「ヨシエちゃん、聞いたわよ。ヨシタカくん、病気なんだって?」
朋江ちゃんが好奇の目を隠さずに私に聞いた。
「え、ええ……」
「大変ねえ、まだ若いのに」
手元に目を遣る。ケースからビーズをつまみ上げてテグスを通す。一つ、二つ、三つ。私が半ば上の空でいると、朋江ちゃんはつまらなさそうに自分の手元の作業に戻った。
朋江ちゃんとは学生時代からの付き合いだった。学校を卒業して受付嬢になってからも、どういうわけか何か月かに一度くらいの頻度でお茶に行く仲だった。
私はすぐに両親の紹介で出会った孝夫さんと結婚して家庭に入った。朋江ちゃんものちの世でいうオフィスレディだったけれど、職場で出会った人と結婚して、私が一足先に義高さんを産んで、朋江ちゃんも一つ下に長女の美代ちゃんを産んだ。
新居も近くて、お互いにうちの人が、なんて愚痴を言いながら公園で子供を遊ばせたり、家に招き合ったりした。朋江ちゃんは映画を見るのが好きで、私が演奏会に行くのが好きだったから、お互いにお出かけの用事があるときは子供を預け合うこともあった。
そんなふうに都合がいいものだから、習い事も同じところに通わせようという話になった。楽器屋さんの前で義高さんにどれがいいか尋ねると、義高さんはバイオリンを指さした。後から美代ちゃんにも聞くと、美代ちゃんはおもちゃのトランペットを欲しがった。それで二人にそれぞれバイオリンとトランペットを習わせることになった。楽器は違っていたけれど、同じ時間、同じ建物に毎週通った。
あのとき、バイオリンなんか習わせなければよかった。
そういう後悔を抱いたのは義高さんが初めて仕事で出たコンサートだった。遠いドイツまで出向いていって、息子の初仕事に対して抱いた感情がそれだった。ひどい母親だと言われようと、私は義高さんにバイオリンを与えたことを後悔している。綺麗な色だと飴色の楽器を見る義高さんに、ピアノにしましょうと声をかければよかった。
思えば、その後悔の予兆は義高さんが日本にいるときからあった。義高さんは昔からぼんやりしたところがある子で、自分の感情を表に出すのがあまり上手ではなかった。親という目線を差し引いても頭はよかったけれど――というよりはむしろ、頭がよかったせいで周りに合わせることをしすぎていたのかもしれない。それでも、美代ちゃんや朋江ちゃん、音楽教室の先生たちに褒められる度に、冬の日差しみたいな、少し暖かい顔で笑った。
違和感を覚えたのは、義高さんが大学生になったときだった。大学に通い始めて少し経ったある朝、義高さんは一人で起きることができなくなった。それまでは目覚まし時計できっかり同じ時間に起きていたのに、時計を二個置いてもだめだった。時計が鳴って、自分で止めることもできたけれど、そこから起き上がることができなかった。毎朝私が温かい飲み物を持っていって、眠気が覚めるまで冷たい手を握っているのが習慣になった。
孝夫さんに相談したけれど、新しい生活の疲れが出ただけだろうと取り合ってもらえなかった。実際、私も一時的なものだと思っていた。けれど、それは私たちの予想に反して一年以上続いた。同じころから義高さんは口数が少なくなった。元々少なかった言葉数がさらに減っていった。
大学の先生から留学を薦められたのはそれが始まってから二年が経つくらいのころだった。その話が持ち上がってから、義高さんの朝の症状は二個目の目覚まし時計で起きられるくらいまで改善した。孝夫さんは、留学に向けて甘えた気持ちがなくなったんじゃないかと笑っていた。私はそうは思わなかった。
それでも義高さんの留学はトントン拍子に話が進んでいって、通う学校も住む場所も決まってしまった。卒業記念の演奏会が義高さんが日本を発つ前最後の演奏会だった。孝夫さんと朋江ちゃん、美代ちゃんと一緒に義高さんの演奏を聞いて、私は義高さんのバイオリンはこんな音だったかしらと、わけもわからず背筋が寒くなった。
そんな不安を抱えているうちに、義高さんはドイツに発って、いつの間にか音楽院を卒業して日本に帰ってきた。毎朝飲ませていたお茶の茶葉を定期的に送っていたけれど、飲んでいただろうか。私がそう切り出す前に、義高さんは私に演奏会のチケットを握らせた。孝夫さんと一緒に二人で見にきてほしいと、義高さんは上手な作り笑顔でそう言った。
それ以来、私は義高さんの演奏を聞くのが怖くなった。音色に込められた息苦しさと、作り物の笑顔が怖かった。
一度だけ、義高さんにバイオリンをやめていいと言ったことがある。大学時代にあの症状が出たとき、私はもしかして義高さんが嫌々バイオリンを弾いているのかと心配になった。だから、寝ぼけ眼の冷えた手を擦りながら、私は嫌だったらやめていいと言った。その日はいつもより起きるのが早かったように思う。
義高さんは、音楽院を卒業して何年か経ってから、年に一度だけ日本で演奏会を開くようになった。決まって私の誕生日か、その前の週末だった。義高さんなりの気遣いだったのかもしれないけれど、私は毎年チケットが送られてくる度に、何度見なかったことにしようと思ったかわからない。孝夫さんは毎年それを喜んで、私を演奏会に連れていった。つくづく、頭のいい、ずるい子だと思う。
去年、私はとうとうそのチケットを朋江ちゃんに譲った。孝夫さんは残念そうにしていたけれど、最近人混みに行くと疲れるのと、適当な理由をつけた。朋江ちゃんは美代ちゃんと演奏会に行ったらしい。義高さんにもその旨をメールで伝えた。電話をかける勇気はなかった。
それから年が明けて、義高さんはスランプに陥った。というよりは、スランプだと思われていたのは指の病気のようなものだったらしい。騙し騙し弾いていたところに、バイオリンの先生の訃報が重なって、いよいよ病状が悪化したようだ。なんの感情も感じられない、報告書のような文面でそうメールがあった。
「……明日、日本に帰ってくるんですって」
「あら、そうなの」
朋江ちゃんは興味があるのかないのか、ビーズを作業用のお皿の上に並べてああでもないこうでもないと取っかえ引っ変えしている。
「タカオさんは?」
「北海道。毎日寒くて大変だってメールが」
「相変わらずねえ」
そうね、と相槌を打つ。いつも出張ばかりで、義高さんともあまり話しているところを見たことがない。もしかしたら私の知らないところで話したり、連絡を取り合ったりしていたかもしれないけれど、少なくとも私にはそういう素振りは感じられなかった。私は朋江ちゃんがいたからいいけれど、義高さんはどう思っていたのだろう。
「大きい病気なの?」
「指の病気ですって。弾くのがだめみたい」
「じゃあ、普通に家にいる分には問題ないの?」
「うん」
「お家には帰らないんだ?」
「そうみたい。荷物が多すぎてうちには入らないからって」
もしかしたら、遠慮してるのかもしれないけど。そうつけ加える。朋江ちゃんはそうかもねえ、と間延びした声で答えた。
「美代がねえ」
朋江ちゃんがようやくビーズにテグスを通し始める。
「ヨシエちゃん、去年コンサートのチケットくれたでしょ。さすがにヨシタカくんには会えなかったんだけど、美代がちょっと痩せたんじゃない? って」
「……義高さんが?」
「うん」
そうかな。うん。
朋江ちゃんはテグスを通す合間にお茶を飲みながら相槌を打った。
「ヨシエちゃん」
「なあに」
「ヨシタカくんと話した?」
「ううん」
「ふうん」
まあいいけど。朋江ちゃんは溜め息をつく。
私はせっせとビーズをテグスで組み立てて、子犬の形にしていく。
「美代の、さ」
「うん」
「旦那がね。末期ガンだって」
「……治らないの?」
「たぶん。持って一年くらいだって」
はあ、とまた溜め息が聞こえる。
「信じらんない。あたしたちより全然若いのに。子供だってできたばっか。まだ中学生にもなってないのに」
「……」
私は手を止めた。朋江ちゃんの横顔を見る。
少し、痩せたような気がする。若いころと比べて、というのは当たり前だけれど、去年演奏会のチケットを渡すついでに一緒に映画を見にいったときよりも。
「美代ちゃんは大丈夫? ……朋江ちゃんも。お孫さんは……」
「トモキにはね、まだ話してないって」
「そう……」
「あたしたちより若くてもさ、急にそういうふうになっちゃうことってあるのよね」
ぱちん、と音がした。朋江ちゃんが半分もできあがってもいないビーズのテグスを切っていた。
「……やり直しが利かないのよねえ」
一回切ったら終わりなの。そう言いながら、朋江ちゃんは机の上に散らばったビーズを集める。
「……朋江ちゃん」
「なあに」
「明日……ううん、明日は荷解きがあるだろうし……」
ビーズの子犬が完成する。なんとなく始めたこの趣味も、値段をつけて買いたいと言ってもらえるまでに上達した。義高さんが家を出てから、ずっと手持ち無沙汰だった。
「……一緒にやってあげたらいいんじゃない」
朋江ちゃんがビーズをケースに戻す。今日はもうやる気がないみたいだった。
「……そうね」
私もケースの蓋を閉めて後片付けをする。
「それ、よかったら美代ちゃんにどうぞ」
「うん。ありがとう。……あ、これ忘れてた」
ガサガサと紙袋を持ち上げて、朋江ちゃんは私に中身を見せる。オレンジ色の球がたくさん入っている。
「なあに、どうしたのこれ」
「うちの人のお兄さんから届いてさ。段ボール一箱なんて食べきれないでしょ。お裾分け」
「あらあら。ありがとう。でもうちもこんなに食べられないわ」
「これでもまだうちに倍くらいは残ってるんだから。ヨシタカくんにもあげてよ」
「そうね、そうする」
また今度ね。いつもみたいにそう言って、朋江ちゃんは帰っていった。
空港で人を待ったのなんて、お付き合いを始めてから最初に孝夫さんが出張から帰ってきたときくらいだった。
そのとき、孝夫さんは驚いた顔をした。そうして少し恥ずかしそうにはにかんで、私たちは手を繋いで別れ道まで帰った。僕は出張が多いから、毎回出迎えてたらキリがないよ。孝夫さんはそう言って次からの出迎えを断ったけれど、義高さんはどうだろう。
飛行機から降りてくる人を眺める。人の波の中に、義高さんの姿を探す。
「……義高さん!」
見つけた、と思うのと同時に声が出た。義高さんはイヤホンかなにかを耳にしていて、私の声は聞こえていないみたいだった。それでも、ガラガラと億劫そうに旅行鞄を転がす義高さんが周りを見るために顔を上げると、ちょうど私と目が合った。
「……Mutter……」
ドイツ生活が抜けていないのか、そう私を呼ぶ小さな声が聞こえた。背中には懐かしいバイオリンケースを背負って、ガラガラとこっちに近付いてきた。
「Lange ni……違う。えーと……お久しぶりです、母さん」
「おかえりなさい。大丈夫? 寒くない?」
「ドイツは日本より寒いので……母さんこそ。わざわざ空港まで来ることは」
「久しぶりの日本なんだから、案内役くらいさせてちょうだいな。駅も色々変わってるのよ。お家まで迷わないか心配なの」
「……家まではタクシーを使うつもりだったのですが」
言われてみればそれもそうだった。もう子供じゃないのだから、そういう工夫はいくらでもできるに決まってるのに。
「違うのよ、百貨店でね、お惣菜でも買って帰ろうかと思って」
思いつきで言う。反応を待っていると、義高さんは少し俯き加減になった。
「……あの。和食が食べたくて。寿司、とか」
「そうなの? お寿司なら向こうでも食べられるんじゃ……」
「あれは寿司ではないので」
義高さんは少しむっとした顔でそう言った。
そういえば、テレビで見た外国のお寿司はカリフォルニアロールという、海苔のない海苔巻みたいなものだった。
「そうねぇ……」
お寿司、お寿司。お寿司なんていくらでも食べられる。スーパーのお魚屋さんにもあるし、ちょっと奮発したカウンターのお寿司屋さんもある。義高さんは喜ばないかもしれないけれど、宅配や回転寿司なんていうのもある。
「うん……とりあえず、お家まで行っちゃいましょ。お部屋のお片付けをして……ご飯のことはそれから考えましょう」
「はい」
義高さんは頷いて、ガラガラゴロゴロ言う旅行鞄を引っ張る。そうして迷わずタクシー乗り場に向かった。タクシーの運転手さんに行き先を伝えるやり取りも手慣れていて、なんだか急に大人になって見えた。
「あ、そうそう。これ朋江ちゃんから」
「朋江おばさん……?」
タクシーの中で、私は紙袋から入れ替えた布のバッグを渡す。
「みかん、ですか?」
義高さんは不思議そうな顔をした。
「朋江ちゃんがね、旦那さんの実家からたくさんもらったんですって。食べきれないからうちにもって」
「はあ、それは……ありがたくいただきます」
そう言って、義高さんは口を閉ざした。私も特に話したいことがあったわけじゃなかったから、なにも言わなかった。
タクシーに揺られて、一時間くらい。高いマンションの前に止まった。少しうたた寝をしていた義高さんを揺り起こす。料金は自分で払うと言って聞かなかった。相変わらずの頑固者。
お家の中には段ボールがたくさん届いていた。少し休憩してから荷解きを始める。CDや楽譜ばっかり。自分のお洋服は最低限だった。
「あら」
一冊だけ、小さなアルバムがあった。
「それは……CDと同じところに」
「あら、せっかくなんだし、一枚くらい飾ったら?」
「でも……写真立てやなんかは、持っていないですし」
「うちにあるのを送ってあげるから。ね、そうしましょ。ほら、このテレビの台とか。なにもないんじゃ寂しいでしょ」
「……はい」
あんまり乗り気じゃないのね。きゅっと結んだ口がそんなふうに言っている。嫌なことがあると少し眉尻が下がるのは昔のまま。それでも、なにも言い返さないのも昔のまま。
それからお互い余計なことは言わずに、段ボールを開けて中身を出してを繰り返した。
「ああ、いやだ」
暗さを感じて電気を点けて、お夕飯の準備を忘れていたのに気付く。
「……母さん?」
「お夕飯……どうしようかしら」
「ああ……」
義高さんが手を止めて、少し崩れた髪を結び直す。それが終わると、机に置きっぱなしのスマートフォンを突っついた。
「近くに……歩いて行けそうな距離だと、二軒あります」
「お寿司屋さん?」
「はい。……今日、父さんは……?」
「北海道にいるのよ。相変わらずなの。すごく元気」
義高さんは、なにか言いたげな顔をして口を閉じた。そうやって少し俯いて、スマートフォンの画面をつけたり消したりする。
「……なあに、どうしたの」
顔を覗き込む。
ちらっと私を見て、居心地が悪そうに前髪を触っている。
「……父さんは、もう少し家にいるべきだと思います」
「あら、どうしたの、急に」
本当に、急ね。特別寂しがりな子ではなかった……と思う。それどころか、孝夫さんが家にいると、むしろその方が落ち着かない様子を見せていた気がするのだけど。
「いえ……母さんが、家でずっと一人でいるのは危ない……と、思うので……」
「あら。心配してくれてるの?」
「いえ、あの……、……はい」
義高さんはふう、と息を吐いた。怠そうにソファに座る。私もその横に座った。
「ねえ、義高さん。私、平気よ。そりゃあ昔に比べたら年だって取ったけど、まだ元気なんだから」
「……それは、わかってますが」
「それよりもね、今心配なのはあなたのこと。いいのよ、別に。バイオリンが全部じゃないわ。私はバイオリンを弾くあなたが好きなんじゃないのよ。あなたが好きなの。だから心配してる」
私よりも幾分か大きな手を握る。少し痩せたのは本当かもしれない。俯き加減の顔を覗き込むと、少しだけ煙草の臭いがした。