女装コスプレ狂詩曲<前編> 投稿してから1時間、ツイッターを開いてみるといいねとリプライの通知がひっきりなしに更新されていた。
『新作衣装:−−』 短い説明文に添えられた1枚の画像。セーラー風のプリーツスカートから覗く健康的な褐色の肌、きゅっとくびれたウエストを見せつけるようなヘソだし丈のブラウス。顔の上半分は加工されて見えないが、形のいい唇が妖艶に微笑んでいる。どう見てもコスプレをしている女性にしか見えないが、そのツイートには『#女装男子 #女装コス』のタグが付けられていた。
<可愛い!><マジで男?><美しすぎる…>
次々に送られてくるリプライを読みながら投稿主である鯉登はふふと笑った。
鯉登音之進は女装にハマっていた。生まれついた性も自認している性も男ではあるが、可愛らしい服に憧れがあった。手先が器用なおかげかメイクはすぐに上達し、パッと見れば女性と見間違うほどの顔を作ることができた。あとは好みに合わせて衣装を着る。女性らしいポーズや体つきを意識しながら撮影した写真には自分でも驚くほどの美しい女装男子ができあがっていた。
初めのうちは自分が変身することを楽しんでいたが、誰にも見せずに溜まっていく写真をもったいないと思うようになる。ネットを漁れば自分と同じように女装の趣味を趣味がある人は大勢いた。中には専用のアカウントを作りSNSに写真をあげて活動している人もいる。だったら自分もいいだろうかと何となく写真をあげれば、即座に拡散され界隈では衝撃的な発信となった。万が一のことを考え顔は出さずにアップしていたが、この秘匿された美がいいとどんどん人気になっていった。気づけばそれなりのフォロワーがつき、写真を1枚でもアップすれば直ぐにバズってしまうほどの人気女装男子となっていた。積極的な交流はしないがたまにくるリクエストに応えるうちに版権もののコスプレイヤーとしても名を馳せるようになっていた。自分の体格に合わせるため衣装は全て手作り、そのクオリティの高さもまた反響を呼んだ。
先ほどアップしたのも完成したばかりの新衣装だった。なかなか短いスカートがどう思われるか少し心配だったが反応は良かった。次々に増えていくハートマークに心が満たされていくような気がする。こっそりと始めた趣味だがこうして肯定されることに満足感を覚えていた。
ふいにメッセージアプリの通知がくる。こんな夜に誰からだと見ると送り主は尾形だった。これには鯉登も驚きを隠せない。何せ数年ぶりくらいの連絡だったからだ。
尾形は父の親友の息子であり幼い頃はよく一緒に遊んだ仲だった。しかしそれも鯉登家の引越しを境に連絡はほぼ途絶えることとなる。高校、大学とそれぞれの時間と世界で過ごすうちにお互いのことも意識しなくなっていた。何年か前に弟である勇作から教えてもらった連絡先を登録した際に少し文面で挨拶を交わした程度、それ以来また声をかけるようなことはなかった。
一体今更何の用なのかとメッセージを読むと久しぶりに会わないかということだった。仕事の都合で実は近くに住んでいるとかなんとか書いてある。だったらもっと早く連絡しないかとも思ったが、久しぶりに尾形と会うことは少し嬉しかった。向こうはもう社会人として働いている立派な大人だ。期待か緊張か、ドキドキと鼓動が早まる。わかったと返事を返し、約束の日時を取り決めた。
指定された待ち合わせ場所で待っていると低い声に呼びかけられる。振り向くと尾形が立っていた。オールバックに髭をはやしていて、最後に会った子どもの頃の面影もないくらい大人の男になっている。頬にある傷が気になるが、これは聞いてもいいものなのだろうか。すっかり見違えた姿にうまく声をかけられずにいると尾形はぶっきらぼうに言った。
「店、予約してある。来い」
「わ、わかった」
背を向けてスタスタと歩き出した尾形を慌てて追いかける。
連れていかれた先はなかなかに立派な店構えのイタリア料理店だった。開放的な明るい空間だが、尾形が名を告げると店員は奥の個室へと案内した。こっちは打って変わって薄暗く大人の雰囲気が漂う内装だった。
席につけばあとは予約してきた料理が自動的に運ばれてくる。初めこそは緊張したものの世間話を交えればいつの間にか昔のように話せるようになっていた。尾形の仕事のこと、鯉登の大学での話を取りとめなく話す。腹も満たされ気分が良くなってきたころ、鯉登は思い切って尋ねる。
「…尾形、その、どうして今更会いにきたんだ? 突然のことだし、何かあったのではないか…?」
いくら昔馴染みだからといってこんなにも急な連絡には違和感があった。先ほどまでの会話にもあまり意味のあるようなものはない。もしかしたら何か起きたのかと疑っていた。尾形は目を伏せながらため息をついた。
「ああ、そうだな。そろそろ本題に入るか」
「本題…?」
「今日はお前に聞きたいことがあって呼び出したんだ」
そう言って尾形はカバンからスマートフォンを取り出し、ススっと操作をする。一体何なのだと訝しんでいると画面をこちらに向けた。
「これ、お前だろ?」
画面には女装コスをした褐色肌の男の写真が映っていた。それは紛れもなく自分であり、先日ツイッターにあげたものだった。
「キエエエエエエエーー!な、ないごて!? あ、いやちが…」
思わず叫んでしまったが、慌てて口を閉じる。しかしもう手遅れだ、尾形はニヤニヤしながらスマホをしまう。
「それじゃあ自分だと言ってるようなもんだろ」
「っ、う…」
もう誤魔化しがきかない。どうしよう、女装をしているということがバレてしまった。どくどくと心臓が痛いほど強く脈をうつ。蔑まれるだろうか、それとも誰かに言いふらされるだろうか。こんなことをしているなんてもし家族に知られたら…。そう考えると血の気が引いた。
鯉登はぐっと唇を噛みしめると恥を忍んで頭を下げた。
「頼む、このことは誰にも言わないでくれ」
尾形は思案するような間を置いたあと口を開いた。
「…それならひとつ条件がある」
「…」
顔をあげた先にある冷たい目。金だろうか、それともひどいことでもされるのか。ゴクリと唾を飲み込んで尾形の言葉を待つ。
「来月、俺のスペースでコスプレして売り子をやれ」
「は?」
何を言っているのかわからず素っ頓狂な声を出してしまう。スペースで売り子?意味がわからん。困惑して言葉を返せずにいると尾形はわざとらしくため息をついた。
「聞けないようならこの取引はなしだな…」
「い、いや、待て! わかったが、その、意味がわからなくてな…」
女装コスアカウントは持っているものの鯉登は交流は乏しく、写真をアップしていただけであり、同人活動についてはよく知らなかった。
「とりあえず条件はのむんだな?」
「う、それは…わかった」
とにかく向こうはとんでもない脅迫材料を持っている。ここはこの条件を受け入れるほかなかった。よし、と尾形は満足そうに頷くと詳しく話をはじめた。
尾形の説明を聞くところによるとこういうことらしい。来月行われる同人即売会に参加するが手伝いがほしい。どうせならコスプレをしてくれる人がいいがツテはない。そんなときに鯉登のアカウントを見つけピンときたらしい。これをもとに脅せば確実に断らないだろう…。と、わかったようなわからないような感じだが一応鯉登は頷いておいた。
お前同人誌描いていたのかとか脅してまでやらせることかなどと疑問はわいたが、今はそれを聞ける様子ではなかった。尾形はとりあえず話だけつけると今日は解散だと言った。
「じゃあ詳しくは後日話し合うぞ。お前の家に行くからもてなす準備しておけよ」
「は、何を勝手に…!」
「こっちはいつバラしてやってもいいんだぞ」
「ッ〜〜〜〜!」
勝手に色々と取り決められることは腹立たしいが、向こうの方が圧倒的に優位に立っていることは間違いない。とりあえずは気の済むまで大人しく従うほかなかった。
数日後、約束通り尾形は鯉登の家を訪れた。この家は一応親の家ではあるが現在両親は故郷の方の鹿児島に移り住み、広い家を兄と2人で使っている状況だった。仕事柄出張の多い兄は不在がちであり、鯉登はうまく隠しながら女装や衣装作りをしていた。
簡単なもてなしとしてコーヒーや茶菓子を出すと尾形は遠慮なく手をつけた。
「それでこの間の話だが…」
「ああ、とりあえず女装してみろ」
「な、何をいきなり!」
「どんなものかこの目で確かめる。これ着てこい」
グイッと目の前に突きつけられたのは先日と同じ画像だ。セーラー風なミニスカートの衣装。渾身の出来であった衣装だが、これをこの男の前で着ると思うと恥ずかしさがこみあげる。顔を赤らめて俯くと尾形は舌打ちした。
「今更できないって言うなら…」
「わ、わかった! すぐに着替えるからここで待ってろ!」
バタバタと慌ただしく階段を駆け上がり自室に飛び込む。悔しいがここは言うことを聞かなければいけない。腹をくくって衣装を取り出した。
メイクを済ませ、小物を身に着ける。鏡を見るとほぼあの写真通りの姿になっていた。光の加減やアングルにはこだわるもののアップする写真はほぼ無加工だ。せいぜい顔を隠すことくらいしかしていない。ほとんど写真から出てきたような姿だが、鯉登は納得のいかないようなため息をついた。
「やっぱりこれじゃあ…」
ボソリと独り言を漏らしたと同時にガチャリとドア開いた。
「遅えな。もうできたか?」
「キエエエエエエーー!!」
ノックもなしに入ってきた尾形に驚き思わず叫んでしまう。尾形はうるせ〜と言いながらそのままずかずかと上がりこんできた。
「き、きさん! 待ってろち言たじゃろう!」
キッと睨めつけて怒鳴るも全く反省する様子はない。それどころか流れるような動作でスマホを取り出した。
パシャ
「へ?」
「はは、よくできてんじゃねぇか」
尾形は口の端を上げながら、画面を見ている。
「勝手に撮るな!!!」
「散々写真撮ってあげてんだろ。これくらい気にすんな」
「気にするわ! 顔も出てるし、それに…」
そこまで言うと口籠る。何もこいつに向かって言うとこではない。しかし、それを見逃す尾形ではなかった。
「あ? それに、何だよ」
俯いた鯉登の頬に手を添え顔をあげさせる。少し低いところにある黒い瞳は思っていたよりも優しい眼差しを向けていた。気まずくなって目を逸らす。だからといってこの状況がどうなるわけでもない。鯉登は諦めて口を開いた。
「…体格がはっきりでてしまう」
顔立ちを変えるほどのメイク技術を持っていてもどれだけ可愛らしい服を着ても生まれもった男らしい体つきは誤魔化すことができなかった。界隈では名の通るほどの有名コスプレイヤーになっても絶対にオフでは活動しない理由もそこにあった。平均よりも高い身長に、長年続けてきた剣道によって鍛えあげられた筋肉。アングルやポーズを工夫すれば隠せるが、それも限られた条件の中だけだ。直接見られるとわかってしまうはっきりとした男らしさが嫌だった。
「私の女装が上手くいっているのは切り取られた写真の中だけだ。尾形の言うイベントに出れば、引かれてしまうかもしれん…」
断れる立場ではないとわかっていても人前に出ることはやはり怖かった。こんなことになるならやっぱりSNSにあげるなんてやめておけば、と尽きない後悔をしていると頭に柔らかい感触を受けた。
尾形が頭を撫でていた。どことなくぎこちなさがあるものの、慰めるような、慈しむような手つきだった。
「…別にそんなことねぇだろ」
軽く手を引いて大きな姿見の前に鯉登を立たせる。背の高い、女装した男が映る。目を背けようとしたが鏡を見るよう小突かれた。
「完璧な女になろうとはしなくていいんだよ。その衣装だって自分に合わせて作ったんだろ。お前はお前だから似合うものになればいい」
まさか尾形にこんなことを言われるなんて、少しだけ胸がギュッと痛むような高鳴るような感覚がした。もう1度、鏡に映った自分の姿を見る。逞しい足に広い肩幅、しかしふんわりとした袖口は肩のラインをカバーし、短めのスカートは足の長さを引き立てスタイルの良さを強調している。女らしいとは言えないが、全体としてバランスが取れた美しさがあった。
「その体は生まれもったもんだ。お前はそれを際立たせる技術を持ってる、自信持てよ」
鏡越しに尾形と目が合う。そのまっすぐな目に心が解けていくような気がした。ずっと引っかかっていたわだかまりが消えていく。
「…うん、あいがと尾形」
目を合わせたまま、微笑みかけると尾形もフッと口元を緩めた。そのまま手を伸ばしたかと思うとスカートの裾を掴みペラっとめくり上げた。
「なんだ、ここは男もんかよ」
「こん馬鹿っ!!!」
大きく振り上げた手はバチンっと乾いた音を響かせて不埒な男の頬を張った。
頬が腫れた尾形から改めて話を聞く。尾形は同人作家であり、来月のイベントで同人誌を売る。そして尾形の出す本のキャラでもある“美少女剣士リオンちゃん”のコスプレをして売り子をしろとのことだ。
リオンちゃんは褐色肌に紫がかった黒のショートで背が高い美少女だ。美少女を売りにしている割に過度な露出は少なく、和服を意識したような上着に長めのミニスカートが印象的だ。イラストを見せてもらうと鯉登がコスプレしても違和感がない、むしろ似合いそうなキャラクターだ。
「なるほど…。ちなみにこの子はどのようなキャラなんだ?」
「いいとこの令嬢で剣の達人、堅苦しい口調と性格のわりに小動物が好きというギャップをもっている」
「ほぉ…」
同人誌を作るくらいなのだから好きなキャラなのだろうがなかなか個性的なキャラだ。これが尾形の好みなのか…。
尾形の意外な一面を知ったこともあるが純粋にこのキャラのコスプレをしてみたくなった。
「わかった、やろう」
「どのみち拒否権はねぇよ」
「ぐっ…」
せっかく乗り気になったというのにそんな言い方をするなんて嫌味ったらしいやつだ。細かい予定は追って連絡すると言い残すと尾形は帰っていった。鯉登も早速衣装作りに取り掛かった。
イベントの1週間前には完璧なリオンちゃんが完成した。メイクや衣装だけでなく、しっかりとアニメも履修し立ち振る舞いも完璧に仕上げた。尾形も実際に見て合格を出す。鯉登の中にはまだリアルで人に会うことへの不安があったが尾形は自信持てと背中を軽く叩いた。
あっという間にイベント当日となった。更衣室で準備を済ませて尾形のもとへと向かう。仕上がりに満足がいったのか尾形はパチパチと手を叩いた。ふふんとこちらも得意げな顔をして隣に座る。机の上には尾形の作品が置いてあった。これが尾形の描いたものか、とひとつ手にとってみる。
リオンちゃんがグロテスクな触手に襲われてあられもない格好をしている表紙に右隅には18禁の文字。
「一冊やろうか?」
「…ああ、せっかくだから頂こう」
まあ、性癖は人それぞれだ口は出さない。どんなものが好きであろうと否定はしない、こっちだって女装が趣味だからな。
…そういえば、尾形は女装をしていることについては貶したり蔑んだりはしなかったな。バラすぞなんて脅迫はしてきたもののその趣味自体を否定することはしない。こういう活動をしているから抵抗感がないのだろうか。
スマホをいじっている横顔を眺めながらぼんやりと考えていると、すみませんと声をかけられた。
「はい、どうしましたか」
「あ、あの隣のサークルの者です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
ほっそりとした眼鏡の男はニコニコしながら手を差し出した。ずいぶんと礼儀正しいなと思いながらその手を握り返す。
「リオンちゃんのコスプレですよね、すごく可愛いです」
「あ、ありがとう…ございます」
可愛いというリプライは今までもたくさんもらってきたが、直接言われるとどうにも恥ずかしくなってしまった。嬉しいけれど妙な照れくささがあった。
男はギュッと手を握り返しながら、それ手作り?とか終わったあと用事ある?と矢継ぎ早に尋ねてきた。あまりの勢いに何と答えたらいいかわからず、困惑していると尾形が間に入ってきた。
「…まだ準備があるんで」
「あ、すみません! では…」
男は軽く頭を下げて自分のスペースへと帰っていった。そういえばサークル主は尾形だよな、挨拶しなくてよかったのかと声をかけようとしたがジロリと睨まれた。
「あんまヘラヘラするなよ。尻軽だと思われたらどうするんだ」
「なっ、何だと貴様! そんなわけないだろう!」
あんまりな物言いにカチンときて声を張り上げるが、尾形は口に人差し指を当てた。ハッとして口を閉じる。こんなところで大声を出しては迷惑に決まっている。
「忘れるなよ鯉登、今のお前はリオンちゃんだ」
「っ、そうだ。リオンちゃんならきっと毅然とした態度で対応するに決まっている…」
尾形と目線を合わすとこくりと頷いた。私1人だけではない、尾形、そしてリオンちゃんの存在がこのスペースを作っている。それを損なう訳にはいかないと気合を入れた。
「そこのスケッチブックとってくれ」
「ん、これか」
尾形は手渡されたスケッチブックに何をサラサラと書くとページをちぎり、山折り谷折りをして鯉登の前に立てた。何が書いてあるのかと覗き込む。
『写真撮影・お触り・アフター NG』
まもなく開場のアナウンスが聞こえ、イベントが始まった。尾形は界隈では人気の作家らしく次々と人が訪れる。2人で対応してようやく捌けるほどの混み具合だった。
鯉登のコスプレもなかなかの反響だった。冊子を手渡しするたびに声をかけられる。
「めっちゃ可愛いです」「衣装手作りですか? やべぇ…」「リオンちゃん!? クオリティ高すぎ!」「美しいです…ありがとうございます…」
次から次へと送られる賛辞の嵐に、心が満たされていく。心配していた体格についても何も言われない。直接声をかけられることがこれほど嬉しいこととは! はじめの頃はリオンちゃんのようにスン…と澄ましていたがどんどん嬉しくなってきてニコニコと対応してしまっていた。
鯉登のコスプレが話題になったおかげで客足は伸び、在庫はあと僅かになっていた。脅迫されたから参加したけれどこれは成功だった。
「同人誌即売会、最高だな!」
充足感で満面の笑みを浮かべて尾形に声をかけるも、何故か面白くないという顔をして不機嫌そうに鼻を鳴らした。
人もまばらになり、ようやく落ち着いてきた。水分補給をしようとカバンを漁るが持ってきていたお茶のボトルは既に空っぽになっていた。しまった、どこか買える場所はあるだろうかと尋ねようとすると、尾形の方から声をかけられた。
「茶、買ってきてやる。お前も適当に休んどけよ」
「わかった、ありがとう」
返事代わりに軽く手を振るとのそのそと会場を出ていった。
鯉登もようやく椅子に座る。楽しさで忘れていたがかなり長い時間立ちっぱなしで対応していた。ただ座っているだけなのも手持ち無沙汰なので、売上やお釣りの小銭を勘定していた。ずいぶんとお金が動いているが、これを個人で管理するのは大変だろうな。
ふいに、新刊くださいと声が聞こえた。しまった、ぼんやりしていたと慌てて立ち上がる。しかし、その拍子に机に足をぶつけてコインケースを落としてしまった。ガチャンと派手な音を立ててあたりに小銭が散らばる。
「す、すんもはん!」
急いで謝りながら小銭を拾う。声をかけた人は親切にもしゃがみこんで拾うのを手伝ってくれた。
「うふふ、うっかりさんやなあ」
お金を拾う鯉登の手がピタリと止まる。視界に入ったのは小銭を拾おうとする白い手。男らしいゴツゴツとした大きな手のわりにずいぶんときめ細やかな白、それにとても耳馴染みのある訛りと声。
鯉登はゆっくりと立ち上がり恐る恐る声の主を見た。
「あ、兄さあ…?」
「…音?」