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    フユコ/人魚の刺身

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    2021.3.28発行WEH北村倫理夢本「てんがいちかく」二章
    booth:https://fyk-siren.booth.pm/

    ##サンプル
    ##夢小説

    てんがいちかく//02.あかるいともだち計画2.あかるいともだち計画2.あかるいともだち計画
    はる【春】
    四季の最初の季節。正月。新春。勢いの盛んな時。得意の時。青年期。思春期。
     いつだっておかしいのは倫理だった。
     倫理以外のみんなはいつも倫理のことを「気持ち悪い」「頭おかしいよこいつ」「どっかやばいんじゃないの」と言うけど、倫理からしてみればおかしいのはいつだってみんなのほうだ。
     だけど誰一人そのことには気付いていない。
     倫理だけが気付いている。
     倫理だけがまともで、だけど倫理しかまともじゃないからその正しさを証明できない。
     おかしいはずのみんなには一人だけまともな倫理が間違ってるように見える。
     みんな自分はまともだと信じ切っていて、まともなはずの自分たちとは違うんだからこいつはおかしいんだと倫理を指さす。
     かわいそうに、自分たちがおかしいことにも気付いてないんだね。同情するよ、なんて哀れんでみても倫理がひとりぼっちなことには変わりなかった。
     だけど今度はそうじゃなくて、一番おかしいのは倫理でも倫理以外のみんなでもなかった。
     今回ばかりはみんなも多分まともで、倫理もまともで。そうなるとおかしいのはそれ以外になる。
     いびつでおかしいのは、たった今倫理の横にいる女の子、その存在そのものだった。
     そうに決まっていた。

     これも昨日の夜のわけわかんないやつの延長線上で本当はまだ夢の中なんだ。
     起きたら机の上で寝落ちしてて、テストの勉強は途中で教科書は開いてないし、ノートもやっぱり白紙のまま。当然夜にコンビニまで漫画も買いに行ってない。
     コンロの上のカレーは減ってないし、お母さんは婦人会から帰ってきてない。
     だからゴミ捨て場で女の子になんて会ってないし、翌日その子が転校生として転校してくるとかそんなこともない。
     だから今隣にちょこんと座っている女の子も倫理の脳みそがひねり出した何かなのだ。
     たまに右の小指に触れる布の感触もみじろぎするたびにするシャンプーみたいな匂いも全部嘘っぱちに決まってる。
     そんなことを考えながら自分の右側に座っている侵略者を横目で見る。
     襟に刺繍があるブラウスにえんじのタイと黒のワンピース。もちろん全部愛教学院のものじゃない。
     昨日、倫理がゴミ捨て場で見た女の子と何から何までそっくり同じ。
     あれだけ至近距離で見たんだから間違いない。生まれてから今までで一番近い距離だった。
     よく映画なんかでタバコ同士、火を点けあうけどあれよりずっと近い。
     愛教の女子制服よりプリーツの多いスカートが持ち主の無神経のせいで整えられずに椅子の上でくしゃっとなって両隣の委員長と倫理の領土を少しずつ侵略している。
     倫理より頭一つくらい背の低い女の子の姿をしたそれは倫理の右隣に腰掛けていて、倫理とは反対隣に座っている委員長から教本の内容の説明を受けている。
     委員長の問いかけにも反応が薄く、質問に無言を貫かれた委員長は困った顔をしていた。
     これは一体どういう表情なんだろう。
     怒っているわけでも、話しかけられて恥ずかしがっているふうでもない。
     物憂げといえば聞こえがいいが倫理にはぼうっとしているようにしか見えない。
     ちらりと盗み見た瞬きの少ない横顔は昔見た人形によく似ている。
     顔立ちではない。表情のほうが。
     信者の誰かが神火で浄化してもらうために持ちこんでいた人形。
     何を伝えたいわけでも何が伝わるわけでもない。全く一点の曇りもなく無表情。
     脳内では炎で炙られた真夏のアイスクリームみたいにどろどろに溶ける姿が再生される。
     結局、倫理ごときの観察眼では睫毛が長いなあ、というどうでもいい情報しか得られなかった。上下ともマッチ棒とか乗せられそうだった。

     これが本当に倫理の夢なら描写が細かすぎて自分の将来が心配になる。
     誰に心配されなくても未来はドブ色で一寸先と言わずお先真っ暗だから逆にどこをどう心配するということもないんだけど。ある意味安定性でいえば抜群だ。低空飛行的な意味で。
     現実逃避だった。
     実際はそんな都合よく夢なわけないじゃんとわかりきっていている。
     この人生自体が夢でした! とかならとんだ喜劇じゃん!だと思うけど。
     夢だったらいいのにな、でほんとに夢だったことなんて生まれてこの方一回もない。
     これがほんとだったらいいのに、が夢だったことはたくさんあるのに。
     いいことないのが日常で、いいことあるのは別の不幸のための伏線なんだから。
     そんなに都合がいいことあるわけなかった。

     そうこうしているうちに集会がはじまって、倫理のどうでもいい考えは中断される。
     集会でやることは決まっていて大半は先生のありがたくもだらだらした話を聞くだけだ。
     今月の講話の担当は教頭先生だった。
     入学式で挨拶をしていた教頭先生は入学式と同じく「えー」とか「あー」とかで水増ししながらだらだら話している。
     先生が愛教会の教えに触れたのは大学生のときでそこで今の奥さんとも出会ったらしい。
     私は愛教会の教えに救われ、自身がこれまで生きていたことで犯した罪を自覚することができました。それから長い間修行を行い、罪を浄化し続けてきました。今皆さんの前でこうして教職につき、話していることもその一貫です。現在私の体は病魔に犯されており余命幾ばくもありませんが死ぬことは怖くありません。なぜなら祈ることで幸せな世界に行くことができると信じているからです。私は愛教会に出会うまでの約20年という長い月日を修行せず怠惰に過ごしてしまいましたがここにいる皆さんは違います。貴方たちには今も自分の罪を自覚せずすごしている人々にはないチャンスが与えられているのです。祈りましょう。信じるものは救われるのです。
     相変わらず有り難いだけで長い話は最近通り魔が多いとか交通事故が多発してるとか校内の風紀が乱れているとかそういうのは全部人間が罪深いからだ、祈りが足りないから自然も隣人も大切にできないとかいう〆で終わった。
     去年もその前も中等部での出張授業で同じ話をしていたので教頭先生は実は三つ子なのかもしれない。
     そのあとは入学式で見たことある先生から保健の先生が一身上の都合で退職したという本人不在の離任式と続いて今日から交代でやってきた新任の先生の挨拶を聞く。
     一身上の都合で退職した先生より若い新任の先生に前のほうの席がすこしざわつく。
     見たことのない人だった。もしかして愛教会の人じゃないのかもしれない。
     それなら珍しいなと思った。
     愛教学院は愛教会のお膝元である羽澄市にあるからなのか、他の学校にはない救世科なんて科を置いてるからなのかわからないけど愛教会系列の学校の中でも信者が多い。
     それは生徒もだけじゃなく職員にも当てはまる。
     だから信者じゃない人はすぐにわかる。愛教会の人たちは繋がりが強いから、誰が同志で誰がそうじゃないのかなんて情報すぐに伝わるのだ。
     そして倫理は壇上にいる先生をこれまでに愛教会の集まりで一度も見たことはなかった。きっと他の生徒もそうだろう。誰か知っているなら事前にそういう噂が流れてくるだろうし。そうじゃないってことは他の先生や生徒の誰も知らないってことだ。もちろん倫理も。
     前任の先生の代わりに赴任してきました。これからよろしくお願いします。
     内容のない挨拶だった。
     最初は関心のあった生徒たちの興味が一気に失われていくのがわかる。
     あくびをかみ殺すと涙がにじむ。吐く予定だった二酸化炭素たっぷりの息が鼻から抜ける。
     締めきられた講堂の中は暖房がきいているわけでもないのに少しだけ暖かった。
     倫理以外の生徒たちも酸欠の金魚みたいにパクパクあくびしている姿が見える。
     これで週一の礼拝はほぼ終わったと言っていい。今週中にさっきのありがたい話の感想をプリントに書いて提出しなきゃいけないけどそれはオマケみたいなものだし。
     あとは全校生徒で教本を読んでお祈りをしたら今日の礼拝は終わり。
     いつもみたいに教本の最初のページを開いて読み上げる。
     これが終わると礼拝は終わりで生徒たちは一時間目の授業のために教室に戻る。
     そしてまたいつもと同じ一週間がはじまる。
     礼拝が終わって教室に帰ったら、いつもと同じように誰も倫理には話しかけないし、倫理もいつもと同じようなんでもない風にひとりぼっちで過ごす。
     そのはずだった。
     何度も何度も読み上げてほんとは教本なんてなくても問題ないくらい覚えた教えを他の生徒と一緒に読み上げる。聖堂のなかが大人数の声でわんわんしている中、隣がやけに静かだなと思った。
     思い出すのは昨日の夜、倫理に対して一言だけ喋ったあの声だ。
     まあ元気にはきはき読み上げそうなタイプじゃなさそうだな、と思って横目で右の席を見た。
     委員長が転校生だと紹介した女の子は教本の一ページ目を開いたまま、ただ突っ立っていた。
     口パクですらない。口がまっすぐに結ばれているからかすかに息を吐き出す音すらしなかった。
     おかしいなと思った委員長の「どうしたの?」とか「具合悪い?」という質問に答える気配もない。
     見回りの先生がだんだん近づいている。とりあえずでもいいから口パクでもしたらいいのに。まずい。絶対怒られる。
     本人が注意されるだけならまだいい。問題は先生の標的がこっちにも向いた場合だった。
     委員長はどこに出しても恥ずかしくない優等生で先生からの覚えもめでたいからいいとして問題は倫理だ。
    「隣で困っている同級生がいるのにどうして助けてあげないんだ。教えが身についていいないじゃないか上っ面だけで教本を読んでいるからそんなことができるんだ書いてある意味を考えながら心から教本を読んでいたら私に指摘されるより先に行動できているはずだろう。それができないのは教えを理解しようとしていないからだ。高校生にもなってそんな浅はかな気持ちでいる自分の浅ましさが恥ずかしいと思わないのか?」とか言うに違いない。それだけは避けたかった。あの先生は話が長いし、ねちっこい。
     どうか先生が気付きませんように。それか急用を思い出してこっちに来ませんように。
     だけど全校生徒がしっかりきっちり顔をあげて読み上げている中で一人ページをめくらず口を開かず微動だにしないのは当然ながら、それはそれは大層目立った。
     そして愛教学院の先生はとても仕事熱心かつ信心深いので当たり前のようにそれを見逃すことはなかった。
     監視カメラが首を回すみたいにぐるりと生徒たちを見回して。そして。
     気付いた。
     そのまま大股でこちらに向かってくる。
     あーあ。
     隣でだんまり決め込んでる転校生が倫理の頭のやばい何かだろうが幽霊だろうが宇宙人だろうが先生にも見えている以上今から起こるだろうお説教を逃れることはできない。
     さっきまで得体が知れないとか思っていたくせに今はかわいそうに、とも思う。
     登校初日から「問題児」として有名になるだろうし、そんなんじゃこの学校でうまくやっていくのは難しい。
     そしてそのとばっちりは倫理にもくる。絶対くる。
     先生が倫理の後ろから手を伸ばそうとしている。雷を落とすために口を開けていた。
     もうだめだこれはどう言い訳しても逃げられない最悪だ今更だけどボクの人生こんなのばっかじゃない? 最悪なのは今に限った話じゃないしいつものことだけどどうせこの後呼び出され、

     その瞬間だった。
     それは薄く張った氷を踏むようなささやかな音で、だから聞いたものはだれもいなかった。
     一番後ろの席に座っていた倫理はそれどころじゃなかったし、委員長も今にも怒鳴りそうな先生を止めようとしていたから恐らく聞いていないだろう。聞いたとしても気付かない。
     転校生はどうだったのだろうか。聞いていたかどうかは倫理にはわからない。
     ただ明らかに怒った顔の先生に肩を掴まれそうな時でさえ、表情に変化はなかった。
     そして聞こえるか聞こえないかという「ぱきぱき」という音の後、はるかに硬質な音を立てて倫理たちの後ろ、さっき入ってきた入り口の扉のガラスが砕け散った。
     入り口から吹き込んできて倫理の学ランの襟に隠れていない剥き出しのうなじや耳の裏を撫でた風は二酸化炭素で暖かくなっていた室内の空気を吹き飛ばした。
     ぶるりと体が震える。
     それだけでさっきまでのどろっとした脳が詰まるような眠気が吹き飛ぶ。
     委員長は何か先生に弁解するために口を開いたまま固まっていた。
     先生も困惑した顔のままだった。唖然としている。
     転校生の肩を掴もうとしていた手はそのまま引っ込められてすぐに他の先生と一緒に入り口のほうに去って行く。
     さっきまでの一糸乱れぬ輪唱はどこへやら、生徒も先生も騒然としていた。
    「ガラスが突然、」とか「全員座りなさい」とかよくわかってない生徒同士の混乱した声とそれを制する先生達の指示が入り乱れてわんわんしている。
     聖堂の入り口にはめ込まれていたステンドグラス風のガラスが一枚残らず割れていた。
     おもちゃの宝石や砕いた飴玉を撒いたみたいになっている木張りの床は外から入ってくる光でいっぱいだった。
     足下を見るとガラスの破片が近くまで飛んできていた。
     倫理の上履きもガラスの砕けて乱反射した光でいつもと違う色に染まっている。
     いきなりどん、と横から衝撃がきた。転校生だった。頭を倫理の肩にもたせかけている。
    「え、ちょ」
     思わず体を入り口のほうからそっちにすこしだけ向けるとそのままこちらに体を預けてくる。
     このまま鎖骨に口づけでもするんじゃないかってぐらいべったりとくっついたまま動かない。
     切りそろえられた前髪が、さっきまでぴったり閉じられていた口から吐き出される呼吸が、ちょうど肌にあたるのがとても、気になった。背筋がぞわぞわする。
     湿って、熱のこもった息がTシャツの布越しでもはっきりと感じられた。
     そのまま倫理の胸板に頭を預けるようにずるずると体が滑り落ちるのを腕を掴むことで止めた。昨日も似たようなことをしたような気がするなあ、と思いながら掴んだ手首が倫理の手の中でぬるりと滑る。
     汗だった。汗をかいていた。尋常じゃなく。ぐっしょり、という言葉がぴったりなほどに。
     きっと小雨が降る中を歩いてきましたと言われたらそうなんだな、と思うだろう。
     腕にぺったりへばりついているブラウスのポリエステル生地が水分を吸ってひやりとしていた。
     昨日も同じように掴んだ手首は昨日よりもずっと冷たい。
     手のひらのなかに冷えた汗だけが残りそうになったのを慌てて掴み直すと腕を持っていたほうの手を背中に回す。
     ちょうど胸を貸すような体勢になって今よりもっと胴体が密着する。
     だけどそうじゃないと一緒に倒れそうだった。脱力した人間は重いのだ。
     見るからに具合が悪そうな人をぬいぐるみ振り回すみたいな持ち方するのがよくないってことくらい倫理だってわかる。
     自分より小柄な女の子といえど抱えている腕にはそれなりにずしりとくるものがあった。
     さらに膝裏がちょうどベンチの角に当たって強制的に膝を折ろうとしてくる。
     ぐえ、と声が漏れる。
    「い、いいんちょ、」
     ひしゃげたカエルみたいな声を絞り出しながらその姿を探したが、みんなの頼れる委員長はご不在だった。委員長のことだから何かしら理由があって席を立ったんだろうけどそれは今じゃないとダメだったのだろうか。ボクとその用事、どっちが大事なのさ。
     めちゃくちゃ申し訳なさそうにごめんね……とか言われそうだった。
    「へいき、」
     不意に胸元から声がしたと思ったらさっきまでの重さが軽減される。
     倫理に預けていた体の主が自分の足で立ったからだった。
     だけどすぐふらついて倫理には一時的に軽減された重さがリリースされる。今度はわかっていたからふらつくことはなかった。倫理のほうは。
     転校生のほうは立っているのもやっとでガクガクがフラフラになったくらいの差でしかない。
     元より血の気が失せて教本のページに負けず劣らずの蒼白さの頬には髪がへばりついている。
     さっきまで頑なに閉じていた口はひっきりなしに開いたり閉じたりを繰り返している。血色も悪い。倫理を見上げてこそいるが視線がふらふらしていた。
     これの一体どこが「へいき」なんだろう。過大評価しすぎじゃないだろうか。
     転校生は陸に上がった魚みたいにひっきりなしに喘ぎながらやっと、
    「ほけんしつ」
     そのまま倫理の横を通り抜けていこうとする。相変わらず足取りは危なっかしい。
     どうやらさっきのは「保健室に行くからどけ」という意味らしかった。
     先生は皆割れたガラスと生徒の対応に追われ、生徒たちも浮き足立っている。
     さっきまでステージの上でありがたい話をしていた教頭先生は生徒たちに落ち着くようにと告げている。講話を行っていたときの余裕はなくなっていて顔にはなんだかさっぱりわかりませんと書いてあった。
     誰も一人だけ制服の違う女の子がそっと講堂から出て行こうとしていることに気付かない。
     現状、気付いているのは倫理だけだった。
     はあ、とため息が出た。
     知らんぷりすればよかった。皆みたいに。
     見ないふり。気付かないふり。
     これだけ生徒がいて倫理のほかに本当に誰も気付かないなんてことあるはずない。
     だから倫理も見なかったことにすればいい。
     ガラスが割れたほうに集中してたからいつのまにか隣にいた女の子がどこかに行ったことにも気付かなかったことにして。
     戻ってきた委員長に「今気付いた」みたいな顔でもしたらいい。
     だいたいさあ、昨日こっぴどくフラれたばっかりなのに親切にしてあげる義理もなくない?
     あの子がどこの誰だかボクは知らないし。友達でもないし。
     自分から見えてる地雷を踏みにいくようなのは愚かだと思う。
     そんなのするのは馬鹿を通り越した聖人か、馬鹿かつ手遅れな人だった。
     委員長はきっと前者だ。倫理よりよっぽどうまくやる。きっと靴を投げられることもない。
     そしてわかりきったことだけど。倫理は後者だった。馬鹿で手遅れで底辺。
     加えて頭がおかしくてうそつき。全くもって救えない。
     ここでうだうだ考えたところで北村倫理という人間は雨の中で傘を差さないし、ここぞという時に空気を読まない。
     昨日靴を投げつけられたときからケチはついていたのかもしれない。
     そういう生き方を選んだのは他ならぬ倫理だ。
     だから今から自分が何をするかもわかっている。
     自己満足だった。ありがた迷惑。

     人の流れに逆らって転校生が出ていった扉をくぐる。
     後ろのほうからどこいくの北村くん! なんて声が聞こえた気がした。倫理は振り返らなかった。
     幸い女の子に続いて倫理も黙って出て行ったことは先生たちに気付かれることはなかった。
     校舎はひっそりとしていた。全校生徒が講堂に押し込められているせいだ。
     そのまま短い渡り廊下から校舎に入る。
     お目当ての人影は探すまでもなかった。
     職員室に続く廊下、そのちょうど真ん中あたりでうずくまっている。
     後ろから近づいた倫理からは丸まった背中しか見えなかった。
    「保健室はそっちじゃないよ」
     生物の資料集で見たダンゴムシそっくりに丸まった背中に話しかける。
     ゆっくりとこちらを振り返った顔は表情が乏しいながらもげっそりとして見えて今回は靴を投げるような元気もないみたいだった。
    「保健室は反対だよ。もしかして迷っちゃった?」
    「……」
     返事はない。かまわず続ける。
    「どうしたの? 具合悪くなっちゃった? かわいそうに……。だけど無理もないよねあれだけの人間がぎゅう詰めされてんだからさ。ねえきみ保健室いくんでしょ。場所わかる? この学校無駄に広いし増築されてるから迷ったら大変だよ帰れなくなっちゃう。裏山も無駄に広いし土地勘ないと一人じゃ降りられないんじゃないかな。なんでも噂では昔行方不明の生徒とか出て今も見つかってないんだって。まだ学校のどっかにいるんじゃない? いたとしてももう骨だけだろうけど。ボクはまだご対面したことないからウソかほんとかわかんないけどさ。で、保健室行くんだっけ。わかんないなら案内してあげるよ。委員長に案内されてたってことは多分同級生だろうし遠慮しなくていいよ。もちろんきみがボクごときに案内されたいって言うならだけどね!」
     倫理の声だけが廊下に響く。
     またしても返事はなかった。
     目の前の、倫理を見る顔に変化はない。好悪もその他の感情も何も表層には浮かんでいない。少しだけ汗ばんだ ただ大きいだけの目玉がじっと倫理のことを見つめている。
     笑顔が引きつりそうになる。胃のあたりがざわざわした。
     もしかしたら朝ご飯を抜いたせいかもしれないけどどうにも気持ちのいいものではない。
     いつもはなるべく見ないようにしているいろんなものが記憶の底から倫理のことをゲラゲラ笑ってくる。
     かあ、と顔に血が上るのがわかる。喋りすぎて口の中がカラカラだ。いつのまにか手のひらが汗で湿っていた。
     自分の顔が赤いかどうかそしていつも通り笑えているのかも、倫理にはわからなかった。
    「へいき」
     そんな倫理の心中を知ってか知らずか転校生は質問からたっぷり十数秒置いてから答えた。
     触れてないと死ぬんじゃないかってくらいに廊下の壁と密着しながら立ち上がる膝は赤くなっていた。
     のろのろこちらに向けた顔はさっきより不健康そうに見えた。
     相変わらず顔色が悪かった。
     倫理をじっと見つめる顔の表面に張り付くものは何もない。
     ぐりぐりとした大きな瞳はぶれることがなくて、見つめられるのはやはり居心地が悪かった。
    「ひとりで、へいき」
     そう言って立ち上がる。
     両手を床について、足に力を入れて、中腰になった後は床から壁に手を移動させて、ゆっくりと立った。
     何もありませんでした、みたいな顔でまた歩こうとしていたけどさっき廊下でべったり這いつくばっていたせいで制服に細かいほこりがくっついていたし、それがなくても西エリアでしか見たことないようなお嬢様然としたワンピースをもってしてもそこから少しだけ覗く膝が時折震えているのを隠せてはいなかった。
     これなら子鹿のほうが健脚かもしれない、なんて考えているうちにまた人形の糸を切ったみたいに前のめりに倒れる。
     今度は倒れる前に自分の足でふんばったので倫理が慌てて一歩踏み出したのは無駄になったがやっぱり自力で保健室に行くのは無理そうだった。
    「はい」
     くるりと背中を向けて、そのまま手を後ろに回してしゃがむ。
     なんでそうしようと思ったのかはわからない。
     だけど、もうやってしまったものはしょうがなかった。ここでスマートにやめられるならもっと人生楽しく生きていられたに違いない。
    「動けないんでしょ。おんぶしてあげるよ」
     恥の多い人生を送ってきた自覚のある倫理だがそれでも人並みに羞恥心はあるし、今なんてまさにそうだった。十五にもなっておんぶとか。
     今の、廊下でおんぶする体勢のままでいるのも、自分からすすんでやったくせにこれが結構恥ずかしい。
     はやくしてくれないかな、と思ったし、今の格好を先生とか他の生徒に見られたくはなかった。
    「ボクごとき底辺に助けられるなんて人生の汚点になるだろうね。屈辱の極みだろうし心中お察しするけど暴れたりしないでよね。落としちゃうから」
     背中を向けて腕を後ろに回してるし後ろから蹴られたら顔から地面に突っ込んじゃうな、と思ってるとするりと後ろから腕が回った。背中にぺったりとくっつく感触と一緒に重みと体温が伝わる。
     最初はおずおず、という感じで触ったくせに力加減がわからないのかぎっちり音がしそうな強さでしがみつかれた。
     スカートの布地を捲き込むようにして抱えた足はやっぱり細くて両脇に突き出た膝頭の鋭利さが目立つ。
     よいしょ、と立ち上がって少しふらついたがそのまま倒れることはなかった。

     保健室は鍵が開いたままだった。
     引き戸を引く音が廊下に響いてどきりとする。
     開けた扉の向こう、保健室から漂うツンと鼻につく匂いは倫理には馴染みがないもので、そのせいもあって別に悪いことしてるわけじゃないのに少し緊張した。らしくないと自分でもそう思う。
     ちょっとだけ片手を離したことでずりおちはじめた背中の荷物を背負い直す。
     どうやら保健の先生も留守にしているらしかったのでそのままお邪魔することにした。
     はじめて入る保健室はがらんとしていた。
     ベッドがあって、消毒液とかピンセットの詰まった銀色の台があって、それから小さなテーブルと椅子がある。
     入学時に配られたパンフレットに載っていた写真と変わったところはない。
     唯一、写真にはなかった鞄が床に放り出されていたが倫理には持ち主の察しがついている。
     愛教学院指定の鞄は白の肩掛け鞄だが目の前の鞄は革製の堅そうな学生鞄だ。
     もらってから一ヶ月も経ってないのに持ち主が放課後森やら裏路地やらに行くせいでさっそく汚れや傷が付きはじめた倫理の鞄と違い、傷もなければシワもない。新品同然だ。
     口が開きっぱなしで中身がいろいろと見えているが多分これもお嬢様学校のお高いやつなんだろう。
     委員長がこの場にいればわかったかもしれないけどボクじゃわかんないな、なんて考える余裕が今の倫理にはあった。
     倫理ほどの下等生物になると醜態なんていついかなるときでも晒してるし、なんなら毎日生き恥晒してるようなものだから恥の上塗りをしたところで何を今更って感じもするけど別に晒したくて晒しているわけじゃない。
     ついさっき、保健室までおんぶすることになったときだって「よーし、恥を晒すか……」みたいな後ろ向きなメンタルだったわけじゃない。
     よいしょと立ち上がった瞬間、背中にかかる重みに「あっこれやばいかな?」と思ったくらいだ。そもそも石橋を叩いて渡るような慎重さがあればこんなことになってない。
     とはいえ、倫理の「あっこれやばいかな?」は杞憂に終わったわけだけど。
     もっと疲労困憊、這ってるんだか歩いてるんだかわからなくて、ボクのが保健室のお世話になりそうですみたいな醜態を晒すことになるかと思ったけどそんなこともなく、ちょっと息があがって体がだるいだけだった。どれも少ししたらおさまる範囲内。
     運動神経もそこそこ、体力だって人並み以上にあるわけじゃない倫理でもそれほど苦労せずに保健室まで辿り着くことができたのは背中の荷物が想像以上に軽かったからだった。
     昨日と、それからさっき掴んだ手足の細さなら納得はいく。
     どこもかしこも細くて頼りない。
     漫画だとまるで羽みたいだね、なんて歯の浮くような冗談があるけどとてもじゃないが言う気にはなれなかった。
     どこに降ろそうか椅子とベッドで迷って、椅子に降ろした。
     倫理の背中からわずかな重みがゆっくり引き剥がされていくのがもどかしい。
     倫理によって椅子に座らされた女の子は身じろぎ一つしない。倫理のほうを見ようともせずただ向かいの壁に視線を向けている。
     保健室まで運んでおいてなんだけど、こんなの倫理じゃなくってもよかったはずだ。
     委員長でも保健の先生でもいい。後のことは全部押しつけて一刻もはやくこの場から立ち去りたかった。
     そういえば昨日漫画読めてないんだった。ボクは本誌派じゃないから続きがどうなるのか知らない。帰り道に近くのコンビニで漫画買いなおして家でだらだら読むのもいいかもしれない。
     どうでもいいことを考えていたのが女の子の顔を見てそんなぼやっとした考えが吹っ飛ぶ。
    「あ、」
     血が出ていた。
     何かの間違いみたいに、女の子の鼻から血が流れている。
     蛇口から水滴がこぼれ落ちるのと似たようなリズムでぽたぽた鼻血が出ていた。
     倫理はどうすることもできない。
     ただ、どうすんのこれという気持ちとやっぱりこの子にも血が流れてるんだなという奇妙な安心感が頭の中でべったりしたまま動けないでいる。
     ティッシュでも渡そうかと思ったけど自分がポケットにティッシュやハンカチを入れるような几帳面なはずもなかった。ただ突っ立っているしかない。
     倫理がぼやっとしている間にも出血は止まらない。すでにブラウスの襟は汚れていた。
     それなのに女の子本人は慌てる素振りも拭う素振りもない。
     少しうつむき気味のまま、動かないでいる。
     襟元のリボンより赤い、粘っこい血が血の気の失せた唇を赤くする。
     生気の感じられない、等身大の人形みたいな彼女から命そのものみたいな真っ赤な血がどろどろ流れ出ている。
     なんだか見てはいけないものを見てる気がした。なんとなく目をそらしてしまう。
     逸らした視線の先には処置台があって、その上には「わたしをお使いなさい」とばかりにテッシュの箱が置いてあった。
     それを女の子の手に押しつける。
     女の子は手の中にいきなりティッシュの箱が押しつけられたという風にティッシュの箱を見、そしてうつむいたことで今さっき箱の上に落ちた血を見た。
     手のひらで顔を拭うとべったりと血がついた。
     女の子は汚れた手の甲を見て、それでようやく気付いたみたいに
    「はなぢ、」
     それくらいボクだって言われなくってもわかるよ、と思ったけど言えなかったしそれどころじゃなかった。
    「あれま、大丈夫?」
     間抜けにも程がある質問だった。
     倫理の問いかけに女の子の頭がわずかに縦に振れる。
     どこが大丈夫なのか目を見て答えてほしい。いきなり鼻血を出すのは絶対大丈夫じゃない。
    「とりあえずティッシュでおさえたら?」
     また、わずかに頭が縦に振れて箱からティッシュペーパーが一枚、抜き取られる。
     くしゃくしゃにされて雑に当てられたティッシュペーパーにすぐ血がにじむ。
     昨日から思っていたことだがしゃべり方といい、手の甲で鼻血を拭うのといい、子どもっぽい仕草が目立つ。
     人形じみた表情のままそれらをやるもんだからアンバランスさが目立ってしょうがない。
     それはなぜだか倫理が見ていいものじゃない気がした。
     何か話さなきゃと思った。
     黙っていると内側から指で胸の中を撫で回されるような、得体の知れないものがわきあがってくる。
     こんなわけわかんないやつほっぽって、今すぐこの場から逃げ出したいとかってわけじゃないけど、目の前の女の子との沈黙は倫理にとって落ち着かないものだった。
     気味が悪いという気持ちも少しはある。
     目の前の女の子について倫理は何もしらない。
     知ってることといえば委員長から聞いた転校生だってことだけ。名前だって聞いてない。
     聞いても答えてくれるとは思えないけど。
     昨日と同じように喉元までぐるぐるいろんなものがわきあがってくるけどどれも形にするまではいかない。
     突っ立っているままなのも居心地が悪くなってきて女の子と同じ目線になるようにしゃがんだ。
     ぐるぐるしてたものの中でも一番いつもの自分っぽいやつを選んで、一回頭の中で繰り返して、女の子がこっちを見てるのを確認してから乾いていた唇を少しだけ舐めて声に出した。
    「ひえー大惨事じゃん。ボクごときじゃどうにもできないし保健の先生とか呼んでこようか?」
     女の子はちら、とこっちを見たが口を開いた瞬間に鼻血が口に入ったらしい。
     かふっ、と噎せたような咳をすると止まりかけていた鼻からまたどろりと血が出てきた。
     また鼻にティッシュを当てる。血がにじむ。新しいティッシュを抜いて鼻にあてる。
     それをなんども繰り返す。
     手についていた血はすでに乾いている。袖口にも血が染みていて赤黒いぶち模様になっていた。
     抱えていたティッシュの箱が空になった。だけど鼻血は止まりそうにない。
     もともと不健康そうだった顔色がだんだんと紙みたいな色になってきているけどそれでも倫理にはできることは何もない。たまに部屋の中を探す素振りを見せるか、それ以外は居心地悪そうに見つけたトイレットペーパーを渡したり、大丈夫? なんてわざとらしく聞いたりするだけだ。
     もう、ボク先生呼んでくるからそこで待っててね、なんて言える雰囲気でもなくなってしまった。完全に退散する機会を逃している。
     だけどわざとらしく世話を焼いているふりをしているうちに、さっきまでの胸元からせり上がるような感覚はいつの間にか消えていた。

     結局保健の先生が戻ってきたのはそれから十分も後だった。
     サンダルをぺたぺたさせながら帰ってきた先生は血まみれの女の子とその横にしゃがみ込む倫理を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが詳しくは聞いてこなかった。
     先生はめんどくさそうに倫理を押しのけると床に転がっていた新品の学生鞄からプラスチックの瓶と、それから同じくプラスチックの細長いケースを取り出す。
     瓶は蓋が白くて胴体がオレンジ色で何より中にぎっしり錠剤が詰まっていて、どこからどう見てもピルケース以外の何者でもあるはずなかった。
     少なからずぎょっとした。
     海外ドラマとかではよく見るけどだけど実際に見たことは一度もなかったそれはインパクト十分でそれでも次に保健の先生がプラスチックのケースから取り出したものには負けた。
     病院でよく見るのよりごつくてぎらぎら光ってる金属の注射器。万年筆みたいに大事にケースに収められている。
     目盛りのついた窓から見える中身が無色透明であることがなぜだかとても恐ろしいことのように思えた。
     これで中身がショッキングピンクとかだったら「低予算のSF映画かよ」とか「スプラッタ映画の見過ぎじゃない?」なんて茶化すこともできたのに。
     この後に何をするのかは一目瞭然だった。
     先生は女の子の腕を取ったところで、倫理がまだ突っ立っているのに気付いたらしくまだいたのか、という顔で「帰っていいから」と倫理を追い出した。
     保健の先生が女の子の腕に注射をしたのか倫理は知らない。
     女の子が不格好に首を傾げたまま、すだれのようになった長い髪の毛の間からじっ……、と倫理のほうを見ていたが無視した。
     今度こそ、振り返って確かめることはしなかった。
    「北村くん、」
     この教室で倫理に話しかけるのなんて一人しかいない。
     顔をあげる。やっぱり委員長だった。
     保健室から追い出されて教室に帰ると黒板には大きく自習時間と書かれていた。
     すでに他の生徒はみんな帰ってきていて遅れて教室の後ろの扉から入ってきた倫理を何人かの生徒がちらっと見るも「なんだ北村かよ」という顔をするだけで話しかけてくるクラスメイトなんていない。
     いつものことなので気にせず自分の席、窓側の一番後ろに座った。
     出涸らしみたいな幸運がお似合いの倫理にとっては珍しくいい席が引けたと思う。
     この席からはクラスの全員を見ることができた。まともに授業なんて聞いてない倫理にとってはいい暇つぶしだ。
     何より自分より後ろの席がないってことは後ろから消しカスを投げつけられて振り向いたらうわこっち見たとか言われたり見えないとこから意味ありげにひそひそクスクスされたりすることもない。さすがに高校生にもなってこんなことしないとは思うけど。
     話しかけてくる友達も、自分から話しかけるような友達もいないので机に突っ伏して寝たふりをする。
     そして委員長は寝たふりをして机に突っ伏していた倫理に声をかけたのだった。
    「北村くん、先生が職員室に来なさいって」
    「わあ、楽しみだなあ。どのことなんだろ?」
    「何か怒られるようなことしたの?」
    「さあ? どうだろうね」
    「どうだろうねって……もっと真面目に、」
    「わざわざボクごときに心配してくれるなんてご忠告痛み入るよ」
     無理矢理会話を終わらせて教室を出る。
     引き戸が閉まる直前、委員長が「あんた、あいつに話しかけるのやめなよ」とか言われているのが聞こえた。その通りだと思う。
     そして倫理が閉めた引き戸のゴムパッキンとアルミフレームのレールがぴっちりくっつく前に委員長の声も聞こえた。
    「そういうの、よくないよ」
     委員長らしい台詞だった。誰にでも優しい。それはクラスで浮いている倫理に対しても同様で、ああやって友達から忠告されても普通に、他のクラスメイトにするように話しかけてくる。
     ははは、と乾いた笑いが出た。いい迷惑だ。

     委員長にああいった手前、ちゃんと職員室に行った。行くんじゃなかったと思った。
     倫理を待っていたのはやっぱり先生からの嫌味だった。
     集会に遅刻したこと、その後勝手にフケたことをねちねちなじられた。どっちもしっかりバレていたらしい。
     先生の顔には余計な手間を増やしやがって、と顔に書いてある。
     ついでに入学最初にあった学力テストの点数が悪かったこととかその中でも救世コースのくせして救世学の点数が悪かったことなんかもチクチク言われる。
    「すいません……」と目一杯申し訳なさそうな顔でいい子の返事をしても元々の信用が胴体着陸すれすれの低空飛行だからあんまり効果はなかった。こういうのがちゃんと効くのは委員長みたいな普段からちゃんとしている生徒でその対極にいるような倫理がやっても効果なしか逆効果だ。
    「ヒーロー活動だかなんだか知らないが迷惑かけないでくれ」
     はっきり迷惑だ、と顔に出して担任は言い切った。
    「はーい。すみませんでした」
     帰っていいぞ、とジェスチャーで追っ払われて「今日のはトクベツ長かったなあ」と思っていた倫理に担任は封筒を押しつけた。ちょっとした大きさで隅っこに愛教学院の校章がスタンプしてある。
    「何ですかこれ?」
    「プリント。保健室に持って行ってくれ」
     持っていけということらしかった。
     職員室を出て、けっこうずっしりくる封筒を抱えて保健室に向かう。
     途中でさっき別れたばかりの委員長が向こうから歩いてきた。
     倫理に雑な会話の切り上げ方をされたくせにいつもみたいにちょっと笑いながら話しかけてくる。どうやら心臓に毛が生えているか、神経がピアノ線くらいの太さがあるらしかった。
    「おつかれさま。結構長かったね」
    「委員長こそどうしたのさ。ボクがちゃんと職員室に行ったか見張りに来たとか?」
    「違います。訓練のことで先生にお話があったの思い出したの」
    「委員長も大変だねえ。ほんとよくやるよ」
    「そうでもないよ。他の人よりがんばらないと追いつけないってだけ。やっと候補生になれたんだもん」
    「へえ。そうなんだ」
    「うん、中学は候補生にもなれなかったから。だからここが頑張りどころだなって思うの」
    「ふーん。この学校でっていうか、認可外の学校でそんだけ真面目に訓練してるのなんて委員長くらいじゃない?」
    「北村くんももっと真面目に訓練していいんだけど?」
    「ありゃ、とばっちり」
    「もう……。まあ愛教は認可外だし、イーターが出ても対応するのは認可校のヒーローだからね。実際に活躍できないのに訓練だけ真面目にやれっていうのも気持ちが続かなくて難しいのかも。強い人はみんな白星とか他の認可の学校とか、ヒーロー活動に力を入れてる学校からスカウト来ちゃうし」
    「おかげで認可外にはほとんどレギュラーで活躍できるヒーローがいないってんだから。ほんと認可システム様々だよ」
    「でも北村くんはレギュラーでしょ。すごいよね」
    「やだなあ、ボクごときおだてても何も出ないぜ?」
    「もう、本心だってば。素直じゃないなあ」
    「っと、こんなところでだべってる場合じゃないや。お使い頼まれたんだった」
    「あ、そうなの? 引き止めちゃってごめんね」
     手に持っている封筒を見せる。あっという顔をした委員長はこれが何なのか知っているみたいだった。
     別れ際にそうだそうだと思い出して振り返る。
    「ねえ、委員長」
    「なに?」
    「なんでボクなんかと話すわけ? 内申点稼ぎ? 委員長進学したいんだっけ?」
    「えっなに突然」
    「べっつにぃ? ただ、品行方正な委員長サマが友達のご忠告はねのけてまでボクごとき底辺となかよしごっこして何の得があるのかなぁって気になって」
    「そう言われると私すっごい嫌なやつみたいじゃない?」
    「かもねぇ」
     あはは、と笑う倫理。せいぜい悩めばいいさ。そんですこしはボクのことをうざったいなと思えば儲けものだ。
     半分八つ当たりだった。怖がられないお化けはお化けじゃないのだ。
    「別に、普通でしょこんなの」
    「私が北村くんと話したいってだけだよ」
     これじゃ答えになってない? と聞いてくる委員長はクラスメイトに向けるものと同じ笑顔だった。
    四月。
     北村倫理はヒーローになった。
     リンクユニットと呼ばれる結晶体を割って変身して敵と戦う正義の味方。
     誰にも祝福なんてされないし、検査結果を提出したら担任の先生にはめんどくさそうな顔さえされた。
     小学校6年生のときのヒーロー血性テストは受けさせてもらえなくて、中等部では候補生にもなれなかった。
     それでもヒーローになった。
     5時を知らせる放送を聞きながら、お母さんがお祈りから帰ってくるまでのわずかな間に見ていた戦隊モノのヒーローじゃない。
     底から助けてと叫んでも倫理を助けてくれなかったヒーローじゃない。
     自分を助けてくれないヒーローのことを恨めしそうに見ていたあのときの自分を、助けられるようなヒーロー。
     クズでカスで救いようがなくどうしようもない、泥を啜りながら地面を這いずり回って日なたにいる人間がヒーローに助けられるさまを指をくわえて見ているような、異端で最低で救えない。
     そういうどこにでもいるろくでもない、底辺のクズしか助けられない〝普通〟のヒーローだった。
     ▽

     保健室は無人だった。いやそんなはずはない。
     倫理の「失礼しまーす」に返答がなくて、室内から物音がしないだけで奥のベッドのカーテンが閉まっている。
     今回も扉が開いていたから勝手に入らせてもらう。いつになったら普通に入室できるんだろう。
     つい数十分前にはあった床の血の跡が嘘みたいに綺麗になくなっていた。
     かわりに消毒液のアルコールの匂いが鼻につく。
     窓が開いているのだろうか。
     カーテンレールに沿ってひかれたクリーム色のカーテンがわずかに揺れていた。
     その布地にしみのようにぼんやりと影が映っている。人影だった。ゆるやかなプリーツの波の上に横顔が輪郭のぼんやりとした影絵のように映し出される。
     スクリーン代わりのカーテンに投射された人影は微動だにしない。
     髪の長い、少女の影。
     ふと、「星を見る少女」という都市伝説が思い出される。
     夜空を眺めていた男が向かいのマンションに目をやると同じように星を見上げる女性がいた。
     毎日同じ時間に自分と同じように星を見る女性のことを男はいつしか好きになる。
     そして男は意を決して彼女の住んでいる部屋を訪ねる。
     しかし、星を見上げているように見える女性は実は――というものだ。
     いくら夜でも見間違えるかよ、と思うけど都市伝説に文句を言ったってしょうがないし。
     恋は盲目、みたいなものなのだろうか。愛も恋も底辺には無縁のものだから知ったかぶりしかできないけど。
     窓から吹き込む風で布地が風で膨らんでも変わらない。平面にうつるうつむき気味の横顔。
     カーテンの端っこを掴む。
     このまま開けていいのか少しだけ迷って、でも結局開けた。
     ベッドの上にいる女の子を見つける。
     相変わらず血の気が薄いがそれだけだ。
     唇が真紫にもなっていなければびしょぬれになるくらい汗をかいているわけでもない。
     ケロっとしている。
     ブラウスの襟や袖口にまだらの模様がなければ数時間前に体中の血を出し切るんじゃないかってくらい鼻血を出してた人間と同じとは思えなかった。
     女の子はいきなりカーテンを開けた倫理のことを見る様子もなくただ宙を見つめている。そこに一体何があるのか、それともないのか倫理にはわからない。
     背中に垂れた長い髪の毛のうち数本が風になびいて細い光のようになっている。
     とびきり緻密でだけどどこかうら寂しい絵画のようだった。
     ベッドの上におちた影だけが彼女が生身であることを示している。

    「やあ」
     答えない。
    「先生にこの封筒届けるようにって言われたんだけどさ、」
     答えない。無視かよ。
    「いやぁびっくりしたよ同じクラスだったんだね! ボクと同じクラスなんて同情しちゃうけどさ」
     あはははは。
     倫理のぱっかり開いた口から男子にしては高めの、けたたましい笑い声が飛び出す。
     やっぱり返事がなかった。
     ここにきてやっと遥か遠く、見えないところに置いてきたはずの羞恥心が追いついてくる。
     とんだ道化だった。
     封筒を渡したらパシリとしての倫理の役目は終わりのはずだ。
     さっさと終わらせようと封筒をベッドの上、女の子の前に置く。
     封筒から手を離したときに手が女の子の左手の小指に少しだけ触れる。
     なんてことはない事故だった。
     細い肩が一度だけぴくりと跳ねて、そして倫理を見た。
     すこしだけ顔をこちらに向けて、この部屋にきてはじめて倫理のことを見つめる。
     それはついさっきまで倫理のことが見えていなかったのが小指に触ったことではじめて見えるようになったみたいだった。
     だけどそれだけでそこから先はなにもない。
     何か言わないといけなかった。
     聞きたいことも言いたいことも喉元まではせり上がってくるくせに最初の一つをかたちにできない。
     きっと吐いてしまえばラクになるだろうに。
     どうやらボクは彼女を前にすると普段のような喋りができなくなってしまうらしい。
     これは死活問題だぞ、と思う。
     少なくとも〝北村倫理〟にとっては。
     少しだけ焦る。
     授業中、問題がさっぱり解けなくて、だけど先生に指名されたからしょうがなく黒板の前に突っ立っているあのときに少しだけ似ていた。
     あの、と一言おいて。
    「名前は?」
     これには答えがあった。
    「つばさ」
     かすかに開いた口の隙間から微妙に発音の狂った言葉が漏れる。
     自分の名前すらどこか舌を持て余しているような喋り方だった。
     男の子みたいな名前だなと思う。女の子でもいるかもしれないけど。少なくとも倫理の友達にはいない。
     そっと胸元に視線を向ける。名札はなかった。
    「名字は?」
     再度密やかに告げられる。
     ないしょだよ。絶対誰にも言っちゃダメだからね、なんて前置きがつきそうなくらいの声量。
    「ありすがわ」
     ありすがわ、つばさ。
     名前よりも間を置いて答えた名字はやはり知らない外国の言葉でも読まされているようだった。
    「へえ、ありすがわさん? つばさちゃん? つばさちゃんでいっか。いいよね、名字長いし」
     反応がない。肯定ということだろうか。そういうことにしておく。
    「あなた、」
     それが倫理に向いたものだとわかるのに少しかかる。
     昨日今日と合わせてもつばさのほうから話しかけられるのははじめてだった。
    「ん?」
    「あなた、だれ」
     知らない人。
     知らない人とはなしちゃいけないって。
     その後に続く言葉は何だろうか。お父さんお母さんお兄ちゃんお姉ちゃんあとは学校の先生とか?
     いずれにせよ、つばさの保護者にあたる人はとても過保護らしいということだけがわかった。
     防犯意識が高いのはいいことだけど。
     知らない人と話しちゃいけません、久しぶりに聞いたな。最後に聞いたのは小学校の頃かもしれない。
    「あれれ、言ってなかったっけ。まあいいや。ボクは北村倫理。キミと同じ救世コースの一年生さ」
    「どう? つばさちゃんの名前に比べたら平々凡々で覚えやすいでしょ? まあ、ボクごとき底辺の名前なんてすぐに忘れちゃうだろうけどさ!」
     ていうか昨日会ってるんだけど。もしかしなくても覚えてないかんじ? ボク靴投げられ損じゃん!
    「そう」
     いつものように自虐する倫理に対してつばさは何のリアクションも示さない。
     かすかに口だけを動かしてたった二文字だけを口の外に押し出すとそれっきり押し黙った。
     会話終了。にべもない。
    「つれないなあ、そんなんで大丈夫?」
     ただでさえ変な時期に転校してきたのにさ。もっと友達作りに苦労しそうだね。同情するよ。
     かわいそうにというあわれみたっぷりの表情でこれから灰色の学校生活を送るだろう彼女のことを見る。
    「ともだち」
     不出来な録音テープかおしゃべりインコみたいにそこだけを繰り返す。
    「そ、ともだち。まあボクには無縁の代物なんだけど。いやあボクってば学校で浮いてるからさ~。友達いないんだよね! だからいつでも絶賛募集中ってワケ!」
     つばさはすこしだけ、何かを考えているようにほんのすこしだけ黙って。そしてこちらを見ないまま、
    「ともだちは、」
    「おっなになに?」
    「ともだちは、作っちゃだめって」
     学校にいってもいいけど、ともだちはつくっちゃだめって。
    「へえ、」
     鼻白む。
    「どうして?」
    「しらない」
    「知りたいとは思わないの?」
    「知らなくていいことだから」
    「あっそう……」
     伏し目がちな横顔はやっぱり人形じみていて、だけどさっきよりは人間っぽいなと思うのは気のせいだろう。
     すこしだけ残念そうに見えると感じるのは倫理がそうであってほしいと思っているだけかもしれない。
     誰だかわからないけど倫理の知らない誰かさんの言いつけを守ることで、倫理と友達にはなれないことを残念に思っていてほしい。
     実際そんな人間は稀少種だけど。
    「ちぇ。ボクと友達になってくれるかなと思ったんだけどなあ。違ったみたいだ」
     ざ~んねん、とおどけて見せる。
     ボクごときにそんなに簡単に友達ができないことくらい知ってたけど。
     これで通算何敗目になるんだろうか。毎年最低でも一回はやってるから十二は超えてるはず。
    「そう」
    「え~ほんとにダメ? 友達がダメってんなら友達ごっこならどう?」
    「ごっこ遊び。友達のふりならいいんじゃない?」
     反応がない。言葉を続ける。
    「一緒に昼ご飯食べたり放課後過ごしたりなんか友達と一緒にしそうなことするけどほんとはボクらは友達なんかじゃない。それなら友達をつくったことにならないんじゃん? だってただのごっこ遊びでほんとの友達じゃないんだからさ」
     詭弁も詭弁。もう委員長にしつこいとか言えない。
     だけどこうでもしないと友達なんてハードルが高いもの作れないのだ。悲しいことに。
     つばさは倫理の往生際の悪い説明を聞いて、
    「そう」
     こくりとうなずき、
    「わかった」
     今の説明で何がわかったんだろう。倫理は全くわからなかった。
    「いいの?」
    「好きにしたらいい」
     知らない。知る気もない。好きにして。
     必要最低限以下の沈黙の隙間からちらちらと見え隠れする部分はどうにも投げやりなように見える。
     比較的なめらかな発音で滑り出した答えはもしかすると、これが彼女の素なのかもしれなかった。

    「じゃあこれからよろしくね、友達〝ごっこ〟のつばさちゃん」
     手を差し出す。
     倫理の高校入学最初の友達はそれをちら、と見て少しだけ小首を傾げたあと「うん」と小さく頷くだけで握手はしてくれなかった。
     それでも。
     友達ができたことには変わりはない。

     ▽

     倫理ができたてほやほやの友達が体調不良という名目で早退するのを見送って。
     三時間目がはじまったあと。
     教卓の前で古語の変化系のフリをした安眠音波を発する先生に見つからないようにそっとスマホを開く。
     昨日までは入学してすぐに委員長の呼びかけで作られて、委員長に招待されて入ったクラスのチャットルーム以外には何もなかったチャット画面。
     その一番上に新しくチャットルームができていた。未設定のアイコン。
     全部さっき倫理が設定したものだった。
     つばさは友達追加どころか電源の入れ方も知らなかったので鞄の奥底で錘と化していたところを電源を入れるところから全部倫理がやった。
     クラスで作ったものとは別の。倫理とつばさ、二人きりのチャットルーム。
     まだ投稿はなくてデフォルト設定の画面だけが表示されている。
     ふと思いつきでメッセージを送る。
    『明日も学校くる?』
     それだけ打って送信ボタンを押したあとは電源ごと切って鞄の奥底に押し込んだ。
     返事は思ったよりはやく来ていたらしい。
     それに気付いたのは授業がすべて終わったあとで、電源を入れた瞬間に通知欄に表示されたメッセージが目に入った。切った。
    「北村くんどうしたの? 何かあった? 熱とかある? 具合悪い?」
     いきなり挙動が不審になった倫理をまだ教室に残っていた委員長が心配そうに見るけど大丈夫も大丈夫だった。何も問題ない。
    「委員長てばわかってないなあ。いいことなんてあるわけないじゃん。なんてったってこのボクだぜ? 地球が滅んだってあり得ないよ」
     なんて思ったのは頭の中だけで口は辛うじて「べつにい?」と返す。
     そのあと「ボク今日は用事あるから帰るね委員長委員長もはやく帰ったほうがいいよ今日は火曜サスペンスの再放送あるんだ絶対見逃せない」みたいなことをもにゃもにゃ喋った気はする。もしかしたら言えてなかったかもしれない。
     ローファーに足を突っ込みながら考える。いったい自分はどんな顔をしているんだろう。
     握りしめたままだったスマホを頬にあてるとひんやりと心地いい。
     数分で一気に気温が上がったみたいでパーカーの下もうっすら汗ばんでいる。
     頬に当てていた手を外して手の甲でまぶたに触れる。
     薄いまぶたも仄かな熱を帯びていた。
     首筋も耳もあつくて、あつくてしょうがない。暑くないところなんてなかった。
    「…………やっぱりめちゃくちゃだよなぁ……………………………………」
     実はもう通知欄にはメッセージが表示されていたから倫理は内容を知っているのだけど。
     それでもあっさり開いて見てしまうのはすこしもったいない気がした。

     返信にいったいなんて書いてあるのか。
     それは倫理だけが知っていればいいことだった。
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