氷の罪人は寵愛の中 女の子なんだから傷が残っちゃいけないわ。
女の子に傷は厳禁なのよ。
女の子なんだから、傷物になっちゃうわ。
女の子の顔に傷があってはいけないわ。
それなら私は、生まれて間もなく体に大きな傷が刻まれた私は、病故に皮膚が壊死して顔にすら傷のある私は、「女の子」では無いのだろうか。女の子でないとしたら、私は一体、なんなのだろうか。
今日も同じ夢を見た。私はただ、呆然とありすが首を吊る準備をしているのを眺めている。止めようと思うのに体は動かず声も出ない。まるで私など居ないかのように泣きながら人生の終わりの儀式を準備するありすは昔のまま小さくて、その背中はとても寂しそうに見えた。ゴトン、と椅子を引き摺って梁の下に置いた直後、突然、あちこちから私を貶す声が聞こえて来る。
死ねばいいのに。調子に乗るな。お前なんか生きていても価値は無い。……書き出すことすら憚られるような罵詈雑言が私を包み込んで、私は耳を抑えた。それでも声がマシになることは無い。
ふと、脳内に響くような一際大きな声で、ありすの言葉が聞こえてきた。
「……あんたの所為よ、この人殺し」
ガタンッ。大きな音を立てて椅子が倒れる。ありすは怨嗟の炎を宿した瞳で私をきつく睨みながら、太いロープにぶら下がって揺れていた。もう何度も、何度も繰り返された光景。十年間見続けた悪夢は私の心を殺し続け、最初こそ悲鳴をあげ、狂ったように泣き喚いていたと言うのに、今ではとうとう泣く事も喚くことも無くなってしまった。変わらないのは、心が潰れてしまいそうな痛みと、後悔だけ。
場面は変わり、病院のベッドの上で、幼い私は泣いていた。その膝には遺書が置いてあり、自分の所為で友人が死んだ事実を受け止められなかった。ごめんなさい、ごめんなさいと呟き、いっその事自分が死ねばよかったとさえ感じる。
ふと、そんな私の目に映ったのは、主治医に呼ばれ席を外している母上が置いていった、果物ナイフだった。この時母上は、確か、私の為に梨を剥いていてくれた気がする。裏切り事件の直後、私はその場で倒れた。そして退院後、ありすの謝罪を受け入れず、翌日彼女が自殺したのを知って、再び倒れて病院に逆戻りしたのだ。心を壊し倒れた私を気遣ってくれたというのに、私は洗って鞘に収められたそれをおもむろに手に取ると、ゆっくりと鞘を抜いた。光を受けて輝く手入れの行き届いたナイフに写った私の顔は、まるで般若のように歪み、憎悪を抱いていた。右手で柄を握りしめ……自身の左手首に突き刺した。そのまま感情のままにナイフを引き、まるで開腹手術のように肉を切っていく。ナイフの刃先は血管を容赦なく傷付け、血が溢れ出し、急激に跳ね上がった心拍が装置に読み取られ、機械が鳴り響いた。異常を知らせる音に気づいた看護師が病室に飛び込んだ時には、私は大量出血故か、ぐったりと項垂れてシーツや床を赤く濡らしていた。
そこまでが、一連の流れだ。真っ赤に染った自分を見て、私はいつも目が覚める。またこの夢だ。また私は、ありすを夢の中で殺し、助けもしなかった。自殺を計っても助けられ、もうそれならば、一生苦しみながら生きるしかない。例え誰かに恨まれようと、ずっとこの業を抱え、生きていかなくてはならないのだ。……本気で死んでもいいと思える、その日まで。
はぁ、と、思わず溜め息が出る。寝直すのは怖い。二回連続で同じ夢を見れば、心が耐えられない。だが眠気は取れず、心も重く、どうしたものかと寝返りを打つ。
「どーしたの、主」
こういう時。こういう心が疲れている時に、いつも彼は気がついてくれる。長い黒髪を優しく撫で、私が再び寝返りを打って見上げると、細く、しかし男らしい腕で抱き寄せてくれた。
加州清光。私の初期刀で、この本丸の総軍総司令官で……私の、婚約者。清光の傍にいれば、不安な気持ちも、恐怖も、全てが也を潜めてくれる。私には不相応な幸せが溢れてきて、どうしようもなく幸せで……どうしようもなく、辛い。
清光と出会って、多くの人と関わって、私の心は変わり始めていた。幸せも何もかも投げ捨てて、ただ誰かを守る為に生きていればいいと思っていたのに、少しずつ、自分の幸せについて考えるようになってしまった。私のような人間に烏滸がましい。それは頭では理解しているのに、心はもう、この幸せを手放すことは出来なかった。ただただ、清光が愛おしい。彼から貰った指輪が、朝日に照らされてきらきらと光る。
あぁ、こんなにも無償の愛をくれるのに、私から彼にあげられるものは何も無い。その気持ちに応えたいのに、私も、彼に全てを預けたいと思うのに。
私の体は、あまりにも穢い。
BARから清光に連れ出され、私は戸惑いながら歩いていた。歩幅を合わせてくれてはいるものの、私の手を掴む手に少し力が入っていて、まるで逃がさない、とでも言うかのようだった。外に待機していた、という話だが、どうして誰も言ってくれなかったのだろう。一体、何処から聞いていたのだろうか。何をどう聞き、どう思ったのだろうか。その不安が心にずしんと募って、足取りが重くなる。まるで、足首に重石をつけた枷を嵌められたようだった。早く帰りたいのに、帰れば彼から言葉を聞く事になる。それが、何よりも怖かった。何も言わない清光の横顔からは、なんの感情も読み取れない。
もしも、万が一。拒絶の言葉を聞くことになったら。そんな不安が頭を過るだけで、泣きそうな程に胸が痛かった。
本丸のゲートを潜り、すっかり暗くなった深夜の本丸の敷地内を歩く。私自身夜目は利く方だが、それでもここまで深い闇が広がっていると多少の恐怖を覚える。だがそれよりも、近付く話し合いの時間の方が、ずっと怖かった。
「……ねぇ、清光……」
声を掛けても何も言ってくれない。それが余計に怖くて、かたかたと唇がわなないた。フラれるのだろうか。婚約解消?彼にフラれたら、どうしたらいいのか分からなくなる。見捨てられたくない。ずっと隣にいて欲しい。……幸せになる権利等無い筈なのに、それを求め、縋りつこうとしている自分を冷めた目で見ている自分がいる。馬鹿馬鹿しい。情けない。お前は独りでいなくてはならない。……分かっているのに、心の何処かで、手離したくない、幸せになりたいと叫んでいる。
BARでの会話が頭を過る。私の傷は罪から産まれたもので、穢くて、だから誰かに見せていいものでは無いとずっと思い悩んできた。それに痛みを感じる権利すらないのだと。
痛いと、怖いと言葉にするのがこんなにも怖くて、心地良いものだとは知らなかった。知りたくなかった。だって誰一人だってそれを許してくれなかったから。
震える私を他所に、清光はさっさと本丸の中に入って、靴を揃える余裕もなく、私が脱いだのを見たらそのまま引っ張って部屋へ。そこは、いつもの審神者部屋ではなく清光の部屋だった。
押し入れから布団を引っ張り出して敷き、清光はその上に私を座らせる。
「……清光」
「えっと。……ごめん、実はずっと話し、聞いててさ」
「……何処、から」
「みど広叩く流れになった時くらい」
かなり最初である。
なんならそれは話の全てを聞いていたということだ。
だってそこから思いを吐露し始めたのだから。
はぁ、と、ため息をひとつ。それにすらびくりと肩を震わせ怯える私を見て、清光は優しく抱きしめる。
「なんで黙ってたの、三年半も。……傷があるってことくらい、気付いてたよ」
その言葉に切り裂かれそうなほど胸が傷んだ。咄嗟に袖を引っ張って隠し、その上からギリギリと軋む程に握り締めた。そこに、清光の暖かな手が重ねられる。外の空気によって冷やされた手にはそれは熱すぎて、恐る恐るその顔に視線を向けた。
清光がうかべていたのは、軽蔑の目でも同情の顔でも無い。まるで私を慈しむような、優しくて、愛おしいその姿に、ポロリと涙がこぼれた。
「知ってるし、……知った上で。あんたの事、一番愛してっから。じゃないと永年想い続けないし、指輪も渡してない」
「なんで……私はそんなに綺麗な人間じゃない、私は穢い!穢くて、存在意義のないものなんだよ。それを誰よりも、一番わかってる……」
それなのに、ここにいる誰もが、それを全て否定するのだ。刷り込まれた多くの事を、沢山の心無き言葉で固め尽くされた心を、優しい火を灯すように。
凍りついた氷を、甘やかな温度で溶かすように。
涙が流れる頬にそっと手のひらを添えて、清光は優しく口付けをしてくれた。
「なんでそんなこと言うの。そんなにもわかんないなら、俺が、全部教えてあげる」
どうして、とか。
いやだとか。そんな言葉は消え去って。
ただただ私が私を否定する言葉の全てを吸い取るように、口にする度に柔らかな口枷が遮った。
ぽろぽろと流れる涙も、苦しんだ想いも、全部解けて、熱くなって。与えられるのは非難の言葉でも罪を責める重荷でもない、大きく包み込まれるような愛。かけられる言葉が、触れる手が、全てが私の存在を肯定して、私の罪を否定する。
全ての者からそれを咎められても、避難されても、もうこの大きすぎる愛を無視することは私には出来なかった。
「…………ねぇ……湯浴みだけさせて」
「逃げるじゃん」
「逃げないよ。逃げない。……あなたに全てを捧げる為に、もう少しだけ準備させて」
了承の口付けをひとつ、私は清光の拘束から逃れ、湯殿へと向かった。今まで以上に丁寧に身を清めて、愛する刀に刈り取られる果実として、その身を甘くさせていく。
部屋に戻れば傷の顕になった腕を引かれ、組み敷かれ。
その先は、ただただ幸福と快楽の広がる世界。
傷と共に全てを受けいれた刀の、愛の中。