【若イチ】幸福問答 誕生日を祝う。
荒川真斗にとって、それは呪いを更新する日であり続けた。
思うように動かない身体で、また三百六十五日もの間引きずって生きて行かねばならない呪いだ。
***
風呂から上がった真斗は、こたつの上に置かれたものを見て凍り付いた。
テレビでは国民的歌手が、真斗が子どもの頃に聴いたような歌を朗らかに歌っている。こたつの上にいそいそと皿やフォークを並べている男が、真斗がやって来た気配に振り向いた。凍り付いている真斗とは対照的な、満面の笑みだ。頭を拭きながら出て来たせいで顔にかかった前髪から、ぽたりと水滴が落ちる。
「あ、若。お帰りなさい」
満面の笑みのまま、意味不明な日本語でいった男は、春日一番だ。還暦を迎えても、その笑みは若々しいというより、少年のようだなといつも思う。
「なんだ、これは」
そう口にしたものの、それが何であるかは明々白々だった。
直径は十センチ程度。高さも十センチ程度。真っ白い円筒の上には、季節外れの苺がきれいに円を描いて並んでいる。要するに、一目でわかる『苺のショートケーキ』だ。ケーキの上には、チョコレートとおぼしきプレートがのっており「Happy Birthday」と流麗な筆記体で描かれていた。
「誕生日ケーキです」
春日は、キョトン、という擬態語が背景に浮かび上がりそうな表情を浮かべた。
「見ればわかる」
そんなことを聞いているのではない。この男は、わかっていてわざとはぐらかしているのかと、苛立ちがそのまま声になる。昔から、頭が悪い訳でもない癖に察しが悪い男だ。
「せっかく一緒に暮し始めたんだから、誕生日を一緒に祝ってもいいかなって」
「いらない」
こちらの苛立ちだけは明敏に察した春日が一転して歯切れの悪い口調でモゴモゴというのを、真斗はピシャリと封じた。
「え? ショートケーキ、嫌いですか? チョコのケーキのが良かったっすか?」
狼狽えた様子で春日がケーキとこちらの顔に視線をさまよわせる。
「そうじゃない」
「じゃあ、なんで」
「いい年こいて誕生日ケーキなんて……いらねぇだろ」
今このタイミングでケーキが出てくる理由はわかっている。だが、年が明ければ自分たちはまた一つ年を取り、中年というより老年という年になるのだ。そんな人間に何を祝うことがあるだろう。春日はともかく、自分は生きていることを罰せられるべきではないのかと思う。しかし、それを口にすれば春日はきっと深く傷ついたような顔をするし、実際心を痛める。わかっているから、真斗は敢えて肝心な部分を省いた。
「いりますよ」
真顔になった春日は、はっきりとこちらの視線を受け止めていった。大きな目が驚くほど真剣な色を帯びており、真斗は息を呑むことしか出来ない。
「俺たちには、こういう普通のことが必要なんです。きっと」
こちらの言葉など期待していないのだろう。春日は勝手に言葉を続けた。
「そりゃあ、いい年だけど、俺もあんたも、罪はもう償った。でしょう? そんなら、俺たちは幸せを求めたっていいじゃないですか。生きていることを祝ったって、いいじゃないですか」
春日は大きな目を潤ませながら、まるで縋り付くような勢いで言葉を繰り出したかと思ったら、ようやく黙った。春日の視線が、真斗の心の奥底に突き刺さる。
「イチ……」
何をいえば良いのか言葉を探したが、反駁すべきか、或いは賛同すべきか、結局真斗は何もいえないまま黙り込むしかなかった。
「俺は、アンタが生きていてくれて、長い刑期を辛抱してくれて、ここにいてくれて、本当に……本当に嬉しいんすよ。アンタが俺といることを、ホントはどう思ってるかわからねぇけど、アンタは生きて、幸せになっていいんす。そのためのお祝いなんですよ」
黙り込んだ真斗に、春日はそういって笑った。太い眉が下がり、泣き笑いのような顔をしている。テレビ番組はクライマックスになっているらしく、画面では出演者が舞台に上がって笑顔で歌ったり踊ったりしているというのに、その音がやけに遠い。
「だから、一緒に祝いましょうよ。誕生日。いい年とか関係ねぇっす」
そんな春日の言葉を後押しするように、画面では花火のような光りが明滅している。
「俺が、幸せに?」
ようやく言葉が出て来たが、声は酷く嗄れていた。
「別に、俺と、じゃなくていいんです。若が幸せになってくれさえすれば」
返ってきた春日の言葉は、やけに言い訳がましい口調だ。
「お前、いったじゃねぇか。二人揃って幸せにならなきゃ意味がないって。アレは嘘か?」
真斗が出所し、この家に暮し始めることを決めた日、春日は確かにそういったのだ。独りは嫌だと泣いたあの声や顔まで思い出せる。たぶん、春日は「二人とも」という意味で言ったのだろうと思う。しかし、真斗はそれを「二人で」という意味で受け取った。独りではないのだと、六十年ほど生きてようやく感じられた瞬間だったのだ。長い、あまりにも長い孤独が消えた時をたった半年ほどで忘れるほど馬鹿ではない。勝手に突き放されたような気持ちになって、言い募る声が尖る。
「……いいました、ね」
突然責めるように問われたせいか、春日はへどもどと歯切れの悪い口調でいいながら俯いた。
「俺はなぁ、イチ」
「はい」
また責められると思ったのか、春日は顔を上げたものの、首をすくめたままこちらを見上げている。昔はこの男のこういう所が大嫌いだった。誰かに好かれたいという思いが透けて見える卑屈な態度だと、余計に苛立ったものだ。今は、それが卑屈さ故ではないとわかっている。彼は手を離さない男だったのだ。それは、荒川真斗という孤独な男を決して孤独にするまいと必死に食らいついてきた姿だった。そして今も春日は食らいついてくる。
「実のところ、幸せってのがよくわからねぇんだ。ガキの頃は身体が丈夫になれば幸せになれるのかと思っていた。でも、丈夫な身体を手に入れても幸せにはならなかった。地位や名誉、金や権力があっても同じだった。幸せってのは、結局のところ、何なんだ?」
食らいついてこられたところで、自分には幸せというヤツがどんなものなのかもわからない。何かを手に入れても虚しいだけで、その虚しさを埋めるために何かを手に入れる――否、走り続けていた時はそんなことにさえ気づいていなかった。得たものを積み上げた先に幸福があるのだと信じていたのだ。しかし、結局積み上げてきたものは呆気なく瓦解した。老年の今に至るまで幸福という事象がわからない自分は、きっと何かが欠けたまま生まれてきてしまったのだろう。
「生きてるってことです。さしあたっては」
ややあって出て来た春日の答えは至ってシンプルなものだった。
「生きてることが幸せ?」
ただ生きているだけの人間は大勢いる。生きているだけで苦痛だという人間もいる。かつての自分がそうだった。自殺しようにもそれさえままならないことが、幸せだとは到底思えない。
「俺もアンタも、いつ何時誰かに殺されても仕方のない生き方してきた。法的には無罪放免になったけど、人の心ってのはきっと俺たちを許さない。でも、今は、生きてる。それだけで俺は幸せですよ。特にアンタが生きてくれたことは、俺にとってこれ以上ないほど幸せです」
「……そうか」
かつてはこの男も色々な幸せを思い描いていたのかもしれない。そんなことが察せられる言葉が春日の口からこぼれ落ち、真斗は何だか妙に腑に落ちてしまい、思わず頷いた。
あのロッカーの前で刺された時、不覚にも『悔しい』と思ったことを思い出したのだ。いつでも生を投げ捨てる覚悟でいたのに、浅ましい自分を恥もした。長い刑期の最中、何度死のうと思ったか知れない。
――それでも、生きてる。
おめおめと生き延びた自分の存在自体が、この男を幸福にしている。そう思うと、ふと視線がいった自分の節くれ立った手さえ、別のものに見えた。
「だから、祝うんです。若の誕生日をね」
そういって、春日は白い歯を見せて笑った。白髪の交じった髪が揺れる。
「俺たちの、誕生日だ」
自分の誕生日は、同時に春日の誕生日だ。彼にとって自分の存在がある種の幸福なら、自分にとっての彼は救いだと思う。生きていることが救いとなる男が生き延びたことを祝いたいと素直に思えた。
「あ、そっか」
真斗の言葉に、春日は笑いながら頭を掻く。出会った頃の少年そのままの仕草だ。
「さっさと火ぃ、つけろよ。除夜の鐘、終わっちまうぞ」
テレビ番組は全国各地の寺で鐘をつく様子を中継する映像に代わっている。日付が変われば、自分たちはまた一つ年を取る。
「あ! ホントだ! やばいやばい」
慌てて蝋燭をケーキに突き刺す春日を横目で眺めながら、こたつに足を入れると、冷えはじめてきた足がじわりと温まった。