いつかまたきみに「あぁ……せん、せいか……」
「ッ……今は、静かに」
目を開き、弱々しく呻くユーリスに治癒魔法を注ぎ込む。ベレトの額から汗が流れ落ちて鼻筋を伝い、ぽたりと落ちた。眉を顰め、集中し続ける様子をぼんやりと眺め、ユーリスは弱々しく笑う。
『コニーと水を取って来るね』
『俺は他にも癒しの手が空いてねえか探してくる』
灰狼学級の面々は、自分自身のケガなど構わずにユーリスのことを考え、城の中に散って行った。バルタザールはベレトの耳元に、『伝えときたいことがあるなら、今のうちだぜ』と低く囁くと、横たわるユーリスの姿を振り切るように部屋を出て行った。コンスタンツェは魔力の使いすぎで黙りこくったまま、ハピに支えられて歩いて行く。自分の無力さが悔しかったのかもしれない。ベレトは浅い呼吸を繰り返すユーリスに癒しの魔法を注ぎ続ける。
「無理、すんなよ……次の、襲撃に……力を残し、……ッ」
「喋るな」
痛みに顔を歪ませて、一瞬身じろいだユーリスに、短く警告する。血は止まっただろうか。傷は、酷いのだろうか。ベレトには、彼の腹に当てられた血みどろの布をめくって見る勇気がなかった。心の乱れが魔法に反映され、魔力がブレる。
「ッはは……ひっでえ、顔……してんなぁ……」
「……!」
ユーリスはまた笑うと、その振動さえも苦しいのか身を捩る。
「っつ……!」
「平気か……!?」
「うん……起こして、くれねえか……」
迷ったが、ベレトはユーリスの頭をそっと支えて上半身を起こしてやると、しっかりと胸に抱きかかえてやった。呼吸が楽になったのか、ひとつ溜息を吐いた少年の唇は渇いていて、血がこびりついている。
「召喚師が、さ……言ったろ。俺たちに、特別な絆を、結んで欲しい、って……」
「ああ……」
それは支援と呼ばれる、心のつながりだ。共に戦うことで力が湧き、互いを守ることができる。さらに、自分と似通った存在が他にもアスクに存在していた場合、絆は共有される。だから、自分以外の自分と親し気にする彼を見て、少し……ほんの少しだけ、寂しさを覚えていた。自分には、そんな風に感じる資格さえないというのに。
「あんたと、一緒に戦うたび……いや、あんたら、って、言ったらいいのかな……俺、なんとなく、わかっちまったんだよな……」
呼吸が速い。ベレトは彼の頭を自分の胸に休ませてやり、魔力を集中させた。それをやんわりとユーリスの手が押しとどめる。
「今は、治療を……!」
「いいよ。……どうせ、無駄だ」
瞬間、こころが燃えてしまいそうな心地だった。ユーリスの体を抱く手に力がこもり、震えてしまう。そんなことを言うなと叱責したいのに、何も言えない。
(彼も……こんな風に、死んでいったのだろうか?)
恐ろしかった。ジェラルトを失ったときと同じ絶望がベレトを襲い、己の無力感に気が遠くなりそうだった。
何も、できないのか。
結局、腕の中に彼がいたとしても、自分には、何も……
(自分には、彼を救えない)
目の前が真っ暗になる。ユーリスは、ベレトの顔をぼんやりと眺めながら話を続けた。
「何が分かったってさ、……あんたの、優しさって、いうのかな……別のあんたはさ、もちろん俺に親切だし、……他の連中にも、平等だ。……でも、あんただけは違う。俺を、……支援を組む前から、特別扱い、してただろ……」
彼が何を言っているのか半分以上理解できぬまま、ベレトは震える手でユーリスの傷口をそっと押さえた。もう、喋らないでほしかった。湿った血が指先に付着して、ぬるりと滑った。
「なあ、あんたにとって……本当の、あんたにとって、俺ってなんだったんだ? せんせい……」
「きみは……」
分からない。どうしたら良いのだろう。恐らく、医者が必要だった。彼の呼吸が止まってしまう前に、その美しい瞳が永遠に閉じられてしまう前に、なんとかしなければならなかった。
ベレトはすっかり動揺し、ユーリスがゆっくりと伸ばしてきた手を、思わず握り返した。
「最後と思って、教えてくれよ。……ひょっとして、あんた、俺に惚れてた?」
「ッ……」
ニッといたずらっぽく笑うユーリスの顔が、いつもより青白い。彼は決して、体が丈夫な方ではなかった。アビスでは貧しい者たちに食料を融通してやり、特に弱者や子どもたちを飢えや寒さから守ってやっていた。親を失くして泣く子どもを寝かしつけるために、寄り添って歌をうたってやっていることもあった。ベレトの体調不良もいち早く見抜いて、心配そうに声をかけてくれた。足を怪我した時だって、周囲を心配させまいと強がって……その結果、……
「……特別扱い、していた。その通りだ」
「……」
紫水晶が瞬いて、ベレトの目を見つめている。ふと、彼と中庭でお茶を飲んだ記憶が蘇り、口が勝手に動き始めた。
「きみは俺の特別だった。きみが隣にいると嬉しいし、きみが笑っていると、自分も楽しくなった。……それに、きみのいない世界が、どれほど色あせて見え、虚しく思えるか……俺は身をもって知っている」
「……ってことは、俺にふられた、か」
「……違う。俺は、きみに、こんな気持ちを伝えたこともない……」
「へえ……」
握った指先が冷たい。ベレトは再び白魔法を唱え、ユーリスを癒し始めた。なのに、まるで手応えを感じない。まるで、魔力が素通りしているような……ユーリスが、治癒を受け止めていないかのような、そんな感覚だ。
「……どうして、伝えなかったんだ?」
「分かっていなかったからだ」
気付くこともできない愚か者だったのだと、正直に話すべきか。
彼のことが大切だと、もちろんそう思っていた。なのに大局を優先して、怪我を負わせたのは自分だ。采配を間違えた、単純な力不足。それに、覚悟ができていなかった。彼を愛する覚悟が、自分には、まだ。
「俺は愚かだった。大切なものを見誤った。だから、きみを失った……全部、自分の責任だ」
涙が流れていた。口は勝手に動くし、魔力は枯渇寸前だし、ベレトは自分が随分と情けなくて、惨めでちっぽけな存在であることにも泣けてきた。
「すまない……本当に、すまない……」
謝りたかった。彼に、ではない。自分を信じてついて来てくれていたユーリスに、あの日の彼に、謝りたかった。そして、伝えたい。きみが大切だと、恋していると、……
そうしたら、彼は、なんと言ったのだろう。答えはもう、どこにもない。なにもかも、気づくのが遅すぎた。全部教えてもらうばかりだったせいだ。ユーリスを想うと何もかもが素晴らしく感じられることも、一緒に食事すると料理が特別美味しく思えることも。それに、こんなに苦しく、悲しくなることも……全部、彼からもらったものだったのに。
「……先生、……泣くなって」
「すまない……きみを、二度と失いたくない……」
「……」
その言葉で、ユーリスは全てを悟ったようだった。ベレトはそっと彼の体を元通り床に横たわらせると、護身用の短剣を抜く。何をするつもりかと、ユーリスの目が驚いたように見開かれた。
「ッおいおい……!?」
袖を捲り、ベレトはユーリスの手が伸びて来る前に自分の腕を深く切りつけた。真っ赤な血が、床にぼたぼたと流れ落ちる。
「何してんだよ!? 手当を……!」
「いいんだ」
ベレトは流れる血をそのままに、慌てるユーリスを押しとどめた。ドクドクと赤が吹き出す様は、動かぬはずの心臓が、まるでそこにあるかのように見えた
「元の世界で、クロードが言っていた……おそらく俺の血には、女神の力が宿っている。ここでは元の世界ほどの効果があるかは分からないが、……この血を飲めば、その傷くらいは……治すことができるかもしれない……」
「なっ……」
さっと顔色を変え、ユーリスは滴る血を見た。力を宿した血液。流行り病に倒れ、死にかけた幼い日の記憶が蘇ったのだ。
「俺にできることは、もうこれしかない。魔力も尽きた……きみになら、この命をやってもいい。ユーリス、きみに、……生きて、ほしい」
涙はもう、乾いていた。ベレトは精一杯の笑みを浮かべて、血に濡れた腕を供物のように差し出す。
「頼む……この血を、受け取ってくれないか……」
悲しい微笑みだった。ユーリスのことを愛おしむようでいて、ここにいない誰かを慈しむ、笑みだった。奥歯を噛み締めて、ユーリスは、ベレトの不器用すぎる愛情に舌打ちする。
(あんたが、そうまでするとはな……)
そこまで惚れさせた自分自身に感心する。そしてそんな感情を彼に与えた、彼の世界の自分に……はっきりと、嫉妬した。
「……ッああ、もう、あんた……大馬鹿野郎だな!! おい、コンスタンツェ! ハピ! 布だ! バルタザール、包帯!!」
「え? ユリー、も~いいの?」
「ちょっと! あなた、自分で切ったんですの!?」
部屋に飛び込んできた灰狼学級の面々に、ベレトは一瞬ぽかんと口を開いて固まってしまった。コンスタンツェの白魔法があっという間に傷を治療し、バルタザールが豪快に包帯を巻いてしまう。ユーリスは体を起こしてハピから受け取った水を悠々と飲み、壁に凭れてその様子を見ていた。とても、大怪我をして満足に動くことすらできなかった人間には見えない仕草だ。
「ゆ、ユーリス、腹の傷は……」
「んなもん、とっくに塞がってら。もともとかすり傷さ」
「……俺を担いだのか?」
「ハハッ、気付くのが遅ぇよ、『先生』」
「……じゃあ、……大丈夫、なんだな……?」
どっと脱力し、ベレトは目の前でぴんぴんしているユーリスをまじまじと見た。少々顔色は良くないが、彼の言う通り重症ではないらしい。血の染みた布の下は、傷跡がまだ生々しくはあるが、出血は止まっていた。だから治癒魔法の効果が限界を迎え、魔力が素通りするような感覚になったのか。そう合点すると、尚更体から力が抜けてしまった。座り込み、短剣についた血を拭うと鞘に納める。
「よかった……本当に……」
「……騙すようなことして、悪かったな」
「ふ……そうまでして、俺に全部白状させたかったのか」
「まあな。……気になると、とことん突き詰めたいタチなもんでね」
ユーリスの無事を知って、笑いさえ浮かべることができた。安心すると、こんな風に表情が緩むのか。またひとつ、彼から教わった。
「……きみに話す気はなかったんだが……仕方がない。俺は元の世界で、きみを守れなかった。それにこんなことまでして、……さぞかし軽蔑しただろう。」
「いや、なんでそうなる?」
ユーリスは壁から背を離し、ベレトの方へと体を寄せた。傷に障るだろうに、それでもずいと詰め寄って、ベレトの顔を覗き込む。長い睫毛に縁どられた眼に射抜くような視線を向けられて、息ができない。ああ、自分は彼のことが好きなのだと、改めて思った。
「あんた、分からなかったって、言ってたよな。気付かなかったって……てことは、あんたの気持ちを変えたのは、ここにいる俺様ってことじゃねえのか?」
「……?」
「ここに来てから、俺に恋していたって自覚したんじゃねえの? 俺に会って、俺を見てから……だったら、あんたが『恋した』のは、この俺にってことだろ」
「……そう、だろうか……?」
「おう」
そういうことにしとけって、とどこか寂しそうに笑うと、今度はユーリスがベレトの手を取った。包帯の撒かれた手は、少し冷たくて、温かい。
「少なくとも、二度と会えねえ相手に詫び続けるよりは、この俺に尽くすことをお勧めするぜ」
「……」
「それに、……俺だったら、自分のせいであんたに泣いてほしくねえと思う」
息が、できなくなった。
彼はどこまでも優しい。ベレトはまた目の奥がジンと痛くなり、涙が溢れるのを止められない。自分の恐ろしい過ちを、責められると思っていた。大切に思っておきながら守れなかったことを、詰られると思った。それが当然だとも。
「泣くなよ。あんた、よく泣くよな……俺の世界じゃ、笑ってんのかそうじゃねえのかもよく分かんねえってのに」
「すまない……」
「謝ることじゃねえけどさ」
「きみは、やさしすぎる……」
「あんたの世界じゃ、違ったか?」
「いや……」
きっと同じくらい、優しかった。今はもう、確かめることはできないが。
「同じくらい優しかったし、綺麗だったと思う」
「ッ……そう、かよ……」
ベレトは頭を垂れて、ユーリスの手を額に当てた。生きている。彼が、生きて、自分を許してくれている……
それは、女神の赦しよりも慈悲深い。
「……ねえ、ハピたちさ、完全に忘れられてるよね」
「ま、奴さんたちは放っといても大丈夫だろう。他の連中の様子でも見に行こうぜ」
「次の戦では負けませんわよ!」
ユーリスとベレトが一枚の毛布を共に使い始めたのを見て、ハピ、バルタザール、コンスタンツェ、の三人はそっと部屋を後にした。ベレトの気持ちを確かめたいというユーリスの手伝いをしたものの、報酬を受け取れるのはまだ先のことになりそうだ。
彼の世界で何が起きて、そこで自分たちもどうなっているのか……アスクでは、元居た世界の話をする者は少ない。戦うためだけに召喚され、兵として使われる立場では、余計な情報を知っていると不利になることもある。
彼らのように支援を組まされれば、そんな気持ちにも変化があるものなのだろうか。
三人はそれぞれの想いを胸に、歩いて行く。城の中はまだざわついて、英雄たちもまた、様々な想いを抱いていた。
夜明けは、すぐそこまできている。