愚か者の秘め事(ヒヨシとモフロナ)吸血鬼が頻繁に出没し、魔都とも揶揄される新横浜の街。
この街には一風変わった相談所がある。
その名も「ドラルク吸血鬼お困り相談所」。
さる名家の血族の高等吸血鬼ドラルクが所長を務め、吸血鬼にまつわるあらゆる相談事に対応する何でも屋――のようなものだ。
吸血鬼は種族の特徴として、享楽主義であることがあげられる。
御多分に漏れずドラルクもその性質を色濃く持っており、日夜繰り広げられるトンチキな事件に首を突っ込んでは、退治人や吸対を巻き込んでのバカ騒ぎに興じる――というのが、『いつもの』ことであった。
さて、一応は高等吸血鬼が運営する事務所、ということで、定期的に警察――吸血鬼対策課の監督が入る。
吸血鬼対策課のヒヨシ隊長である、木下ヒヨシは、その監督の為にドラルク吸血鬼お困り相談所を訪れていた。
「こりゃ。新しい使い魔が増えたなら申告せんとダメじゃろうが」
ヒヨシの膝の上でころころと転がる銀色のぬいぐるみ。
犬のような、猫のような。不思議な造形のそれは、命を持った生き物だ。
銀色の毛並みに青色の瞳のそれは、どういうわけかひどくヒヨシに懐き、嬉しそうに笑っている。
彼の名はロナルド。
部下からの報告によれば――半年ほど前から、この事務所で過ごしているのだという。
恐らくはドラルクの新しい使い魔で、やんちゃだが甘えん坊、ちょっぴり寂しがり屋で、しょっちゅうドラルクや先輩使い魔のジョン、防犯装置のメビヤツにくっついているのだとか。
愛らしい見た目と性格。
どうみても害はなさそうだが――規則は規則である。
同居吸血鬼が増えたのなら、申告をして貰わなくてはいけない。
ヒヨシがそう言うと、ドラルクは肩を竦めて言った。
「ああ、失敬。しかし彼は使い魔ではないのですよ」
「? どういう事じゃ」
「話せば長いのですが――ロナルドくんは使い魔ではなく、吸血鬼でもない。その子はぬいぐるみに人の子の魂を宿しているのですよ」
「ど、どういうことじゃ?」
突然告げられた突拍子もない言葉に、ぎょっとしてヒヨシは目を剝いた。
ドラルクは「話せば長いのですが…」と前置きして言った。
「半年ほど前になりますかな。⚫︎⚫︎の海辺をジョンと散歩していた時に、その子と出会ったのです」
「……⚫︎⚫︎の海辺……?」
「ええ。彼は海で死んだ人間の子どもだったのです。未練から天の国へ行く事ができず、彷徨い続けてすり減って……消滅するところだったのですよ」
「……!」
「事情は分かりかねますが、どうやら彼は人間だった頃に、育ての親である兄に海に連れてこられ、そのまま殺されてしまったようなのです。にも関わらず、彼には恨みや憎しみの心は一切なかった。彼の未練とはーー彼にとっては優しかった兄がそのような手段に出るほど追い詰めたのが自分の存在であった、自分さえいなければ優しい兄がこんなことはしなかった、という強烈な罪の意識。その一方で、ひとりぼっちで消えゆくことへの寂しさと愛情への餓えでした」
「……」
「私はこの子がとても哀れに感じた。そこでこの子の魂を、作ったばかりのぬいぐるみに移し、ここへ連れ帰ったのです。この世への未練を解消し、安心して天の国へ行けるまでーー私たちが、この子にありったけの愛情を注ぎ、面白おかしい毎日を過ごす中であの子が自分を罰しようとせず、心から自分自身とこの日々を愛することができるようにしてやりたいと、そう思ったのです」
ドラルクはそう言って、ロナルドをヒヨシの膝から取り上げた。
不思議そうに見上げるロナルドを抱きかかえ、優しい眼差しで見つめ、撫でてやる。
ロナルドは嬉しそうに笑って、キュ、キュ、と獣のような声を上げた。
ドラルクは続ける。
「名は私が付けました。魂が擦り切れ、人格も記憶も薄れて、人間であった頃の名は分からなくなってしまったので。ロナルド、オークニーの勇敢なる巡礼の騎士から貰いました。まあ、ですから、あの子は使い魔ではなくーーなんと区別したら良いのやら……強いて言うなら眷属に近いのかもしれません。隊長さん?」
「ああ、聞いとる。そういう事情だったなら、良い。書面上は眷属の扱いにして申請しておくようにな」
「……どうされました?大丈夫ですかな。顔色が悪いようですが」
「今日で12連勤なんじゃ。そのせいじゃろ」
ヒヨシはそう言って、軽く額を押さえた。
「それはどうもお疲れ様です。今度、元気な時にまた遊びに来て下さい。この子はね、昔の週バンを見て『レッドバレット』の大ファンなのですよ」
「……そうか」
レッドバレット。
ヒヨシがかつて短い間だが――吸血鬼退治人だった頃のハンターネームだ。
もっとも、短期間でさしたる成果もなく引退し、吸血鬼対策課へ転向したので、それを知る者はあまりいないのだが。
ヒヨシはそう言って、「早いとこ書類出せよ」と言って、ソファから立ち上がった。
「キュ、キュ!」
「また来てね、ですって」
「……。ああ、またな……」
目を輝かせ、嬉しそうに手を振る銀色のぬいぐるみを横目に、逃げるようにヒヨシは事務所を後にした。
※ ※ ※
俺は過去に一度、許されない過ちを犯したことがある。
親を亡くし、周囲の反対を押し切って弟と妹と3人で暮らし始めた頃だ。
俺は高校を中退し、吸血鬼退治人として働きはじてた。だが、それは生半可なものではなかった。
昼夜逆転の命の危険が伴う危険な仕事に、5歳と1歳の子どもの世話。
下の妹は大人しく手がかからなかったが、5歳の弟はやんちゃ盛りでーー毎日が文字通り戦争だった。
甲斐甲斐しく俺の手伝いをしようとする弟は、正直言って邪魔だった。
いっそのこと何もせずにじっとしていてくれれば、どんなに楽だったか。
だが、弟が俺を思い、何かをしようと一生懸命だという気持ちは痛いほど伝わっていた。
だから余計なことをして、余計なことばかり言う弟を、引き攣った笑みを浮かべて、必死に頭を撫でて褒めてやった。
――必死だった。ただ、それだけしか覚えていない。
吸血鬼退治人の仕事も駆け出しのためか、なかなかうまく行かずーーそんな日々が続いたある日、「ねえ兄ちゃん、今度のおやすみに、おれ海に行きたいな!」という弟の言葉に、とうとう俺の中のなにかが折れてしまった。
いいだろう、そんなに海に行きたきゃ連れてってやる。
やけっぱちになって、俺は弟と妹を連れて⚫︎⚫︎の海へ来た。真夜中の海辺には誰もいない。
俺は妹を抱っこし、弟の手を引いて海の中へと入って行った。兄妹3人、ここで死ぬつもりだった。
弟がなにか叫んでいたが、耳に入らなかった。弟の声を無視して、その腕を無理矢理引いて海へと進んだ。このまま進んで、海に入っていけば――楽になれる。
もう何にも煩わされず、何にも疲れさせられることもない。
すべて終わる。
すべて!
その甘い誘惑を断ち切ったのは――まだ赤ん坊だった妹の、泣き声だった。
滅多に泣くことのない赤ん坊の妹が突然、火がついたように泣き出したのだ。
空気が割れんばかりの泣き声に、俺ははっと我に帰った。慌てて妹を抱き抱えるためにーー弟の手を離した。
そうして両腕でしっかりと妹を抱きしめた次の瞬間、弟は波に攫われーー二度と、帰ってくることはなかった。
命からがら浜辺へ妹とともに戻り、正気に戻ったもののーーどれだけ叫んでも弟は帰ってこなかった。
俺が、あの子の手を離したからだ。
俺が、あの子を殺した。
警察には嘘をついた。
弟がどうしても海に行きたいと強請るから連れてきた。海辺で遊んでいた弟は、少し目を離した隙に波に攫われーー助けようと海に入ったけれど、結局叶わずに流されてしまった。
おいおいと泣きながら垂れ流した嘘は、思っていたよりもすんなりと受け入れられた。
俺には殺人者の烙印は押されず、両親に続いて弟も亡くした運の悪い男というレッテルが貼られた。
それから俺は退治人を辞め、吸対に転向した。不安定な退治人より、吸対のほうが妹を育てていくのに良いと思ったからだ。
それからはすべてが順調だった。その後は妹はどこまでも育てやすい子だったし、仕事も大変ではあったが安定していた。
妹は成人し自立し、俺は吸血鬼対策課で部下を持つ隊長格にまで昇進した。
なにも不安に思うことはなかった。
ーーあの子は時折、夢に出てくる。
決まって背中を向けて、丸くなって声も出さずに泣いている。
俺はもう何十年も前に着なくなった真っ赤な退治人姿で、おろおろとあの子の隣で途方に暮れている。
なぜなら、撫でてやりたいのに手が届かない。
なぜなら、抱きしめてやりたいのに、手がすり抜ける。
慰めてやりたいのに声が出ない。あの子は俺に気づかず、冷たい暗闇の底で体を丸めてひとりきりで泣いている。
ーー俺が、あの子をこんなところに追いやった。
――無垢で、なんの罪もなかったあの子を、俺が正しく愛してやれなかったばっかりに。
せめて、顔をあげて睨んでくれれば良いのに。
せめて、声をあげて罵ってくれれば良いのに。
恨みと憎しみを込めて、俺に復讐しようとしてくれれば良いのに。
ドラルクの事務所であの子を見た時、心臓が止まるかと思った。
似ている。直感的にそう思った。
だが、まさか。
そんな思いはーードラルクの話を聞き、確信へと変わる。
あの子は俺の弟だ。
俺の過ちで、俺が殺してしまったあの子だ!
あの子は、あの頃の俺とそっくりの退治人服を着て、うれしそうに俺に笑いかけてくる。
俺のファンだという。
あの頃の俺とお揃いの服でないのは、あの子が退治人ごっこでは「レッドバレットの相棒になって、ピンチのレッドバレットを助ける凄腕退治人」という設定が好きだからだそうだ。
ああ。
あの子は。
あんな姿になってまで、俺を助けようとしている。
そんな、あの子を。
俺は。
俺は。
――俺が!!
今のあの子は、夢の中のように泣いてはいない。
ドラルクや、事務所の吸血鬼、周囲の者たちに可愛がられ、愛され、ありったけの愛情を注がれて、幸せそうに笑っている。
ドラルクが言うにはーーもう魂は擦り切れ、記憶も人格もほとんど人間の頃のものは残っていないのだという。
それなのに。
それなのに。
ーーお前は、まだ、俺を。
体がばらばらに砕け散ってしまいそうな絶望感。
胸が張り裂けそうなほどのこの痛みと苦しみ。
銀色のふわふわの毛並みと、青空のような瞳。無邪気に笑いかけられ、懐かれるたび、心臓が握りつぶされたような痛みを覚えた。
これが。
この「ロナルド」が。
ーー俺が一生涯かけて背負わなければならない、罪の形そのものなのだろう。
「さあロナルドくん!仕事は終わりだ!お手伝いをしてくれたいい子には、ご褒美におやつのリクエスト権をあげよう。今日は何が食べたい?」
事務所の薄い扉の向こうから、慈愛に満ちた吸血鬼の楽しそうな声が聞こえる。
ああ、俺も。
こんなふうにーーあの子を正しく、愛してやれば良かったのに。
俺のあの子は、今も暗闇の底で、声もなく泣いている。
「ヒデオ」
ヒデオでなくなったロナルドは、もう、俺に謝ることすら許してはくれないのだろう。
俺はただ、唇を噛み締めてうす暗い廊下を歩くしかできなかった。