宿伏ワンライ つまらん時代になったものだ。
宿儺は内心で独りごちる。
女も子供も蛆のように湧いてはいるが、それを取って食うにも鏖殺するにも、千年前とは比較にならない面倒が伴う。小僧を模した肉体を得た事で、高専の監視下とは言え行動の自由は手に入れたものの、未だ指三本の現状ではあの厄介な無下限の術師を抑えるには尚早だ。
それ以前に、非術師たちによって隅々まで法や共同体で切り分け、整地された世界の狭隘な事よ。陰陽の境が混沌としていた平安の世の闇の深さは現代の比ではなかった。
「つまらん」
宿儺は今度は口に出していた。
「なら帰れよ、そもそも付いて来てくれとは頼んでねぇ」
寄り合いで自らの価値を計る矮小な存在になった呪術師どもの中で、宿儺が唯一の存在価値を認める若き術師、伏黒恵は宿儺を一瞥し、つれない言葉を投げてくる。
利用者のほとんどは呪術高専関係者という、筵山麓界隈に一件しかないコンビニエンスストア。コンビニと言うよりは田舎のよろず屋の延長線上のような佇まいの店に、宿儺と恵は買い物に来ていた。
自らの術式の真髄を未だ知らぬ発展途上の術師は、頼まれ物の女性向けファッション誌を買い物カゴに放り込んでいる。
「オマエの事を言っている訳ではない」
「……?付録が付いてねぇ」
恵は、今しがたカゴに入れた雑誌を再度手に取り、ためつすがめつし、何かに気付いたようにスマホを取り出す。ネット検索で調べものをした後、天を仰いだ。
「…コンビニ限定の付録ポーチって、このコンビニじゃねぇぞ釘崎のやつ…」
渋面で雑誌を棚に戻す。
事の発端は午後の座学の時間。
一年生担任の五条、二年生担任の日下部が共に出張になり、急遽自習が言い渡された。
生徒数も教員も極端に少なく、特殊な学校の性質上、日々のカリキュラムはある程度生徒の自主性に任せざるを得ない部分があり、自習自体は珍しい事ではなかったが、二学年共にというのはそうある事ではない。
すかさず釘崎が、真希さんに稽古を付けてもらうと言い出したのをきっかけに、いつの間にか談話室での格闘ゲーム大会に発展していたのには、付き合った恵も頭に「?」を浮かべるしかなかった。
宿儺としては心底どうでも良かったが、操作方法がわからないと言えば律儀な恵が懇切丁寧に、時には手を取りながら説明してくれるという一点に関してだけは非常に気分を良くしていた。
ドベはパシリな、と真希が事前に宣言していたので、負けず嫌いが揃った一年生は、宿儺以外は全員本気を出した。が、虎杖の格闘ゲームの適性の無さは、恵が認識していたより深刻だった。
呪力なしの殴り合いならこの中で宿儺を除けば間違いなく優勝であり、ずば抜けた格闘センスを持つ彼が、なぜ打撃・掴み・投げの三すくみの読み合いである格ゲーでここまで勝てないのか、恵は頭を抱えた。
虎杖が選択したのは、豊富なコマンド投げが持ち味の所謂『投げキャラ』で、やや上級者向けのキャラクターだった。複雑なコマンドを覚える気のない虎杖は、総当たり戦の勝ち点数でダントツの最下位をもぎ取ってしまったのだ。
釘崎に「この面汚しがァ!」と吐き捨てられ涙目の虎杖を捨て置き、宿儺は完全に興味を失ってソファーで居眠りを始める。
一方恵は、コンビニまでの買い出しを命じられ、居酒屋の新人店員よろしく口々に言い付けられる品名に目を白黒させている虎杖を見過ごす事ができず、割って入った。
「もういい虎杖、俺が覚えたから一緒に行ってやる」
「はァ!? 何言ってんのよ伏黒アンタ、虎杖に甘過ぎんだろーが!」
間髪入れず釘崎の怒号が飛んだ。
すっかりしおれていた虎杖は、途端に目を輝かせて恵に抱き付く。
「伏黒きゅんやっさし~!」
「うるせぇ黙れ重い。離せ」
「ナンデェ!?」
「そうだ小僧、邪魔だ消えろ」
『え?』
恵と、恵の腕にしがみついた虎杖が同時に声を上げる。
寝ていた筈の宿儺が背後に立っている事に気付くより早く、竜巻に巻き込まれたような勢いで虎杖の80kgオーバーの体が宙に舞った。壁に叩き付けられる寸前で、虎杖は持ち前の身体能力で受身を取り事無きを得た。
「宿儺!」
恵が鋭く宿儺を睨む。虎杖の首根っこを掴み上げ投げ飛ばした張本人である宿儺は、恵の剣幕を物ともせずふん、と鼻を鳴らした。
「そこの女の言う通りだ。オマエは小僧の事になると途端に浅慮になる」
「?」
突然自分に矛先を向けられた恵は戸惑った。
「コレは愚鈍な小僧に対する罰なのだろう。役得を与えてどうする」
「…は?」
その場に居合わせた若く賢明な呪術師たちは、恵以外の全員が即座に察した。『宿儺のアレがまた始まった』と。
アレとはつまり悋気だ。どういう訳か、この呪いの王にとって恵は特別な存在であるらしく、人間の感覚で判じるなら『好意』と取れるような態度を隠そうともしない。呪いと呪術師の間に横たわるいばらの道など更地にして突き進むかの如き勢いでアプローチをしている。
「役得って何だ、虎杖はちゃんと買い出しに行くっつってんだよ。俺は手伝うだけだ」
ただし当の恵だけが宿儺の意図を理解していない。
「オマエは小僧が絡むと迂闊になるが、自分については更に察しが悪くなるな」
「!?」
「伏黒、元ヤン出てるって」
虎杖が遠慮がちに口を挟んで来た。
「いいよ伏黒、俺一人で行けるから。あんがとな」
虎杖は恵の肩を軽く叩き、ニカッと笑って見せる。
尚も何か言い掛けた恵を制し、宿儺は虎杖に向かって片手を振りしっしっと野良猫を追い払うような仕草をした。
「聞いていなかったのか小僧。オマエはもう用済みだ」
「へ?」
「買い出しは俺と伏黒恵で行く。つまらん余興に付き合った分の褒賞は貰わんと割に合わん」
宿儺はさも当然の権利のように主張する。
「いやルールガン無視じゃん! ワガママが過ぎねーかなぁオマエ!? 俺が一人で行きますけど!?」
「邪魔だと言ってるだろう。言っても解らんなら足を折る」
「あぁ!?」
憤慨する虎杖を押しやり今度は真希が前に出る。
「いいぜ、ただし恵のレンタル料として追加注文はさせてもらう」
「いいだろう。好きな物を言え」
「真希さん!?」
目を剥いた恵に構わず、パンダと狗巻も揃ってはいはいと手を挙げた。
「俺カルパスとギョニソ追加な」
「しゃけしゃけ昆布高菜明太子~」
神速で食い付いてくる先輩組。
何故か成り行きで宿儺に売られる事となった恵と、何故かペナルティが失くなったのに素直に喜べない虎杖だけが呆然と一連のやり取りをなす術もなく眺めていた。
「なんか…ゴメンな、伏黒」
「いや、オマエは悪くねぇだろ虎杖…というか、そもそもの発端は何だ……俺か…?」
「行くぞ伏黒恵」
先刻までと打って変わって浮き足だった様子の宿儺が、やけに甘ったるい声色で恵を呼ぶ。
「気を付けろよ伏黒。オマエには滅多な事しねぇとは思うけど、ソイツれっきとした呪いだし…宿儺もさぁ、伏黒とコンビニデートしてぇなら最初から素直にそう言や――」
虎杖が言い終わる前に、再び彼の体は投げ上げられて宙を舞った。
「…やはりあの軽い頭から落としてやるべきだったな」
宿儺は冷蔵コーナーのスイーツを品定めしながら舌打ちをする。
「いい加減にしろ宿儺。縛りを忘れた訳じゃねぇんだろ」
恵は横から釘崎リクエストの季節限定マカロンに手を伸ばす。彼女はつくづく限定ものが好きなようだ。
宿儺は、虎杖と分離する際の条件として、高専所属の術師として力を奮い、任務の討伐対象以外を殺傷しない事という縛りを結んでいる。残忍な呪いの王がそんな制約を受け入れてまで何を企んでいるのか、恵たちには知る由もない。
「しかしこの時代はどこへ行っても食い物が溢れているな。しかもほとんどが既に調理済みで、封を開ければすぐ食える状態のものだ」
『ふわふわクリームたっぷりプリン』というラベルの貼られたカップを手に取りしげしげと眺めている宿儺に、千年前の呪物の面影はない。
「そういうの食うのか、オマエ」
何となく恵は訊ねてみた。
「俺の生きた時代には甘味と言えば、柿やら栗やらの木の実か、甘葛ぐらいだったからな。色々と試している所だ」
言いながら宿儺はプリンを恵の持っているカゴに入れる。
「呪霊や人間ばっかり食ってたのかと思ってたよ」
「それも食うが、人間は調理に技術が要る。腕の良い奴がいたが今は何処にいるのかわからん。呪霊を食うのはそもそも腹を満たす為ではないしな」
恵の皮肉に対して、宿儺はそんな風に嘯いた。
「今は人間が被食者になる事は少ないようだが、殺した相手を食うのはむしろ理にかなっていると思うがな。自ら手を下していない命を貪る方が傲慢だろう」
傲岸不遜が人の形を取っているような宿儺の口から『傲慢だ』などと非難がましい言葉が出た事に、恵は鼻白むしかなかった。
「屁理屈言うな。わざわざ獲物を狩らなくても食うに困らない世の中になったんだよ。千年前の基準を持ち込むな」
「そのお蔭で人間も随分と殖えた。多少間引いた方が何かと収まりが良いだろうな」
そうは思わんか?と宿儺が色を失った恵の顔を覗き込んで来た。
縛りは絶対だ。宿儺が今ここで暴れ出す事は決してない。冷静に自分に言い聞かせながらも、背中に冷たい汗が伝う不快さに、恵は眉を顰めた。手が無意識の内に、式神を象ろうと動く。
ふと視線の交わった四つの紅い目には、はっきりと揶揄いの色が宿っていた。恵は舌打ちする。
宿儺は恵の表情の移ろいをつぶさに眺め、やがて満足したのか顔を上げた。
「まぁ最も、呪物となった今では、食わなくても生きてはいけるが。元々食う事は俺にとって随一の快楽だからな」
そう言って宿儺は再び恵の方を見やり、何かを思い付いたような顔をした。
「そう言えば、オマエと食事を共にする事はあまりなかったな。どうだ、今から」
宿儺は店内の一角に設えられた、小ぢんまりとしたイートインスペースを指差した。
突然の提案に恵は思考が追い付かず、返答が一拍遅れた。
「は?…いや、俺は腹は減ってねぇし、早く戻らないと先輩たちがうるせぇだろ」
「俺は減っている。いいから付き合え、伏黒恵」
有無を言わさぬ様子で、宿儺は恵の持っていた買い物カゴを奪い取り、レジに向かった。
道すがら目に付いた商品を二、三個掴んでカゴに投げていく。
「…食わなくても生きていけるんじゃなかったのかよ」
恵はため息をひとつ吐いて、その背中を追った。
恵は店内に設置されたコーヒーサーバーのコーヒーを注文する。
宿儺はカゴから溢れそうな量の商品代金を支払うついでに、恵のコーヒーの会計を済ませた。
「さっきの詫びだ」
宿儺はさらりとそう告げた。謝意などという殊勝な感情を持ち合わせていたのか、と恵は苦々しく宿儺を睨む。
「オマエはそれをよく飲んでいるな」
イートインスペースのカウンター席に着いた宿儺は、恵の口にしているコーヒーを気に掛けている。
「燻したような独特の香りは悪くないが…美味いのか」
顔を近付けてくる様子が、好奇心旺盛な猫のように思え、恵はほんの少しだけ気を緩めてしまう。
「…飲んでみるか?」
宿儺は目を丸くして恵を見る。
「いいのか」
「色々試してるんだろ」
宿儺は恵からカップを受け取り、飲み口から中身を確認するような仕草をしてから、そっと口を付ける。
「…………」
眉をしかめ、口を引き結んだ宿儺は、何やら釈然としない様子で呟いた。
「薬湯か…?」
「薬効…も無い訳じゃないが、現代ではごく一般的な嗜好品だよ」
「成る程」
何が成る程なのか、宿儺はプリンを掬ったスプーンを黙々と口に運ぶ。
(口直ししてる…)
隣りにいるのは紛れもなく、禍々しい本性を隠そうともしない呪いだ。見た目の所為で虎杖であるかのような錯覚を覚え、恵は自らの緊張感の無さを戒めた。
恵の内心の葛藤を知ってか知らずか、宿儺は自分の食べているプリンを掬って恵に差し出して来る。
「美味いぞ。オマエも食え」
「は」
反応に困って口から意味を為さない音が洩れた。
「…い、らねぇ」
呪いに手ずから食べさせてもらう自分の姿を想像し慄然とする。
「甘いもんは、好きじゃねぇから」
自分の声がやけに言い訳がましく響いて、何故か居た堪れない。
宿儺は片眉を上げ、恵と手にしたプリンカップを交互に見た。
「…まぁ、これだけ食い物が豊富にあると選り好みもしたくなるか」
宿儺は一人で納得し、残りのプリンを一口で食べ終えた。
続いてロングカルパスを袋から取り出し、包装を剥がしてかぶり付き始める。
これならどうだ? と宿儺が目で語りかけてくるので、恵も無言で頭を振り、コーヒーを呷った。頼むからもうこっちに振ってくれるな、と念じながら。
「…糧を命懸けで獲る必要がないと、生物の感覚は鈍麻していくものだ。人間も術師も呪霊も、手応えのない輩が蔓延る訳だな」
宿儺はつまらなさそうにカルパスを二口程で腹に収めた。更におにぎりに手を延ばす。
「でもオマエ、五条先生には勝てないだろ」
宿儺の動きがピタリと止まった。
恵は宿儺を見た。目が合ったが、その瞳には先程と違って何の感情も読み取れなかった。
「そうだな。アレはこの時代における数少ない例外だ」
そう言った宿儺の表情は、既にいつもの不遜なものだった。レジ袋の中から物色した牛カルビおにぎりの包装を慣れた手付きで剥がしている。
「厄介ではあるが、その位でなくては手間を掛けてこの時代まで長らえた甲斐がないと言うものだ。いずれあの術師とも決着は付けてやる」
事も無げに言いながら宿儺はおにぎりをほぼ一口で平らげた。
「…だがまぁ、千年待って良かった事はそれだけではないぞ」
宿儺は恵の方に向き直って言った。
「食う以外の快楽が見つかったからな」
とても愉快そうに、真っ直ぐこちらを見据えてくる宿儺の紅い目に、何やら得体の知れない熱を感じ、恵は据わりが悪い思いがした。
それは何だ、と訊いてみるのも薮蛇だろう。
どうせろくでもない事であろうし、元より自分たちは呪いと呪術師だ。
今の所はお互いに同じ高専生という処遇が与えられてはいるが、気安い関係である筈もない。宿儺の専横と、それを容認した先輩たちによって、今はどういう訳かコンビニの飲食スペースで肩を並べる羽目になってはいるが。
それはそれとして、恵は先刻からずっと気になっている事があった。
「…宿儺」
「何だ?」
恵は、宿儺と極力目を合わせないように、自分の口元の辺りを指差した。
「飯粒付いてる」
「うん?」
キョトン、と擬音がしそうな表情は益々虎杖を彷彿とさせる。
宿儺は自分の口の辺りに手をやるが、やがて首を傾げた。
「自分ではわからんな。取ってくれ」
顎を突き出してくる宿儺に、恵は遂に耐えきれず手にしたコーヒーカップを握り潰した。
「自分でやれ…!!」
何故か恵の方が赤面し俯く。
「なら俺はここから動かん」
「ワガママ言うな!」
宿儺と二人きりの状況で、これ以上戻りが遅れると皆に余計な心配を掛ける事になるかも知れない。
顔を上げると、口元におにぎりのご飯粒を付けたままの宿儺が真顔でこちらを見つめている。
恵は観念して、宿儺の顔に手を延ばした。
ケヒッと耳慣れた嗤い声がした。