オールドファッションチョコレート 1
夜の十時を過ぎた頃。道路工事のアルバイトを終えて制服に着替えた春名はひとつ大きなあくびをしてしまった。
最近ハイジョーカーの活動も活発になってきている中でアルバイトをするのは終わったあとに少し眠い。とは言っても、アイドル活動がある日にアルバイトが入っているわけではなく、グループのメンバーでテレビ電話を昨晩してつい夜更かししてしまったためだ。
(今日は帰ったらシャワー浴びてすぐに寝る)
そう決め込んで早足で駅に向かい、改札に入ろうとしたときだった。
そこには見知った女性──315プロダクションのプロデューサーがいた。しかも男性に手を振って。
「え」
その姿を捉えた瞬間、春名は自分の目が大きく見開いたのが分かった。
忘れかけていたけれど、プロデューサーは春名たちのプロデューサーである前に一人の人間だ。プライベートのことをあまり話すタイプではないから普段何をしているのかは知らないけれど、こうして男性と一緒にいることはなにもおかしいことはないのだ。
手を振るということは、仕事関係の人ではないだろう。友人かあるいは──……。
その先の答えを出す前に視線がしっかりと交わった。もちろんそれは、春名が偶然見かけたプロデューサーと。彼女はいつものように人の良さそうな顔を目を細めて春名に駆け寄った。
「春名さん、お疲れさまです。もしかしてアルバイトの帰りですか?」
「おお、プロデューサー。お疲れ。そ。バイトだったんだ」
「いつもお疲れさまです」
「いや、それを言うならプロデューサーだろ? いつも遅くまでありがとな」
きっとここは何事もなく会話を続けるのが正しい判断。今の人誰? なんて訊くのは野暮。いえいえ、と謙遜しながら首を横に振るプロデューサーと一緒にエスカレーターに乗る。ホームから吹く夜風が流れて込んでアルバイト先からここまで少し走って火照った身体をクールダウンしてくれる。後ろにいるプロデューサーを見ると、軽く髪の毛を巻いていることに気がついた。
「今日、巻いてる?」
「え?」
主語のない問いかけにプロデューサーが首をかしげた。
「あ、髪の毛……ですかね?」
「そう。悪い、突然」
「いえいえ。さすが春名さんですね! 今日咲さんがやってくれたんですよ。動画で見た巻き方の練習をしてるからやらせてほしいって」
「へぇ。咲ちゃんが」
「はい」
にっこりと笑うプロデューサーはいつもプロデューサーなのに、その笑顔の奥で先ほど男性に手を振っていた姿がチラついて、春名はそれから黙り込んだ。
エスカレーターを降りてホームに立つ間も何も喋らないでいると、プロデューサーに心配そうな顔で声を掛けられた。
「春名さん? 大丈夫ですか?」
「あ、うん……昨日夜更かししたからその影響かな。だからプロデューサーは気にしなくていいぜ」
「そうでしたか……」
プロデューサーはそう言うと何もこれ以上は何も言わなくなってしまった。
(今のはちょっと感じ悪かったか?)
と自分の言動を振り返った春名は、ううん、と小さく唸ってしまう。
多分自分は今日プロデューサーと別れるまできっとこの調子だ。先ほど彼女が一緒にいた男性が誰なのか気になっているなんて言えるわけがない。それにプロデューサーだって聞かれたくないことだってあるだろう。
「あのさ、ごめん」
「え? 大丈夫ですよ?」
「違くて。見ちゃったんだ、さっき。プロデューサーが男の人といるの」
聞かない方がいいと思ったはずなのに、そんなの言い聞かせれば言い聞かせるほどに気になっていて、口からは見てしまった事実を伝えている。
ああ、バカだなと後悔しつつ、でもこの黙り込んでしまう自分が今この瞬間にまたいつも通りになるのは多分、今春名が持っている疑問を払拭することだということも分かっていた。
「あ……そうなんですか……」
「まじでごめん」
「いえいえ。春名さんは悪くないです。偶然ですし」
「まぁ、そうなんだけど。あ、大丈夫だぜ。プロデューサーが友達か恋人か、誰かといたのを見たことを誰かに伝えようとかは思っていないから」
「あ、ええっと。それは、全然」
そう言ってプロデューサーは鞄の肩紐をギュッと掴む。それから少しだけ目線を落として、再び春名を見上げた。
「すみません。春名さんを疑っているわけではないんです。言いふらすとか、ないと思っているんですけど。一応言うと今のは元カレです」
「元カレ?」
「はい。元カレ」
プロデューサーに淡々と言われて、春名は背中につうっと一筋の冷たい何かが走ったような気がした。変な顔をしていたのかプロデューサーが言い直す。
「ええっと、先ほど別れて元カレとなりました」
その言葉は少しだけ眠い春名にとってはますます逆効果だった。こんがらかった頭の中はますますこんがらがってほどけそうにない。プロデューサーにそれが伝わったのか彼女は眉を下げると、「すみません」と申し訳なさそうに言った。
「すみません、混乱させて。今日久しぶりに会ったんです。それで海外に転勤することが決まったって言われて、ついてきてくれるか訊かれて。返事はすぐじゃなくていいって言われたんですけど、私断っちゃって」
「え⁉︎」断ったことに対して思わず声が出てしまう。
「そしたら、分かってた。って言われて。それで、まぁ、なら別れようって。私もその方がお互いのためだと思って頷いてそれでまぁそういうわけで元カレです」
「そ、そっかぁ……」
それから先が続かない。春名にとって好きっていう気持ちとか誰かと付き合うこととかましてや結婚なんてあまりにも無縁なもの。告白されるのは日常茶飯事でも付き合うとかその先のこととかよく分からない。仕事で呼ばれた結婚式に、幸せになってほしいと新郎新婦に伝えたことがあったけれど、自分に当てはめることはまだまだできないのだ。
なんて続ければいいのか分からず言葉を探していると電車が来るアナウンスが流れた。
「プロデューサー、電車来るけど乗る──……」
言いかけて、ぎょっとした。
プロデューサーの右目の瞳から涙が流れていた。
言葉がないから理由がわからない。悲しいのか悔しいのか。その涙を黙って拭うプロデューサーは春名にとって『知らない女性』だった。
いつも笑ってくれる人は、自分たちのライブのあといつも笑顔で出迎えてくれる。隼人が泣いたときももらい泣きしたりしないで、笑顔で「よかったですよ」と言ってくれる。
そんな彼女が泣いているところを今までこれっぽっちも想像してこなかったから、今目の前で起こっていることが現実なのか分からなくなりそうで。
「プロデューサー……?」
「あ、ご、ごめんなさい。今日のこと思い出したら涙が勝手に」
先頭車両が通り抜ける。さっとプロデューサーが顔を俯かせる。そんな彼女を見て春名は手を伸ばしていた。
「……」
わらわらとスーツを着たサラリーマンが電車を降りてくる。金曜日だからか人が多い。その人たちがちらちらとこっちに目を遣るのは春名がプロデューサーの頭を抱き寄せて肩口に持ってきているのを見ているのだろう。
ませた高校生だと思われてもいい。涙を流しているプロデューサーを誰かに見られる方が嫌だった。
(好きだったんだろうな)
人と付き合うこととかよく分からないけれど、好きだから付き合うのだろうと思う。誰かに告白される側の春名はいつもふる側だ。今回のプロデューサーが別れた理由は立派な大人のそれだけど、春名が断ってきた女の子たちはこうやって知らないところで泣いているのかもしれない。
プロデューサーの頭が動こうとしているのに気が付いて、そこで我に返った。
「あ、悪い! わざとじゃなくて! 汗臭かったよな⁉︎」
「だ、大丈夫です。ちょっとビックリしましたが……春名さんは優しいから見せないようにしてくれたのかなと思って。汗臭いとかも全然ないですし、むしろ甘いドーナツみたいな香りでした……」
「甘いドーナツなら良かった……」
ここで、良いのか? と言うツッコミは不在だ。
プロデューサーは、ふふ、と朗らかに笑うと今しがた出発した逃してしまった電車に顔を向けて見送った。遠くを見つめるその瞳は、やっぱり知らない女性だと思ってしまった。
「すみません。電車乗れなくて。次の電車、十分後ですけど座りますか?」
「ああ、うん」
ちょうど後ろにあった冷たいベンチに座って、お互い同じタイミングで息を吐く。
(一緒にいて良かったのかな)
そう思ってしまうほどにはなんて声を掛けたらいいのか分からない。さすがにここで春名の日常会話の一つであるドーナツの話をするのは無神経だと思ってしまう。かと言って元カレの話をするのはもっと無神経だ。
プロデューサーを見かけたのがもしも自分じゃなかったら彼女のことをもう少し気遣えていたのかなと思う。その、『もう少し気遣う』が具体的にどんなものかは今の自分には想像できないけれど。
そんなことを思っていると、プロデューサーがぽつりと呟いた。
「春名さんがいてくれて良かったです」
「え? そう、か?」
「はい」ふふ、と春名を見ながらプロデューサーはまだ赤い瞳を細める。「一人だったら、今こうして笑ったりできませんから」
「……そっか」
「はい。だから、ありがとうございます」
ありがとう、なんて今の自分には勿体無い言葉だ。だけどプロデューサーのその言葉に、恋愛初心者の春名は救われた気持ちになれた。
「明日、土曜日ですけど学校ですよね。帰り遅くなっちゃってすみません」
「気にしなくていいぜ。ちゃんと起きるよ」
そう言って、膝に載せたスクールバッグに肘を付いた。
「プロデューサーは? 明日なんの仕事?」
「明日は午前中にラジオ局に行って新しいお仕事の打ち合わせで、午後からは事務所に戻って事務作業です」
「そっか。頑張ろうな、お互い」
「はい」
いつの間にか肺の中が膨らんで呼吸が楽になったみたいに会話がしやすい。その理由は紛れもなくプロデューサーが喋りかけてくれたからだ。
(そういえば、こうやってプロデューサーと二人で喋るのって久しぶりだっけ)
もう少し喋っていたい。そう思ったところで電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
「あー来ちゃったな。行こうぜ」
「はい」
立ち上がって点字ブロックの内側で電車を待つ。つい数十秒前まで話していたのに今は黙り込んでしまっているプロデューサーを、念のため泣いていないか確認しようと彼女の顔を覗き込むと大きな瞳が更に見開いて驚いた顔をされた。
「は、春名、さん?」
そこでちょうど電車がホームに入り込んできた。風でプロデューサーの前髪が揺れる。
「あの、春名さん、電車来ましたよ」
「え? あ、ああ……」
「ふふ。眠いですよね。バイトお疲れさまです」
笑うプロデューサーに春名は頭を掻きながら頷いて、電車に乗りこんだ。
頭の中でプロデューサーの驚いた顔が映し出される。
(俺、今なにしようとしたんだっけ?)
泣いていないか確認しようとした。
だけど、それだけじゃない何かを、電車がホームに入るのがあと数秒遅かったらしていた気がする。
今もまだ見つけられないでいる感情。
それは、特別知ろうとも思っていなかったように思える感情。
それなのに、思い返そうとした自分の行動の『理由』は、過ぎ去っていく景色みたいに春名の感情と共に置いてけぼりになっていた。