炎と香草の出会い「手を貸そう」
突然現れた影は、ユーリスの目の前にいた男を銀色の剣で一閃すると、無造作に片手を突き出した。掌から光が迸り、周囲にいた兵士たちが文字通り吹き飛ぶ。魔法だ。振るおうとしていた自分の剣を止めて、ユーリスは真っ黒い悪魔のような男がちらりとこちらを振り返る冷たい眼差しを見た。それも一瞬のことだった。まるでユーリスのことになど興味はない、とでも言いたげに、悪魔のような男はそれきり何の一言もなく走り去っていってしまった。
「お頭!」
部下の声にハッとする。また敵の増援が来たのだ。雄たけびと血の匂い。ユーリスは行儀悪くひとつ舌打ちをすると、剣を握り直した。
あの男には見覚えがあった。もちろん噂も耳にしていた。
(灰色の悪魔……)
どうして自分なんかに『手を貸し』に来たのだろう。戦場で狙い撃ちされ、部下たちを指揮してやり、ほんのわずかに部隊から後れを取っていたところだった。ユーリスの危機に気付いていた隊は他にもあっただろう。だが、彼は瞬時に駆けつけ、目の前の敵を一掃して行った。ドクン、と心臓が妙な具合に踊る。ユーリスはそのまま、部下を率いて進軍し始めた。
「お前どこで遊んでたんだ、行くぞ」
父親の言葉に、ベレトは一つ頷くと頬にこびりついていた返り血と砂埃とを指先で拭った。ジェラルドはちらりとベレトの遥か後ろを見る。騎馬を駆り、戦況を見定めていた将である彼も、あちらの部隊が少しばかり劣勢であることは分かっていた。あの、紫色の髪の青年。美しさの中に悪辣さを秘めている、どうも良い噂を聞かない男だ。しかし、彼ならばこの場面もうまく切り抜けるだろうという読みもあった。どうも息子はそう思わなかったらしいが。
「少し、助太刀に」
ベレトは短く答えた。
「……知り合いか?」
「いや、」
わざとらしくそう質問した父親に、少し考えてからベレトはぽつりと言った。
「……トリ肉」
「肉ぅ?」
「いや、……何でもない」
ジェラルトは聞き返したが、ベレトはそれきり剣にこびりついた血と油を払うと、静かに戦場を駆けていってしまった。
「ま、……いいけどよ」
「よう。……灰色の悪魔、じゃなくて……ベレト、だったか?」
その夜。火の番をしていたベレトは顔を上げて、声の主を見た。燃える炎に照らし出された姿を見て、眼を瞬かせる。一瞬、女性と見紛うような美貌をもった青年がそこに立っていた。施された化粧や、計算された立ち姿がそう見せているのだろう。ベレトにはよく分からなかったが、青年は無遠慮にベレトの向かいに腰かけた。
「昼間はありがとな。助かったよ」
「気にしなくていい」
「そう言われてもな、どうして俺を助けてくれたんだ?」
「……」
パチパチ、小さく炎が爆ぜる。昼間、父にも質問されたことだった。
「……ジェラルトにも、同じことを聞かれた」
「ジェラルトって、傭兵団の団長か」
「俺の父だ」
「へえ。で、なんて答えた?」
「……」
ベレトの表情は変わらない。だが、どうやら少しばかり困っているらしい、と、ユーリスは察した。灰色の悪魔とやらは言葉少なだが、決して冷酷無比なわけではない。それくらいのことは、仲間になってから数日間様子を窺っていれば分かった。
「……きみが、トリ肉をくれた」
「……は?」
五歳の子どもでも、もう少しうまく喋るだろう。炎を見つめていたベレトの目が、すうとユーリスを捉える。ぬかりなく紅を塗り直した唇を引き結び、ユーリスは小首を傾げて見せた。数日前から、粉をかけていたのは確かだ。ジェラルト傭兵団所属の、『灰色の悪魔』である彼をうまく味方につけることができれば、損はない。
「……何日か前に、きみが焼いた肉を、俺に分けてくれただろう」
「ああ……キジの焼いたやつな。そういや、あんたの皿にも入れてやったな」
物資は有限だ。戦場では、いつでも腹いっぱい食べられるわけではない。部下たちと力を合わせて狩った肉と、なんとか確保した香草で簡単に作った料理だった。偶然給仕場に居合わせたベレトの皿の中身が気の毒になるくらい貧相で、ユーリスは思わず余った肉をそこに放り込んでやったのだ。
「あの時の肉が旨かったから、その分だと思ってくれ」
「おいおい、俺は今日、肉に救われたってのかよ?」
「そういうことだ。報酬分は働く、俺も傭兵だからな」
ユーリスは拍子抜けして、肩の力をだらりと抜いた。おいおい、それだけかよ、という気持ちでいっぱいだった。もっと他にも、分かりやすく流し目をくれてやったこともある。さり気なく作業手伝いの隣に立ち、手伝ってやったことだってある。その時は何も話さず、まるで感情のないような顔をしておきながら、肉ひとつで救援に来てくれたと言うのか。
「……本気で言ってるなら、あんた相当なお人好しだぜ」
言いながら、ユーリスはさり気なくベレトの隣に移動した。間合いに入った時点で、さっと空気が変わる。警戒されている。両手を広げて何も持っていないことを示し、ユーリスはさらに距離を詰めた。
「あんたのことをとって食おうってんじゃないんだ、そんな風に拒絶するなよ」
「拒絶しているつもりはない」
「んじゃ、いいだろ? 隣に座ってもさ」
「……かまわない」
「ははっ、素直でいいねえ。……なあ、あんたさえよけりゃ、もっと旨いモンを食わせてやってもいいし、オイシイ目に合わせてやってもいいんだが……どうだ?」
ユーリスは片手を炎にかざした。こんな状況でもきちんと手入れされている爪がきらりと光り、ベレトの目を刺す。そのまま、青年の長い指が空中を流れるように移動して、ベレトの膝に触れた。体温が伝わって、じわり、熱がしみこむ。ほんの少しだけ、優しく掴むような動き。下衣の皺をなぞるように内側に指を滑らせて、太ももに触れる。ユーリスは少しばかり上目遣いに、ベレトの瞳を覗き込んだ。唇を舐める舌の動きが、彼にちゃんと見えたかどうか。
「……トリの足の肉は好きだが、俺の足と関係があるのか?」
「おい、飯の話から離れろよ……つーか、俺様の料理はあんなもんじゃねえぞ」
「きみの焼いた肉は旨かった。また食いたい」
「……分かった、あんたは食い気の方がお盛んなわけだな」
ガクリと首を項垂れさせて、ユーリスは目を眇める。これはどうも一筋縄では行きそうにない。自分としたことが、面倒な相手に声をかけてしまっただろうか。
(はあ~あ、こりゃ、俺様としたことが選択を誤っちまったか……?)
ならば早々に手を引くべきだろうか。そう思うのだが、もう一度見上げたベレトの瞳はどこか優し気で、感情の浮かばぬはずの悪魔の顔は、少しだけ自分に向かって微笑んでいるように見えるのだった。