食べてくれる人 朝食時を過ぎ閑散とした様子の地獄の食堂で、プリニー帽を被った少女フーカは頬杖をついてぼんやりとしていた。
食堂の扉を開ける音がして、彼女が他にすることもないのでそちらに目を向けるとそこには見知った人物の姿。フーカは大きな瞳をくるりと丸くして頬杖を外した。
「おーい、フェンリっちー」
そして、手を掲げて振りながらその入ってきた人物に勝手に付けたあだ名で呼び掛けたのだった。
入ってきた狼族の男、フェンリっち……ではなく、フェンリッヒは、どうせ嫌な顔をして無視されるだろうというフーカの予想を裏切って、意外と素直なことに彼女の傍までふらりと歩いてきた。(とはいえ、きっちりと嫌そうな顔はして見せた)
その素直さに少々驚いていたフーカだが、近くまでやって来たフェンリッヒをよくよく見て原因を察した。
「うわ、フェンリっち酷い顔」
顔色は青白く、目の下には濃い隈が出来、ふわりとボリュームのある髪や尾の毛にも艶がない。誰がどう見てもお疲れである。何かに逆らったり、意地を張ったり、そういうことが全て億劫になるほどに。
「うるさい」
フェンリッヒは短く言い捨て、フーカの近くの椅子を引いて落ちるようにどかりと着席した。続いて深く長い溜め息の音。
『女の子の前で溜め息なんて失礼ね!』と、いつもなら噛み付いてやりたいところであるが流石にそんな雰囲気ではなかった。本気で不機嫌なときのフェンリッヒがどれほど危険なものか、さしものフーカも学習済みなのである。
「飯は……」
ぽつりと呟かれた言葉が自分宛のものだとフーカは数秒気付けなかった。
「朝ごはんの時間、終わっちゃったわよ」
地獄は、全体が魔界の監獄という施設である。住み込みで働く看守や囚人の為の食事は管理されており、朝昼晩と提供される時間がきちんと決まっている。無論、看守等の職員には食に関する制限はないのだが、この一日三回の食費は給料から毎月天引きされているので基本的に皆が利用していた。
「そうか……」
フェンリッヒは机にもたれてそう言ったきり動かなかった。
「あのさ、あんた今回は何徹したわけ?」
「言いたくない」
「なによう、その言い方。隣に来てそんな顔でぐったりされたら誰だって少しは心配するんだから」
むっとしたフーカにそう言われて、何かを思い出したようにフェンリッヒは顔を上げた。
「閣下にも、酷い顔だと言われた。少し、休んでこいと。それでオレも一眠りしようと思ったんだが……」
フーカは合点がいったように深々と頷いて見せた。
「あー、お腹空いちゃって眠れないってあるわよねー。特に勉強してて夜更かししたときとか無性にパンとかお米が食べたくなったり」
「お前、勉強なんかしてたのか? それにしてはおつむが……」
心底意外そうに見つめられてフーカは思わず口ごもった。
「お、おつむが何よ、はっきり言いなさいよね!」
「いや、夜更けまで勉強をしていて『それ』なら余りにも哀れだ。これ以上はオレでも気が引ける」
「キイィ! 優しさじゃなくて嫌みだってことくらい、あたしにだって分かるんだからね! あたしは悩み多き乙女なの! 思春期には勉強以外にもやらなきゃいけない大事なことがたくさんあるんだからーっ!」
「ほらな。どうせ遊びにかまけて授業に遅れて、慌てて詰め込んでた、ん……」
いつもの調子でフーカをからかうフェンリッヒであったが、言葉の途中で盛大に腹の虫が鳴き声を上げたので、忘れかけていた空腹を思い出し再び机に突っ伏した。
眠い。このまま直ぐにでも眠りに落ちてしまいたいのに胃部の不快感がどうにもそれを許さない。
唐突に倒れ込んで小さく唸り声を上げているフェンリッヒに、フーカも戸惑ってしまう。打てば響く鐘のように、投げ返される言葉がたとえ嫌みやからかいの類いでも、いつでもあるものが失われると調子が狂うものである。
「ちょっと、こんなところで寝ないでよね。お昼ごはんの時間まで……、って、待てるわけないか」
時計を見ると、昼食時まであと三時間はある。時計とフェンリッヒを交互に見比べたフーカは、『ふんっ』と短く息を吐くと机に手をついて立ち上がった。
「しょーがないわね。そこで大人しく待ってなさい」
そう言ってフーカは食堂を出ていった。
向かった先は隣の厨房だ。ズバン! と勢い良く扉を開けると、食器を片づけていた厨房当番のプリニー達がぎょっとして振り返った。
「ふ、フーカさん? どうしたッスか、お昼にはまだ早いッスよ?」
「場所と食材借りるわよ」
フーカはずけずけと厨房に入り込むとポケットから取り出したヘアゴムで手早くツインにした長い髪を団子状に纏めながら有無を言わせぬ調子で宣言した。
「え? え? その、困るッス、勝手に食材使ったら見張りを任されてるオレ達が怒られるッスから……」
「固いこと言いっこなしよ! ちょびっと使うだけだからさ」
肘まで腕捲りをして手を洗い、そのまま業務用の大型冷蔵庫へ向かう。
「えーっ! ダメっスよフーカさん! あっあっ、冷蔵庫開けないでッス~!」
「ごちゃごちゃうるさいわねぇ、ホームランボールにされたいの!? ちょっとくらい良いじゃない! ふむふむ、卵があるわね……」
「それは夜のイワシの卵とじ用ッス!」
「何個かなら誤差よ」
フーカは慌てるプリニー達を無視し、必要なものを手に取ると調理台に置いた。自信ありげな彼女を不安そうに見上げるつぶらな瞳の群れ。迷いのない仕草ではあるが、そもそもフーカは物怖じしない性格である。普段の彼女の行動を思うと、プリニー達の不安も当然と言えるかもしれなかった。
「フーカさん、料理出来るんスか……?」
食材を前にしたフーカは、恐る恐る声を上げたその小さなペンギンもどきをちらりと見下ろして不敵に笑うのであった。
「ふふん。まあ、見てなさい」
机に倒れたまま、目を閉じるだけ閉じて自分の腹が唸る音を聞いていたフェンリッヒはふと鼻腔を撫でた良い香りにぴくりと尻尾を揺らめかせた。顔を上げると同時に目の前に一枚の皿が置かれる。
そこにはふんわりと白い湯気を立てる黄色の塊。
「はい、卵焼き。これ食べたら部屋行って寝なさいよね」
戻ってきたフーカが、そう言いながら再び隣に着席した。
「お前が作ったのか?」
「そうだけど」
フェンリッヒは何か恐ろしいものでも見るような目で皿の上の卵焼きを見つめたが、どこにも不審な点は見当たらず、むしろ程良い焼き色が大変食欲をそそった。小さく唾を飲んだフェンリッヒは箸を手に取り一口サイズに切り分けられているそれをゆっくりと口に入れた。
咀嚼するうち、フェンリッヒの目が驚きに見開かれていく。
「甘い……」
「あー、甘いの嫌だった? 疲れてるときにはそっちの方が良いかと思ったんだけど」
「い、いや、別に」
甘いものが苦手なフェンリッヒであったが、この卵焼きのそれが決して嫌な甘さではなかったことに驚きを隠せなかった。甘味はほのかで、ひと垂らしされた醬油の香ばしさ、塩気と相まって何度も箸を運びたくなるような中毒性がある。ほかほかの卵焼きは噛む度に卵の旨味がじゅわ、と口内に広がって……とにかく旨い、旨いのである。空腹で疲れた胃にも優しく染み渡る。
余りにも腹が減っているからとかそういう次元の話ではないと、彼自身料理をすることもある為分かるのだ。単純にこれは、作り手の腕が良い。
『早く次を寄こせ』とでも言うように胃が収縮するのに従ってフェンリッヒは次々と卵焼きを頬張っていった。
フーカはそんな彼の様子を黙ってじっと見つめていた。どこか満足そうに、微笑ましそうに。
半分以上食べ進めてようやくその視線に気付いたフェンリッヒは、何となく恥ずかしいところを見られたような気がして、無理矢理に不機嫌そうな表情を作って彼女を振り返った。
「何だよ。そんなに見られちゃ食い難いだろ」
「へっ? あ、ごめん」
フーカは指摘されて初めて気が付いたようだった。
照れ臭そうにした後で、『だって』と言い訳の言葉を続けた。
「自分の作った料理を誰かが食べてるところを見るのが、すごく久しぶりだったから。なんか嬉しくなっちゃってさ」
「あ?」
「ずっとパパと二人でいたでしょ? でもパパは研究で忙しいから、家事とかほとんどあたしがやってあげてたわけ。夕飯を用意しても、夜遅くまで研究室に籠りっきりのパパとはあんまり顔を合わせて食べること無かったから……」
視線を外し、どこか遠い目をして話すフーカは普段の明るく活発な印象ではなく、ひどく寂しそうで大人びて見えた。
そしてふと思い当たったのは、中学生であった彼女が家事全般をこなしていたのなら、学業に励むための時間はそれほど無かったろうと言うことだ。先ほどの自分のからかいの言葉が、苦味となって広がった。
確かに彼女は馬鹿だし、アホだし、思慮が足りない……と、フェンリッヒは思う。だが、決して、救いようもないほどの魂ではない。フーカが今の形になったのは、環境による影響が大いにあったはずだ。
歪んで尚、フーカはどこまでも真剣で、真っ直ぐである。きっとそれこそが彼女の本質なのだろう。
そしてフェンリッヒは、そういった不器用にも前を向く強さを、好ましいと感じてしまう性質であった。
「今はデスコがいるだろう。作ってやればいい」
何となく、フーカが暗い表情でいるのが気に入らなくて、フェンリッヒは話題を変えようと試みた。
「えー。んー。別に嫌ってわけじゃないけど、しなくていい料理なら、しなくていいっていうか」
首を傾げて歯切れの悪い様子のフーカ。だがその気持ちはフェンリッヒも分からないでもなかった。好きと得意は別物である。フーカにとって料理は必要に駆られて得たスキルであって、趣味ではない。彼女は外で体を動かしている時の方が生き生きとしているし、好きなのだろう。
「そういえば、デスコは?」
ふと、いつもフーカと行動を共にする小さくも強大なパワーを持った妹が傍にいないことに気が付いた。腹が満たされてようやく頭に栄養が巡ってきたらしい。
「いやあね。あたしにだって、たまには一人になりたい! ってときがあんのよ」
ふふん、と澄まし顔で笑うフーカは、いつもの生意気な少女ぶりを取り戻していた。
「ほう。じゃあ、オレとこうして話しているのは良いってのか?」
思わぬ質問だったのか、フーカはきょとんと目を丸くした。
「え? あ。う、うん……、そういえばそうね?」
難しそうに考え込むフーカの横でフェンリッヒは何となく気分が良くなって、卵焼きの最後の一切れを口に放り込んだ。ほどよく満たされた腹を擦って、これでようやく一眠り出来そうだ。
そしてフェンリッヒは椅子から立ち上がると、未だにうんうんと首を捻っているフーカを見下ろして言った。
「旨かった」
ぱっ、と顔を上げたフーカはみる間に頬を赤らめて、そして瞳をキラキラと輝かせた。
「なに? なんて? もう一回言って!」
「……『誰かが自分の飯を食ってるところが見たくなったら、オレが食ってやる』と言った」
「そんなに長くなかったでしょ!?」
『しかも何よその上から目線! そこは食べさせてください、でしょーが!』と、フーカは不満げに膨れる。キャンキャンと騒ぐフーカを相手にはせず、フェンリッヒは片手を振ると、さっさと食堂を出て行ってしまうのであった。
食堂の扉が閉まり食事時を外れた閑散とした空気が戻ってくると、フーカは『むむ……』と唸って机に突っ伏した。少し前までのフェンリッヒとほとんど同じポーズで。
(あの、あのフェンリっちが、あたしを褒めた!)
じたじたと足を振って興奮を表す。
彼女の小さな胸はただその嬉しさでいっぱいになっていた。
料理なんて好きではなかった。ただ仕方がなくやっていた。一生懸命作った料理を一人で食べて、ラップをかけたもう一人分の夕食が刻々と冷めていくあの時間をもう二度と味わいたくはないと思っていた。
翌朝メモ紙が一枚置かれていて、『おいしかったよ』なんて一言あれば良い方で、ときには手を付けられないまま冷たくなっている手料理を見たときの空しさと言ったら、朝から泣けてくるほどだ。
だが今こうして、出来立ての料理を目の前で食べて、ちゃんと褒めてくれる誰かがいるのだと分かると……。
「たまに、だったら、また作ってあげても良いんだから――」
耳まで赤くして、フーカは両腕に隠れながら小さくそう呟いた。