレノックスには合っていると思う』
目を細めて微笑んだ、その姿だって忘れることはない。目頭が熱くなるのは、限界を超えて悲鳴をあげる身体と心のせいか、それとも込み上げる感情のせいか。どうして、なぜ。いや、いまはそんなことよりなによりも、この方をできるだけ安らぐことのできる場所へ。背中の上が身体にいいとも思えない。早く安静に。
どうにかたどり着いた人の踏み入る気配のない山中に、いつから使われていないのかわからない辛うじて形を保っている小屋があった。
最低限整えた寝台のようなものの上に、ファウストの体をおろす。うつ伏せがいいのか、仰向けがいいのか、横向きがいいのか、それもわからないから、ひとまず仰向けに。くるんだ布を広げれば、人の肉が焼けた匂いが鼻についた。こんなこと、どうしてできるんだ。
足元から這い上がった炎が主に焼いていたのは下半身だった。鎮痛の魔法をかけながら、張り付いた衣服だった布を慎重に剥がす。意識はなくとも痛みにうめくファウストの声が辛い。死の笛なんかよりずっと心を掻き乱す。もっと安らかに、朗らかに、笑っているのが似合うひとなのに。
薬草と魔法を使った消毒も下半身を終えた時点でうまく使えなくなった。発動しないのだ。せめてもと手のひらに出したシュガーは形にならなず、欠片ともいえないものしか生成できなかった。寒くもないのになぜか指先が冷えてかじかみ、うまく動かすことができない。レノックス自身も限界が近いのである。
せめて濡らした手拭いで身を清めるだけでもと思うも、遠くに水音がするから小川か何かありそうではあるが、水を汲みに行っている間に命が尽きてしまったら、そう思うとそばを離れることが恐ろしかった。
小さな口が細く荒い呼吸を繰り返す。まだ生きておられる。たくさんの祝福が、彼を生かそうとする力が働いているのが分かる。自分のように追手からは逃れたけれど処刑を止めたくてあの場にいたものたちだろうか。彼らが自分達が逃げるのを手伝ってくれたのかもしれない。ともに処刑台にいた魔法使いたちからのものもあるだろうか。ああ彼らを助けるまでに至れなかった。なにもかも足りなかった。あの晩、ファウストを説得できていれば。
いや、悔やんでいる場合ではない。なにか、魔力と体力を回復できるなにか。
とうとう膝をついていることも辛くなったレノックスが床のような場所に腰を下ろした拍子に、何かが腰骨をたたき、床にあたった。緩慢な動きで目線をやれば、肌身離さず持ち歩いているマナ石の入った革袋がそこにある。
開いて中を見る。入っているものは入れた時のまま変わりなく、そこにあった。不思議と魅入られる色合いの、光もないのにほのかに輝く石。それをひとつつまみあげて、じっと見つめた。ずっと食べなかった、食べられなかった、そういう想像ができなかった。けれど、いま、と口に入れてみる。口の中で溶けて、広がる。じわり、と身体に熱が戻るのがわかった。
食べて力にする、ということがうまく自分の中で結びつかず手元に残していた仲間達の命、このマナ石なら。
レノックスは躊躇いなく革袋の中身のまたひとつをつまみあげ、そして、呼吸のためにわずかに開かれたファウストの口の中へと押し込んだのだった。
みんな、どうかファウスト様を助けてくれ。