目の前に座る人物の口から、また深いため息が漏れた。
初めはイライラしたトーンだったその息には、段々と疲れがにじみ出ていて、ため息の音が聞こえる度に俺はチラチラとその人物を見てしまう。
そしてその度に止まる俺の手を見て、目の前の人物はまたため息を吐く。悪循環だ。
しかし気になってしまうものを止めることはできない。このままではいけないと思った俺は、思いきってその人物に対して口を開いた。
「や、山田室長…」
「あ?」
すこぶるイライラしている山田室長の返事に、心臓がキュッと縮む心地がした。だが切り出してしまった物はここで止めることもできない。
「その、お疲れのようですが…仮眠とか、取られないんですか」
「…」
無言の山田室長は、俺の言葉を聞いて、鼻で笑っただけであった。
頭からサーッと血の気が引いていき、慌てて補足するように口が滑る。
「ねっ、寝てください。あとは俺一人で進めておきますから…」
「お前一人で?」
山田室長が、持っていた紙をヒラヒラと振った。
「この膨大な量の資料の中から間違ってる一枚を探すのを、お前一人で?」
机の上に積まれている紙の束と、部屋の隅に置いてあるまだ調べていない分の段ボール箱が視界に入り、心が重たくなる。
一人でとても出来る作業ではない。しかし。
「俺の失敗でこんなことになってるのに、山田室長にまでずっと手伝ってもらうのは、流石に申し訳ないです…」
「へ~お前も申し訳ないって思うことあるんだな」
「茶化さないでくださいっ」
かすかに笑って軽口を叩いていた山田室長は、俺の言葉を聞くとまたため息を吐いた。イライラしたため息だ。
「俺のこと気遣う暇があんなら手ぇ動かせよ。さっきからお前全然作業進んでねえぞ」
「す、すみません…」
自分の作業が進んでない自覚はあったので、謝るしかなくなってしまう。
でも俺の作業が進まないのは、目の前の山田室長が疲れているのではないかと気になってしまうからだ。
山田室長が休んでくれれば、俺のそんな心配はなくなるわけだし、やはり山田室長には休憩を取ってほしい…
俺のそんな考えを読んだかのように、山田室長はどこか呆れた色も混じったため息を吐いた。
そして、俺の視線を諦めたように話を始めた。
「寝られねえんだよ。自分以外に人がいる場所でな」
「え…」
「他人が近くにいる時に寝られない。だから仮眠もクソもねえよ。俺が寝るにはさっさとこの作業終わらせるしかない。
…分かったらさっさと手を動かせ」
思いもよらない山田室長の言葉になんと返そうかと言葉を詰まらせてしまうと、山田室長はそのまま作業に戻ってしまった。
「…あの、俺しばらく建物から出てましょうか?それなら仮眠も…」
「は?お前の失敗なのにお前が建物から出るのか?その間に作業は誰が進めるんだ?」
「そーでした…」
あまり考えずにしてしまった俺の発言は、間髪を容れず山田室長に否定された。
恥ずかしさと申し訳なさで体を縮まらせた俺を見て、山田室長は少しだけ笑った。
(それから十数年後(急に))
くあ、と大きめのあくびをした山田室長を見て、またこの人は眠れていないのだろうかと、一体どこ目線なのか自分でもよく分からない飽きれた気持ちを持ってしまった。
「寝不足ですか?」
尋ねた俺に、山田室長は
「あぁ、ワリィ」
と、あくびの謝罪をしたが、別に謝られたいわけではない。
「いえ、いいんですけど……その、仮眠室使いますか?俺、しばらく建物から出てますよ?」
俺の言葉に何回か瞬きをした山田室長は、それからフっと顔を崩した。
「いらねえよ、本当に」
「そうですか?」
「昨日遅くまで飲んでただけだ。ったく、若い奴は永遠に飲んでるからなァ…」
「…あ、例の二人ですか」
オオサカにいるという二人のことを思い出してそう問うと、山田室長は頷いた。
…ということは、山田室長は夜中はオオサカにいて、それからこっち…トーキョーに来たのか?
移動時間に寝れる人ではないので、そのハードスケジュールでは山田室長は一睡もしていないということになるのではないか?
「山田室長、全然寝てないじゃないですか。やっぱり仮眠室に…」
「いいって。それにちょっとは寝た」
「いや、聞く限り寝る暇なさそうなんですけど…」
俺の言葉にわずらわしそうな顔をした山田室長だったが、この話題が終わらないと永遠に話が進まないことを悟ったのか、渋々と言うように口を開いた。
「本当に寝たんだよ。…飲んでた場所あいつらの片方の家だったから、そこで…」
思いもよらぬ答えに、脳が意味を理解するのが一瞬遅れた。
そして理解をした瞬間
「ええ!?」
と大声をだしてしまい、山田室長は『これだから言いたくなかった』という顔をする。
いや、だって驚きもするだろう。
目の下にどんなに濃い色の隈を作っていても、この人が俺の前で眠ったことなんて、この十数年で一度だって無かった。うたた寝すら、だ。
それが、まさか他人の家で眠ったというのだから、冗談のような話ではないか。
しかし山田室長がそんな冗談を言う必要性は無いし、つまりこれは本当の話なのだ。
じわじわと理解していくと、自然に俺の頬は緩んでしまう。
「…なに笑ってんだよ」
「いえ……人間って変わるもんだなぁと思って…」
俺の答えに不機嫌そうな顔をした山田室長だったが、すぐにその顔をいつもの顔に戻して「どうかな」と言った。
「お前はいつまで経っても俺の呼び方変えねえし、普通は変わんねえモンだよ、人間は。」
名前の呼び方を言われると、何も返すことができなくなってしまう。
『山田室長』…いい加減呼び方を変えなければと思いつつ、十数年経ってしまった。今ではこの名前で山田室長を呼ぶ人間は俺しかいない。
…そこまで考えたところで、上手いこと話題をすり替えて終わらせられたことに気づいた。全く、口が上手い人だ。そういうところはずっと変わらない。