片隅の現 鎧を順番に外し、ティルザに貰った服に着替える。かつては戦闘時にも着ていた服だが、鎧を身につけるようになった今では夜着と軽装を兼ねていた。
ペレギオンの宿からはヴォルラーンの居城が見える。あのどこかに囚われたシオンを助けるためにも、今日は休んで体力を回復させなければならない。ティスビムを発って以降野営続きで、宿で寝るのは久しぶりだった。痛覚が戻ってからというもの、感じる疲労も段違いで心身ともに疲れ切っている。早く寝てしまおう、と寝台に横になった。
特に意識することもない、当たり前の動作だった。仰向けになり手足の力を抜く。
その瞬間、全身が総毛だった。
「……ッ!?」
反射的に寝台から飛び降りる。床を這うように転がり、背を壁に預けた。心臓が異様に早く脈打っている。大した運動もしれいないのに息が上がって呼吸が苦しい。
「はっ……はぁっ……げほっ、ッ、」
アルフェンが今居るのはペレギオンの宿だ。部屋には一人分の寝台と簡易な机がある。そのはずなのに、真っ白な部屋が視界にちらついて離れない。何度も縛り付けられた施術台、研究員が触れたが最後、常軌を逸した実験が始まる機械。思い出したばかりの記憶が現実に重なる。まるで強い光を見た後の残像のように、目を逸らしてもどこまでも追いかけてくる。
「なんっ、で……」
気がつけば部屋の隅でうずくまっていた。与えられた部屋には施術台と機械しかない。嫌な記憶ばかり与えられる施術台で眠る気にはなれず、部屋の隅で壁に体を預けて短い眠りについた。部屋にいる時は大概そうしていたのだ。ダナより遥かに進んだ技術で作られたとはいえ、入口の側にいると部屋の外で泣き叫ぶダナ人達の悲鳴が聞こえたから。
扉が開く。実験が始まってしまう。いや、違う、ここはペレギオンのはずだ。
「アルフェン、物音がしたが一体……?どうした、体調が優れないのかね」
ぎぃ、と歩みにあわせて床が軋む。距離をとろうとしたが後ろは壁で、足は床を滑るだけだった。
「アルフェン……?」
ここはペレギオンだ。レネギスではない。その証拠に目の前の仲間はアルフェンを番号ではなく名前で呼んでいる。あそこでアルフェンをそう呼ぶのはネウィリだけだった。女性らしい声だった。男の声でアルフェンを呼ぶものはいなかったのだから、ここはレネギスではないのだ。
なのに、震えが止まらない。
「あ、あ……ッやめ……ダナに……ッ、ダナに帰してくれ……」
ここはダナだ。凄惨な実験は終わった。アルフェンは儀式に失敗し、研究員諸共レネギスを吹き飛ばしたのだ。そうしてネウィリの手によって星船に乗せられ、ダナへ戻ってきた。理解しているのに、記憶の残像が現実と同じ鮮明さで目の前に広がっている。
今ペレギオンにいるのが夢なんじゃないか。実験中、似たような経験は何度かあった。使われた薬や術には幻覚作用をもたらすものがいくつもあって、心地良い夢の後で待ち受ける現実はそれまで以上に心を打ちのめすのだ。これも、幻覚だとしたら。目覚めた時にはまたあの冷たい施術台に拘束されているのだ。
「ッ、アルフェン!」
両手が動かなくなる。真っ白な部屋を見たくなくて硬く目を閉じて顔を背けた。
「落ち着いて周りを見たまえ、ここはレネギスではない」
嫌だ、見たくない、とかぶりを振る。目を開けてあの部屋に居たら、今度こそ死んでしまう。いつ終わるか分からない実験に肉体は耐えられても、精神が耐えられない。施術台に拘束されて、降りることなく死んでいったダナ人を何人も見た。みんなダナに帰りたかっただけなのに。人として扱われることもなく、あの冷たい場所で泣き叫んで死んでいった。目を開けたら、次は自分の番かもしれないのに。
逃げようにも抑えつけられて上手く動けない。どれくらい時間が経ったのか、突然手の圧迫感が消えた。力なく落ちた手に何かを握らされる。
「そのままでいい、聞きたまえ。君が握っているのは剣だ。目を開けて、耐えられぬようなことがあれば、それで私を斬って逃げるといい」
何を言われたのか分からなかった。頭の中で言葉を繰り返し、ようやく剣を持たされたのだと理解する。握り直した手の中には確かに覚えのある感触があった。耐えられなければこれで斬って逃げろと言う。
ーー何を?
恐る恐る目を開ける。僅かな隙間から覗き見た手には剣が握られている。床はダナで一般的な板張りだ。もう少し目を開ける。赤毛に褐色の肌。テュオハリムはアルフェンと目が合うと僅かに安堵の様子を見せた。
「私を斬るかね?」
「そんなわけないだろ……」
剣を遠ざけ手を離す。部屋の中を見回したが何の変哲もない一室があるだけだ。未だ震える体を抑えるように自分の肩を抱く。
「ここが現実で良かった……」
思わず呟いた声はみっともないくらいに弱々しく震えていた。
「状況からして、何かのきっかけで戻ったばかりの記憶に混乱したというところか。無理もないが……心当たりはあるかね」
「施術台が……」
「施術台?」
「違う、本当にあったわけじゃないんだ。寝台……の、冷たさが、施術台に思えて、そうしたら急に、ここがレネギスの部屋で、そこに機械が」
「……すまない、私はまた間違えたようだ」
何もない空間を指差していた手を握られてハッとした。いつの間にかまた記憶を重ねた光景を見ていた気がする。
「……いや、今のはあんたが悪いわけじゃない。俺が……まだ、だいぶ混乱してるみたいだ」
「だが今ので君が混乱したきっかけは分かった」
テュオハリムは徐に立ち上がり、寝台から毛布を持ってくる。それをアルフェンにかけると、自らも隣に座り壁に背を預けた。
「寝台の冷たさが過去を呼び起こしたのだろう。ならばここで寝てしまえばいい。思えば、君が記憶と痛覚を取り戻してから、宿に泊まるのは今夜が初めてだったな。これまでの野営では気がつかなくとも不思議ではあるまい」
「テュオハリムの言う通りだと思うが……あんたはそこで何を……」
「今夜は私もここで眠るつもりだが、不服かね」
「不服……ではないけど……俺を心配しているのなら、もう問題ないから部屋に戻ってちゃんと休んだほうがいい。シオンを助けるためにも、あんたの治癒術は欠かせないだろ。万全の状態でいてもらわないと」
「今の君を見て、その言葉を鵜呑みにはできんよ」
酷い顔をしている自覚はあった。相変わらず震えは止まらず、手足も冷え切っている。顔も血の気が失せた色をしているのだろう。
「それに、シオンを助ける為というのなら君こそが要だろう。今は彼女を助けることだけ考えるといい」
「……分かった」
ヴォルラーンはアルフェンに固執していた。戦いになれば間違いなく狙いを定めてくるはずだ。痛覚が無い時でさえ互角には及ばなかったのだから、余所事を考えながら勝てる相手ではない。文字通り全力で戦わなければシオンを救えないのだ。
だから早く眠って、体力を回復させなければならない。テュオハリムの言わんとすることは察せても、すぐに目を閉じることはできなかった。もう一度開けた時に、今度こそレネギスにいるのではないか。芽生えた不安が膨れ上がって気持ちを蝕んでいく。
「……とても眠れそうには見えんな」
アルフェンを覗き込んだテュオハリムが言う。じっとしていただけで目も閉じていなかったのだ。そう言われても仕方がない。
「いっそ酒でも飲んだら眠れるかもしれない」
「それも一つの手ではあるが……君はレネギスにいた頃誰かと触れ合うことはあったかね」
「何だ突然……無かったよ、ネウィリとも実験で時々会うくらいだった」
「ならば手でも繋いでおくのはどうだ。遠ざけたい記憶と異なる状況は多い方が思い出さずにすむ」
本気なのか冗談なのか分かりかねたが、妙な説得力に頷いてしまった。テュオハリムはアルフェンの返事に驚きもせず毛布の中へ手を滑り込ませ、探り当てた手を緩く握ってくる。体格に見合った手はアルフェンよりも少しばかり大きい。生きている人間の体温を感じて強張っていた体から力が抜けた。
「なぁ、さっきのは……あんたの経験則か。遠ざけたい記憶、って」
「そうさな、誰しもそういった記憶があるものだ。君とは比べ物にならないだろうが」
「……いいや、参考になるよ。どっちが現実か分からなくなったら、今日はテュオハリムを探すことにする。レネギスにあんたはいなかったから」
「そうか。では朝までこうしているとしよう」
握る力が強くなる。美しく手入れの行き届いた手には、触れないと分からないが硬くなった部分がいくつもあった。
できれば次に目を開けるのは現実がいい。けど、そうでなかった時は繋いだ手を頼りに戻ってこよう。
そう決めて、アルフェンは目を閉じた。