花吐き病騒動吐いた主の命を吸い咲き散らかす梅の花。
胃の腑を、喉を焼く痛みのせいでまるで血を吐いたように広る梅の花。
いくら好きな花でも命をくれてやる訳にはいかん。
病というなら治せばいいと伝手を手繰れば、この病に罹る者は想い人への叶わぬ花の種を腐らしているが故だとか。
──冗談じゃない。
そんなものありはしないと己の心を嘯いてみれば、因果の報いとばかりにまたしても迫り上がる悪心。激痛。散らばる無香の芝桜。
そう、嘯いてると自覚すらある。
例えこの病の果てが死であったとしても、この胸にある花の種だけは根付かせられぬ、水をやれぬとしまい込む。
──俺などに縛られず、飛ぶんだ。やがて明けるこの無窮の空を。
腐りゆく種の徒花を、火に焚べ、土に還し、海に流す。
「あなたには言うなと言われてるんですが、俺はあなたに高杉さんを任せたいんです」
あとで知られて怒られたとしても、後悔はしません。と眦を決して話す高杉の弟分は、私に隠していたことを詫び、それを詳らかにした。
私には会わない、という旨だった。
「私は何か高杉に不利なことをしただろうか」
自身に覚えはなく、しかしここ数日明らかに高杉に距離を置かれていることが気の所為でなかったことに納得と疑問を持つ。
「理由までは教えてもらえませんでした。だけどあの人……体が思わしくないんじゃないかな。顔色が優れないですし、痩せたように見えるんです」
考えるよりも先に立ち上がっていた。
かつて高杉が病に蝕まれた時の、あの胸を潰されるような苦しさに襲われる。何かしなければ。だけどそれよりも何より、
「会いたい、ですか。やはり」
「当然だ」
矢も盾もたまらず、高杉に会いたいという気持ちが募る。
何故かも分からない。会えないと言われても脚が止まらない。
早速俺も怒られに行きますよ、後ろからそんな声が聞こえた。
「高杉!」
江戸の藩屋敷に凛とした声が響く。
鷚の声に出迎えたのは呼ばれた本人ではなく、その彼を慕う奇兵隊隊士だった。その顔にはいつもの強気が見えない。
「姐さん……あなたを通すな、と高杉さんに言われています」
「何故だ?」
覇気もなく首を振る様子に、隊士自身も不本意であることが分かる。
理由も知らされずに遠ざけられ、鷚が拳を握り込んだ。
「死ぬまで私につきまとうんじゃなかったのか!高杉!!教えてくれ!何があった!」
玄関からでも屋敷の主たる部屋には聞こえる程の声で鷚が呼びかける。
すると奥からのそりと、羽織に着流し姿の高杉が現れた。
鷚と数日まみえぬうちに高杉の顔は頬の痩けや目の下の隈が目立ち始めていた。
「どう、したんだ、……労咳は、たしかに克服したん、だろ?」
窶れた高杉の姿に、鷚が思わず目を剥く。
「……帰りな。あんたの居場所はここじゃないはずだ」
普段の腹の底を見せない策士の高杉は居らず、遊びの無さが彼の悪目を助長した。
「私の問いに答えてくれ。その姿は……なにか別の病なのか?」
ならば治療をと開きかけた鷚の言葉を、
「近寄るな、伝染(うつ)らんとも限らん」
冷たい言葉と踵を返した背中が拒絶する。
奇病は伝染すると聞かされた高杉の、最後の悪足掻きだった。
鷚に伝染すれば死んでも自分を許せないだろう、そしてその上、鷚の胸に想い人が居るなど考えたくもないと逃げを打った高杉の悪足掻き。
「惨めたらしく逃げるなんて、あなたらしくない」
鷚の後ろから堪りかねたと言わんばかりに伊藤の声が高杉の背へと投げつけられる。
「言やあいいでしょう!何を意地張ってんだか知りませんけどね!俺はとっくにあんたの考えてることなんて分かってますからね!?」
「黙れ!」
着流しの羽織が落ちることにも構わず、高杉は振り返り声を荒らげた。
途端、高杉の声は途絶え、胸を押さえて蹲る。
「来るな……ッ」
高杉の尋常でない様子に土足で框を上がる鷚と伊藤、隊士達。
吐き気を堪えるような姿に鷚の手がその背をさする。
もはやその手を払いのけることも叶わない高杉は、落ちた羽織の上へ吐き出した。
薄紅色の秋海棠がはらはらと落ちていく。
目を疑うような、しかして疑いようのない眼前の光景に一同が言葉を失った。
人の口から、花が溢れるなど。
激痛と疲弊に力なく座り込む高杉を横に、鷚はその花を手に取る。
「よせ……これは、伝染る病だ……あんたに何かあったら、俺は」
まろびでてしまいそうになった言葉を飲み込むように高杉は押し黙った。
「……前にも言ったがな、高杉」
肩で息をする高杉に目を合わせるように顔を覗き込む鷚の手には秋海棠。
「お前の病なら、伝染っても構わない」
はく、とその小さな花を口に入れると、あっという間に飲み込んでしまった。
高杉の様子からして大して考えずともわかる病の深刻さに、全員が鷚に吐き出せ、やめてください、と詰め寄るが飲み込んだ本人はけろりとしている。
「……なんでもないんですか?」
「今のところはな、特になにも」
鷚の様子に高杉は安堵し、ほんの少しの落胆を覚え、そして落胆を振り払うように立ち上がった。
「もうあなただけの問題じゃないんです、今日にも病を調べあげて原因も治療法も明らかにしてみせます」
だから逃げても無駄ですよ、と伊藤は高杉へ言外に釘を刺した。
「想い人に言えない想いを抱えた人間にだけ罹る奇病……」
隊士は「俺たちはあなたが必ず良くなると信じてますから」と言い残し、立番に戻って行った。
奥の間で鷚と伊藤が高杉の知り得た事を聞き出す。
大の男が恋心を拗らせて病に伏せるなど、と高杉は最後まで言い渋ったのは言うまでもない。
「以前、花にまみれた男の死体を見かけたことがあった。おそらくそこで、もらっちまったんだろう」
「私はなぜ同じような症状が出ないのだろうな」
「想い人がいない、ということですかね」
鷚には未だ悪心ひとつなく、病治療の究明と同時に色恋の話をせねばならないという混沌の様相を呈していた。
「想い人というのは、具体的にはどういうものなんだ?」
外つ国では、人の心を理論的に解明しようという学問があるらしい。
鷚の素朴すぎる疑問は、恋や色に明るいはずの高杉と伊藤をこれ以上ないほど困らせた。
どう説明すればいいのか、なんだこの恥ずかしい時間は、と二人で頭を抱える。
先に口を開いたのは伊藤だった。
「想い人っていうのは……いつでも一緒にいたいとか、あわよくば褥を共にしたいだとか、そういうことを強く思う相手ってこと、ですよね!?」
「俺に聞くなよ!」
「あなたを治すためでしょうが!」
恥ずかしさからなのか、高杉と伊藤が言い合いを始めてしまった。
その横で「褥……」と考え事をしている鷚。
「褥を共に……同じ布団で寝るということか?」
「ある意味じゃあそうだが……あんたまさか、寝るって言葉通りに受け取ってるのか……?」
「寝る、は……寝る以外にあるのか……?」
膝を突き合せた三人の間に横たわる、とんでもない齟齬が白日の元に晒されたのだった。
想定をはるか飛んで超えて行く鷚に、高杉は弱った体で苦しげに笑う。
「はあ……あんたは本当に面白いな。まさかその見目で、情事を知らんときたか」
「じょうじ……」
笑う高杉を横目に、知らぬ言葉を繰り返す鷚。妙齢の美しい女が繰り返すには若干聞き咎める単語ではある。
それは一旦横において、と混沌を極める議論を牛の歩みで進めた。
「……分かってるんだよ、この病の治し方は」
高杉の意外過ぎる言葉に鷚と伊藤はそれを早く言えと立ち上がる。
「分かってるなら何故こんな死を待つような真似をしてるんです!早く教えてくださいよ!!」
「分かってるだけで治せるとは言ってないだろうが」
逸るな、と高杉が伊藤をなだめた。
治療法も分かっているのに治せないとはどういうことか教えろと、二人の視線に突き刺された高杉が観念したとでも言うように大きく息を吐く。
「想い人と晴れて想い合う仲になれば、治るんだと。つまり、俺のこの命は相手次第ってわけだ」
「……そんなに勝ち目の薄いお方なんです?」
「どうだかな。だが何より俺はこの想いを吐き出すつもりはない」
「負けるのが怖いんですか?」
伊藤の挑発も意に介さず、「俺の勝ち負けなんぞどうでもいいんだよ」と高杉は窓から見える青い空を見た。
「俺なんぞに後ろ髪を引かれることなく、自由に空を羽撃いて欲しいんだよ……」
その、独り言のような高杉の台詞に、伊藤は核心を得たようだった。
胡座を正座に正した伊藤に、高杉は「余計なことを言うな」と睨んでみたが仕事のできる弟分が時に梃子でも動かなくなることを知ってもいる。
高杉は弱った体が吐かせた世迷言を後悔した。
「高杉さん、あなたの病、治りますよ」
「気休めはよせ」
「あなただって分かってるんじゃないですか?逃げないで応えて、いや、教えてやりなさいよ!」
最も大事な部分だけをそらされるような応酬に、鷚の首があっちへこっちへと追いかける。
時々垣間見えるその童のような仕草が堪らなく心を擽ることも高杉は自覚しているし、その柔らかい眼差しの事など伊藤もとうの昔に気付いていた。
「あなたの知らないところで、その心が“そうなのだ”と気付いてしまったらどうするんです!ましてやあなたが居なくなった後だとしたら!もう今しかないんですよ!」
鷚はもう伝染している。
その事実が高杉の命まで賭けた決意を折りにかかる。
今は症状が出ていなくとも、もし心模様が変われば。知識をつければ。気付いてしまったら。
「……俺には、どうしようもなく、心を寄せる奴がいる」
兄貴分の一世一代の大勝負に、伊藤が固唾を飲む。
「そいつは今まで見た誰よりも美しく、誰よりも強く、誰よりも己に正直だ。そんな奴に俺は、命まで救われちまった。だからもう、この勝負に負けて命を落としたとしても構うもんか。
鷚、あんたが好きだ」
文字通りの命を懸けた高杉の全身全霊の言霊が鷚へと明け渡された。
「好き……高杉は、わたしといつでも一緒にいたいのか?」
「ああ……あんたに会ったら決意が揺らいじまうほどにはな……」
「わたしと褥を共にしたいのか?」
「願わくば、だがね……ただあんたが求めないことをするつもりはないさ」
問答を終えて、しんと部屋が静かになる。
何かを吟味するように、鷚の長い睫毛がゆっくりと上下し、長い時をかけて瞬いた。
「…………お前と食べる食事はいつもより美味しいし、お前と見る風景は鮮やかで、お前の奏でる三味線はいつまでも聴いていたいと思う。お前と過ごす時間は、私をとても安らいだ気持ちにさせてくれる」
聞いている側が照れてしまうような、鷚の口から次々と紡がれる純真な好意の言葉。
「じょうじ……のことは分からないが、お前が求めるものが私に与えられるものなら、喜んで与えたいと思っている」
結論を聞きたいとばかりに身を乗り出してしまう高杉と伊藤。
もはや疑いようのない感情にしか思えなくとも、隠し刀は何を言い出すかわからない、二人はそう思って身構える。
「……この私の気持ちは、お前を好きということなんだろうか?」
ぽとり、と何かが落ちた。
あまりに鷚の語り口に集中していた高杉は口が半開きだったのだろう。
痛みもなく高杉の口からこぼれ落ちた白銀の百合。
「百合……?」
彫金細工を思わせるような美しい百合が、高杉と鷚の間で静かに光り輝いた。
「……想い人にその想いが通じて、晴れて恋人同士と相成った時、白銀の百合を吐いて病は完治するんだそうだ……」
喜ぶべき病の完治に、高杉は片手で目辺りを隠したまま俯いており表情は伺い知れない。
鷚は未だ自分の感情の名前を知らず、心から喜びを示したのは伊藤だけだった。
「これは……百合ですよね!?治ったんですよね!?もう花を吐かずにすむんですよね!!やったじゃないですかお二人共!!」
高杉さんが治ったぞ!!と喜び勇んだ伊藤は高杉の静止も聞かず庭に出ていってしまった。
すぐにでも奇兵隊の愛すべき輩達がなだれ込んでくるだろう。
「おそらく、あんたのその気持ちは俺と同じものだ。覚悟してくれよ、俺は……本当に死ぬまであんたにつきまとうぜ?」
「お前と同じ気持ち……そうか、これが……人を好きになるということなのか……」
鷚が軽く咳払いをしたかと思えば、その口からもまろび出た白銀の百合。
ふたつの百合が並び光る上で、二人の唇が重なったかは、怒涛の勢いで部屋に飛び込んできた野郎共のせいで有耶無耶になってしまった。
徒花なんぞにしてたまるかと。
必ず大輪の花をつけてみせようと。
俺の胸にあった花の種は宿主によく似た反骨心の持ち主のようで、まんまと花をつけさせられた。
いいや、これも全ては春を唄う鳥の名をしたあいつに惚れたからか。
惚れた弱みとはこの事か。
ならばここからは俺の番手とさせてもらおう。
たっぷりと礼をしなければ。