【フィファ】フィガロの動く城(書きたいとこだけ)フィガロの動く城(書きたいとこだけ)
「ああ、いたいた。探したよ」
どこからか、この場ににつかわしくない滑らかで穏やかな声が聞こえると同時に、死角から伸びてきた腕がファウストの眼前で揺れる。鮮やかな緑の上等そうな服の袖、金の繊細な装飾品で飾られた手首、その先にある節ばった手がゆらり。人差し指の根元にはめられたこれまた金の指輪の石の赤さが印象的だった。
「さあ、行こうか」
いまにもこちらの腕を掴まんとしていた衛兵もどきとファウストの間に身を滑り込ませてきた存在が、不思議な力か、それともただ突然現れることで与えた驚愕からかで彼らの動きを止める。
風もないのに柔らかく揺れる薄群青の髪。身長はファウストよりも高く、すこしだけ見上げる格好になる。踊るように男がファウストに向かって振り返ると、服の裾が緩やかに広がった。曇り空のような無彩色の中に若葉色の煌めきを持った不思議な色合いの目を細め、これまた場に似つかわしくない笑みを浮かべた彼は、衛兵のことなどどうでもいいことのように、ファウストだけを見て、手を差し伸べてくる。
お手をどうぞ、ということらしい。
ちょっとばかり面倒臭い状況への助け舟ではあるけれど怪しすぎるだろう。ファウストは、妹に贈る帽子の入った箱を胸の前で抱えたまま、目の前に差し出された指先を見つめるだけで、その手を取ろうとはしなかった。
自宅である帽子屋から、妹の働くこの街で有名な菓子屋に向かうだけだったはずだ。彼女に似合いそうな、春らしい造花を使った髪飾りができたから。
人混みは苦手なので、フェスティバルの参加者でごった返す大通りを避け、裏道を使った。妹の働く店に向かって使い慣れた薄暗い道を進んでいたところ、そこで休憩していた衛兵と目があったとて、軽く会釈をして通り過ぎればなんでもないことのはずだった。
こんな道を急いでどこにいく。その手に持っている物はなんだ。なんて言いがかりをつけれたのはおそらく、彼らが本来の休憩ではなく、自主的に休憩を取っていたところにでくわしてしまったからだろう。
ただの帽子屋です。急いでいるので、と歩みを早めてみたものの、やはりといっていいのか態度が気に入らないとしつこく追ってきたので、仕方なく立ち止まり眉を顰めていたときに現れた男。
それもどこかの物陰からではない。上から。屋根の上か、どこかの家の窓からなのか、それとも空からか。そのどこからだとしても、まるで風に煽られた花びらが地に落ちる時のように重さを感じさせない軽やかさは、だたの人間ではないとわかる。
この状況だけ並べれば、無害そうな笑みを浮かべているが目の前の彼とて、まともに取り合っていい相手ではないとわかる。
「おい!」
我に返ったのか衛兵が鋭い声を上げた。
「ほらはやくこっちだよ」
ファウストの手をとったのは、笑みを浮かべたままの彼だった。右手を取られて帽子の入った箱がバランスを崩す。けれどもそれは、手の中から溢れて落ちることはなかった。落ちかけたのは一瞬で、いまは何かに支えられているかのようにファウストの左腕の中にしっかりと収まっている。
ファウストの手を握った少しだけ体温が低い手に、軽い力で引かれた。それだけなのに、ふわりと足元から地面を踏んでいる感覚が軽くなる。
「歩いて」
なにかの力に促されているのか、勝手に右足が前に出た。彼と並んだところで、そっと背中を押される。そこから更に一歩しか進んでいないはずなのに、さきほどまでいた裏道とは違う景色が視界に広がった。
一歩が一歩ではない、いつもファウストが一歩と認識しているものと移動距離がまったく釣り合わない。
「蹴って」
なにもない足元に生まれたなにか、踏み台を強く踏んで蹴りあがれば、体が浮いた。夢の中のような浮遊感、ゆったりと階段を上がるようにあちこち蹴って気がつけば、ファウストは街を見下ろしていた。
煉瓦色の屋根、白い壁、灰色の石畳、色とりどりに着飾った人々の姿。それらが足元のはるか下にある。見上げれば空の方が近いような気がした。
「なんだ、これ!」
「あはは、楽しいね」
そう、上手だよ。隣で楽しげな笑い声が聞こえ、ずっと握られたままの手のひらがじわじわと暖かさを感じる。隣を見れば、不思議な色の目がこちらを向いていた。煌く瞳のその中にある喜びの色の意味がわからない。
空を飛んている高揚感よりも戸惑いの方が大きい。
「お、おろせ!」
「もうすこし、目的地はあそこでしょ?」
スキップしてみようか? と彼が手を握る力を少し強くした。足を下ろした先にある、見えない足場を踏んでいると自然とステップを踏む形になる。見えない足場はしっかりしているようだけれど、いかんせん見えないものだから心もとなく、落下を想像する恐怖心にバランスが崩れた。
箱を抱いて腕が開きそうになる。ここからそれを落とすわけにはいかないと、慌てるファウストをよそに、箱はひとりでに浮き上がった。ファウストのそばの空中を漂いながらついてくる。そうして空いた左手を、すかさず彼にとられた。はからずも、両手を握り合って向かい合い円を作りくるくるとまわる。
なんだんだ。ともう一度声に出すまえに、ぐっと引き寄せられた。真正面、すぐ近くに彼の顔がある。状況が状況であったので気づかなかったが、よく見れば、彼はひどく端正な顔立ちをしていた。人の美醜にそれほど興味のないファウストから見ても、美しいとわかるかたち。
でもやはり、なによりもその目が印象的で。どんよりと重たい曇り空ではなく、冬のしんとした静かで空の上の方にある雲の色。その中央に煌めく、春の訪れを告げる若葉色。そこにただよう底知れないなにか。
言葉を忘れて見入っているうちに、宙を浮いていた歩みが下降を始める。縁を描くように向き合っていた体勢から、ファウストだけがくるりと回って、背後の彼に背中を預けるような格好だ。鼻腔をくすぐるのは、冷たい薬品のようなもののなかに、暖かい草木を感じる涼しげな香り。
下降の速度は、舞い上がる時よりもひどく緩やかだった。思わず足元を見る。視界の端、すぐそばで薄群青の髪ががふわふわと揺れていた。
「なんなんだ……」
「楽しんで。ああ、ほら、ここでしょ」
楽しげなままの彼は浮いたまま、ファウストだけが見慣れたベランダに足をつく。ふわふわと浮きながらついてきた帽子の入った箱が、最後にファウストの両手の上にそっと落ちた。ここは妹が住む、菓子屋の寮の部屋のベランダだ。階下には目的地であった店がある。
「それじゃあファウスト、気をつけて」
どうして僕の名前を知っている。と問いかけようとした瞬間、強い風が吹いた。反射的に両腕で箱を庇いながら目を閉じる。ふたたび開いた時には、現れた時と同じように忽然と、彼の姿はどこにもなかった。