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    miho

    来世は推しの犬になりたい

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    miho

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    ケイトレ

    隠された秘密を暴かないと出られない世界線わたしたちのボートもいまは 夕日のなかを 家路をさしてすべってゆく
    アリスよ おまえのやさしい手に この幼年のものがたりをお受け
    そして しまっておおき おさない日の 夢と記憶がおりなす ひめやかな場所に
    はるかの国でつまれた 巡礼の 花かんむりの しおれた花たちのように

    ——————ルイス=キャロル作『ふしぎの国のアリス』

    0. 序章:『底がない夢穴に落ちて』

    まもなく夜中の九時をまわろうとしていた。
     トレイ・クローバーは5番街通りをまっすぐ行った先にある広場の外れにある製菓店の扉を開け、立て掛けてある看板をCLOTHに裏返した。そのとき、するりと生温かく湿った夜気が入ってきて、トレイは春の終わりを感じた。季節は復活祭が終わった四月の下旬。街道には閑散としていて、濡れた地べたは雨と花の死骸から噎せかえるような甘い匂いが漂っている。
    「もうそんな季節だったのか……」
     またたきのような時の経過を感じたトレイは、忘れていた疲労感を感じた。ずしりと体が重くなる。
    ナイトレイブンカレッジでの学生生活を終えたトレイは、子供から大人になり、時間を忘れて働くようになっていた。イースターのお菓子やクリスマスプディング、旬のフルーツを乗せた誕生日ケーキを作っているはずなのに、大人になってから季節の移り変わりを感じることなく、ただ時間が過ぎ去り、今に至る。
    思い出が何もないのだ。あるにはあるけど、何かが足りない。
    あの騒がしかった学生生活と比べて、まばたきをしているうちに過ぎ去ってしまうような、楽しい“なにか”が。かく季節ごとに作られた学生の頃の思い出はいまだみずみずしい果実のように鮮明で、面白いおとぎ話を子供に聞かせられるように話をすることができる。
     しかし大人になってからはなにもない。トレイは退屈をしていた。目線を地面に落とし、雑踏に踏まれて茶色くなった花弁を見る。まるで自分のそのようだと思った。時間を忘れるように働いて、ふとした時に白いコックコートについた汚れをみて、鉛のように重たい疲労感を抱く。
     ————こんな時間が爺さんになるまで続くことになるのか?
     そんな必死に悩むほどではないが、学生のころと比べて日々に日常生活は少し色褪せて、物足りなさがある。年下の幼馴染はいまだ勉強に忙しく、もうひとりの幼馴染はなぜかからかいに来ないし、親友だといった友人はお互いに社会人の忙しさを理由に連絡を取っていない。
     これが大人の日常ってやつなのだろうか?
    湿った春風とともに漂ってきたまっくらの寂寥感をトレイはぬぐうこともできず、ただ人形のように扉の前に棒立ちになった。
     「あの。お店、締めないすか?」
    そこで厨房にいたアルバイトに声をかけられる。
    ぱちんと風船が弾けるようにはっとしたトレイは早く帰りたそうにするアルバイトに「悪い悪い」と謝り、扉に鍵をかけた。閉店作業の続きをする。床掃除がしやすいように机を重ねて端に置く。そこで一冊のゴシップ紙が置いてあることに気が付いた。
    その見苦しい見出しに、トレイは思わずそれを手に取った。

    『裸の男女が路上に再び。今度はセックスしなければ出られない部屋か?』

    太字のゴシック体で大きく書かれたその文字列を見て、眉間にしわを寄せる。
    今日はこんなゴシップ紙を持って来店し、店内のカフェテリアでお茶をして、机にそのまま放置するような客はいなかったはずだ。そもそも自分の店にそういった客は来ない。ほとんど身なりが整った婦人か、おつかいを任された子供くらいだ。あとは食材を搬入してくれる業者か。いや彼らは裏口からしかこないため、まずありえないだろう。
    下品なゴシップ紙を持ってきた犯人を思い浮かべながらも、刺激的な文字が並んだ文章に目を通してしまう。

    『復活祭が行われた4月17日の未明に裏路地で裸体で昏睡状態の男女が発見された。
    どちらも服は身に着けておらず、体のいたるところに体液が付着していた。男女は適切な治療を受けたあと意識を取り戻した。しかし証言している内容は前回の被害者と同様、〈セックスをしなければ出られない部屋〉に閉じ込められたと語っている。これで二人組が〇〇しければ出られない部屋に閉じ込められるのは三回目だ。一回目の部屋は〈30匹のゴキブリを捕まえなければ出れない部屋〉で、二回目の部屋は〈お互いに足つぼマッサージをしなければ出られない部屋〉だった。どれも被害者は魔法が使えない人間であり、最後は路上で昏睡状態になって通行者に発見されている。人を操り、部屋に閉じ込めるという、どうみても魔法が使える人間の犯行しかありえないと六番街のシティポリスは語る。町の住人もそう考える者は多い。やはり人と明らかに優れて違うところを持つ人間は優越感に浸り、頭がイカれてしまうのだろうか? それについて科学者のホラス・シークラス教授は———』

    「あ、それ。また被害者が出たんすね」
     “頭がイカれてしまうのだろうか?” というひどい偏見が含んだ記述にイラつきを覚え、紙面を強く握る。
     握ったところでまたアルバイトが思考を切るように口をはさんだ。軽い口調ながらも顔では「さっさと仕事を終わらせてくれ」と訴えており、トレイは黙って歪んだゴシップ紙をそのまま力に任せて丸めてごみ箱に捨てた。
    「どうしたんすか、クローバーさん。今日はずいぶんとぼんやりしてますね」
    「悪かったな、早く終わらせるよ」
    「まぁでもイースターが終わるまでマジ忙しかったっすからねー。あ、もう厨房のほうは掃除から明日の下準備まで終わってるんで」
    「はいはい。あとは俺がやっておくから、先に帰ってて大丈夫だぞ」
    その言葉を待っていましたと言わんばかりにアルバイトはにんまりと笑い、「マジっすか!ありがとうございます!」とカバンを肩にかけた。おいおい、もう帰る準備まで終わってるのか。そのちゃっかりさに左目にハートのスゥートをつけた後輩を思い出し、苦笑いをこぼした。
    帰る準備を素早く終えていたアルバイトは裏口のドアノブまで手をかけたところであることを思い出したのか、足を止めて黙々と掃除をするトレイに注意をするように言った。
    「あぁ、それ。8番、7番、6番ってだんだんこの街に近づいているみたいで。犯人はまだ捕まってないし被害者たちはどれも夜に起こっているらしいっすよ。次はこの町だってみんな言ってて…俺やトレイさんは魔法が使えるんで大丈夫だと思いますけど、でももう遅いし。一応気を付けて帰ってきてくださいね」
    アルバイトもそのゴシップ紙がこの店に置かれているのは不自然に思ったのか、その忠告はやけに真剣みを持っていた。
    それがここにあるのはおかしい。
    後輩はそう言った。もっと正しく詳しく言及すると、大人が楽しむだけのような下品なゴシップ紙がここの子供が夢見る素敵なケーキ屋さんにあるのは不釣り合いだと。後輩が言うまででもなく状況が語っている。まるでなにかよくないものがこのお店の扉を叩いたみたいだ。トレイは掃除の手を止め、自然とごみ箱に捨てた丸めたゴシップ紙を見た。そして家に帰ろうとするアルバイトを見る。アルバイトは笑いもせず、トレイの返答を待っていた。
    「そうなのか?」それはみんなが言ってる冗談だろうとトレイは答えた。
    「はは、トレイさん。だいぶコレ、ネットニュースで有名っすよ?」
    そのトレイの冗談を一蹴してアルバイトは笑った。そしてさっさと扉を閉めて帰宅する。トレイは閉ざされた扉を眺めた。そこにはアルバイトがした妙な笑いが残っていた。その表情はかつての親友がしていた、情報に疎い自分をあざ笑う顔によく似ていた。

    お知らせの紙を画鋲で止めるように軽く、トレイはアルバイトの言うことを心に留めておく程度にして掃除を終わらせて帰りの準備をした。火元も確認して、明日の準備に不足はない。初夏が始まりそうな微妙な時期、ケーキやタルトの準備は注文がない限り最低限にしか作らない。みなが贅沢をし終えたあとだからだ。
    薄手のレインコートをはおり、カバンを引き下げて、裏口のドアノブに手をかける。開ければ、シャワーのような細くささやかな雨が降っていた。トレイは水たまりを革靴で踏むのも気にせず、家への帰り道を歩いた。
    春が終わりそうな夜道は、地面で死んだ花色が街灯に照らされて、夜の帳を明るく飾り立てた。また石畳を叩く雨音は深く耳奥にしっとりと馴染み、恐怖は感じなかった。しかしトレイははやく柔らかいベッドで休みたいと仄暗い暗闇を肩で切り裂くように大きく速足で歩いた。
    そして家に辿り着く。万が一のためにポケットにペンを潜ましておいたが、必要なかったようだ。どちらかというと疲れた自分が道端で倒れるかどうかのほうが心配だったけど、結局なにごともなく家に帰れた。
    トレイはそのことに安堵の息を吐いて、濡れたレインコートをスタンドにかけた。温かなシャワーを浴びて、短い髪を乱暴にタオルで拭いて乾かした。もう限界だとベッドに倒れこむ。いきおいよく倒れたため、ホコリが舞って、鼻がむず痒くなる。手の甲で鼻をこすって、トレイは柔らかな枕に頭を預けた。
    視界はぼやけて、景色を描く線は歪んでいった。瞼は重くなり、ゆっくりと閉ざされる。瞼裏の、膜のようなうすい暗闇に、ゴシック体の文字が浮かんでくる。それらは漂いながら浮かび上がり、一列に並んで、あのゴシップ紙の見出しになった。そしてあのイラつくアルバイトの笑顔が現れる。
    「一応気を付けて家に帰ってきてくださいね」そう言い終わると黒い煙に巻かれたようにアルバイトは消えて、次は帰り際の店内の景色がくっきりと表れ出した。美術館の中で飾られる絵画のように一面の壁を消して、断面図のように店の様子が映し出される。そして空間が語りかけてくる。子供が夢見る素敵なケーキ屋さんにそんな大人が楽しむだけのような下品なゴシップ紙は不釣り合いである。
    トレイは眉を寄せる。顔を険しくする。
    うるさいな、いまはそんなつまらないネタに興味はない。
    真夜中のしじま。大きな海のような暗闇の中で、ベッドに寝転んだトレイは浮かび、楽しい夢を願った。
    夢が見たいのだ。みずみずしい果実のように鮮明で、面白いおとぎ話を子供に聞かせられるような、そんな愉快でハチャメチャな夢を。トレイははやく夢に落ちろと強く瞼を閉じて念じる。
    とにかく今は落ちてしまいたかった。下へ。下へ。下へ。まっくらでいろあざやかな夢の中に。
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