午前6時の愚か者(前)新横浜の駅にほど近い雑居ビルの一角に居を構える、
ロナルド吸血鬼退治人事務所。
――その若き所長であり、有能な吸血鬼退治人であるロナルドは、
己の城とも呼べるその事務所の予備室に閉じこもっていた。
「ロナルドくん、出ておいで。大丈夫だよ、何も怖がることはないんだよ」
吸血鬼退治人・ロナルドの相棒である、高位吸血鬼であるドラルクは、
使い魔の賢くて可愛いアルマジロと共に予備室の扉越しに、つとめて穏やかな声でそう呼びかけた。
足元で賢くて可愛いアルマジロのジョンも、主人と一緒に「ヌー、」と些か哀れを誘う鳴き声を上げる。
常のロナルドなら、ドラルクはともかく、この可愛らしいジョンの懇願――或いはおねだりに滅法弱く、
諸手をあげて予備室から飛び出してきただろう。
だが、今は。
内側から鍵を掛けられた予備室の重く冷たい扉は、ぴくりとも動く気配がない。
固く閉ざされた扉の向こう側では、ロナルドが何をしているのか、ドラルクとジョンには知る術がない。
しかし――無理もない話でもあった。
ドラルクは小さなため息を吐いて、首を竦めた。
今宵の新横浜――吸血鬼のホットスポットとも揶揄されるこの魔の都に現れた吸血鬼は、
強力な催眠術の使い手であった。
名前は――何か面白い名を名乗っていたが、この騒ぎの中でドラルクは忘れてしまった。
(ドラルクは優れた記憶力を持つ吸血鬼だが、それは彼の興味のある事象に限られる。)
肝心なのは彼の能力が引き起こした事象だ。
――彼は、その強力な催眠術を使い、術のかかった相手の隠し事を暴露させ、
慌てふためく人間とその周囲の人間を見て楽しむという、なんとも趣味の悪い吸血鬼であった。
これが猥談――心に秘めた性癖(フェチズム)を開放させる事に特化したのが、
かの有名な吸血鬼Y談おじさんだが、それはいったん置いておく。
なにせ、彼が引き起こしたこの事件に比べれば、
Y談おじさんの引き起こす騒動など、可愛らしく思える程だからだ。
善良な市民を守るべく、立ち向かった吸血鬼退治人・ロナルドと、他の退治人たち。
そうしてかの吸血鬼はロナルドの鉄拳によりアスファルトに沈んだ訳だが、
運悪く――ロナルドは彼の能力にかかり、秘密を暴露させられてしまった。
その、彼の秘密とは。
「……まあねえ、実のお兄さんのことがそういう意味で『好き』っていうのを、
無理矢理暴露させられたっていうのは、ロナルドくんにとってすごくショックだったっていうのは、
幾ら私でも面白がって遊ぶ気になれないよ」
――ネタが重すぎる。
吸血鬼というのはそもそも享楽的な生き物である。
面白ければ、自分の命が危険に晒されようと気に留めない様な、
刹那主義ともいえる――人間とは違った価値観を持つ生き物だ。
とはいえ、それでも倫理観や善悪の概念は当然持っている。
ドラルクも御多分に漏れず、享楽主義を自称する吸血鬼の一人であるが、
『暴き立てて踏み荒らし、面白がって遊ぶこと』が、憚られるものもある。
例えば、この同居する相棒の、心に秘めた思い人の事なんかは、まさにその筆頭と言える。
「ねえロナルドくん、本当に大丈夫だよ。あそこには私とジョンしかいなかった。
他の退治人は近くにいなかったし、市民の誰も現場にはいなかった。君の秘密を聞いてしまったのは、
彼と、私たちだけだ。彼の記憶はお父様に頼んで丸一日分消してあるし、なんの心配もいらないよ」
危険度『みみず』級のドラルクと違い、ドラルクの父・ドラウスは正真正銘の強大な吸血鬼だ。
そのドラウスに大急ぎで電話し頼み込んで、件の吸血鬼の記憶はVRCや吸対が来る前に消して貰った。
ドラウスには「ロナルドの大事な秘密を聞かれた」とだけ伝えてある。
内容は聞かずとも、現場の異様な雰囲気から状況を察したドラウスは、剣呑な内容に若干困惑を示したものの、
最終的にはドラルクのおねだりを聞いてくれた。
「(まあ、お父様もロナルドくんの事は、それなりに気に入ってるもんな)」
蒼褪めるを通り越して、紙切れ様な顔色で呆然で座り込み、
がたがたと震えて会話すらままならない程動揺しているロナルドを見れば、
ドラウスでなくとも尋常ではない事態である事は一目瞭然だ。
――その後。
ドラウスに記憶を消された吸血鬼は吸対によってVRCに送られ、
ロナルドはドラルクに促されどうにか立ち上がったものの、まっすぐ歩く事すらままならず、
見かねたドラウスに背負われて、文字通り這う這うの体で事務所へと帰ったのであった。
かくして、俄かに正気を取り戻すなり、声にならない悲鳴をあげ、
ロナルドは予備室に籠ってしまい――現在に至る。
(尚、ドラウスは「今はパパがいない方がいいと思う」と言って、
何も聞かずに栃木の城へと帰って行った。
勿論、「困った事になったらパパを呼びなさい」と、付け加えて。)
「ロナルドくん。ほら、ホットミルク作ったから、飲んでよ。そこは寒いだろう」
とんとん、と控えめにドアをノックし、猫なで声で話しかける。
そんなチャレンジを幾らかしていると、やがて鍵が開く音がした。
ドアの間から、ゆっくりとロナルドが顔を覗かせる。
――なんだかんだと言いつつ、彼は理性的な大人だ。
いつまでもこの部屋に閉じこもっている訳にいかないのだと、
感情はともかく理性はそう状況を理解している。
とはいえ、その表情は目の下に隈が出来ていて、目は落ちくぼみ、顔色も真っ青だ。
形のよい肉厚の唇はわなわなと震えており、彼が本当にどうにか、彼の中の理性と勇気を振り絞ってドアを開けた事は明々白々であった。
日頃の精悍な美丈夫の面影はまるでない。
たった数時間のあの冗談の様な捕物の中で、かれの生気がごっそりと抜け落ちてしまった様だった。
尋常でないその様子に、さしものドラルクも息を飲んだ。
そうして、僅かな間の後に正気を取り戻し、ごほん、と咳払いをして、
手にしたホットミルクのカップを掲げて、微笑んで見せた。
「……お、俺、」
「大丈夫だよ」
ドラルクが柔らかい声で言うと、ロナルドは微かに息を吐いた。
そうして、ドラルクに促されるままにソファにふらふらと移動し、崩れ落ちる様に腰かける。
すかさずジョンが柔らかなひざ掛けを持ってきて、彼の背中にかけてやる。
ドラルクは彼の隣に腰かけ、ホットミルクの入ったカップを手渡した。
ホットミルクを一口飲んだロナルドは、顔を伏せたまま――しゃがれた声で言った。
「誰にも言わないでくれ」
「無論だとも。君が望むなら。ねえ、ジョン」
「ヌー!」
「……。ありがとう」
「ねえ、ロナルドくん、」
「……いいよ、分かってんだ、こんなの。気持ち悪いって。普通じゃないって。
だから俺、死ぬまで誰にも言わないつもりだったのに、……」
ロナルドは、ドラルクの言葉を遮って言った。
それは彼の恋心を客観的に示した言葉でもあり、彼自身の心を傷つけるナイフでもあった。
一体、この若者は――いつから、このナイフで自分の恋を傷つけてきたのだろう。
恋とは、その苦しさや切なさも含めて、ひとの――吸血鬼の――心を、人生を豊かに彩るものだ。
時に愚かに、時に盲目に、時に嫉妬に、時に愛や喜びを得られる素敵な感情だ。
無論、恋とは無縁であっても、豊かで彩りのある人生を送る者も多くいるだろう。
ドラルクはどちらかというと後者のタイプだが――それでも恋する者を否定はしない。
だから、己の恋を、心を、否定し傷つけて俯くこの青年が、酷く哀れで、切なく思えた。
「……珍しい話ではあるが、ない話じゃないんだよ。我々吸血鬼の間ではね」
「……え?」
「我々はこういう生き物だからね。昔は血族同士の婚姻の方が普通だったんだよ。
私だって昔従姉妹とお見合いした事あるくらいだし」
「……いとこ同士は、普通に結婚できるだろ」
「ものの例えだよ。古き血の吸血鬼であればある程、血族同士の近しい婚姻が多かった。
それこそ、昔は兄弟姉妹の近親婚も珍しくなかったくらいにね。
だから多分、私は君たち人間に比べると『そういう関係』に対しての忌避感は薄いほうだ」
「……」
「ロナルドくん。私は君を気持ち悪いとは思わないし、人間にとってのタブーを犯した事を気に病む君を、
揶揄って遊ぶつもりもないよ。いくら私だってネタにして遊んで良いものと、そうじゃないものの区別はつくさ。
そのくらいの分別は弁えているつもりだよ」
ドラルクはそう言って、ロナルドの肩に手を置いた。
肩から背中にその手を回し、ぽんぽんとあやす様にその背中を軽く叩いてやる。
分厚く広く、逞しい退治人・ロナルドの背中。
戦う力を持たないか弱い市民の守護者たる力強い背中の筈のそれが、
今はひどく頼りなく、脆いように感じられた。
ドラルクは腰を屈めて、ロナルドの顔を覗き込んだ。
憔悴しきった青色の瞳と、視線が交わる。
不安と恐怖と、動揺に揺れる青色は、普段の力強く見る者を安心させる眼差しの面影は微塵もない。
ドラルクは唇に笑みを乗せた。
この怯える青年を、少しでも安心させてやりたかったからだ。
「大丈夫だよ。君が誰を好きだって、誰を愛していたって、私たちの関係は変わらないよ。
私はドラドラキャッスルマークⅡの主人で、君はその下僕だ。
私は君と一緒にいると楽しいし、退屈しない。今までと変わらず、こうやってこの城で君と一緒に過ごしたいと思っているんだよ」
「ヌー!!」
「ほら、ジョンもだって」
ロナルドの膝の上に乗っていたジョンが、身を起こして鳴き、ロナルドの腹に抱き着く。
――この賢くて優しいアルマジロは、弟分である人間を抱き締めて慰めてやろうとしているのだ。
その意図が伝わったのだろう。ロナルドはホットミルクの入ったカップをテーブルに置き、
恐る恐るジョンの背中の甲羅に手を添えた。
ゆっくりと首を傾けて、ロナルドがドラルクを見つめた。
青色の瞳に、ゆっくりと薄い涙の膜が張っていく。
あ、と――思った時には、ぽろりと涙が一粒、かれのかさかさの頬を滑り落ちていった。
そうして――ロナルドは、「ありがとう」と、か細い声で言って、
声を押し殺すように嗚咽した。
ドラルクとジョンは――彼の涙が止まるまで、いつまでも彼の隣に寄り添っていた。
※
そんな事件があってからというもの。
ドラルクには少しばかり困ったことがあった。
「ロナルド、なんだか雰囲気柔らかくなりましたねえ。何かありました?」
「さあ……、どうだろうねぇ」
カメ谷が何とも言えない目でドラルクを見つめて来る。
すっかりドラルクも顔なじみになった週間バンパイアハンターの記者にして、
ロナルドの高校時代からの友人・カメ谷は、取材の為にロナルド吸血鬼退治人事務所を訪れていた。
所長であるロナルドの写真を何枚か撮った後、ロナルドが席を外したこのタイミングで、
困惑した様に――彼はドラルクに言った。
やめてほしい。
本当にそんな目でドラルクを見るのはやめてほしい。
ドラルクだって困惑しているのだ。
確かにロナルドは元々人の好い男だ。
女性慣れしていない事を除けば、基本的なコミュニケーション能力は高いし、
突然押しかけて来たドラルクとジョンを、なんだかんだと言いつつ受け入れ同居させ、
果ては本来退治すべき吸血鬼の相談に乗り、心に寄り添う心優しい男だ。
とは言え、彼は短気で粗暴な一面もあり、何かにつけて揶揄うドラルクを文字通り殺すのが日課であったのだ。
だが――それがどうしたことか。
今でも、確かにドラルクがロナルドをおちょくり、怒ったロナルドがドラルクを殺す。
それはいつものことだ。――そうなのだが。
「お待たせ、カメ谷。電話、大した事ない用事だから、取材の続き大丈夫だぜ」
「ああ、うん……」
「何だよ、変な顔して」
「いや。お前がなんか、最近雰囲気変わったなって話ししてたんだよ」
「ええ?そんな事ないよな、別に前からこうだよ。な、ドラルク」
「……うん。そうだね」
「ほら。な!」
そう言って、ロナルドが破顔した。
眩しい。
率直にドラルクはそう思った。
最大風速計測不能のイケメンの青い風に、眩しい笑顔。
ドラルクに向けられる警戒心や距離感の一切ない屈託のない笑顔に、
信じられないという風にカメ谷が二人の顔を何度も交互に見やっている。
ドラルクは口元が引きつるのが分かった。
分かる。分かるよカメ谷くん。
今のロナルドには以前の様な肩肘張った、――張り詰めた緊張感がないというか。
彼の纏う独特の緊張感はやわらぎ、常に緊張に晒されて気の休まる時間の少なさの為か、
整ってはいるものの些か険しさを孕んだ顔つきは、すっかり甘やかで穏やかなものになっている。
一言でいうと人相がまるで違うのだ。
文字通り、全幅の信頼を寄せられている。
ドラルクだって、ロナルドの事は信頼できる素晴らしい(面白い)友人だと思っているのだから、
これはドラルクにとって、とても喜ばしい事だ。
そしてその理由も分かっている。
実兄・ヒヨシへの誰にも言えない秘密の恋を――彼自身が否定し、傷つけ続けていた心を、
ほかならぬドラルクが受け入れ、肯定した事だ。
きっとあの出来事がきっかけで、ロナルドの中でのドラルクの好感度レベルがカンストしたのだろう。
(友情的な意味で、だが)
押し込めて、傷つけて、秘密にしていた辛い心を、受け容れ肯定される事は、
ロナルドにとって、ドラルクの思っている以上に心の救いになったのだろう。
それ自体は喜ばしい事だ。
あの日の様に、憔悴しきった青い瞳を、ドラルクだってもう二度と見たくはないのだ。
それは良いのだ。
本当に良い事なのだ。
ただ、問題なのは――
「(こんな顔、今までお兄さんの前でしか見せなかったじゃない……!)」
安心しきった、なんの気兼ねもない柔らかな笑顔。
内面の幼稚さで忘れられがちだが、元々が黙って立っていれば、
ロナルドはモデルや俳優にだって引けを取らない美丈夫なのだ。
そのとんでもないイケメンの、百点満点の笑顔である。
「(これは非常にマズいぞ……)」
何がマズいか。
これまでこの笑顔は――彼の思い人にして実兄のヒヨシにしか見せなかった様な、
好感度レベルカンストしないと見られない超稀少なスチルだった。
ロナルドは人当たりの良い男だが、その実心の内側にはそれなりに高く堅牢な壁を作るタイプだ。
その理由の一つが、きっとあの誰にも言えない秘密の恋でもあったのだろう。
さて、その稀少なスチル――高く堅牢な心の壁の内側に招き入れた者にしか見せない、
この笑顔はドラルクには最早日常の一枚となっている。
そしてドラルクとロナルドは基本的に行動を共にすることが多く、
今にカメ谷の様に――ロナルドがドラルクに向けて、『特別』の顔をする様を、
これでもかと皆が見ているのだ。
つまり。
「(……なんか、すっごい誤解されそうな気がする……!!)」
嫌な予感、或いは悪寒がしてドラルクはぶるりと背を震わせた。
吸血鬼は人間の様に風邪を引いたり、病気になったりはしない。
風邪の悪寒とは、きっとこんなものなんだろうと、現実逃避のようにドラルクは考えた。
果たしてドラルクの予感は、この後見事に的中することになる。