アイドル巻き毛ちゃん的フィガファウの年末アイドル巻き毛ちゃん的フィガファウの年末
一番のサビが終わって間奏が流れる。このライブのために編曲された楽曲は、代表曲の一番と大サビを繋いで四曲メドレーの構成だ。
グループのメンバーそれぞれが主役や主要キャストとして出演、それに加えてグループで主題歌を担当という二つの大役を担った楽曲は、それぞれに色があり、そしてそれぞれに自分達はもちろん観客たちファンの心に思い出と記憶を残している。ライブの後半、ラストスパートにかけての起爆剤としてセットリストの中に組み込んだ。
間奏で踊りながら次の立ち位置へ移動していく。ステージ上、客席に向かって左側にヒースクリフ、右側にはスノウが入り、フィガロは横並びになったふたりからは一列半下がったその中心へ。フィガロの前、中央の少し下がった場所にファウストが入ってきた。
自分達の楽曲の中では激しいダンスナンバーに部類されるこの曲は、ファウストが出演したドラマの主題歌であった。それもあってこの後の大サビ前のDメロは彼のソロパートだ。
激しく鳴り響いていた音楽が次の盛り上がりを際立たせるために音を減らしていく。左右に広がるようにヒースクリフは左腕を少し広げて左下に、スノウは右腕を広げて右下に、顔をおとしてストップモーション。フィガロは正面をむいたまま、手を前に組んで視線を落とす。
客席に背を向ける形になったファウストの靴先が視界に入った。照明が弱まったのをいいことに、視線だけそろりとあげれば、緊張の面持ちの紫眼と目が合う。肩の力を抜くことが上手くない、真面目な彼。ソロパートの前は楽しみながら、興奮しながら、それでもいつも緊張を忘れない。
いってらっしゃい、頑張って。そんな気持ちを込めて微笑めば、彼が小さくうなづいたような気がした。
腹に響く重低音が二つ、最後の音が鳴り終わる前に、ファウストがくるりと身を翻す。
ターンする際に、裾が綺麗に広がるような素材とデザインにこだわっていたのは、ヒースクリフだった。薄いものより、少し厚手でもしっかりと空気の流れにのる素材をと、あれこれ試行錯誤していた姿を思い出す。濃紺で、裏地には艶やかな赤。裾が翻った時の美しさも知っている。
それもこれも全て一瞬、数秒にも満たないことだ。ライブの時間は瞬く間に過ぎていくのに、その最中の時間はひどくゆっくりと流れている。
ヘッドセットのマイクに指を添えながら、すっと息を吸ったのが、背中越しでもわかった。
彼だけを照らす光の中、声が伸びる、まっすぐ。そして広がる、音になって。旋律を奏でて言葉を紡ぐ、歌声が響いた。
この曲はこの瞬間が、フィガロは一番好きだった。ファウストが、一瞬だけれど自分だけを見る。その彼を送り出す。送り出した彼が中央をゆったりと進んでいく。ぞくぞくと這い上がるのは快感に似た感覚だった。
独占欲が満たされる瞬間にも似ていて、けれどもすこし違う気もする。ただ、アイドルとして、この場に立つ演者としては、あるまじきとも思える感情なのであろうことは理解していた。だが、それはひっそりフィガロの胸の内だけのことなので許して欲しいとも思う。
思ってしまうものは仕方ないのだし。
Dメロには振り付けはない。歌い上げるために動くファウストの指先が、宙を舞う。そして、大サビの振り付けのポジションにはいった。
フィガロも同じ形に体勢をつくる。考えなくても身体が覚えている、間違えることはない。歌いながら大股で二歩、進んで調整。中央から左側に少し場所を移したファウストと、スノウの間に滑り込み、四人一列に並んで歌い切ってから、次の曲のポジションに移動する。
重低音と激しいリズムのダンスナンバーから、明るくポップな曲へと変わっていく。視界の端で、ファウストがヒースクリフの肩に軽く触れたのが見えた。先ほどのファウストよりも緊張感を滲ませていたヒースクリフが、ぱっと笑顔になって、客席から歓声が上がる。
このあとは、トロッコに乗って中央のステージに移動しながら、ヒースクリフがメインの楽曲だ。
一番を歌いながら、ゆったり歩いて自分が乗るトロッコが待機している場所へと歩いていく。Bメロが終わるまでにつけばいいから余裕はある。けれども、時間配分を間違えて最後に走らずともいいように、ゆったりと歩みを進めた。
もちろん、間に合わないかもと焦ったふうに走る姿にも味があることも理解しているのだけれど。
***
フィガロが腰を痛めた。
痛めたといってもぎっくり腰だとか、ヘルニアだとかそういう動きを制限しなければ、というほどのものではない。
スノウが煽って、受け流していたフィガロが最後に流し切れなくなってバク転をした。本当に流し切れなかったのか、場の空気を読んだからなのかはファウストにはわからない。後者のような気はするけれど、数少ないフィガロの先輩であるスノウや、別グループに所属しているホワイトを前にすると彼の持つ余裕を剥ぎ取られるときがあるので。
それはファンも知っている一種のネタでもあったし、それはカメラもなくスタッフもいない場所でも同様なので、普段からの彼らの姿なのだろうとファウストは思っている。
今回はライブ中のMCでのこと。
昔のフィガロちゃんは可愛かったし、我らが教えるといろいろ必死でやってくれたよね。いまじゃこんなに可愛げがとんとなくちゃったって。いやいや、いまでも十分可愛いがのう。でも、アクロバットとかめっきりやらなくなっちゃったよね。
つらつらと立石に水の如く言葉を連ねるスノウに、フィガロも負けていなかった。
今も可愛いし、いつだって必死ですよ。ご存じでしょう。ねえみんな。ほら、ファンのみんなだってわかってますよ。アクロバットなんて昔もやってないでしょう。まあ側転バク転は仕込まれましたからね、ええ。誰にとはいいませんよ。もちろん。
煽るスノウに、普段テレビなどでは見せない毒気を隠さぬフィガロ。MC中に行われるファンの間でケンカコントと言われるやりとりは、ライブの人気コンテンツでもある。
そういうとき、ファウストとヒースクリフはふたりの間に入ることは滅多にない。下手に口を挟んで矛先がこちらに向いた場合、舌戦において強者であるスノウとフィガロには、どうしたって二人とも勝つことができない。
ならば放っておいてファンとのコミュニケーションに徹する。あるいは、ファウストとヒースクリフで別の話を始める等で対処することにしていた。初めの頃、ヒースクリフは止めるべきかどうするべきかとおろおろしていたけれど、最近は諦めて、また始まっちゃいましたね。と肩をすくめるだけになった。
あまりに収拾がつかないようなら、最終的にはファウストが止めに入る。マイクを通さず大きな声で一喝。
そういう予定調和のワンシーンだ。
今回はファウストが止めに入る前に、フィガロが、わかりましたそれならお見せしましょう。みんな、今日の俺の姿を目に焼き付けていってね。円盤には入れさせないよ。アクロバティックな動きもできるなんて知られて、アクションを求められるようになったら困るからね。フィガロ先生と、みんなとの秘密だ。
えー! と、はーい! と返事は二分されたけれど、画面にフィガロのウインクのアップが映し出されれば、それらはひとつの歓声になってまとまった。
ちなみに、フィガロ先生、というのはグループの冠番組内にある、なぜか保険医のような格好をしたフィガロが、歴史から生物、化学、世界情勢に至るまでのなにかしらを教えてくれるという『おしえて! フィガロ先生!』のコーナーからきている。
そんなこんなで、ハンドマイクをファウストに預け、ステージの端までいったフィガロが助走をつけて、一歩跳ね、床に手をついて側転からバク転へ、綺麗に回った。アクロバティックな動きをするフィガロを初めて見たファウストは思わず夢中で拍手したし、それは客席にいるファンと同じ心境だったろう。
格好いい! すごい!
客席に向かい、両手を上げて拍手と歓声を一身に受けて楽しげにしていた彼が、マイクを受け取りにファウストに近寄ってくる。ファウストの視線を受けてそこでようやく気恥ずかしげな色を見せた。
「きみも喜んでくれたようで、なにより」
マイクを通してそう言われて、はっと周囲を見回した。客席のファンたちが、一番近くに立っているヒースクリフが、微笑ましそうな視線を自分に向けていることに気づく。
「べ、べつに!」
クールでダーティなイメージで売っているのになんたることだ。慌てて否定することもおかしい気がして、ファウストはひとつ咳払いをして、表情を作り直した。
「まあ、成功してよかったんじゃないの」
ライブ中は意図がない限り眼鏡をかけていないのに、おもわず眼鏡をあげる仕草をしてしまう。フィガロが笑みを深くする理由がわからなくて、知りたくなくて外方を向いた。そうすると観客からはうまく角度をつけて身体で見えないようにしたマイクを持たないフィガロの左手が、彼の腰に添えられているのが見える。ファウストが見ていることに気づいたのか、フィガロが首を小さく傾げる。
「フィガロちゃんお見事でした! さすが我らの後輩じゃ。ところで、ヒースクリフはバク転できる〜?」
拍手をしながらスノウがヒースクリフに話を振ることでそちらに皆の意識が向いた。できるできなかったから練習した。別グループに所属している幼馴染はものすごく身体が軽くて云々とふたりが会話しているうちに、フィガロの腰に目をやって、彼の目を見ながら、痛めたのか? と口だけ動かせば、彼は小さく肩をすくめた。大丈夫、といいそうなフィガロを見る視線を強めれば、諦めたように肩を落とす。
すこしだけだよ。軽く捻ったか、筋肉が驚いたか、そのくらい。
そうか。ファウストはこの後に予定しているパフォーマンスを頭の中でさらう。フィガロとファウストのソロ曲は終わっている。MC明けはヒースクリフのソロ曲、そしてスノウのソロ。ラストスパートの四人での曲。ドラマ主題歌メドレーが激しめで、そのあとはラストにむけてみんなと手を振り合うような緩やかな曲。最後の挨拶があって、本編ラスト。アンコールはダンスナンバーだけれど、踊らずに皆を盛り上げるような演出になっている。
メドレーを越せれば大丈夫か。移動を少し軽くしてもらうか。ヒースのソロの時にスノウにも共有して、対策を考えなければ。
顎に手を当てて考え込んだファウストの頬をフィガロが引っ張った。大きな歓声があがり、両方に驚いたファウストが目を見開くと、フィガロが、めっというように笑っていた。
今考えるべきことではなかった。ファウストが自省していると、フィガロがまた笑って歩ファストの額をつつく。眉間に皺が寄ってるよ、と昔から何度も言われてきたことを思い出した。
「さて、そろそろみんなおしゃべりを聞き飽きた頃じゃないかな?ファウストなんて次の曲のこと考えてそわそわしはじめちゃったし」
マイク越しのフィガロの声が会場中に響く。客席からは、そんなことないよー! もっとしゃべってー! なんて声も聞こえるが、確かにMCにとっている時間は程よく過ぎていた。
「それじゃあみんな、後半戦もたのしんでいきましょうね!」
ヒースクリフが大きく客性に手を振り、そしてステージ裏にはけていく。ステージ上では歩いていた彼が、裏に入った瞬間に猛ダッシュして着替え場所へ向かう姿を見ながら、ファウストも客席に手を振りながらはけていった。
うしろでは、スノウとフィガロがマイクを通さずに何かしらの話をしているようなので、腰の話をしているのかもしれない。
自分の着替え場所に入ったファウスは、用意されている椅子に腰掛けながら小さく息を吐いた。いけない、本番中なのに、ステージの上なのに。
「心配しないで、ファウスト。俺は大丈夫だからね」
仕切りのカーテンの隙間から顔を覗かせたフィガロに言われて、頷くことしかできなかった。
***
お疲れ様。お疲れ様でした。送り出しのために道を開けてくれるスタッフ、このあとの作業に駆け出すスタッフたち、すれ違う人々に、挨拶と共に良いお年を、と付け足しながら荷物を持って駐車場に向かう。
手荷物はそれほど多くはない。汗だくのものをそのまま着用しているのが嫌なのでライブの後に替えた下着類と、タブレット端末、充電器。財布と鍵は上着のポケットに入れているから入っていない。最近人気のブランドのシンプルなレザーのボストンバッグにはもっと荷物が入るだろうに、そんなものしか入っていない。だというのにその鞄はいま隣を歩くファウストの手の中にある。
フィガロよりも所持品の多いファウストの鞄は、いつだったかフィガロが贈ったトートバッグだった。
「自分の鞄くらい持っても全然支障はないんだけどな。その鞄の軽さは君も実感してるでしょう?」
「負担は少しでもかからないほうがいい」
憮然とした、というよりも色々な欲目から可愛く見えてしまうので、むすっとした表情のファウストが前方に視線を向けたまま言う。
心配されるのは嬉しくて、けれども世話を焼かれることには慣れていなくてくすぐったい。口元は緩む、けれどもどう言う顔をしていたらいいのかわからなかった。
ライブに同行している鍼灸師の資格ももっているトレーナーによれば、フィガロの腰は軽い筋性腰痛。本番の自分の出番がない時にはアイシングし、本番後もしばし同じような治療を受け、湿布も貼ってもらっている。少し引っ掛かりを感じるくらいで、痛い方にひねらなければ痛みだって感じない。
今日のライブが終われば、年末年始の休みに入る。旅行などの予定も立てていないフィガロは家でのんびりと過ごす予定だ。仕事がなければ踊ることも、大きく動くこともほとんどない。安静にできるという点においては、いいタイミングだったのかもしれなかった。
痛みが引いたら入念にストレッチをするように言われた時には、いつの間にやらやってきたファウストも隣にいたので、自分が適当に済ませようものなら強制的にストレッチさせられるだろうなと予想できる。
そう、だってこれからの休みは彼と共に過ごすのだ。腰はちょっとばかり痛いけれど、鼻歌でも歌いたい気分である。
二人が住むマンションは同じなので、グループでの仕事の際には送迎車は同じであることが多い。今日の仕事はライブのみ。他に個別の仕事は入っていない。だから出発も同じ車であった。帰りも同様。マネージャーが搬入口に回していた車の後部座席に二人で乗り込む。
フィガロが運転席の後ろ、ファウストが助手席の後ろ。送迎車における定位置だが、ふたりで自家用車で出かける時も、それが運転席と助手席にはなるだけで同じ並びでもあった。
同じマンションに住んではいるものの、部屋が異なっているしフロアも違う。同居しているわけではない。ないけれど、自由に出入りできないわけではない。来客があってもまず立ち入らせることのない寝室には、自分の荷物や、彼の荷物置きっぱなしになっていたりもする。
今日はどちらの部屋になるだろうか。一度部屋に荷物を置きに戻るだろうか、それともどちらかの部屋でそのまま一緒にいられるだろうか。え、まさかフィガロの腰を気遣ったファストが、今夜は別々に、と言い出すだろうか。
いい意味でも悪い意味でもフィガロの予想だにしない言動をする。というよりは、フィガロの予想予測がまったく機能しない相手であるファウストが、何を考えどうするのか。これはもう考えても答えの出ないやつだ。どうかファウストが、別々に過ごすと言い出しませんようにと祈ることしかできない。
思わず天井を仰いだフィガロが座面に投げ出していた左手に、そっと何かが触れた。
手の甲を滑ったものが、中指の先を摘む。目線を落とした先には、フィガロの指をそっと弄ぶ指があった。
指先から腕、そして肩、首から顔へと視線をあげる。ステージ上のそれとはことなる感情を宿した紫眼がフィガロに向けられていた。
「痛むのか?」
そっと告げられた言葉。心配の滲む声に、フィガロは大慌てで首を振る。
「違うよ、ちょっと考え事。湿布も貼ってもらったし、いまは全然痛みは感じてないよ」
「そう?」
それならいいけど。おまえは自分の痛みを我慢するから。ファウストの指が、フィガロの指先をそっと撫でる。手を握ってくるわけでもなく、ただ、労わるような意図しかないであろうその動きに、じわりと熱を感じてしまうのは、自分がこの後の二人の時間に期待していたからだろうか。
「むりしないで」
「してない」
「うん」
手のひらが上になるようにひっくりかえして、フィガロの指をいじっていた彼の指を包む。抜け出そうともぞもぞ動いていたけれど、フィガロが離すつもりがないことを理解したのか、しばらくすれば大人しくなった。
心配しないでほしい。自分のことは自分が一番わかっているから。けれども、心配されることが嬉しい。
表情筋が弛んでいることは悟られているだろうか。顔を背けて隠すのも違う気がして、けれども彼の顔を見ることで、こちらもすべてを見られてしまうのもなんだか気恥ずかしい。正面、運転席の背中に顔を向けることで、平静を装ってみるものの、それもなんだかんだ筒抜けだろうか。
フィガロの予想の上をいくファウストだが、フィガロのことはよく見ていて時折痛いくらいの核心をつかれることがある。それで喧嘩になったこともある。いや、はじめは喧嘩なんてできなくて、いつも言葉を飲み込んでいた。そういうフィガロの反応を見たファウストも言葉を飲み込んで、そんな積み重ねがいい結果を招くはずもなく、決定的に間違えそうになったこともあった。
彼の元を離れようとしたフィガロを引き止め、振り向かせ、向き合わせてきたのはファウストで、彼じゃなければとっくの昔に、それまでのいくつかの恋愛のようなものと同じように終わっていたのかもしれない。
そうならなかったのはファウストのおかげだとフィガロは思っているのだけれど、彼からしたらそれは逆であるかのようなことを言われたことがあった。全然違うのに、お互いに同じようなことを相手に思っていたりする。それが不思議で嬉しくて、けれどもやっぱりよくわからない。
知ってほしい、知らないでほしい。格好悪いから。でも格好悪いところも知って、それでも好きだと言ってほしいと思うのは身勝手だろうか。
視界の端に映る風景から、自宅までもう間も無くだとわかる。正面の、変わり映えしない運転席の革張りの背中に向けていた視線をそろりと左に動かした。
向けられると嬉しくて、けれども時々面倒臭い紫の、いつも真っ直ぐ向けられる眼差しが、じっとフィガロの横顔を見つめている。横目で様子をうかがったフィガロに気がついて、それが柔らかく細められた。
一方的に握っていた手を強く握り返される。そして、ファウストが少しだけ身を乗り出して、フィガロの耳元に口を近づけた。
「照れてるおまえも可愛い」
耳元が暑いのは、彼の吐息がかかったからだろうか。それとも。
「ファウスト」
「ん?」
「酔ってる?」
「酒を飲む時間なんてなかっただろ!!」
どうやら自分は、また言葉の選択を間違えたらしい。
***
自宅のあるマンションの車寄せで停まった送迎車から降りる時には、繋いだ手はどちらからともなく離れていた。
それを寂しいと思わない、といえば嘘になるけれど、そんな小さな寂しさは取るに足らないものだとファウストは知っている。手を繋ぎたければこのあといくらだって繋ぐことができるし、そうしたいのが自分だけではない。そう、信じられるから。
大きさの割にぺしゃんこの、どうしてこんな大きさが必要なのかと心底疑問に思うフィガロのボストンバッグは彼の手に渡る前に取り上げて。それよりも幾分か重たい自分のトートバッグを肩にかける。
年末から年始にかけての休みと、年明けの仕事のための迎えの時間を確認して、マネージャーに良いお年を、と年末の挨拶をする。車寄せから出ていく送迎車を見送ってしまえば、深夜にも程近い時間のマンションのエントランスに人影はなく、フィガロとファウストだけが残された。
「行こうか」
しんと冷えた冬の空気は、ずっと暖房の効いた室内にいたからか温もりに慣れた身体にはすこしだけ心地よく感じる。
上着のポケットから鍵を取り出したフィガロに促されてエントランスをくぐった。コンシェルジュの対応時間も終わって久しい時間だから、受付に人影はなく、明かりも落とされている。空の受付を通り過ぎ、上のフロアに向かうエレベーターのボタンを押せば、待たされることなく扉はすぐに開いた。
乗り込んでから鍵をかざせば、フィガロの住むフロア、ファウストの住むそこよりは数階分多い数字の明かりが灯る。扉が開く直前に、どうすると問いかけるようなフィガロの視線を感じたけれど、ファウストは自宅の鍵は出さなかった。
代わりに手に持った彼のボストンバッグを掲げてみせる。荷物もあるし部屋まで送る、なんてとってつけた理由でしかない。そんなこと、フィガロにだってわかっているはずなのに。
「手、つないでもいい?」
「いいよ」
そんなこと聞かなくてもいいのに。と思うのだけれど、許可を得ることがフィガロの中では必要なのだろうと思うので、その言葉は口にしなかった。車内では聞いてこなかったのに、面白い。ファウストにとっては不可思議なルールがフィガロの中にはあるようで、そういうものを見つけては、ファウストはそれを微笑ましいものとして、そっと自分の中に溜めている。
昔、というほど前のことではないのだけれど、フィガロの不可思議な行動にいちいち振り回されていた頃があった。今もないかと言われればそんなこともないのだけれど、以前よりはぐっと減ったと思う。おそらく、たぶん、そのはずだ。
憧れの先輩だった。レッスンの時、フィガロがいたらその後ろ姿を必ずみていた。踊りも歌も、撮影時のポージングも、トークもその場の空気を読んだ言動も、普段の努力に裏付けされたなにもかもがファウストが目指すアイドルの形をしていた。
そんな憧れの塊のような人と、芸能界の引退だって考えたこともあった紆余曲折を経て同じグループでデビューすることになり、そこから奇跡的に恋人になった。
そうして知った、フィガロの素顔。いや、恋人になる前、彼のことを憧れだけで追えなくなっていた頃には少しずつ知っていたもの。わからなくて、知りたかった。聞いても教えてもらえなくて、言葉を尽くせば尽くすほどにフィガロの言葉が減っていく。
どうしたらいいのかわからなくて、信じられなくなって。全て嘘、作られた虚構なのではないかと疑って。
そんな、曲がりなりにも恋人として隣に置いている人間から疑われていたら離れたくなるだろう。案の定、離れて行こうとしたフィガロを捕まえて、行かないでくれと腕を引いたファウストをフィガロは許した。許して少しずつ、心のうちを見せてくれるようになった。
ひとの気持ちがわからないのに突っ走ってしまう。そんな自分がこうしてまだ、好きなひとの隣にいられるのはあなたのおかけだよと、フィガロに伝えたことがあるのだけれど、彼はファウストのおかげだと思っていると言っていた。
見ている世界が違って、感じていることと感じてきたことは違うのに、不思議と同じようなことを互いに思っていて、それを知るたびに面白くて、興味深くて、愛しいとおもう。
するりと手を繋がれる。彼の親指がファウストの手の甲を撫でるように動いた。
明日からは同じ日数休みだ。グループでの仕事以外にも個別の仕事をいくつか担当しているから、休みか重なることはなかなかない。土日祝日お盆に連休、そういったものは関係のない仕事をしているが、こうして年末年始は休みとなることが多い。そうしてそれは、二人の休みが確実に重なる日でもあった。
引きこもりを自称するファウストだけではなく、社交的と思われているフィガロだって出不精である。付き合いや、もちろん自分の意思で出かけることももちろんあるけれど、数少ない休みの日には自宅でのんびりと気の向くままに過ごしたいひとなのだ。
だから、年末年始の休みの日程が確定した時、どこかに行こうかどうしようかと話し合ったけれど、結局家で過ごそうということになった。どこかに食事くらいには出かけるかもしれないけれど。
エレベーターがぐんぐん上がる。音もなく、高層階と言われる数字のフロアで停まった。静かに開く扉をフィガロに続いて出る。足元に敷かれた毛足の長い絨毯は二人分の足音も吸収するから、柔らかなオレンジ色の光に照らされた廊下には静寂が降りていた。
エレベーターホールからさして遠くないフィガロの家のドアまでは数歩で着く。繋いだ手を握る力を強めたり弱めたりしながら、片手でドアの解錠をしたフィガロが、最後にぎゅっと力強くファウストの手を握った。
「今日は泊まっていく?」
「そのつもりだけど」
「そのつもりのそのつもりは、そのつもりってことでいい?」
「は?……そうだな。そう、そのつもり」
やった、と小さく聞こえる。そんなに喜ぶことだろうか。いや、フィガロもその気で嬉しくないわけではない。くすぐったい小さな喜びを表に出せば揶揄われそうで、ファウストはぐっと力を込めて呆れ顔を作る。
「おまえ、明日も明後日もあるのに」
「明日も明後日もあるけれど、今夜は今夜だと思わない?」
「わからなくもないけれど……そもそも腰は大丈夫なのか?」
ドアを開けるために繋いでいた手が離れていった。そうして開いたドアを支えて、フィガロがお先にどうぞと言う。
「お邪魔します」
遠慮せずに先に室内に入った。三和土で靴を脱ぎ揃えてから立ち上がる。スリッパはこの間きた時のまま、玄関に置いてあったのでこちらも遠慮なく履かせてもらう。
「はいどうぞ。腰は、本当に痛みはないんだよね。あの瞬間は確かにちょっときたかなとは思ったんだけど、普段のストレッチのおかげかな」
居間に向かいながら振り向けば、フィガロは壁に寄りかかり片足ずつサイドゴアのショートブーツを足から抜いていた。
「おまえがまともにストレッチしてるところ見たことないけど」
人感センサーでファウストが進むたびに廊下、居間と明かりがついていく。たどり着いた居間のソファにフィガロの鞄を下ろし、その隣に自分のトートバッグをおけば、後ろから追いついてきたフィガロの気配がすぐそばにあった。
「アキレス腱はちゃんと伸ばしてるし」
「これからはもう少し真面目に」
「考えとく」
「考えとくって」
それはやらないやつだろう。と顔を上げたら、本当にすぐそばにフィガロの顔があった。すぐちかく、なんなら唇はくっついている。
重なった唇が、薄く開いてファウストのそれを食むように動く。顔をひいて、言葉を投げつけていたりたかったのに、素早く後頭部に回された手がそれを阻んだ。
殴るつもりではなく軽く叩くつもりで振り上げた拳も、片手に包まれてそのまま握り込まれる。何から何まで行動が読まれていて悔しい。そういう器用さも敵わないと思い知らされる。
ようやく解放されたころ、上がった息を整えながらファウストは精一杯にフィガロを睨み付けて言った。
「手を繋ぐことには許可を得るのに、キスは無言なのか?」
「たしかに」
じゃあ、とフィガロが一歩身を寄せてくる。後頭部にあった手のひらが、髪をくるくると弄びながら耳朶をくすぐり、頬に触れた。ファウストの拳を握っていた指が、拳を開かせるように指の間に滑り込んでくる。
額をつけて、至近距離。無彩色の中に若葉色を宿す、いつまでも見ていたくなる不思議な色彩の瞳がまっすぐにファウストを捉えた。それが瞼の裏に隠されて、キスされるかと思ったら、鼻先を鼻先に擦り付けられる。再び顕になった眼差しが、唇を見て、そしてまたファウストの目にもどって、少しだけ細められた。
「キスしていい?」
「聞くのが遅い」
いいよ。というのと同時に彼のそれに噛みついてやる。したいのが自分だけだと思うなと、思い知らせてやりたくて。下唇だけ吸い上げて、上目遣いでフィガロの目を見た。どうする、もっと深いのするか。と挑む気持ちは伝わるだろうか。
食いつ食われつ、貪るようなキスをして、満足する頃には互いに息が上がっていた。気持ちよくて興奮していたのに、不意にどっと疲れが押し寄せて二人してコートを着たままソファの上に座り込む。
「そういえばライブ一本やったあとだった」
「リハーサルも含めればだいたい一本半くらいだね」
「体力が落ちてるのか」
「いやそんなこと……あるかな」
「フィガロはそうかもしれないが、僕はまだお前より若いはずなのに」
「ははは厳しいな。最近のスケジュール、リハーサル、収録、リハーサル、収録、収録、歌番組生放送、リハーサルって過密だったから疲れが溜まっていただけだよきっと。君はまだ若い。大丈夫、落ち込まないでファウスト」
「どういう慰めだ!くそ、楽しみにしてたのに」
「え!?」
「は?」
「楽しみにしててくれたの?」
「は!?当たり前だろう。僕はやる気満々だった。なのにお前が腰を痛めるし。ああ、そうだな、腰痛めてるし無理だったんだはじめから」
「いやいやいやいや、腰はほら、激しい運動しなければ大丈夫だし」
「激しい運動だろう」
「俺が激しく動かなくていい体勢もあるよ、試してみる?」
「……」
「うそ、じょうだ」
「いいよ」
「え!?いいの」
「いい。でも」
「でも?」
「今夜は寝よう。明日も休みだし」
「そうだね、そうしようか。とりあえず」
「コートを脱いで、着替えよう」
「そうしよう」
そうしよう、同意したはずなのに二人して身を沈めたソファの座面から動かなかった。投げ出された手を今度はファウストから握ってみる。指を絡めてより深くして来たのはフィガロの方で、引き寄せてもう一度キスをねだったのはどちらからだっただろうか。
上着は早く脱いだほうがいいし、寝支度も早くしたほうがいいに決まっている。けれどももう少し、この時間を堪能しても、構わないだろう。
だって、まだ休みは始まったばかりなのだから。