誤解を恐れずに言っちゃえば、別に誰でもよかったんだよね。俺の好みに合えば、男でも女でも誰でも。
ワンナイトラブなんて歯みがきみたいなもん、ただ日によって使う歯みがき粉が違うだけ。え?わかりにくい?そうだなぁ、誰だって毎日パンツ履き替えるでしょ?それと一緒。だからね。
「おにーさんかわいいねぇ」
あの日そう声をかけたのだって、ただ見た目が好みだったから。それだけ。他に理由なんてなかった。
だけど嘘は言ってないよ、ほんとにかわいいと思ったんだもん。街灯に滲んだ白いおでことか、スーツのお尻とか、鋭い目つきとか。何より、前髪が俺とおそろいってのがよかったんだよねぇ。だからいつもどおり、これから飲みに行かない?奢るよぉって誘ったの。そしたらさ、
「あの……結構飲まれてます?」
なーんて言うんだよぉ、これから飲みに行こうって誘ってんのにさ。あははっ、笑っちゃう。天然なのかな?でさ、そのおにーさん、その後なんて言ったと思う?「急いでるんで……」だって!すっげぇ普通に歩いてたのにだよ?絶対急いでなんかなかったのに、おにーさんってばそれだけ言ってさっさと行っちゃったわけ。
……俺、こんなあっさり断られんの初めてだったからさぁ、何かこう、胸がぎゅーってなったの。だってほら、自慢じゃないけど俺ってワンパチの頃からカワイイカワイイって言われて育ったじゃん?何もしなくても見つめるだけでおにーさんもおねーさんも喜んでくれてさ。進化してもそう、にっこり笑っておねーさんかわいいねぇって言えばみーんな俺のこと見てくれんの。だからあんなに素っ気なくされたことってないんだよねぇ。
それにさ、あのおにーさん、すっげぇいい匂いがしたの。俺って鼻がいいでしょ?だから何だろ、何かわかんないけど食べちゃいたいっていうか、カワイイカワイイってしてあげたくなる匂い。わかる?何ていうか、無条件にぎゅーってして頭ぐりぐり撫でて、とろんとろんに甘やかしてあげたくなっちゃうようなおにーさんだったわけ。あーあ、うまく行ってたら今頃そのおにーさんのこと、ベッドの中でカワイイカワイイしてあげてたのになぁ。ねぇ、俺って今すげぇ傷ついてんのかな〜?
……と、あの後すぐたまたま捕まえた友人で対席を埋めながら、俺はレモンサワーを呷った。あーあ、ベッドまでは行かなくても、せめてごはんくらいは一緒に食べたかったなぁ。こんなどーでもいい奴なんかじゃなくってさ。
そんなどーでもいい奴は、口の中で肉をくちゃくちゃやりながら言った。「そりゃこんなご時世だし、見知らぬ他人と飯なんか食ってらんねぇだろうよ」まぁ……そう言われればそうかもだけど。でもさぁ、今回はそれでハイわかりましたって言えないんだよね。やっぱ傷ついてんだ、俺。
「つーかさ、それお前、そのオニーサンのこと好きなんじゃね?」
……え?
「あれ〜?こないだのかわいいおにーさん?奇遇だね〜!」
キグウってなんだっけ?たまたまグーゼン会うこと?じゃあ奇遇じゃないや、だって俺、おにーさんのこと探してたんだもん。
あれから1週間、俺は暇さえあれば(っていうか定職に就いてるわけじゃないから大体いつも暇なんだけど)、あのおにーさんを探して街をうろついていた。だってあいつが変なこと言うから、そういうの一目惚れって言うんだぜって笑うから、確かめてやろうと思って。今日はちゃんとマスクしてるし、大丈夫だよね!
だけど声をかけられたおにーさんの反応は薄い。あれ?俺のこと忘れちゃった?マスクを剥ぎ取り首を傾げると「いや、覚えてはいるが……」だって。うれしーなぁ、覚えててくれたんだ!運命の出会いだもんね!!そう言って歯を見せれば、おにーさんは運命ではないとか何とか言いながら胡乱げに俺を見つめた。何言ってんの?俺はおにーさんを見つけられたし、おにーさんは俺に見つかっちゃったし、そういうのも運命のうちのひとつでしょ?
「おにーさん名前は?俺はねぇ、きんかんだよ〜。よろしくね!」
「よろしく……?」
「荷物いっぱいでどしたの?買い物?」
見ればおにーさんは両の手に重そうな荷物をぶら下げて、汗までかいてる。荷物も汗もすごい量。今日めちゃくちゃ暑いもんね。車かタクシー使えばいいのに。車酔いするタイプなのかなぁ。
おにーさんの反応を窺う傍ら、ざっと上から下まで目を滑らせてみる。女物の香水の匂いもしないし指輪もない、スーツ姿からは所帯持ってる感じしなかったけど、お父さんやお母さんと住んでんのかな?だけどおにーさんからは、女特有の匂いも父親らしき中年男の匂いもしない。やっぱ一人暮らしなのかなぁ。背も高いしすっげぇ大食いなのかも。
何にせよ重そうだし持ってあげるねぇ。そう言って伸ばした手は、先週同様やんわりと拒絶される。2回目。こういう時はありがとーうれしいなぁって言って甘えちゃえばいいのに。タクシー呼ぼうかって言ってもいらないって言うし、おにーさんってもしかしてすっごい甘え下手?かわいーなぁ!
「えー、タクシーやなの?もしかして車酔いするタイプ?じゃあ俺がいっこ持ってあげるねぇ、いいのいいの暇だから」
半ば奪うようにバッグを引き受ければ、諦め顔のおにーさんがぐらっと身を崩した。咄嗟に支えればまたあの時と同じ甘い匂いがして、胸がぎゅって苦しくなる。「すまない……それと、ありがとう」ちっちゃく呟いた声がさっきよりずっと柔らかく鼓膜にゆっくり蕩けていくから、「俺は目だ」って言葉も危うく聞き流すとこだった。さかん、聞いたばっかりの名前を口の中で復唱する。べろの上が何だか甘くてあつい。
目が知ったら怒るかもだけど、正直あの時話したことってあんまり覚えてないんだよね。俺すっげぇ浮かれてたから。あんな奴の言うとおりなのは悔しいけど、俺、ほんとに一目惚れだったみたい。
「……なーんてこともあったよねぇ」
そんな俺の独り言に返事したのは、口内に響いたずるりというそうめんの行儀の悪い音。こいつを喉の奥に流し込むといつもこの馴れ初めを思い出すから、俺の記憶領域はきっとそうめんと繋がってるんだと思う。食道を滑り落ちていく重力に従って、脳みそから記憶を引っ張り出していくんだ。
「こら、ハムばっかり食うな!野菜も食べろ」
あれ以来もう何度口にしたかわからない目のそうめんは、そうは言うもののいつだってハムがたくさん乗っかっている。たまごはほどほど、俺の苦手なきゅうりは少なめ。何も言わなくてもいつだって同じ配分で出てくるこの冷やし中華みたいなそうめん、だーいすき。
「そう言う目だってほんとはお肉が一番好きなくせに〜。ね、あとでケンタッキー行こうよ、そうめんのお礼に奢っちゃう」
「まだ食うのか?……だったらなおさら野菜を食え。きゅうりのカリウムは塩分の排出を促すからな」
「はぁい」
渋々の様子で緑のそれをつつき始めた俺の箸先を満足そうに見届けたのち、その大きな身体はソファーで眠っている生きた屍を優しく揺り起こす。「アイレン、お前も食わないか」「……いらない」「そうか。……きんかん、アイレンの分も食べていいぞ」「じゃあ麺とハムだけもらうねぇ」「こら!」世話を焼いたり諌めたり、くるくる回る表情と忙しないその姿は、恋人や同居人というよりはまるで2児の父だ。
「ねーえ、青いのばっか構ってないで一緒に食べよーよぉ」
「んん、しかし」
「青いのだって子供じゃないんだし、腹減ったら勝手に食べるでしょ?……ね、お願い、俺がいる時は俺だけ見てて?」
でないと俺、目が俺しか見えなくなるくらいぎゅーしてちゅーしてビリビリのくちゃくちゃになるまでカワイイカワイイしちゃうかも。青いのにも隣のこわーいおねーさんにもわかるくらいのおっきな声で、目の頭がぶっ飛ぶまでキャンキャン言わせちゃうかもしれないよぉ。……そう言うと、目はピアスでガチャガチャした耳も鋭い眦もオクタンみたいに真っ赤にして、「……昨日あんなにしただろ、今日は……その、身が持たない、」と蚊の鳴くような声で呟いた。やだなぁ、昨日は昨日、今日は今日でしょ?
「あははっ、冗談だよぉ。目ってばえっち、期待しちゃってかわいーんだぁ」
「そっ……!そういうのじゃない!お前は少し節度を持て!」
眼鏡の奥の目尻をぎゅんっと吊り上げて怒鳴る顔もやっぱりかわいーから、時々わざと怒らせちゃうんだ。ごめんねぇ。でも俺が目のことそれくらい好きなんだって、目はちゃんとわかってくれてんのかな?
かわいいって言うといつも目は訳わかんないって顔するけど俺にはわかる。目はねぇ、俺にカワイイカワイイされる運命だったんだよ。だから絶対逃してあげない。わかんないならわからせてあげる。
青いのが大事ってんならそれでもいいよ。それもひっくるめて目だもん。だけど、青いのばっかりじゃなくて俺の方もちゃんと見てくれなきゃやだからね。俺が一番じゃなきゃ絶対許さないんだから。