カラン、とドアベルが鳴り、黒い服の男が静かに店へと足を踏み入れた。顔を上げて、俺は少しぎょっとして目を瞬かせた。影みたいな、死神みたいな男だった。お客に対して失礼だけれど、そんな言葉がパッと思いつく程度には、なんだか浮世離れしているように見えたのだ。薄緑色の髪を揺らして、男は真っ直ぐにカウンターへと近づいて来る。
「すみません、時計の修理を頼みたいんですが……」
思ったよりずっと、柔和な声色だった。冷たい印象を受けた横顔も、目元も、少し微笑んだ様子はとても優し気で、俺は胸の中でほっと溜息を吐く。
「ああ、はい……こちらの懐中時計ですね」
「しばらく前から動かなくて。この店で買ったものだと聞いていたから」
「なるほど。随分古いですね……元は、お父様か誰かのものですか?」
「まあ……そんなところかな」
どうやら俺の親父の代に作られたものらしい手巻き式の懐中時計は、かなり使い込まれてはいるが綺麗だった。金の鎖がずっしりと重く、しっかりとしている。しかしまさか純金ではあるまい。キズミを目にはめ込み、手早く時計を解体していくと、男は興味深げに俺の手元を覗き込んでいる。
「ははあ、この部分だな……この部品ならすぐに作れますけど、少し時間をいただきますよ」
「待っています」
頷いた男の目は真っ直ぐだった。俺はすぐに仕事に取り掛かる。時計の心臓部ともいえる部品が、摩耗して、機能しなくなっていたのだ。ほんの、爪の先くらいの部品を、ひとつの金属から慎重に削り出していく。
(俺たちにしかできない、魔法みたいなもんさ)
死んだ親父も、よくそんな風に言っていた。魔法なんて、遠い国でしか使われていない、嘘か本当かもわからない技術じゃないか。実際、俺は見たことがない。手から火を出したり、風を起こしたりなんて、手品で十分だ。俺は、この小さな小さな部品ひとつひとつを丁寧に造って、精巧に組み立てて、完成した時計の秒針がきちんと時を刻む音を聞くのが、好きだ。この手にしか作り出せない、時を知らせる機械。これこそ魔法のようじゃあないか。
「自分も、その時計の音を聞くのが好きで」
「そうでしょう。ゼンマイを最後までちゃんと巻き上げてやれば、何度でも勤勉に動き出して。可愛くなっちまいませんか」
「規則正しく時を刻むところが素晴らしい。秒針の音が、……まるで自分の、心臓の鼓動のようで」
「心臓かあ……」
なかなか詩的な表現をする男だ。俺はいつの間にかすっかり嬉しくなって、つい、ぺらぺらと喋りながら作業を進めた。男が店の中を眺めて、親父の作った時計だけじゃなく、俺の作品も褒めてくれるものだから、尚更嬉しい。男はアンティークに詳しくて、ちょっと昔のファッションや、家具の流行り廃れなんかについても話してくれた。
「連れ合いが商売上手でね」
「へええ……あ、もうすぐ完成しますよ」
最終調整をしながら、俺はチラと窓の外を見た。すっかり日は傾いている。男が入店してから、数時間が経過していた。
「遅くなってすみません。できました」
「ありがとうございます」
男は代金を支払うと、嬉しそうに懐中時計を眺めた。カチ、カチ、……秒針の音は規則正しく響いている。そう、まるで彼の心臓の音のように。
「何かあったら、また頼みます」
「ええ、いつでも」
店の出入り口へと向かう男を見て、俺はふとショウウインドウの方に視線を滑らせた。薄紫色の髪をした、背の高い美人が店の中を覗き込んでいたからだ。赤い口紅がはっきりと笑みの形を作って、睫毛に縁どられた色っぽい瞳が、店から出て行く男の姿を追っている。
さては、あれが例の『連れ合い』か。買い物袋をいくつも腕に下げた美人は、思った通りすぐに男に駆け寄った。二人は腕を組んで、仲睦まじそうに歩いて行く。やれやれ、羨ましい限りだ。俺は片づけをするために、作業場へと戻る。……しかし、本当に古い懐中時計だった。親父の代か、またはもっと古い時代の物のようにも見えたが……
交換した部品を拾い上げ、俺は久しぶりに、死んだ親父のことを思い出していた。
「時計、直ったのか。新しく買い直しても良かったのに」
「きみが贈ってくれた大事なものだ。綺麗に直してくれたよ」
「そうかよ……よかったな」
ベレトはユーリスの耳元に時計を近づけて、カチ、カチ、と規則正しく動いている秒針の音を聴かせてやる。ユーリスはニッと笑うと、耳を澄まして音を聴いた。カチ、カチ、……まるでベレトの心臓の音のように響くそれは、とても好ましい。耳に触れるベレトの指も、くすぐったくて、嬉しくなる。
「なあ、向こうに新しいレストランができてたんだ。夕飯はそこにしようぜ」
「れすとらん、は堅苦しくないか?」
「大丈夫だって……」
数十年ぶりに訪れた街はすっかり様変わりして、二人の目を楽しませてくれる。変わらないのは、大地を照らす星明りくらいだ。ベレトとユーリスは身を寄せ合い、やがて街を行く人々の波へと紛れていった。