Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    AKYMkrhr

    @AKYMkrhr

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 19

    AKYMkrhr

    ☆quiet follow

    私の考える原作軸の幸せを書きました
    ⚠️仄暗いです
    ⚠️幹部軸タケミチが出てきますが酷いです

    独白 聞こえるか。
     ゆるい液体に包まれながら、やさしいあなたの声を聞いた。耳の傍で、ぬくもった水溜りがひたりと跳ね返る。
     千冬、聞こえるか。
    愛しい人の声がオレの名前を呼んでくれることがこの上なく嬉しくて、オレは瞼で頷いた。



    1、私の友達 のう貴方なんか救世主じゃない

     控えめなアラームで意識が夢の水面から顔を出す。たゆたいながら浮上すると、まだ辺りは薄暗かった。ペールブルーに向かって欠伸をつきながら、松野千冬は寝癖の残る後頭部を無造作に掻いた。十月の冷気が部屋全体を包み込み、そろそろ半袖だけで睡眠をとるのは心許ない季節になってきていた。自らの腕を擦りながら、洗面台へ向かう背中を追いかけるように声が飛ぶ。

    「よう、相変わらず早起きだな。」

     ソファに我が物顔で座っている場地圭介は、手すりに両足を預けてゆったりと揺らしながらガラステーブルに広げたままの雑誌に視線を落としている。昨日、千冬が寝る前に読んでいたものだった。都内の宿泊施設や商業施設が軒並み紹介されていて、ランク別に星の数で評価がつけられているページを退屈そうに読んでいる。

    「なあ、この雑誌つまんねえよ。もっとこう、動物の載ってるページとかねえの?」

     洗面所から歯ブラシを咥えて引き返してきた千冬に声をかけると、目が完全には開き切っていないのか何度もしきりに擦りながらソファに向かってきた。唇にミントの香りの泡を纏わせながら、ぺらりとページを捲る。次々とページを飛ばしていき、場地が目を輝かせた猫カフェ特集のページでタイミングよく手が止まった。千冬は歯を磨く手は止めないままに、ぼんやりとミルクティ色の小さないきものを眺める。

    「千冬もやっぱ猫カフェ行きてえ?」
    「んー…ふふ、」

     笑ったようにも、相槌を打ったようにも聞こえる声に満足そうに頷いてから、場地はそのページに夢中になっていく。一方ですぐに興味を無くしたように、千冬は洗面所へ消えていった。白い洗面台に水音を跳ねさせながら口をゆすぎ、顔を洗い、控えめに髭を剃る。束の間の平和な朝が始まろうとしている。
     東京卍會の最高幹部の一員ともなると、着こなし慣れないブランドものを身に付けながら気味が悪いほど優雅な日々を送っていた。日中はフロント企業の元締めに向かい、夜は犯罪組織の裏工作を打ち合わせる。無限に湧いてくるような金は頭の悪い日和見主義者たちから騙し搾取した涙の残りカスのようなもので、そこに込められている悲しさも苦しさも知らないままに、毎日高級ワインとなって溶けていく。自分たちの過去から背を向けてしまった彼らの生活は、到底法が許して保証してくれるものではなかったが、麻薬のような幸福に頭のてっぺんからつま先まで浸りきってしまった脳みそではその異常性に気付けるものなどいない。どこまでも踏み違い、この有様が幼い彼らの捧げた青春の末路だとしても、そこに警鐘を鳴らすものなどいなかった。
     彼らを除いては。

     全身を膜のように包む薄手のジャージを身に付けながら、履き慣れた黒のランニングシューズに足を通す。ワイヤレスイヤホンのような見た目をしたヘッドセットを片耳に取り付けると、オートロックの重々しいドアを押して千冬は朝のランニングに向かった。高級な服、食事、そういったものにはいつまでたっても惹かれなかった。それは隣を走る場地も同じなのだろう。白いパーカー姿は学生の頃と変わらず、カモシカのような足を前へと繰り出してランニングコースに向かう千冬に緩やかに並走する。街が出勤で慌ただしくなる少し前の時間、今だけが素顔を取り戻せる息継ぎの時間だった。
     街路樹は赤や黄色に色づいて季節を知らせる風に攫われていく。丁寧に舗装されたコースを他のランナーたちに会釈しながら回っていく途中、朝のパトロールの赤いランプを点滅させた車両が横を走り抜けていった。目を潜めながらそのランプを見送る千冬に、場地は呑気な調子で話しかける。

    「千冬ぅ、ペース落ちてんぞ。歳か?」
    「……うるさいな…」
    「ったく、口が悪ぃなあ朝から。」

     千冬は元々口がいいほうではなかったが、ここ最近は塞ぎこんでいる日々が続いているようで口調がさらに刺々しさを増していた。帰りにパン屋に寄ろうとなだめるような口調で場地が明るく声をかけても、それに返答することはなかった。それでも長い付き合いになった二人の間が剣呑な空気に包まれることはなく、小鳥のさえずりや車の排気音に耳を傾けている内に千冬の表情は解れていった。しばらく無言で走ることに没頭していた千冬の意識を遮断したのは一つの通知だった。USBメモリほどの大きさのヘッドセットに片手で触れて応答する。

    「一虎くん、おはようございます。」
    『千冬、見つけたぞ。黒龍の隠し口座!』

     ぴたりと足を止めた千冬に、先を行きそうになっていた場地は慌てて少し後退する。千冬の片耳に顔を近付けて、電話先にいるであろう羽宮一虎の声に意識を集中させる。
     千冬は出所したばかりの一虎に声をかけ、この腐り切った東京卍會の諸悪の根源を潰すことを計画していた。組織の中にいる人間は信用するには足らず、全く無関係の獄中生活を送っていた彼に協力を依頼していたのだった。彼は創設メンバーの一人であることに加えて、過去の様々な過ちを悔いて居場所を欲しがっていたはずだから。頭の回転の速さと行動力は千冬に真似できるものではなく、手を組んでから着実に東京卍會の深い闇を手探りで掬っていった。この計画の一部始終を、場地圭介は直接伝えられたわけではない。事の始まりに深く関わっている場地の手を借りることなど最初から考えていないのだろう。しかし、二人のやり取りは彼の前で隠されているわけではなかったから、時折こうして首を突っ込むことがあるのだった。

    「やったじゃねえか、千冬ぅ。」
    『千冬、頼む。あとはオマエが持ってるそれですべて片が付く。』
    「…そう、なんですよね。証拠…。」
    「千冬?」
    「…。」
    『オレはいつでも動けるよ。あとは千冬次第。』
    「…すいません、もうちょっとだけ待っていてくれませんか。」

     足元に落とした視線は迷いで揺れていた。電話越しに一虎はため息をつき、早めに頼んだぞと電話を切った。ツーツーと響く通話終了の電子音を聞きながら千冬は黙り込んでしまった。走って高まっていた全身の火照りもとっくに冷めきって、ざあざあとビルの間をすり抜けてきた秋風が前髪をかき上げる。千冬が何で思い悩んでいるのかおおよその見当はついていたものの、あくまで千冬なりの考えがあるのだろうと場地は何も口を出さなかった。放っておけば泣き出しそうな黒髪をそっと撫でてやることしか、できなかった。手触りのいいまるい頭をなぞるように撫でても、秋風がすぐに乱していってしまう。

    「場地さん、なら」
    「ん?」
    「…。」
    「どうしたよ。」
    「…オレの気持ち、わかってくれますよね。」

     街に溶けていく雑音にかき消されてしまいそうなほどか細い呟きだった。返事の代わりにまるい後頭部を撫でてやるが、曇った表情はそのままだった。
     総長代理である稀咲鉄太は、この東京卍會を食い物にし、途方も無い犯罪組織を創り上げた。実際に殺人や窃盗の指示を下しているところを証拠として残すことが出来れば警察に突き出してこの組織から追放できると踏んで、千冬は一人で動向を探っていた。それにはもちろんカタギでない自分自身にだってリスクは降りかかるだろうが、この腐り切った組織を根っこから解体していくためには、巨悪となった佐野万次郎に目を覚ましてもらうためには、命ごと賭ける覚悟で戦っていくしかなかった。千冬は内部から、一虎は外部からその闇を探り、手を伸ばしてようやく掴んだ証拠を千冬はその手に握っているはずだった。部屋でそれを確認している後ろ姿を、場地は何度も目撃している。千冬はこの証拠を出し渋っている。その理由もすべて知った上で、千冬の問いを無視して笑った。

    「ていうか腹減らね?」
    「…。」
    「駅前のパン屋行こうぜ。半分コすりゃオマエでも食えるだろ。」

     最近食欲がないといって朝飯をサボりがちな千冬の顔を覗き込む。その瞳は暗いままだったが淀みはなく、一つの答えを見つけたようにも見えた。

    「千冬ぅ、どうする?」
    「…ウジウジしてても仕方ねえっすよね。」
    「お、決まりだな。オマエのことだから多分…リンゴのやつにすると思うんだよな。」
    「…。」
    「期間限定もの、弱いだろ?」

     顎先だけで頷いたように見えたのを確認すれば、風になびく長い黒髪をたてがみのようにふるいながら場地は真っすぐに前を向いた。

    「パン屋まで競争な。負けたほうがおごり。」
    「っし、やってやりますよ。」

     つぶやきと共に口角がやわらかく上がったのを確認してから、場地はクラウチングスタートの体制に入る。勝手によーいドン、と口にして真っすぐに駆けていけば、文句を言うこともなく遅れてその背を千冬が追いかけた。

     弱っている胃には辞めておけという場地の忠告を破って濃い琥珀色に揺れる水面を啜った。キリマンジャロブレンドの華やかな香りと酸味が味蕾を喜ばせる。千冬の支払いで買ったツナの総菜パンとリンゴデニッシュを包みから出して、皿に並べた。明るい陽射しを受けて、リンゴのコンポートが結晶のように輝く。

    「お先にドーゾ。」
    「いただきます。」
    「…どう、美味い?」
    「……うんま、何これ。」

     サクサクと軽い音を立てて幾重にも重なったパイ生地を白い歯が噛み砕き、甘酸っぱいコンポートを頬張る。嬉しそうに食べている姿に嬉しくなって、全部食べていいぞと薦めると何度もかぶりついて、CMが明け終わるまでに一つを食べきってしまった。こんなに食べる姿を見るのは久しぶりで、筋トレをやめた細い背中が嚥下のたびにゆっくりと上下するのを母親のような視線で見守った。

    「そっちも食べていいぞ。」
    「あー…」
    「どした?」
    「こっち先に食えばよかったな。」

     惣菜パンを見下ろしながら千冬が苦笑を浮かべつつため息をつく姿を見て、頬杖をついていた場地があははと声を上げて笑った。デザート向きのパンから手をつけるあたり、後先考えない食べ方は昔から変わっていない。ちょっとアホでやっぱり可愛い。
     ツナとコーン、三日月のように細く切られた玉ねぎをマヨネーズで和えたものが乗っかったそれにかぶりつきながら、そっちも美味いだろと声を掛けるとリスのように膨らませたほっぺたを揺らす。頬についたマヨネーズもそのままにしている様子から、十分にその味のすばらしさは伝わってきた。
     今だけは、穏やかな朝食を。終わりを始める決戦に向けて腹ごしらえをする戦士の背中を、邪魔にならないように撫で続けた。



    2、貴方と私 一緒になって 敗北した

     ビビットピンクとライムグリーンの光線が交互に照らす。塗装がすり減った床を人々は思い思いに踏み鳴らし、DJの指先に合わせてフロア全体が人の群れとなって揺れ動く。二階席のVIPルームには人々の咆哮に似た歓声も、バリバリと窓ガラスを割りそうな程のビートもさざめきとなって遠のいていく。

    「いやあ、まさか東京卍會の最高幹部の皆さまに来ていただけるなんて思いませんでしたよ。」
    「そーゆーことでかい声で言うな。シラけンじゃん。」
    「…彼の予定がたまたま空いていただけなんで。」

     ちらりと千冬が目線を横にずらすと、派手な身なりの女性に囲まれて鼻の下を伸ばす花垣武道がシャンパンを煽っているところだった。夏に元恋人が亡くなった反動からか、女遊びと酒浸りは激しさを増していた。きっと今日も酷い酔い方をする。そんな彼らに手を擦りながらぺこぺこと頭を下げるのは、このクラブのオーナーだ。東京卍會のシマで営業しているクラブで、千冬が元締めの為に定期的に訪れている。今日は日頃の感謝も兼ねてサービスをさせてほしいとクラブ側から申し出てきた。その人当たりの良さそうな笑顔の下は、ここのところ続いている上納金の滞納を見逃してくれという本心だろう。人が少ないソファに場地は腰を下ろし、興味無さそうに辺りを見回した。千冬はその横に立ち、用心棒のように腕を後ろ手に組む。近くにいた女性が彼らのほうを一度だけ向いたが、目の前にあったアイスボックスに手を伸ばしただけらしい。ガラスで出来た小さなバケツにロックアイスが溢れそうな程詰め込まれているそれを持ち上げ、水割りの準備をしながらグラスを武道のほうへと掲げた。所詮は「最高幹部」がお目当ての客なのだろう。

    「さあ、飲もう飲もう!オレの奢りだぁ」

     胸元が開いた女性の両肩に腕を回し、酒の味も大して知らない彼は値段もアルコールも高いものからお構いなしに流し込んでいく。ワックスでびったりと後ろに流したオールバックに、階下のミラーボールの輝きが紙吹雪のように舞い上がっては跳ね返っているのが歳の割に幼い顔立ちには不釣り合いだった。
     千冬の予想通り、武道は酷い酔い方をした。隣の女性の上に跨り、キスをせがみ、嫌がる彼女を押さえつけてはだけた胸元に顔まで寄せる始末だ。ブラックリスト入り確実の行為を重ねている別世界の男に対して女性は怯えたように見上げているが、オーナーは見ていないフリをしてその場を収めようとはしなかった。冷ややかな目線で見下ろし続ける千冬の隣で場地がぬるりと立ち上がった。

    「タケミチ、それくらいにしとけ。」

     長い黒髪が顔の前でカーテンのように揺れ、その隙間から場地は嫌悪するような鋭い眼差しで彼を刺す。出会ったばかりで中学生くらいのあの頃であれば、スンマセンとぺこぺこ頭を下げてきそうな気の弱さを見せていたかもしれない。しかし、金や権力で周囲を黙らせるようになってしまってからは相棒である千冬の言葉も届かないようになってしまった。昔から周囲の人間に取り込まれ、丸め込まれて影響されやすい性質ではあったのかもしれないが、あの頃夢中で駆け抜けた青春の眩しさは、もう彼の瞳に残っていなかった。文字通り、あんな思い出など腐り果ててしまったのだ。
     場地の言葉に耳を貸さず、助けを求めようとする女性の腕を押さえ込もうとする武道につかつかと革靴の底を鳴らして千冬が近寄る。その片手にはウイスキーロックのグラスが握られていて、何か嫌な予感に場地は咄嗟に声をかけた。

    「千冬、」
    「いい加減にしろよ。」

     ぱしん、と頬を打ったような音がする。握りこぶしと同じほどの質量の水が塊となり、溶けかけの氷と共に武道の頭の上から降り注いだ。グラスの中身を自分のボスに向かって放った側近を、恐ろしいものを見る目で皆が凍り付いている。いってぇなァと武道がのろりと体を起こしたタイミングで女性は逃げるように体の下から這い出てしまう。

    「千冬…何邪魔してんだよ。」
    「マジで、こんなのもういい加減にしろよ。オマエはこんなんじゃないだろ、タケミっち。」
    「はは、なつかしー呼び方。」
    「千冬ぅ、オマエも落ち着けって。」

     千冬もそれなりに接待を受けていた。渋々受け取ったウイスキーのロックを一杯だけ。とろみのあるアルコールが彼の理性の中心を崩し、押さえ込んでいた感情の糸口を晒させる。鼻先に冬の冷たさのような突き抜ける痛みを感じると、目の奥の液体を必死に堪えた。
     話し合いでなんとかなる相手ではない。それはこの相棒も例外ではなかった。拳では千冬や場地に勝ち目などないほど弱いのは変わりないのに、今は便利な玩具を稀咲から貰っているようで、その銃口を向けられてしまったらおしまいだ。友人だから殺さない、そんな甘い口約束が通じる世界でなくなってしまったからこそ、自分の行動の危うさを十分に理解していた。そしてそれは場地も同じで、べっ甲色に似た瞳が千冬とその周囲の空気との間を何度も行き来させる。

    「何がそんな不満なんだ?ボスの遊びに口出しするなって。」
    「…みんなのこと、忘れちゃったのかよ。」
    「千冬、やめておけ。」
    「昔話がしたかったのかぁ、千冬。なら最初からそう言えよ。」
    「…ヒナちゃんのこと、忘れてねーだろ。あんなに大切にしていたのに、こんなのに成り下がって、オマエは、」

     言葉を聞き終える前に顔を殴ったのは凹凸のある冷え冷えとした岩たちだった。ガラスのバケツの中身が千冬の顔面目掛けてぶちまけられる。一緒に入っていたアイスピックも襲い掛かり、間一髪で避ければ頬を掠めて横になすったような赤い破線が残った。タイミングが悪ければ、瞼の下のゼリー質まで貫かれていたかもしれない。溶けかけの氷と南極の海のように冷え切った水に濡れた千冬に真っ先に駆け寄ると、場地は人目も憚らず鼻の触れ合いそうな距離で覗き込んだ。頬に真っすぐ走った軌跡をそっと親指でなぞってやりながら場地が言う。

    「もういい、千冬。帰ろう。」
    「…。」
    「オマエもカッとなりすぎだ。」
    「…頭冷やす。悪かったよ、タケミっち。」

     ウイスキーグラスの中身を浴びたせいでセットの崩れた黒髪を幾筋か額に垂らしながら、武道は飲みなれないワインを隣の女性に新しく注いで貰っていた。その顔には怒りよりも深い、悲しみを張り付けたままでブドウの芳醇さを美味しくもなさそうに喉奥へ押し流している。もう帰れ、と吐き捨てるように言った相棒の瞳からは絶え間なく大粒のネオンが落ちて、底が抜けたようにも見えるほどよく磨かれた黒いフロアに水滴を残していった。

     他の構成員と共に武道をクラブに置き去りにして、逃げるように運転手の待つメルセデスベンツに乗り込んだ。車内は通夜にでも向かうかのように静かで、馬の嘶きのようなエンジン音だけが寂しく響いていた。
     カードキーを翳して自宅のドアを音もなく開けると、常闇が広がっている。読みかけの雑誌、飲み物を入れるたびに増え続ける空っぽのマグカップが二つ、三つ。生活しているそのままで抜け出した洞窟のような部屋に踏み入れて背後でドアが閉まった音が響いた途端、千冬の呼吸は乱れた。

    「…ッ、…っふ、…は、は、」
    「千冬」

     全速力でここまで駆けてきたかのように息は上がり、吸っているのか吐いているのかすらもわからない。ゴムチューブの中を気泡が塞ぐような、くぐもった音が気管から漏れ出した。陸地で溺れそうになっている千冬の背を何度も撫でさすりながら、場地は無言で細い背中が背負い込んだ悲しみに寄り添うことしかできない。
     武道は弱くても真っすぐな男だった。力は無いくせに人の心を揺さぶり、目を覚まさせ、どこか大人びたところのあるガキだったはずだ。それがあっさりと、巨悪と莫大な金で創り上げられた闇に引きずり込まれてしまった。いつか目を覚ましてもう一度、殴り合ってすっきりして、ごめんなって言い合って。それから明日は何して遊ぶって肩を組んで笑い合う。そんな淡い夢をずっと見続けている千冬にとって、現実はロックアイスの冷たさで瞬間冷却してしまいそうなほど無機質なものだった。

    「千冬、大丈夫だから。」
    「はぁ、は…、は、…はっ、」
    「ゆっくりと吐け。吐き切れ。」

     顔中を涙と脂汗でびっしょりと濡らし、鼻水や唾液といった透明な粘液で口回りも赤子のように汚してしまった千冬に柔和に微笑みかけながら、貴重な茶碗でも鑑賞するかのように両手で頬を包む。場地は焦点の定まらないラムネ色を見据えた。長めのまつ毛が縁取ったそこから水晶が脱皮していくように滑り出る温い水が美しくても、何時間でも見つめていられそうだった。
     発作的に溢れていた涙はアルコールが全身から抜け落ちていくのと同時に収まり始め、目尻を煌めかせながらも呼吸は平常を取り戻す。千冬の纏う空気がいつもの様子に戻ることを確認すれば、頬を支えていた両手を解いた。彼に見送られながら脱衣所に逃げ込むと、腫れてしまった目とぬるついた口元を冷水で洗い流し、酒と煙草の匂いを吸い込んだシャツを脱ぎ捨てて丸めたまま洗濯機に放り込んだ。ようやく鎧を脱ぎ捨てることができると吸い込む空気も心なしか軽くなり、手触りがマシュマロに似ている部屋着に腕を通しながら場地の待っているリビングへ戻る。

    「落ち着いたか?」
    「…ふー…」

     この数十分でいくらかやつれてしまったような表情を貼り付けたまま、バルーンの空気を抜くような細く長い溜息をつきながらごろりと白い革のソファに背を預ける。手の甲を額の上に置いてまだぐらついている脳内を整理し始める千冬に目元だけで微笑みかけると、場地はキッチンへと消えていった。モデルルームのように完璧に取り揃えられた食器棚の中、チューリップグラスの間にひっそりと鎮座していたそれを大切そうに取り出す。牛乳を注ぎ、電子レンジへと持っていこうとしたところで物音に気付いた千冬が驚いたように駆け付ける。調理台の上にひっそりと置かれたマグカップに目を見開いた。

    「なんで…」
    「胃が弱ってるときは酒やコーヒーより牛乳のほうがいいんだよ。」
    「…懐かし」
    「これは千冬が喜ぶかと思って。」

     背後に目をやると、千冬はようやくあたたかく微笑んだ。マグカップの柄を握る場地の手に重なるようにマグカップを両手で包む。まだ冷たいだろ、と笑いかけると頷きながらあどけない目つきでそれを眺めていた。成人男性の手には小さめのそれは、中学の林間学校での宿泊体験学習で作った焼き物のマグカップだった。土を自らの手で練り上げてつくった猫耳に模した三角形の突起が二つ並び、いびつな形のマグカップはどうしてか捨てることが出来ずに、今でも食器棚の奥深くに眠らせていた。泥だらけの手のひら、ダサいジャージ姿で笑い合った時間。昔のまだ鮮やかだった自分たちにトリップすると、温かな記憶に想いを馳せる。そうだったと、千冬は一人呟いていた。

    「場地さんがこれ、褒めてくれたんだった。」
    「そうだっけ。」
    「ペケみたいで可愛いって。」

     当時の飼い猫の愛くるしさを思い出して頬を緩ませる。二人の部屋を行き来していた、黒くしなやかな猫。今どうしているか、亡くなったのかすらも知らない。もう何年も実家に顔なんて見せていないから。家族や大切な人を自分たちの職業に触れ合わせるわけにはいかなかったため、もうずっと母親の顔も見ていない気がした。ペケ元気にしてっかな、と呑気に呟くと場地は体を少し横にずらしてマグカップから手を離した。バトンを受け取るように千冬の手に渡ると、電子レンジに入れて手早くボタンを操作する。しばらくして甘いミルクの匂いが漂い始めると、ティースプーンで蜂蜜の瓶の底を掬い絡めとる。温もったミルクをそのスプーンで掻き混ぜてから嬉しそうにソファに運んで啜った。

    「本当オマエそれ好きな。蜂蜜ホットミルク。」

     甘いものを好んで口に運ぼうとしない場地は、ため息交じりに微笑みかける。場地のからかいに言葉を返さないまま、満足気にやさしい甘さの白色を流し込んでいた。全身に纏っていた悲し気な空気も和らいで、ようやく穏やかな夜を迎えられそうだった。
     温もった指先で、銀色のノートブックを撫でる。リンゴのトレードマークが真ん中に鎮座したそれをペットのように撫で、懇願するように声を漏らした。

    「嘘だと言ってほしい。」
    「千冬…」
    「タケミチ、悪い夢だよな。」

     そうだ、悪い夢だから。今日は寝てしまおう、千冬。眩しかった相棒の代わりに答えた彼の長髪が、千冬の前に揺れる。彼が泣きだす前に抱擁し、幼子のようにまるい後頭部を撫でながら彼が眠りにつくまで寄り添った。窓の外はとっくに日が昇り、街が眠りから覚めるころ。千冬は朝露のような涙を湛えて意識をミルク色に溶かしていった。


    3、黄金の矢は優しい キューピッドの矢だもの

     聞こえるか。
     ゆるい液体に包まれながら、やさしいあなたの声を聞いた。耳の傍で、ぬくもった水溜りがひたりと跳ね返る。
     千冬、聞こえるか。

    「聞こえてますよ。」

     水の壁を通してくぐもった声が鼓膜までのろのろと到達したのを確認すれば、体の裏側をすべて水に浸しながら千冬は笑っていた。黒い隊服と真新しい刺繍に塩水が沁み込んでいくのを見て、ああ三ツ谷に怒られるぞと場地は豪快に笑う。
     真夏の海は夜になっても温度を保ったまま、温く若い彼らの体に纏わりつく。金髪をその水面にばらまきながら、千冬は波打ち際で寝ころんだまま下から見上げた。

    「全然冷たくねえっス。あちー、」
    「だから言ったろ。おらっ」
    「んぶ、うわ!何するんスか!」

     顔の上に手のひら一杯分の海水が降りかかる。遊泳禁止のプラカードを乗り越えた先のプライベートビーチで、月と星の輝きを湛えた破片を二人して浴びせ合った。すっかり解けたリーゼントを大きな手のひらでかき乱されながら、オマエこれ似合わねえよと笑われる。今日は千冬が副隊長に任命された日だった。じゃあ今日でこれ卒業しようかなと水しぶきの合間に笑う。
    もうこれから先、こんなに幸せなことなんてないかもしれないと、声が尽きるまで噛み締めるように笑った。一生分の絆で結ばれた二人も、月明かりに照らされた砂浜の白さも、ぬるい塩水も、すべてが完璧だった。

    「千冬」

     薄暗い部屋の中で、千冬は目の縁を海岸線のように水で揺らしていた。正しかった寝息は時折、苦しそうに乱れる。とても幸せそうに、不規則な寝息を紡ぐ。笑顔で深海へ沈んでいくような彼の額に、場地はそっと唇を落とした。

    「またあの夢見てるのか。」

     千冬はまだ起きない。やせこけた頬と酷くなったクマを指先で何度もなぞる。
     ホットミルクを飲んでいたころはまだよかった。日に日に食が喉を通らなくなっていき、今では三日に一度人に無理やり食わされる形で食を繋いでいた。夜通し何かを調べ、静かに赴き、時には硝煙の匂いを纏って帰ってくる彼の顔つきがどんどん返り血を浴びたように殺気で凝り固まってきているのを場地は黙って見つめていた。起きているときは冷酷な鬼だと称されるほど血も涙もない人間を演じているようだったが、眠りにつくと性根の優しさが顔を出し、涙を絶えず流して楽しかった日々に想いを馳せていた。頼りにしていた相棒が憎い相手の術中に飲まれたショックは大きく、気付かぬうちに千冬の内側から蝕んでいっている。悲痛な想いを閉じ込めて、何でもないように振る舞う細い体を、場地はただ抱きしめてやることしかできなかった。

    「なあ千冬、」

     返事をしない、眠ったままの黒い後頭部にそってと指を差し込みながら囁き込む。

    「オマエが護りたいもん、護ればいいよ。それでダメになって困ったらオレが迎えに行くから。」

     こめかみにそっと口づけを落としてみても、まだその涙は止まりそうになかった。まつ毛の先にまで透明の粒を乗せ、重さに耐え切れなくなった雫は真っ白な肌を滑り落ちていく。

    「オレはオマエのことが好きだよ。」

     返事をするように滑り落ちた涙が、頬の近くに置かれた千冬の手首に落ちていく。そっとその上に手を重ねてみれば、場地の言葉を噛み締めるように口角が柔らかく持ち上がった。そして瞼の裏が急激にうごめいて、起き出す気配がする。

    「場地さん…?」

     掠れた声に名前を呼ばれると、場地は嬉しそうに目を細めた。レースカーテンの網目は、木漏れ日のように光を溢れさせている。狂ってしまった体内時計のねじを巻き戻すような光は、場地の長髪や鉱石のような瞳をすり抜けて千冬に降り注いだ。おはよう、ともう一度唇を落とすと、キツネにつままれたような表情のまま千冬はむくりと体を起こす。今日はいつも襲い掛かる寝起きの吐き気がなく、すっきりと久しぶりの朝日を見つめた。

    「場地さん、」
    「ん?」

     千冬が何か口にしようとしたとき、インターホンが鳴った。夢の延長時間はぷつりと途切れ、いつもの固い表情を貼り付けてから画面を確認しに行く。そこには金髪が入り混じった黒髪を一纏めにした彼が立っていた。ほっと安堵の息を漏らし、特に言葉を掛けることもなく玄関のロックを解除した。暫くして、ドアの前の呼び鈴を押されると勝手に渡していたカードキーで部屋に押し入られる。

    「千冬、生きてるか。」
    「生きてるから開けたんですよ。」

     少し慌てた表情で入ってきた一虎は、千冬の表情を見るなり大きくため息をついてその場にしゃがみ込む。食料品で膨れ上がったビニール袋はがさりと音を立てて床に沈んだ。肺からすべての息を吐き切ってから、祈るように両手を手の前で合わせて額に当てると掠れた声を漏らす。

    「よかった…」

     いつもの減らず口の応酬が始まることはなく、一虎は目に薄っすらと水の膜をつくって千冬の姿を見た。ビニール袋の中身をダイニングテーブルに並べながら、今日も持ってきたと鼻を啜る。

    「ありがとうございます、一虎くん。」
    「一虎助かったわ、オレ今はこいつから離れらんねぇからよ。」
    「…急に褒められるとやりづれェだろ。」

     がさりと購入品をテーブルの上に乗せ、ソファで項垂れるようにして座っている千冬に恐る恐る近寄ればゆるりとビー玉のような瞳が見据えてくる。元より白い肌はさらに青くなり、唇は不健康に皮がめくれあがっている。触れたところから崩れ去ってしまいそうな彼に指を伸ばそうとして、その手を下ろした。場地はそんな彼に不敵に目を細める。

    「オレんだぞ、許可なく触んなよ。」
    「…悪ィ。」
    「どうしたんですか、なんからしくないですね。」

     場地は恋人を甘やかす手付きで、千冬のこけた頬を撫で続けている。両膝の上を千冬の身体が占領していて立ち上がれないと満更でもなく笑って見せた。甘い気配が立ち上っても気に掛ける余裕は一虎に残されていないらしく、ソファに近寄ればその場に膝をついて座面に頬を付けるようにして突っ伏した。

    「千冬のことが心配なんだって。」

     影一つない千冬の白い頬に向かって、気弱そうに一虎は呟いた。過去にすべてを崩壊へ導いた彼は何年も、これから先も、その時の後悔を背負い続けるのだろう。そして今も失う恐怖に一人ではいられなくなり、懺悔室へ駆け込む熱心な教徒のように千冬へ寄り添っていた。千冬の体温を確かめてから自分の濡れた目元を拭って立ち上がる。インスタントの卵粥を抜き取って手鍋にあけ、弱火にかけた。その間もしきりに彼の様子を気にかけるように振り向いていて、そんな一虎の様子に思わず噴き出した。

    「一虎オフクロみてぇだな。」
    「そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。」
    「だって…」
    「これでも結構元気だから。」
    「オレも見てやってっから。ちゃんと食ってるよ、風呂も入ってるし。」
    「…。」
    「あはは、一虎くん、今日ずっとブサイク。」

     せっかくイケメンなのに勿体ねえ、と千冬は歯を見せて笑って見せた。頑なに言おうとしない彼の分も軽口を飛ばし、気丈に振る舞う。その千冬の気遣いに気付けないほど一虎は鈍くないが、言及するほど野暮でもなかった。細くため息をつくと、温まった卵粥を骨壺のようにつるりと白い椀に移し替えて木の匙と共に千冬の口元へ近付ける。自分で食えます、と告げた彼にそっと手渡して、咀嚼する様子をじっと見つめた。学生のことにインスタント焼きそばを一緒に啜っていたときのような食への興味や高揚はまるでなく、作業のような食事風景は静かなものだった。
     半泥状のクリーム色を半分ほど平らげて、ぬるいほうじ茶で口内を押し流す。すべて一虎が準備し、勝手に片付けてくれるものだった。家政婦のようにあくせくと働く背中へありふれた日常の声音で、ぽつりと呟いた。

    「…オレ今日、言いますよ。」
    「え、」
    「橘に証拠、伝えます。」
    「本当に?」
    「はい、腹決まったんで。」
    「千冬ぅ、大丈夫なのかよオマエは。」
    「何で逆に今まで黙ってたんだよ。」

     矢継ぎ早に飛んでくる質問を笑顔で交わして、千冬はのろりと起き上がった。健康体の同世代から見ればコマ送りかと見紛うほどの緩やかな動作を場地は片手で支える。骨が浮き上がった背中はローテーブルの上にある銀色のノートブックへ向かう。リンゴマークを起動させ、何重にもかけてあるロックを外していく。決して足がつかないように細工のされているメールボックスを開くと、Nという一文字だけ表示されている宛先に動画ファイルを一つ添付した。メールの向こう側にいる若い刑事は、姉を殺害した張本人たちの会話を聞けばどんな表情をするのだろうか。こちらの知ったことではない。

    「……。」
    「千冬?」

     不安そうな声音と視線を断ち切るように瞼の下へ空色の瞳を押し込める。震える指先でカーソルを送信ボタンに合わせながら数回深呼吸をした。いつかみた、夏の夕暮れ時の海の煌めきとさざ波が耳元へ打ち寄せる。

    「千冬」

    彼が名前を呼んだ。誰の手にも届かないところに額縁に入れてしまい込んだ美しい思い出となって押し寄せる。背中をそっと押してくれるようにまた名前を呼ばれたとき、千冬は瞳を開く。色鮮やかな光彩を覗き込みながら、場地はあの頃と同じように尖った犬歯を見せつけた。
     穏やかなレモン色の光の中で、彼は指先からカチリと弾丸を一つ放った。



    4、鉛の矢も優しい 解放の矢だもの

    「今日の最下位はごめんなさい、射手座のアナタ!」

     捲れた唇の皮を指先でいじりながら、ニュースキャスターの底抜けに明るい声を聞く。何をやっても空回り、あと少しというところでミスをしてしまうかも。

    「だってよ。」
    「…。」
    「まあ今日一日、悔いなく過ごせや。」
    「わかってますよ。」

     画面の中の彼女が運気を回復するためのラッキーパーソンを話していたところでリモコンを手に取って液晶画面を黙らせる。そんなの言われなくてもわかっていたからだった。千冬にとって運命をもたらしてくれる存在は一人しかいなかった。
     綺麗に焼かれたオムレツも、冷めてしまったホットミルクも、ダークチェリーのデニッシュも、遺物のように皿の上に展示されたままで千冬はフォークを置いた。

    「さて、」
    「時間だな。」

     ラッキーパーソンは髪の長い人。毛先が波打った髪を揺らめかせ、陽炎のように現れる彼を目の裏に焼き付けながら、生き写しのように真似た長髪の鈴の音も聞いた。
     もう会うことはないかもしれない。
     毎日、命日が巡ってくるようだった。

    「一虎君、」

     三ツ谷が失踪したと聞かされたのは一ヶ月以上前のことだった。万次郎はかつての仲間たちとの決別を始めたらしい。決別というほど美しいものではなく、血生臭い粛清はすぐ隣まで迫ってきていた。
     一虎が寝泊りするときに使用していたブランケットが彼の猫背の形のまま残されている。今日は先に出かけたのだろうか。彼も寝る間を惜しんで汚れ切った組織の急所を探り続けている。いつが最期になるかは誰にもわからない。彼の抜け殻のブランケットに向かって手を振った。

    「さよなら、一虎君。」

     グレーのスーツに身を包んで、安息の地に鍵をかけた。


    「この中に裏切り者がいる」

     この日が来ることを彼は恐れてはいなかった。消える時には仇諸共巻き添えにしてしまうつもりだった。
     しかし、自分の中に残っていた僅かな情が足に絡みついて引き留めたから、全てが取り返しのつかない後手になってしまったのだった。
    警察が同時にフロント企業への調査を開始したことで、内部からしかわかりえない情報が相手の手に渡っていることに気付かれた。稀咲はこの動きに随分前から気付いていただろうが、その大元が誰なのかは決めかねているのか慎重に目星をつけては潰していく。底尽きない復讐心を持つ人物を絞り込み、旧メンバーの粛清と称して白状させる算段だった。
    ガムテープで皮膚とパイプ椅子の脚とが癒着するほど貼り付けられている手足はびくともしなかった。先に目を醒ました千冬の全身に、秘密を破り捨てさせるための容赦ない攻撃が降ってくる。顔の骨が歪むほど殴られても、臓器から出血を起こす程蹴られても千冬が口を割ることはなかったが、隣で必死に止めようとしてくる相棒の言葉の中に瞬きほどの光を見出すと、秘密を守る唇が解けた。

    「稀咲…テメェの言う通り、裏切り者はオレだ。」

     咆哮にも似た、必死の叫びだった。命乞いを楽しむ趣味もないのか、欠伸のように引き金を引けば、弾丸は硝煙を漂わせて武道の太腿をあっさりと貫いた。すべての細胞が破裂するほどの壮絶な痛みに感情を噴出させながら武道は絶叫している。金切声をあげる彼の隣でこいつは何も悪くないと実弾の込められた拳銃を目の前にしても怯むことなく噛みついた。そして次はお前だと示すように、眉間へ銃口を押し当てられる。顔を上げたその先に、彼は佇んでいた。
     絶命に向かう恐怖に目線がぐにゃりとマーブル模様に歪む。千冬の目の中は白く霞んでいき、自分の中身が抜け落ちていくのを全身で感じていた。場地はそんな姿をポケットに手を入れたまま見つめていた。遊びに行く前の待ち合わせと同じ風貌で、カーテンのように揺れる黒髪の隙間から千冬のことだけを真っすぐに見つめる。今にも途切れそうな命を前に、凪いでいる海を眺めるときの穏やかな瞳を血で濡れた頬に向ける。

    「最期の言葉だ」

     どちらの呼吸かわからなくなった。
     吸っているのか、吐いているのか。叫んでいるのか囁いているのかも痛覚に痺れてしまった脳髄では判別が出来なかった。
     きっとあなたならこうするだろうから。彼が12年前にそうしたように、千冬もすべてを託すのであれば彼だと瞳に希望を宿らせる。それは拳銃を向けられた人間が到底できる表情ではなく、恐ろしいほどに晴れやかな、正気を失ったターコイズブルー。

    「東卍を頼むぞ、相棒。」

     左側を地面に強打したと思えば、激しい音を立てて椅子ごと倒れ込む。顔の左側は皮膚が焼かれたような匂いと痛みが燻り、右側に広がっていく鮮血でようやく右側が地面だったのかと機能を止める直前の脳で思う。
     ひたり、と見慣れた黒のランニングシューズが血の海をつま先で掻き分けてくる。
     顔の目の前で足を止めると、その場でしゃがみ込んだ。暗幕のような黒髪の隙間から濁ったシャンデリアの光を連れて、愛しい旧友へ笑顔を手向ける。

     「聞こえるか。」

     ゆるい液体に包まれながら、やさしいあなたの声を聞いた。耳の傍でぬくもった水溜りがひたりと跳ね返って、肺を満たすのは咽返る程の鉄錆の匂い。
    愛しい人の声がオレの名前を呼んでくれることがこの上なく嬉しくて、オレは瞼で頷いた。
    あなたの声を、久しぶりに聞いた。



    0、これからくっついて一緒になって 生きていく

     千冬の背中はよく煙を纏う。
     それは自分が食べるわけでもない高級な鉄板焼きの肉が焼ける匂いだったり、呆気なく人の命に干渉できる硝煙だったり。中でも俺が一等好きなのは、白檀の清い煙の香りだった。

    「今日も墓参りありがとな。」

     玄関先で丸められた黒いスーツ姿に身を寄せても反応の一つも返さなかった。髪先からプレーントゥの革靴まで真っ黒に染まっている彼は喪服がよく似合う。その浮かない表情と心に重石を抱えた瞳は、何年過ぎても喪中のようだった。
     律儀に今でもガキの頃の好物だったカップ焼きそばを半分だけ添えて手を合わせてくれるコイツは、俺以上に俺の人生に執着していた。誕生日を迎える前に儚く散った命の破片を今も抱きしめながら生きている。

     軽口を飛ばして背中を小突いても、千冬はこちらを向かない。
     場地さん、と俺の顔を見て大輪のヒマワリのように笑ってくれる日はもう来ない。
     俺はもういない。 
     12年前、俺が殺したから。
     
     「千冬ぅ」

     恋人なんて出来たことはない。好きな人もいなかったけれど、きっと恋をするとこんな声で呼ぶのだろう。その3文字は砂糖菓子のような響きを持って、俺の喉元から銀の飾りをぶら下げた耳朶へ向かっていく。彼のこめかみに刻まれた弾丸の形の穴を塞ごうと、血液が泉のように吹き出ていた。半透明のままの足を血だまりに浸し、生命維持がこと切れていく肉体を眺めた。
     堕ちていった先の地獄で誰とも巡り合わせの約束をしていないお前に会いに来たんだ。
     死んだら化けて迎えにくるくらいには、俺はお前のことを愛していたよ。

     「聞こえるか。」

     供養もされずに濁った湾の底に沈む行く、ひとりぼっちの肉塊になってしまう前に聞かせたい話が山ほどあった。
     千冬と過ごした眩い日々が身に余るほど幸せだったことを、伝えたかった。澄んだラムネ色の目をした人生に後悔を背負わせてしまったことを、謝りたかった。
     まだ揺らめかせることが可能な眼球が声の持ち主を探る。雪が降り積もっていくように視界は白んでいった。琥珀色を感覚だけで手繰り寄せる。色素の薄くなった瞳が、間違いないと彼の幻影を魅せる。

    「やっと目が合ったな。」

     12年越しの再会に、千冬は目元だけで微笑んでから満ち足りた表情で長いまつ毛を引き下ろした。
     もう二度と開かれることはない。






    見出しタイトル 引用元

    廣津里香
    「死神」
    「優しい矢」

    http://maruisora.wpblog.jp/h-rika/
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭❤🙏🙏🙏👏👏👏😭😭😭😭😭😭😭😭😭💘💘💘😭💞😭😭😭😭😭😭😭😭🙏😭🙏😭🙏😭😭😭😭😭😭🙏🙏🙏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works