てんがいちかく// 01.ここは地獄の三丁目1.ここは地獄の三丁目
あくむ【悪夢】
恐ろしい夢。縁起のわるい夢。また、夢でしか起こりえないような恐ろしい現実にたとえてもいう。
北村倫理の幸せとも言いがたい15年の人生で1番読んだ本は教本だ。
倫理のことを好きな人なんて1人もいなくてどれだけ助けてと叫んでもたった一度だって助けてくれたことがない倫理のかみさま。
〝倫理〟と、〝倫理の両親〟が信仰する愛教会の聖典。
その中にははじめから終わりまで「幸せな世界」に行くための心得と教えが、教祖さまのとうとい言葉だけが詰まっている。
倫理の生まれた家にはお父さんの影響で本がたくさんあった。
児童文学集も絵本も小説だってそれこそ山のようにあったし、今も昔も友達のいない倫理はよくお父さんの書斎に忍び込んでは勝手に読んでいた。
売れない作家だったお父さんは倫理が小学生の時、目の前でビルから飛び降りて自殺した。けれど、四年経った今だってお母さんは遺品を捨てられなくて、お父さんの集めていた大量の本は段ボール箱に詰められて今も倫理の部屋の押入れの大部分はお父さんの本に占拠されている。
お父さんの魂が本のどれかに宿っていると考えているからかもしれない。
幼い頃の、近所にもそして当然学校にも友達もなんて一人もいない、有り体に言っていじめられていた倫理にとって物語の世界は数少ない居場所だった。
お母さんに許された数少ない娯楽だったということもある。
倫理がヒーローものの特撮やアニメを見ることは許さなかったお母さんだけど、本を読むことには何も言わなかった。
物語の中では誰も倫理のことを「気持ち悪い」なんて言わない。帰り道いきなり後ろから蹴ってくることもなければリコーダーを隠すようなこともしない。困っている倫理をみて笑ったり、幼さでは言い訳できないような仕打ちをしてくることもない。
本は紙の束で、綴られた物語はインクの行列でしかなくて、倫理を誹らない登場人物たちは平面の世界から永遠に出てくることはなかったけど、倫理はお父さんの遺産が、そして本を読むことが嫌いではなかった。今でもそれは変わらない。
だけどそれでも。お父さんの遺品全部のページをめくった回数を全て足したよりも教本のページをめくった回数は圧倒的に多い。圧勝だ。
好きだから読むんじゃない。
読んで内容が骨身に染みるまで覚えることは現世で汚れきった魂を浄化するための第一歩だ。
現世で人間として生きているということは修行が足りなかったということだから。
幸せな世界に未だ辿り着けない罪深い倫理たちには祈ることしか許されていないのだから。
だから必死で覚えた。
子ども用の漢字にふりがなの振ってある文字の大きい教本を何度も何度も捲って一語一句間違えなくなるまで。
本のページの角が擦れて柔らかく丸くなって、開き癖がついて、表紙が取れるくらいまで。
そうしてボロボロになった教本はお母さんがお祈りの時に大事そうに聖堂に持って行って、他の同じようにボロボロになった教本とかその他の現世での役目を終えた「物」と一緒に教祖さまの神火で浄化される。
それで倫理はまた新しい、角のしっかりした新品の教本を貰う。
またそれが擦り切れるまで読む。その繰り返し。
小さいころは「ごほうび」として飴やガムなんかの駄菓子をもらうこともあって、それも学年があがるにつれてなくなっても新しい本をもらうことだけは変わらなかった。
異教の祭りであるクリスマスにもお正月にも縁がない倫理にとって、自分だけの贈り物をもらう機会といえばこの瞬間しかなかった。
だから少しも嬉しくなかったといえば嘘になる。
たとえ中身がわかりきっていたとしても申し訳程度に包装されたそれは正真正銘倫理のためのプレゼントだった。
それに教本を浄化しに聖堂前の坂を登りながらもしかしたらお母さんが褒めてくれるかもしれないという甘い期待を抱くことができたからだ。
教本の中身を暗記しているのは愛教会の信者なら当たり前のことで、それくらいのことで褒めてなんて言えない。
だけどそれくらいのことで一緒に来ていたお父さんやお母さんから褒められているよその子どもを見ると「もしかしたら」という気持ちは消えなかった。
今日はお母さんも忙しかったからボクのこと忘れていただけかもしれない。
もしかしたら帰り道でえらいねって褒めてくれるかもしれない。
今思うと現実が見えてなさすぎてゾッとするし、幼い自分の愚かさに吐き気がするけど、昔は、まだテレビの中にいるみたいなヒーローが来て倫理のことを「もう大丈夫だ。助けに来た」なんてお決まりのセリフと一緒に助けにきてくれると思っていた頃は、ふわふわした捉えどころのない期待みたいなものを信じていた。
実際のところは倫理がいいこにしようがしまいが倫理は倫理でしかなくて、他の子どもたちは褒められることはあってもそんな機会が倫理に訪れることはなかった。これからもない。
残ったのは脳みそに刻み込まれた教本の内容。それと最低最悪な記憶が一つ増えただけだ。
どちらもきっと死ぬほど忘れたくても死ぬまで忘れることはない。
だから教祖さまのありがたい教えはとうの昔に暗記していたし、どのページに何が書いてあるのかまで間違えずに言うことができる。
なんでこんな振り返ってもどうしようもない、昔の思い出なんかにひたっていたのかっていうと明日小テストがあるのを思い出したからだった。
救世学の小テスト。倫理の唯一と言っていい得意科目。
救世コースの生徒としては得意であって当然で、他の教科が悪くてもこれだけは悪い点数を取るなんて考えられない科目。
だっていうのに明日の小テストの準備をしようと引っ張り出したノートは白紙のままだし、教科書に至っては一度たりとも開いていない。
要するに勉強する気が起きないのだった。
お母さんは今日も朝から愛教会の集まりに行っていて家には倫理一人だけ。
日曜日だし今日は聖堂で月に一度の大会議のある日だし、きっといつもみたいに夜遅くまで帰ってこないだろう。
誰の監視もないなかで黙々とテスト勉強できるほど倫理は勤勉じゃなかった。
どちらかといえば勉強しなくていいならしないし、したくない。
反則裏技大歓迎。むしろそちらのほうがありがたい。
テストでいい点数をとらなくても進級できる方法はあるっていうのは問題児の最後の受け皿である愛教らしいといえばらしかった。
勉強したくねぇ~と天を仰いでぼやいても天井のシミは答えてくれるはずもない。居間に置いてあるお父さんの写真も同じく。唯一答えてくれそうなお母さんはいたところで返事をしてくれたことはない。
勢いよく体を起こすと体重の移動に合わせてギッと椅子が軋んだ音を立てた。
よし決めた。今決めた。残り少ない貴重な日曜日を有意義に過ごそう。
小テストは明日のボクが頑張ってくれるよね。
一切期待できない未来の自分に希望を託して、押入れからマンガを引っ張りだして床に寝転ぶ。
学習意欲?
昔のことなんて思い出してしまった時点で、勉強する気なんてすっかり失せている。
そういえば新刊がそろそろ出るころだったな、と思って単行本の後ろのほうのページまでジャンプすると次巻の情報が掲載されているページには「4月上旬発売!」という告知。その下に具体的な日付が書いてあった。今日だった。
時計を見ると時刻は8時ちょっと過ぎ。
聖堂での会議が終わるまでまだ時間がある。
お母さんだって会議が終わってすぐ帰ってくるわけじゃない。
同じ信者の人と世間話したりしてなんだかんだ終了時刻よりも遅くなっていることを倫理は知っていたし、聖堂のある場所と倫理の行こうとしているコンビニは真逆の方向にあった。
財布とスマホだけ持って。くたびれたスニーカーに足を突っ込んでドアノブを回す。鍵をポストの中にいれるのは小学校の頃からの決まりだった。
お母さんのほうが先に帰ってくるという可能性もあったけれどたとえそうだとして、お母さんは帰ってきたときに倫理がいてもいなくても心配しないだろう。
玄関にいつも履いているスニーカーがないことにも気づかないかもしれない。
だけど別に騒ぎ立てることでもない。いつものこと、これが北村倫理の日常だから。
お母さんが愛教会にぞっこんなのは昨日今日始まった話じゃないし。
両方を天秤にかけたとき、お母さんのなかでは倫理のほうが軽いというだけ。
倫理より愛教会のほうが、死んだお父さんの魂と共に修行をすることで幸せな世界に導かれることのほうが大事だというだけだ。
それが、倫理より大事だというだけのこと。
そんなこと数えるのもうんざりするほどありすぎて、傷つかないと言えばウソになるけど。
いってきまーす、という倫理の声に当然、返事はなかった。
死んだあと、「物」に宿って転生を待つことになったとして。
何に宿るかなんて倫理ごときにわかりっこないんだけど、桜にだけはなりたくない。
どれくらい嫌かっていうと死んでもいやだ。桜になってる時点で死んでるんだけどさ。
桜とかいう春に咲く植物はこの国ではやたらめったら持ち上げられていて、門出とか新生活とかおめでたいレッテルがべたべた貼られているのもその理由の一つ。この世のおめでたい雰囲気詰め合わせみたいでげんなりする。
そのせいかドラマや映画ではよく卒業式には散ってるくせに数週間後の入学式では満開みたいな驚異の生態系をしている。
あれなら「桜の木の下には死体が埋められている」なんて言われるのも納得だ。
栄養たっぷり埋められたてほやほやの死体から養分をぐんぐん吸い上げて咲いた桜をそんなことまったく知らない、明るく楽しい生活が待っていると思ってる人たちは満開の花びらを見て綺麗だねなんて言う。
明るい展開を期待させるシーンが一転、陰惨なホラーに早変わりだ。シャバシャバの嘘くさい血のりがべったりなB級ホラー。
もちろん現実ではそんなことなくて倫理の住む団地にも、学校にも桜並木はあるけど3月の、愛教学院中等部の卒業式の時に満開だった桜は4月の入学式にはすっかり散っていた。
今は見る影もない。
掃除しきれなかった桜の花びらが踏まれてくちゃくちゃになったまま、傷口を茶色に変色させて道の隅っこに落ちているくらいだ。
この春、倫理は高校生になった。愛教学院救世コースの一年生。
小学校からの面子がそのまま持ち上がりだった中学と違い、多少なりとも外部からの受験者もいるため見たことない顔も増えた。
それでもやっぱり内部進学者が多く、倫理もその1人だった。
だから変わったのは制服くらいでその他は中学の頃とあまり変わらない。
やっぱり学校で浮いているし、話しかけられるような友達もいない。
そもそも倫理に友達はいなかった。
ずっとそうだったわけじゃない。
だけど、いたとしても大抵すぐに友達じゃなくなるか、倫理の目の前からいなくなる。
中学と一緒だった。その前の小学校とも。
高校は小中と違い、普通コースには愛教会に入信していない家庭の生徒も入学してくるからワンチャンあるかもと思ったけどなかった。
たまに高校から愛教学院ですみたいな人で何を思ったのか倫理に話しかけてくる生徒はいたけれど、そういう人たちは愛教学院の空気に馴染めなくて学校から去るか、馴染んで他の生徒と見分けがつかなくなるかのどちらかだ。
そしてどっちになっても倫理の友達になってくれることはない。
大抵は他の内部進学者の人たちに親切心から「忠告」されたり、そうでなくてもどこかで倫理の噂を耳にして話しかけてこなくなる。そして遠巻きにひそひそする輪に加わるようになる。次はない。
「もしかしたらボクにも友達の一人や二人できるかもしれないじゃん?」という淡い望みは儚く消えた。
今年も友達がいない歴を更新してしまった。
今では倫理に積極的に話しかけてくるのは倫理に借りを返したくて仕方がなくて追いかけまわしてくるような人達ばかりだ。
その人達は暇さえあれば倫理と仲良くしようと飽きずに追いかけまわしてくる。
捕まってあげるつもりもないんだけどね、と思いながら何もないところで左に折れ、ビル同士の狭間にある路地に入る。
まばらに並んだ街灯がつくる円の中にも、そして外にも人の気配はなかった。
春なんて名ばかりでぺらぺらのパーカーとその下のシャツをたやすくすり抜けた風はまだしっかりと寒い。
マンガの入ったビニール袋が壁に擦れてガサガサ音がした。
「倫理に借りを返したくて仕方がなくて追いかけまわしてくるような人達」から逃げ回ってばかりいるうちにこういう裏道や抜け道に詳しくなった。
そういう場所をいくつか知っている。ここもその一つだ。
両隣のビルは解体工事中ということになっているが実際は数か月前から工事はストップしていて人の気配がしない。昼も夜も人っ子一人いるところを見たことはない。
すこし抜けた先のビルの谷間はゴミ捨て場になっていて、まだビルの中に人がいた時に使っていたのだろう椅子や机なんかも捨ててある。
いつ来ても薄暗くて春でも夏でも関係なくじめっとしている。
快晴でも日が差していたことなんてほとんどない。
放課後、楽しい鬼ごっこの最中に見失った倫理をとうとう見つけられなかった顔のこわ~い人たちが「今日のところは勘弁しといてやる!」とかなんとか捨て台詞を吐いて諦めるまで時間を潰したりするときによく使う場所の一つだ。
一見どん詰まりに見える粗大ゴミの山の間を抜けたら、学校からいちばん近いコンビニから倫理の住んでいる団地までの大幅な近道になることも、そもそもここにデッドスペースがあることも倫理しか知らない。
この場所のことも、他の似たような場所のことも倫理しか知らないし、誰にも教えていない。そもそもこんな場所誰も来たがらない。
底辺のなかでもさらに底辺の、倫理だけの遊び場。
誰も招待する気なんてないし、友達のいない倫理にはそんな機会永劫ないだろうけど。
だけど今日は違った。
倫理の他に、先客がいた。
女の子だった。
業務用の黒いゴミ袋の山。羽澄市指定、10枚で650円。
その上に女の子が倒れている。
ゴミ袋の上で体を横たえている姿は星でも眺めるように見えなくもない。
しかし倫理にはその姿が寝ているというより捨てられている、という言葉がぴったりなように思えた。
ぴかぴかの革靴が片方脱げて転がっていたからだろうか。
星一つない夜空も女の子が着ている服もベッド代わりにしてるゴミ袋も黒くて、その中で女の子の手足や顔だけが浮かび上がっている。だらんと脱力したまま水銀灯の青白い光に照らされたまま。接触の悪い街灯がまばたきみたいに明滅するたび、浮かんだり消えたりするそれは倫理が見ているこの数十秒の間一度も動かない。
一瞬、捨てられてるマネキンでも見間違えたのかと思ったほどだ。
そっと音をたてないように女の子の傍まで近寄る。
ブラウスと、それからジャケットの襟には植物の刺繍があり、ジャケットの胸元には何らかのエンブレムを象ったワッペンが縫い付けてある。
どうやら女の子が着ているのはどこかの制服らしく、倫理のペラペラの苔色の制服より上等なように見える。
たしか西エリアにあるお嬢様学校の制服がこれによく似ている。
はっきりそうだ、とは言えないが「ユリのラ・クロワ、ヒナギクのミソノ」といえば西エリア、桜磨区の有名な私立校だしどちらも制服に花の刺繍があることで有名なのだとクラスメイトが話していたのを盗み聞いたことがある。
どちらも倫理には縁遠い世界の住人なので真偽のほどを確かめることはできないし、目の前にいる制服の持ち主は起きる気配がないので聞くこともできない。
こうして倫理が近づく音にも反応はない。
いつだったか、奉仕活動の一環のバザーでお母さんがもらってきた無駄に高級そうで倫理の家には不釣り合いだったカーテンなんか目じゃないくらいたっぷりとしたスカートのひだから覗く生白い膝小僧がちらちら視界に入るけどなるべくそっちを見ないようにしながら顔を覗き込む。
まつげでできた影が街灯のゆらめきに合わせてゆらゆらしている。
街灯の光のせいなのか、それとも自前なのか、不健康なまでに青白い肌。
肉付きの薄い頬に赤みはなく、袖口から覗く手首や首もつくりものみたいに細い。
投げ出された指の先まで細っこくてそれが余計につくりものめいた印象を倫理に抱かせた。
胃の下あたりがなぜだかぞわぞわする。落ち着かない。
電灯に虫がぶつかる音と自分の呼吸音しか聞こえない。女の子の呼吸の音は、聞こえなかった。
そろりともう一歩だけ、近づく。
倫理の影が女の子の体に重なる。
「あ、」
唐突に目が開いた。
伸ばした指先が女の子の肩に触れるか触れないかくらいで止まり、そのまま少し離れる。
あらかじめタイマーでもセットされていたみたいな目覚めで、伸びもなければうめき声もない。だからこそ不自然だった。
あたりを見回すこともしなければ目の前にいる倫理に驚くこともない。
今の状況に何のリアクションもない。
そのままベッドから起きるみたいにごく自然な動作でビニール袋に手をつくが、体を起こそうとしてビニール袋の上についた手が表面を滑る。
ずるりと肘から下半分くらいが袋同士の間にできた隙間に飲み込まれた。
手を引き抜こうともう片方の手を突っ張りにして腕を引き抜こうとしているがうまくいっていない。
このままだと肩まで隙間に飲み込まれるのも時間の問題の気がする。
「ありゃ」
思わず声をあげた倫理をまるで見えていないみたいにまるきり無視して淡々と同じ動作を繰り返している。没頭している。
ずる、ずる、と一つ前の動作と同じように手が滑っては手をつく、という繰り返し。
見ていてじれったくなるくらい動きがぎこちない。
カクカクした、油の切れかけのロボットみたいな動きを繰り返しているのはどこか滑稽で、ちょっと見ていられなくて、だからこそ手を出したのかもしれない。
空中で止めたままの指で女の子の無事なほうの片腕を掴む。
助けてなんて言われてないし、助けようか? なんてこっちも聞いてないけどこのままじわじわ腕が飲まれていくさまを観察しなきゃいけない意味もなかった。
きっと「助けようか?」とか聞いても反応がないだろうし。
布地に指が沈んで布の下の腕を捉えた。
するりと指が回ったことに驚きながらそのまま引き上げるとあっさり体が持ち上がった。
倫理が掴んでいる腕と同じく健康とは言い難い細さの足は靴底が地面に触れてもふらふらしたままで体がそれに合わせて傾ぐため、思わずもう片方の腕も倫理が掴むことになる。
立ってからもどことなくぐんにゃりしていて、バランス悪そうなのは片方の靴を履いてないことだけが理由じゃないようだった。
とん、と軽く体が触れる。
手の甲に触れる長い髪は近くで見ると純粋に黒ってわけじゃなくて少しだけ茶色い。
冷えた夜の匂いと、それから倫理の知らない匂いが鼻先をくすぐる。
シャンプーみたいな甘い匂いに混じって消毒液みたいな匂いがする。
それくらい近い距離に女の子の顔があった。
何を考えているのかわからない表情のまま、倫理を見ている。
目の前にいる倫理のことをまっすぐに見つめている。
倫理を見つめている女の子の目を倫理も見つめかえす。
今度こそばちり、と目が合った。
「っ」
女の子の体がひきつけでも起こしたみたいに大きく一回びくんと震える。
視線が合うことで何かのスイッチが入ったようだった。
さっきまでどことなく頼りなくてぐんにゃりしていた体にぎゅっと力が入り、倫理の両手が触れている腕もガチガチに強張る。
とても、とても近い距離にある人形じみた表情のなかで瞳孔だけがきゅうっ、と小さくなるのがよく見えた。
見開かれた瞳の、白目の青白さが際立つ。
どん、と勢いよく腕が前に突き出された。
胸が強く突かれて息が詰まる。ウッとなって一歩下がった。
右手で胸を押さえる。女の子の腕をつかんでいたはずの両手は外れていた。
突き飛ばした本人も反動でふらっとしたかと思うとそのまま尻もちをついた。
スカートがめくれて今度は膝小僧だけじゃなく太ももが半分くらいスカートの外に出ていたけどそれを隠そうともしない。
じっと倫理を見ている。少しも視線が外れない。
犬とか猫が威嚇しているときみたいだと思った。目線を逸らしたら負け。じっと息を殺して、キリキリ精神を研いで、ひとときも視線をそらさないようにして、そのまま相手が視線をそらすのを待つ。
倫理はそんな犬猫の威嚇みたいな挨拶をする文化圏にいないので視線を外してもよかったのだがなぜだかできなかった。
同じように自分を見つめる2つの目を見つめ返す。
「大丈夫?」とか「ひどいなあ」とか「ボクごときにお礼なんて言いたくないのはわかるけどそれにしても随分な挨拶なんじゃない?」とかぱちぱち浮かぶけどそれだけだ。
何か言おうにもまだ喉に空気が詰まったような感覚が消えない。何も言えない。
倫理から視線を外さないまま、決して大きくない口がぱくっと開く。ちらりと見えた舌が赤い。
「あっちいけ」
はじめて喋りました、みたいなしゃべりかただった。
ついさっき、はじめて知った単語をそのまま読んでいるような、ちょうど倫理の後ろにカンペでもあってそこに書いてある知らない文章でも読んでるかのようなお世辞にも上手いとは言えないしゃべりかた。
拙くて、幼い。たどたどしい。
万年赤点の倫理が話すカタコトの英語のほうがずっともっと遥かにマシだと思うくらい。
ただ内容ははっきりしっかり伝わったし効果はあった。
まあボクだしな、という少しのあきらめと胸を強く突かれたのが原因じゃない痛みがミックスされたものがじわじわ効いてくる。ため息が出そうだ。
倫理が倫理だから誰にも好かれない。
いつものことだった。
いやあ、と喋りだす。
声色もいつもの通り。変化はない。
「初対面の人にも突き飛ばされるくらい嫌われてるとかさすがボクだね!」
「……」
返事はない。
じっと倫理を見つめたまま動かない。
「無視かよ~!」
「……」
無言。
「ねえ、」
「……」
「ねえってば、」
「……」
「もしも~し」
「……」
「……まさかと思うけどさあ、聞こえてないわけじゃないよね」
「……」
「…………さすがにここまでシカトされるとボクだって傷つくんだけど」
「…………」
「……………………」
「…………………………………………」
返事はやっぱりなかった。
無言が示すのが警戒なのか敵意なのかそれとも嫌悪の表れなのか、わからない。
何を考えているのか読み取れない顔のまま、まだ倫理を見つめ続けている。
何も言わない。ただ倫理のことを2つの目玉でじっと見つめているだけ。
視線を逸らさず、それが存在意義のように。
爆発寸前の爆弾のようでもあったし、そのままのかたちで死んだ死体のようでもあった。
得体が知れない。気味が悪かった。
口のなかで何を言おうと珍しく迷う。
もごもごしては喉の奥に消えるのを何回か繰り返してようやく出てきたのは、
「じゃあね」
だった。なんだそれと自分でも思う。しっかりしろよ〝北村倫理〟。
〝北村倫理〟はそんなじゃないだろ。
そんなだからダメなんだよなあ。
女の子からの予測できない第2波が来る前にさっさと背を向ける。
全てに現実味がない。
これが全部ぼっちが極まった倫理の脳みそが見せた都合のいい悪夢だと言われても頷ける。
倫理の妄想だから喋りかけても返事がないとか、笑えない冗談だけどそれなら納得がいく。
振り返ったらゴミ袋の上には誰もいなくて何もなくて。
それなら、いつもいろんな人から言われていたことがとうとう現実になっただけ。
倫理の頭がおかしくなっただけ。
そうだったらマジでボクヤバい奴じゃんと思って、だけど少しだけそうならいいなあと思って、振り返ろうとした倫理の背中に何かぶつかる。ぶつかって地面に跳ねる。
ポコンと音を立ててぶつかったのがなんなのか、振り返らなくても何となくわかった。
物を投げられたらちゃんと痛いなんて手が込んでいる夢だ。
ゴミ捨て場のほうから背中に視線を感じながら倫理は元来た道を引き返した。
ただ、あの女の子は倫理の背中が見えなくなってもずっと見つめているのだろうと思った。
家に帰るとお母さんはまだ帰ってきていなかった。
おおかた聖堂での大会議が長引いてるんだろう。
コンロの上に置いてある鍋にカレーが入っているのを見つけて、そういえば晩御飯を食べていないなと気づいた。レンジであっためて食べる。
倫理が出かけている間にお母さんが料理がめちゃくちゃうまくなってるとかそんなことはなかった。
食べ慣れたお母さんのカレーの味しかしない。
いつも通りの、野菜がすこし半煮えで、芯が残ったカレー。
溶け残ったルーの塊と肉をうまく見分けるのがコツ。
ルーの塊もスプーンの裏で潰してご飯と一緒になら食べられないこともなかった。
漫画を入れていたコンビニの袋がないことに気づいたのはお風呂に入って、布団に入った後だった。
いつもなら何もなければ寝てる時間で、布団に入った途端に意識がぼやける。
眠気でぼんやりする頭でどこかに置き忘れた漫画のことを考える。
漫画を忘れたとしたらたぶん近道に使ったゴミ捨て場だ。
今から取りに行こうかとも考えたが、きっともう見つからない。
買った漫画はどっかに忘れるし、初対面の女の子に「あっちいけ」なんて言われるし極めつけは助け起こしたその子に靴を投げつけられた。踏んだり蹴ったりだ。
いいことなんて一つもなくて、悪いことは数えるのをやめた。
数えるのをやめただけで忘れたわけじゃないけど。忘れられるわけでもない。
今日もいつもと変わらず愛おしくなるくらい通常運転で、変わりなく最低な一日だった。
結局お母さんが帰ってきたのは日付が変わる直前で、倫理はほの温かい布団の中、玄関の鍵が回る音をうつらうつらしながら聞いた。
昨日ちゃんとコードに繋いだはずのスマホは実はちゃんと繋がっていなくて充電が切れていた。
「うわやっべ!」
お母さんは既に朝のお祈りでいない。
見慣れた朝の風景だ。壁の時計が8時を回っていなければ。
倫理の愛すべき最低な日常としては出だしは上々、いつもなら諦めてるところだが今日はそうはいかなかった。
愛教学院の登校時間は8時半でそれを過ぎても始業開始の9時までに教室に入っていればどうにかなる。
だけど今日は違う。
しかも今日は入学して最初の月曜日で、何が何でも遅刻する訳にはいかなかった。
宗教団体愛教会を母体とする愛教学院には学校特有の行事がいくつかあって月に一回、月曜朝の礼拝もその一つだ。
そのために生徒は八時半までに講堂に集合していなければならない。
何をするかといえば簡単なことで皆で教本を読んで、祈る。教祖さまに祈りを捧げる。
救われますように。輪廻から抜けられますように。はやく幸せな世界にいけますように。
修行を積みますからもう二度とこんな世界に生まれたりしませんように。
だから何があっても月曜朝に寝坊なんてできないし遅刻なんてもってのほかだった、はずだ。
こうして寝坊してるから説得力皆無なんだけど。
いつもみたいに洗面所で顔を洗って、前髪をヘアピンで挟んでぺったんこの鞄を抱えて家を出る。
寝坊してもしなくても、365日ずっと1人で通っている通学路を今日も1人で通る。
いつもだって途中でクラスメイトと会っても「今日の小テストやべーよ」とか「課題やった?」なんて話しかけられることはない。
今日は誰も通学路にいないから人間自体がいない。
校門近くでも誰も見かけることはなかったし、いつもなら立っているはずの生活指導の先生すらいなかった。
校門前に黒い車が停まっているのを横目に見ながら閉め忘れたのか少しだけ開いた校門の隙間に体をねじこむ。CMでは見たことがあっても羽澄市内で見ることはないような高そうな車だった。
そのまま下駄箱まで走る。
靴から上履きに履き替えるので一旦停止。つま先だけ突っ込んだ上履きで講堂までダッシュ。
通学路と同じく誰もいない廊下を走って、階段を上って降りて。
講堂についた時にはちょうど最後の生徒の列が入るところだった。
何食わぬ顔で列の一番後ろについて講堂の中に入る。
「やだなあボクはこのクラスの一員ですよ」という顔をしながら入ったせいかバレることもなかった。
前から三年、二年、一年の順番で並ぶように決められていて生徒たちはクラスごとにそれぞれベンチに座って礼拝が始まるのを待っている。
本来なら倫理のクラスにあてられたベンチのところに座らなくちゃいけないが入り口からはそれなりの距離があった。仕方なく入り口に一番近いベンチが空いていたからそこに座る。
座る際に左肘をベンチの肘掛けで強打したけどそこはご愛嬌。
鞄から教本を取り出そうとゴソゴソしていると後ろからぽん、と肩を叩かれた。
「おはよ、ギリギリアウトだよ。北村君」
話しかけてきた女子生徒のことを倫理は知っていた。
見覚えのある顔で、もっと言うとクラスメイトだし、さらに言うと倫理のクラスの委員長だ。
委員長にはちゃんとした立派な名前があるがそれはそれとして皆愛称として「委員長」と呼んでいる。
品行方正成績優秀。なんならスポーツも人並み以上。
だからといって驕らず気取らず、先生相手に媚びへつらうこともない。
誰とでも仲が良くて、倫理にも他のクラスメイトにするように親しげに話しかける。
おまけに脳天から脊髄まで糸で吊ってあるんじゃないかってくらい姿勢がいい。立ち姿からしてそこらへんの人間とは違うと倫理は話したことがない教師だかクラスメイトだかが言っていた。
真っすぐで、正しい。
恥ずかしいことも隠したいことも後ろめいたことも何1つもありませんよみたいなそういうまっすぐさ。
実際そうなのかは倫理は知らないしそんな人間いるわけないじゃんと思ってもいるけども。
そういうのはもはや人間とは言わない。別の何かだ。
じゃあなんでこの成績優秀品行方正、倫理みたいな底辺のクズにも分け隔てなく話しかける友達百人と富士山の山頂でお弁当食べるのも夢じゃない根明の生徒がエリートで有名な白星第一や新進気鋭のラ・クロワ学苑ではなくコンビニ遠く山多し自然が多い以外はほぼいいとこなしの愛教学院にいるのかというと単純明快。
彼女も倫理やその他大勢の生徒と同じく脛に傷持つ可哀そうな底辺の一人だからである。愛教学院の生徒であるということはつまりそういうことだった。
そしてこの委員長、驚くことにクラスの鼻つまみ者、名前を出したら顔をしかめられる、トラブルに会いたくないならなるべく関わらないように過ごせ、でお馴染みの問題児、北村倫理にも他のクラスメイトに話しかけるのと同じように接するのだった。
周囲からもそれから倫理本人からも正気を疑われていたが、今でも普通に話しかけてくる。
「わざわざ遅刻してきたクラスのはみだしもんのところまできて挨拶しなきゃいけないなんて委員長サマは大変だね」
「またそういうこと言って……。ねえ、そこ空いてる?」
「空いてるけど、ボクごときと同じベンチに使ったりして大丈夫? 委員長のファンクラブから放課後に校舎裏とかに呼び出されてお話し合いとかさせられちゃうんじゃない?」
「ないない。そもそも私にファンクラブはありません」
「ケンソンしなくてもいいよ。 何せボクみたいな底辺のゴミクズにも優しくできるんだ。委員長は知らないかもしれないけど底辺は優しくされたら勘違いしちゃうんだぜ? ゆくゆくは愛憎めくるめくほぼ円みたいな多角関係が展開されても不思議じゃあない」
「愛憎めくるめいてる時点で崩壊してない? それ」
「サスペンスドラマなら崩壊して人間の本性がむき出しになってからが本番だよ」
また変なこと言ってる、みたいな顔をする委員長。
「まあそんなことはどうでもいいんだけどさ」
委員長、
「うしろにいるの、だれ?」
委員長と話してる間、後ろに背後霊みたいな微動だにしない何かがちらちら見えていてそっちのほうが気になっていた。
ああ! という顔をして委員長が後ろに突っ立っている人物に手招きをする。
委員長よりすこし背が低い、まるでその後ろに隠れるようにして立っていたその人は委員長にうながされるかたちで倫理の前に立つ。
北村倫理の悪夢が目の前に立っていた。
黒い服に長い髪。肌が青白いのは蛍光灯のせいだけじゃない。
服装も表情も、雰囲気さえもあのゴミ捨て場から切り取って張り付けたかのようにそっくりそのまま。
冴え冴えとした水銀灯の下じゃないってのに夜のキンとした匂いがしそうなところまでおんなじ。
昨日と同じように倫理を見ている。
昨日と同じ、感情の曖昧な顔で倫理をじっと見つめている。
転校生で同じクラスだから案内してたの、みたいなことを委員長が説明してくれているが倫理の耳にはまるで入ってきやしない。
ついさっきベンチの肘掛けで打った左の肘はまだ痛い。指の先、爪の間までじんじんと痺れている。
感覚は当分戻りそうには、ない。