煌々たる禊 ――美しいですね。
その言葉は告げるべくして落とされたものではなかった。
「……リュカ先生?」
彼女が燭台に灯る火からこちらに視線を移す。瞬く瞳がこれほど愛らしいことがあるだろうか。小さな炎を反射して煌めく、透明な硝子玉。それが私を見ている。机越しに、私だけを捉えてくれている。
「……ああ、すみません。つい声に出してしまいましたね。お恥ずかしい……」
苦笑で悦を隠した。
「こんな、夜にまで準備に付き合わせてしまって、申し訳ないのですが。君の横顔が、暖かい火に照らされているのが、綺麗だと」
素直な気持ちを伝える。聞いた彼女の頬がじわりと色づいた。水に落とされたインクが広がるように。火の反射だけではない、彼女に流れる温かな血潮の色。
「……え、と。……紅茶。注ぎます、ね」
「ええ、ありがとうございます」
恥じて視線を逸らすのも堪らなく愛らしい。伏せられた瞳の表面で照らされた水面が揺れる。ただ、その目が私から外されてしまったのを少し惜しく思った。
薄く色づく爪は小さい。その控えめな貝殻で装飾された指先が、私の手元にある空のティーカップを引き寄せる。嫋やかに伸びる腕。私の視線はそれをなぞって導かれる。少女の服から控えめに覗く、細い鎖骨にくっきりと影が落とされている。火に反射して形を変える光と影。服で隠された華奢な首元。心臓がぎこちなく脈打った。意図して彼女の首元を、鎖骨を見たわけではない。しかし見てしまったそれはあまりにも、儚げで、頼りなかった。軽く歯を立てただけで、脆く砕けてしまいそう。それは砂糖菓子のように、ほろほろと崩れ、溶けてしまうのかもしれない。口の中の唾液が嫌でもかさを増す。……欲を自覚してしまう。揺れる金の髪が首元にかかる。とぽぽ……と紅茶が注がれる音が、私の思考を引き戻した。
「あ……、良い、香りですね」
差し出されたティーカップを誤魔化すように持ち上げ、頭を切り替えるために深く息を吸う。爽やかな香りが僅かながら欲を濯ぐ。口をつけると熱い紅茶が舌を焼いた。
「っつぅ……ぅ」
「——ふふ、熱いですよ」
焦って失敗してしまった私に、彼女は緩んだ笑顔を見せた。
「…………ふふふっ、君が淹れてくれたので、つい」
少し頬が熱い。だけれど心地良い。そんな暖かな目を向けてくれるのなら、いくらだって身を焼きたいと思った。
微笑む口元を押さえる指先は品良く揃っている。貝殻が反射している。灯りによって濃く作られた影が、彼女の唇の膨らみに沿って形を歪めている。口元からその指先が離れる時、影もまた彼女の肌を泳ぎ去っていった。そうして代わりに白いティーカップの縁が添えられる。柔らかな唇が軽く窄められ、湖を風が撫でるように、揺れる紅茶にそっと息が吹きかけられた。
「…………」
彼女の動作につられるように、私も手元の紅茶を冷ます。しかし火に照らされて陰影を濃くした彼女は美しく、その輪郭を追いかける行為から抜け出せない。
カップに一瞬だけ口をつけて、湯気の中で伏せられた睫毛を震わせた。水滴が羽を休める金がちらちらと煌めく。その様子を見ていると、私の頭の中でも火の粉のようなものがちかちかと舞った。飲むかと思われたが、また離れた唇から吐息が吹きかけられる。可愛らしい。そして清らかだ。透き通った液体が羨ましい。彼女に何かを吹き込まれることが。そうして変えられていくことが。
彼女の方が背丈が低い分いつも見下ろしているはずなのだが、こうして改めてつむじと流れる髪を見ているとなんとも耐え難い衝動が湧き上がってくる。金の髪が輝いている。瑞々しい神聖さを纏っている。手で触れて、指で梳いて、毛先を掬うことができればどれほど良いか。揺れる光は私の欲と理性を一緒くたに煮込み、かき混ぜ、感情の渦にしていく。彼女は炎がよく似合う。燈明に照らされた彼女は、奇跡のように美しい。
紅茶を冷ました彼女が口をつける。それに合わせて私も紅茶を流し込んだ。暖かい。優しい香りがする。ゆっくりと飲み下す。彼女のおもいやりが喉を通り、私の中にするすると落ちていく。その温かさにじわじわと体が満たされていくのを感じながら、彼女をじっと見つめながら、彼女が小さく息を吐くのを聴きながら、五感の全てが彼女に浸されていることへの眩暈がするほどの陶酔に溜息を溢した。
「……美味しいです、君のお茶は」
彼女は安堵したように微笑んだ。濡れて光を返す唇は艶やかな果物のようだ。私はそっと自身の唇を舐めて微笑み返した。
……ああ。今この身の中に飲み込んだ熱が、彼女が生み出した炎ならば。どれだけ良かったことでしょう。
生命の祝福を受けた、私の天使。彼女の金の輝きで、私の醜い身体を濯いで、焼き清めてはくれないだろうか。そんな夢見事が、ふと頭を過ぎった。
「………………」
軽く目を閉じて、紅茶の香りに意識を移す。これだけで十分だと言うのに。どこまでも愚かな男だ。一つの呼吸で肺を満たしていると、彼女が遠慮がちに私を呼んだ。
「……リュカ先生? 何か……私にできることは、他にありませんか?」
「………………え」
彼女は上目遣いに私を覗っている。
「あ、その。お疲れ、みたいですし……ご迷惑でなければ……」
誤魔化すように、彼女はその細い指で自らの髪を耳にかけた。小さく薄い耳朶が露わになる。揺れる金は、それを飾る小さな耳飾りのようだ。健気に私を見上げる瞳は、惑うように下がる眉は、微かに開く艶めいた唇は――酷くいじらしい。
「……では。私のお願いを、一つ聞いてくれますか?」
「はい、なんでしょう」
柔らかく綻んだ笑顔。許されたような気になってしまう。
「私の……私の、隣に。座ってくれますか」
「……? ええ、勿論です」
かたんと軽い音を立てて引かれた椅子に、彼女の気配が収まる。どこか不思議そうに私を見遣る瞳は丸く、どこか幼かった。
「この本を、一緒に確認しましょう。それが私のお願いです」
「……もう。それじゃあいつもと変わりませんよ、リュカ先生」
彼女が笑い声を転がすと、温かい光が灯り、辺りに零れ落ちるような錯覚を覚える。天使が私の名を奏でる時、私はこの世で最も短い音楽を聴くことができるのだ。
「では……どこから読みますか?」
「そうですね、ではここ。明日の最初の授業で使うところから……」
僅かに身を寄せる彼女の体温を、すぐ傍に感じる。例え触れることができずとも、それは浄化の光だった。……こんなにも、穏やかな炎があるだろうか。あるのだろう。彼女の身の内に、生命の泉のような炎が。その気配の中に、自らを焚べてしまいたいほどに。ああ。
彼女に捉えられるのは心地良い。