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    odennoshirataki

    @odennoshirataki

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    odennoshirataki

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    眩惑(再録) カーテンの隙間から、まだ少年の面影を残した青年がこちらに微笑みかけている。夢を語っていたときの表情だ。老いた母と安い娼婦をしている妹を養うために、何としてでも着いて行きたいと言った顔。
     素朴で真面目であることは、顔のつくりにも出ていた。時折からかいを受けても、失われない真っ当さがあった。
     あった、というからには過去の話だからだが。
     下顎から上の消え失せた顔で笑っていた。微笑んでいるとわかるのは、認識が狂っているからだ。
     幻覚だ。わかっている。
     脳の一部が異常をきたしてそういうものが見えていると、そう何度も医者に言われてきたではないか。細く、長く息を吐く。幻だと認識できている。大丈夫だ、こんなもの。潜在意識が抱いた罪悪感の具現化、悪夢が現実まで散歩しにきているだけ。
     落ち着け、ノートン・キャンベル。こんなものに苦しんでいたら、おまえは何のために地獄まできたのか。
     しかし言い聞かせたところで、死者は忘れるなと言いたげな様子でこちらを見ている。忘れたわけがない、忘れられるわけがない。こうして生々しい肉塊の幻覚で出てきても、奴がどんな人物だったかすら覚えている。朗らかに笑う笑顔も、その肉の砕け方や焼けて拘縮した皮膚の様子も、脳に刻み込まれている。なのに、こうして脳から飛び出してまで地獄からやってくる。
     死人は何も言わずに笑っている。裏切りと隠滅の果てにたどり着いた、火傷跡に塗れ幻影に怯える自分この姿を。下歯だけが残った顔で笑っている、と脳が認識して意識に訴えかけ自分の感情が不安定に揺れている。その認識は許しを乞う時は許さず、罰を乞う時は許す、という風に変化する。なんて都合の悪い幻覚。察しの良いそいつは、すべては事故で許せると言いたげに、感情表現ツールを失った顔で微笑んでいた。自棄になって読みかけの本を投げ付けたが、これまでのようにただその胴体をすり抜けて床に落ちた。
     最悪なことに、暴力的行為も仕方のないことだというように、ただ顔のない笑みで許容した。気色が悪い。
     それぐらいなら腹を食い破ったり、頸を締めて殺そうとしてくれた方がマシだ。最も、そんなもので死ぬつもりは無いが。
     落ち着くためにひとつ、息を吐こうとした。しかし、気管支から掠れるような嫌な音を聞いた瞬間、発作的な咳に襲われた。息苦しさに喘いで吸えば吸うほど拒絶するように咳が込み上げる。
     ひとしきりの咳が治まる頃には、口を覆っていた手のひらにべっとりと黒色の痰がついていた。目に滲んだ生理反応の涙と一緒に拭って顔を上げると、まだ幻覚は微笑んでいた。死者の国への案内人のように。
     脳も身体も、死ぬことを望んでいるかのようだ。
    「……ふざけるな」
     声にしたそれが耳に届けば、喘鳴と掠れが酷いためか細く、いっそう弱々しい往生際のように聞こえて苛々した。
     何が死だ。苦しみからの解放だ。
     たとえ、それが神であったとして僕は逃げ切ってやる。
     とはいっても、こんな調子で寝られる筈がない。
     全てを振り払うために部屋から飛び出した。薄気味悪い館の、人のいない時間帯は不気味だ。静まりかえり、人の生きている気配のしない洞穴のような闇。それらは、奴らが出てくるのにうってつけだ。今もまた、ひとり。
     廊下の先で、男がこちらを見ている。
     もっとも、その男は胸部から上が吹き飛び表面炭化するほど焼けているので視線などは無かったが。曲線の先が喪失した肋骨が、眼球の代わりにちらちらとこちらを見ている。
     この男は何だったか。くすねた鉱石を売り払っては小金を稼いでいたのが雇い主にバレて職を失った坑夫か、様々な鉱山を渡り歩いてきて異国の話をするコブのある男だったか。そんな姿では誰かも判らないのに、ただ自分に微笑んでいることだけはわかる。
     その視線から逃れるように、廊下の角を曲がった。自然と足が早足になる。許しを乞うてみたり、もう一度殺そうとしたり、祈りの言葉を口にしてみたりもした。だけれど、奴らは消えなかった。自分のこころを見透かし、なおも微笑み続けるように。
     嫌だ。逃げてやる、生き延びてみせる。
     そんなときに、薄暗い闇の中に、あたたかな光が見えたのだ。
     人がいるのだろうか、こんな夜中に。だけれど、幻覚たちは灯りをつけたりなどしないから、生きている人間か、それか奇妙な遊技場の怪物か。
     もう、どちらでもよかったのかもしれない。瀕死の夜行虫がランプの灯に集うように、足はその灯りに向けられて、そしてその扉を開けた。
     やたら大きなキッチンの中に、花があった。
     みずみずしい花、薔薇だろうか。黄色を見るのは初めてだったが、何もかもが褪せているような古い洋館のキッチンではいっそう新鮮に見えた。そんな花が、テーブルの上に広げられた紙の上に解体を待つ家畜のように横たわっている。その向こうで、さらりとまた鮮明な色が動いた。
     花の向こうで、白いシャツにスラックスを履いた美しい男性がいた。清潔そうな白いシャツが、男の猫背によって少し鬱屈とした印象を滲ませるが、お陰で細身の割にしっかりとした背筋の存在を示している。火の番をして、湯を沸かしている。
     その顔が振り向いて、こちらを見た。顔の下半分を覆うマスクでも隠しきれない美しい相貌。銀の髪はランプの光で発光しているかのようだった。宝石を薄く削って、束ねたかのような髪、眉、睫毛。その元になった石は、目に嵌め込まれている。
     ケトルの口から真っ白な湯気が出ていた。窓の外はうっすら、白ばみはじめている。
     今まででみた幻覚の中で、一番美しい幻覚だった。
    「どうかしましたか。額が酷く濡れていますよ」
     よく冷えた地下水のような声。全身が震え上がりそうになった。その目が、こちらを観察していた。つまり、それは自分を認識しているということ。
     この人は、幻覚じゃない。
    「あ、……ああ、ちょっと、嫌な夢を見て……。……あなたは?」
    「僕はほぼ毎朝、この時間に剪定した花を処理しています」
     義務的な回答だったが、それは生きた人間だからこそ起こりうるものだ。静かに、息を細く吐く。それでも呼気が嫌な音をたてて通り、咳が出た。
    「肺を、患っていらっしゃいますね。探鉱者さん」
     彼は手を止めたまま、そう言葉にする。労るでもなく観察の結果として言うような言葉に、死神かもしれないと思う。それぐらい冷えた美しさがあった。
    「ああ、職業病だよ……ええと、ごめん。名前は」
    「イソップ・カールです。納棺師の」
    「ああ、納棺師……」
     黎明の中で記憶が曖昧になっていたが、この荘園で見たことがあるかもしれない。だが、こんなに近くで話す機会など無かった。この館は、全てが狂っている。
     納棺師という仕事は、自分の人生において全く関わることのないものだ。彼がいなければ、そういうものを職にする人間がいるという発想すら得られなかったと思う。どのみち、自分の錯覚はそんなに遠いものではないのだろう。
     彼は、不審な人物より湯気を出すケトルのほうを重要視したようで、その取手を丁寧な仕草で持った。育ちが良いのだろう。そういう一つ一つにすら洗練されたものを感じる。貧しい生まれというのは逐一そういうところが目について嫌になる。彼はそのまま、お湯をボウルの中に注いでいく。
    「……お湯で何をするの?」
    「枯れにくくします」
     ケトルを置くと、薔薇の上に覆い被さるようにして敷いてある紙を両端から持ち上げ、紙ごと花を抱きかかえた。さながら、王子が眠れる姫君を救い出す童話のようで、死に沈む女を迎えにきた死神の悲劇をも思わせる。しかし納棺師の顔は、仕事をする人間の顔だった。
     紙で包まれた花。その剥き出しにしたままの茎をボウルに入れる。
    「沸騰したお湯に茎を入れて六十秒程度浸けます。これには殺菌効果があり水揚げを促進します」
     小さな泡が、茎の断面からぼこぼこと出ている。まるで、水中で最期の呼吸を行おうとしているように見えた。溺死している人間のようだ。そのイメージは、少年のころに見た死体をフラッシュバックさせる。粗末な担架に乗せられた、酸欠の坑道で死んだ坑夫の死体。生物の色と思えない紫に変色した顔、苦悶の果てに解放もされずに死んだ絶望の表情が明確に浮かびあがり、目を逸らした。しかし、逸らしたはずの視線の先にあったダイニングセットに坑夫は腰掛けていた。もちろん、それは幻覚だ。
     カールが花を殺している間、そいつは笑っていた。眉間に皺を寄せて必死に酸素を求めたままの死顔で、だけれど笑っているのだと脳が認識している。あまりにも罪悪感の具現化にうってつけの悪夢に、笑いそうだった。
    「人間だけじゃなく植物の防腐処置までしてるんだね」
    「処置、ですか」
     何事も悟られないために、強気でいるために口に出した皮肉のような軽口だった。それが意外にこの幻覚にも通じたようで、納得したように頷くそれは嬉しそうに見えた。
    「花の死は剪定された時点だとすれば、人間となんら変わりありません」
     まるで死体に呼応しているかのようで、気味が悪い。それも含めて、これが自分への報いなのだろう。そんなことを考えている間に、彼は茎の断面を布で覆っていく。
    「この処置で日持ちがするようになります。しかし、少しずつ枯れていく。枯れる、と言いますがつまるところは腐敗。僕の仕事は腐敗を遅らせて旅立ちに良い日まで保つ側面もあります」
     貴方が抱く感想もご尤もです。そう付け加えられて、自分の皮肉はそういう類の冗談として受け入れられたのだと知る。しかし、二人とも笑いはしなかった。なんだか、人間として欠損している部分の見せつけ合いのようで、それで親近感を抱いてしまうのだからどうしようもない。
     彼は影のようにするりと動き、備え付けの古びた棚から、二つのカップと紅茶用のポットを取り出した。それから、華やかな色の包装に包まれた缶を一つ。
    「……いつも湯を多く沸かしてありますので、これを、紅茶に使って飲むのが僕の日課です」
    「へえ」
    「貴方も、如何ですか」
     顔、というより頬や額を濡らしていた汗の様子を見ながら話しているようだった。会話のうちに湿った感じは消えていたが、少しの喉の渇きを感じる。
     どのみち、断ったとして待ち構えているのは口も聞かない死体たちばかりだ。眠れるわけもないのだから、この青年に茶を入れさせるくらいそれに比べればマシだ。
    「もらうよ。……ありがとう」
     彼はわかっていたかのように頷くと、茶葉の用意をしだした。
     美しい朝の支度の背景で、まだ死体が微笑んでいる。自分の脳が作り出したとはいえ、かなり奇妙で、なのに謎の調和を感じる、天国と地獄が一気にやってきたみたいだ。
    「あなたはいつもこの時間に?」
    「はい。蕾のときに剪定する方が良いのでこの時間にいます」
    「花が好きなの?」
    「作業を苦に感じないことを好意というのなら、そうですね」
    「……変わってるっていわれない?」
    「よく言われます」
     やはり、こんな時間に活動しているあたりで正常な人間じゃないようだ。しかしその突飛な発言のおかげで、少し余裕はできた。そうしている間に、用意ができたようだ。
    「お待たせしました」
     ダイニングテーブルにはいまだに死体が腰掛けている。かれはそれを全く気にする様子もなくカップを並べた。誰にだって、こいつらはみえていやしない。僕にしか認識されない。だが、そんなこともお構いなしにそいつは笑っている。次に起こることすら分かっていて、許すように。
    「どうぞ、冷めないうちに」
     カールは彼には見えない死人が腰かけている椅子に座ろうとした。その手が触れる瞬間その死体は消え失せた。余韻すら残さず。
     やつらはそうやって、他人が触れようとすると消える。物を投げつけたって消えないのに。触れると泡よりも呆気なく、空気にも残らず消える。お前に微笑むためだけに存在するのだ、と主張するかのようだ。
    「……探鉱者さん」
    「ああ、ごめん。いただくよ」
     不思議そうな眼差しにぎこちない笑みを返し、自分も向かいの椅子に腰かけた。紅茶に砂糖を三つほど入れてかき混ぜる。多い……と言う小声に、そういえば香りを楽しむのが本来の飲み方だというのを思い出した。思い出したところで関係がないので平然と飲んでいたが。喘鳴を上げていた喉が、少しだけ癒やされる。
     カールは静かに見ていたようだが、やがて興味を失ったようで、自分のマスクを外しにかかる。
     白い手袋をした指先が、マスクの紐に触れる。滑るように予防線を外された頬は真白で、滑らかだった。輪郭の細い顔が顕になる。
     手袋を外したその指先は、深爪ぎみに切られている。
    「すみません。茶菓子等は無いです」
    「いや、上等だよ……。この時間は空腹じゃなくてね」
     ふと気付いたように言われたのはまた想定外のことで、マナーなどを気にするような身分の出なのだと認識させられる。
     それとも、死神にもティータイムを嗜む習慣があるのか。
     優雅にカップに口をつけて少し口に含んでいるのは、同じ赤い血が流れている生き物には見えなかった。
    「それより、何か……話を、してくれないかな。なんでもいい」
     そんな彼に興味があったというのもあったが、とにかく気を紛らわしたかった。先ほどから出会う死体どもに、本当に気が滅入っていたのもある。
     彼は一瞬考えるように目を伏せたあと、カップを置いた。
    「僕は死体を見つけるのが得意な子供でした」
     冷たく、細くも芯の通った声だった。朝露に光る蜘蛛の巣のような不思議な、影のある美しさだ。
    「幼い頃から、不思議と死体は僕の周りにありました。庭の片隅、道路の端、公園の木影。何故か、ふとそこを見やるとあるんです。最初は、それが死体だと分からなかった。だけど、それになった母親を見つけた時、納棺師だった叔父に教えてもらって知りました。今まで見つけたものたちは死体だったと。見つけることができる者は、彼らを導くことがこの世に生を受けた上での使命だと。それからは叔父に引き取られて彼らの導き方を教えてもらいました。そして、あるとき僕はスクールで死体を見つけた。リーダー格の少年に付き従っていた線の細い少年だった。自分の意思を持たず、生きる意味を失くした少年の死体です。だから僕は導いてあげようとしたのですが──僕は退学になりました。まあ……その少年の件は叔父に相談して、最終的に導くことはできたのですが……そうして僕は納棺師になりました」
     話をしろ、といったのはたしかに自分だ。
     一頻り話されたそれは、確かに異常であった。が、それを指摘する理由も術も自分には無かった。
    「それは何? 自己紹介」
    「そうかもしれません。話をしてほしいと言われたので」
     そう返事をして彼は酷使した喉を潤おすように紅茶を口にした。最近の死神は、清潔な白いシャツを着て、新しい朝を待ちながら紅茶を飲むらしい。
     それにしても、死体を見つけるのが得意という男でもこの亡霊たちは見えていないらしい。やはりただの幻覚でしかないのか、死神の目を掻い潜ってでも祟り殺したいのか。いよいよ気が滅入ってくる。
     しかし繊細そうな美しさを持つ死神はそしらぬ顔で、不思議ですねと呟く。
    「なにが?」
    「ここに入ってきた貴方は、生の意味を知り必死に生きようとする生者だった。けれど、話してみたら定命が尽きる際を悟る死者を伺わせる一面を持っている」
    ──生きているのに、死を受け入れているようだ。
     疑問を口にしただけだろうそれは、きっとこの幻覚に苦しんでいる自分がそう見えたからだ。
     死を受け入れている人間というのは、見ればわかる。ホスピスでそういう老人たちはしょっちゅう居たから、経験則でわかるようになった。皺と傷で皮膚は弛み歪み、魂まで会社のものだと諦念を浮かばせ、盲いた目で天井を眺めるしかできない者。
     そこでふと、ならば自分もあの老人たちのような顔をしていたのではないかという疑念に駆られた。
     高望みした夢を見ることに疲れた心、現実で崩壊する身体。石炭よりも安く買い叩かれた魂で呆然と低い天井を眺めるしかない眼。その死んだ老人たちの顔は、いつの間にかカールの隣に立ってこちらを見ていた。
    ──貴方は、どちら側?
     諦念の茫とした呆け顔が笑っている。その顔たちの下でカールがじっとこちらを伺っている。死人たちの間にで隠れて覗き見する、その警戒の下で隠しきれない好奇心で、お前はどうだと問うていた。
     ろくでもない天の御使たちに、口の端を上げて微笑み返した。
    「あなたがちゃんと見つけてくれなかったから、死人にもなれなくて。わざわざ文句を言いに生き返ってきたのさ、……ははは」
     言っておいて、台詞があまりにも自分を辛辣に表していて、この死人たちを嘲笑っていてさらに笑みが深まる。死屍に鞭打つ、という言葉があるが、それと違って生も死も関係なく鞭を打っている見境のなさがくだらなかった。死体たちは、激昂も大笑もせずにただ笑っている。それが、こいつらの限界なのだろう。
     取り残された納棺師だけが、言葉を飲み込むのに時間がかかったようで呆けていたが、やがて小さく声を上げて笑った。ちょうど今しがた窓の外から差し込んできた、ささやかな日の出のような笑い方だった。
    「そうですか、そうですか……そう、なのですね。でしたら、望みを叶えてあげて満足のいく持て成しをしなければ」
     その眼差しの純真さに、思わず目を逸らした。本当にそれが使命であるかのように、自分に向けられているのに立ち向かえるほどの勇敢さは無かった。あったら、もう、人生のいずれかの分岐点で死んでいたことだろう。
    「金が欲しいな」
     茶化すように言ったが、真摯さでしか聞いていない彼は頷くだけだった。
    「理にかなっていますね。古くには死後の世界へ続く川を渡る船への運賃に、死者の口に銅貨を入れて埋葬することがあります。また、死者の生前の罪を裁く神に金銭取引を持ちかけることで有利な判決を貰ったり、悪商人が悪魔に死体を持ち去られないために教会に金銭を与え遺体に修道服を着せ悪魔を騙すという話も聞きますから」
     紅茶を啜りながら聞いたその言葉に、思わず眉を顰めた。
    「死んでからも金がいるのか、クソったれだ」
     何をするにも金、金。金さえあれば死んでも大丈夫だなんて、そんな通貨に囚われている時点でそこはこの世となんら変わりの無いものに思える。そんな目標の為に、必死に駆けずり回り続けなければいけないし、さらに善行や悪事も金銭の前では平等ということになる。
    「あくまで風習や商売の一環ですが。そもそも死というのは誰にでも訪れるものであるので──」
    「やめてくれ。そういうのはこの火傷を負ったときに腐るほど聞いた。死ぬ前に祈れだとか、そういうのも」
     そんな自分に訂正するかのように口にされたものは、もう百回は聞いたような常套句だった。それが事実だろうが妄言だろうが、こっちは食傷ぎみだ。
    「ではやめておきます」
     しかし、これまでに出会ったその類のことを言う人の中で誰よりも呆気なく彼は退いた。ただ馬鹿正直なだけかと思ったが、ちゃんとこちらの感情を汲み取ることは出来るらしい。何となくバツの悪さを感じて、紅茶を一気に飲み干した。
    「あなたは神父様ってやつもやってるの?」
    「僕は納棺師です。死者の宗派に合わせるために、ある程度その類いの知識はありますが神父ではありません」
     彼はそれを見て、また何か噛み合わない回答をした後で、手早くマスクを着けて手の中からカップを奪っていった。日は登りきりそうで、微かに生きた人間の気配がする。どうやら、館の同居人たちがやってくる前には消えたいようだった。彼のカップもまた、空になっていた。納棺師がマスクの下で、薄ら微笑んでいるのがわかる。
    「ですが、また。充足した死を迎える手立てになるのであれば、僕はいつでも扉を開けておきます」



     それからというもの、自分は真夜中も過ぎた頃になるとふらふらとキッチンの光に誘われる夜光虫になっていた。部屋や廊下に居る死体たちから逃げながら、明かりの燈るキッチンに辿り着くのは火の中に身を投げ込む蛾のようであったし、カールの振る舞う紅茶に多量の砂糖を入れて飲むのは樹液を啜る甲虫のようだった。
     いっぽうでカールはといえば、いつも剪定した花の処理を淡々とこなした後紅茶の準備をするだけだ。
    「あなたの好きな花は何ですか」
     奇妙な客人であるはずの自分に、彼が問うことといえば、ある意味見当違いな質問ばかりだ。きっとこちらがある日、毒虫になってやって来ても気にしないだろう。常人であれば不吉や不快として避けるか、厄介な好奇心で突こうとするものだが、そういったことしか尋ねてこない。
     なぜ花なのか聞き返すと、無口な男は急に饒舌になる。
    「納棺の時に入れる花です。どんな地域であれ死者に花を手向け風習はある。理由は信仰により様々ですが、人が初めて死を認識したときから続く行為だ。最初に行為があって、それを裏付ける理由が付く。大抵の宗教行事の根本はそういうものです。例えば、この辺りの信仰で供花のある理由は──」
    「わかった、わかった。そんなこと聞いたら僕はアレしか出てこない。黄色の、……マリーゴールドだったか」
    「マリーゴールド。いい花ですね、理由をお聞きしても?」
    「理由なんて……死者の日に飾る花じゃないか」
    「死者の日? このあたりの風習では無いですね。存じ上げないです」
    「へえ。まあ、死者が帰ってくる日があるらしくて、マリーゴールドがあると目印になるんだとか言ってたな。その日は盛大に祭りをして賑わってたよ」
     彼も坑夫がいるような土地の風習までは知識が行き届いていないようで、語れば好奇心に満ちた眼差しで熱心に聞いていた。死者はどういう形で、とかハロウィーンと似たようなものなのか、とか尋ねられても答えられるほど興味を持っていなかったのできっと落胆させたとは思うが。
    「貴方も」
    「ん?」
     ぽつり、と言葉が漏れた。思わず聞き返すと、彼はカップの中へ目線を落とした後、もう一度真っ直ぐに目を合わせる。
    「葬式は盛大なほうがお好きですか」
     真面目な顔で聞くのがそんなことなので、わかりやすく鼻で笑ってしまった。仕事以外何も知らないらしい青年らしい純真な問いだ。
    「有り得ない。そんなことして何になる? きっと僕は蘇ったら一体どれくらい金を無駄遣いしたんだって聞いて憂鬱になるだけだ」
     カールは不思議そうに目を瞬かせた。本当に、商売ではなく天命とおもって納棺師をしているらしい。呆れてため息を吐く間も、疑問に満ちた眼差しがこちらを見ていた。その銀の目が宝石だったら、一体どのくらいの価値がついたことか。
    「貴方の言葉は大変興味深いですね。僕の中にある知識、ひとつひとつを撚り合わせて思考へと紡ぎあげる糸車のようだ」
     神父や司祭のような高尚な思考を持っているのかと思えば、そういう少年のような真っ直ぐな感想を伝えてくる。それが宝石が光の当たり具合で色を変えるかのようだった。さながら、自分は原石を加工する職人のようだ。たまに虐めているような、唆しているような気分さえ抱いてしまうほど。



     そういった意義のないもの以外にも話題はあった。例えば、狂ったゲームの戦略のこと。表情変化が乏しいことから予想できるとおり彼は情に疎くはあるが、そのために合理的な意見を述べることができた。
     あの人は運動能力が劣っているから捕まったなら救援はせずに残りのメンバーで脱出を考えた方がいい、とか、盤面によっては身代わりとして目視されることで効率よく解読や治療などを行わせるべきだ、など。
    「駒を人間にしたチェスゲームのようなものでしょう」
    ──あの化け物たちも僕たちも、ただ駒として動いている。そう考えればいい。
     今日の天気を述べるかのようなその言葉に、人の痛みや苦しみを何だと思っているんだ、と言い返そうとしたが、やけに腑に落ちてしまって反論は腹の中に一緒に下りていった。
     何故なら、鉱夫もそうだったからだ。チェスなんかよりも酷い。僕らはカードゲームのトランプ、いわば紙切れだった。チップをかけられて、役目が終わったやつは墓場に捨てる。足りなくなったら山札からカードを引いて補充していく。それだけの存在。
     得も言われぬ怒りを抱いていると、死人の幻覚たちと目があった。夢があったと語る老人、金が欲しいと望む青年、死にたくないと嘆く男。墓場に捨てられたカードたちだ。
     そこで気づいてしまった。
     このカードを捨てたのは、僕だ。
     十三の鉱山のメモ。決行した発破採掘。眩く輝く石。あの時から僕はカードでなくなった。なくなったが、紙切れからおもちゃの駒になっただけ。結局は墓場に捨てられるのを待っているだけ。ああ、だとしたら。
     この死体たちは、僕だ。
     衰弱した老人も、吹き飛んだ一部を補えない肉塊も。死人だったときの僕が、笑いかけているだけだったのだ。時が来たら僕は墓場に捨てられる。そしてまた、山札の中から新しい僕が──。
    「不快になりましたか」
     冷静な声に、はっと意識が現実に戻る。自らの考えへの感想を聞いておきながら、カールは空にしたティーカップの前でマスクをし直していた。
    「いや……。今不快になったけど」
    「そうですか。すみません」
     平坦な謝罪だった。しかし、その無表情さに今日ほど助けられたことはない。ここで心配や配慮などを見せられていたら、それこそどうにかなってしまいそうだ。もっとも、気付かせにきたのは彼だが。
    「別に、いいよ。でも紅茶がなくなったから今日はお開きだね」
    「はい」
     平静を装いながら、そう言って立ち上がる。潔癖の気があるカールは、他人が食器を洗うことを良しとしないのでそれに甘えていつも放っておいているが、それが今はありがたかった。彼はいかに紅茶の渋が残らないように洗うかに専念するだろうから、自分のことなんて放っておいてくれる。
    「じゃあ、また明日」
     さよならの代わりに言った言葉に、ふと彼は顔を上げた。その美しい虹彩がランプの僅かな揺めきで色を変えていく。やがて、彼は笑った。マスクをしていなかったから、口角が上を向くのが見てとれた。嫌味なくらいに、美しい。
    「ええ……良い一日を」
    「あなたも」
     常套句のそれに、常套句で返しながら、嫌な言葉だと思った。こんな気持ちを抱えたまま、良いものになるなんて思えない。全てが繰り返されて、循環して、そして逃げ出せないのなら。一体どこに自分は行こうとしているのか。あれほど憎たらしかった死体たちに問いかけたくて仕方なかった。僕らは、この世界はなんなのか、と。これが神の御業で良いのか、と。
     しかし。その日、幻覚が姿を見せることはなかった。



    ──不安と孤独と恐れは、貴方を揺るがせるが、それもひとときの試練です。神は必ずや貴方を救うでしょう。
     医療用の阿片というのはよく効いて、事故直後のあの掻痒感を伴う激痛を、ほんの少しの熱感に抑えてくれた。渇きと恐怖で亡者どもから逃げるよりも酷い苦しみを、平坦にしてくれて多幸感と充実感を与えてくれた。そのお陰で病床から起き上がることなど出来なかったが。
    ──貴方に与えられた苦痛や懊悩、困難は貴方に大いなる神の、人々の慈しみを知らせ与えるもの。貴方への贈与のためのもの。もう苦しみはない。
     そんな中で奇跡の生還者への慰問に来た神職の男の言葉はとても清浄で、神的な体験を思わせるものだった。ぼうっとした意識の中で、手を握って語りかけられる。すべては神が与えてくれたもので、生の後に訪れる救済の仕組みだったのだ、と。苦しみから解放するための言葉。神職の男が去ってからも、医者や看護師でさえもそう言っていた。呼吸器も含めた全身の熱傷が酷く、いつ皮膚から死ぬか肺から死ぬかという患者へのよくある終末に向けた慈悲だった。いつか何処かの町にあった教会で見た絵画の中の天使が寝台の横に現れてすらいた。微笑んで、苦痛に喘ぐ自分を救うためにやってきたのだと言いたげに。
     けれど、そんな神秘を前にして終ぞ信じることは出来なかった。
     脳裏には鉱山で見てしまったものが焼き付いてしまった。数刻前まで同僚だったもの。人であったとすら思えない肉塊、救援を乞う声がする瓦礫の山、慟哭し豹変する男。それらを見捨て、強奪し、殺害し踏みにじった。その果てに辿り着いたのは、渇望していた筈の、あの、隕石の──。
     どれほど恐怖や苦痛が阿片で消されて、救いや祈りを説かれても、記憶は頭に残り続けた。
     人間は、こんな姿になっても人間で在ることができるのだろうか。
     悪魔というものは地獄にいるのではなく、人間の中に潜んでいるのだ。そして皮膚を食い破り、人間たる人間はいないと告げるのだ。変わり果てた仲間たちがそれを自らで証明してくれた。
     祈りや慰めの言葉は、己の死後へと向けた善行の貯蓄だった。ボランティアというのはとくに得点が高く、より神の御前へと近づくための駄賃になる。人々曰くの神は、僕の神ではなかった。
     それに気づいたときから、微笑む天使は、微笑む死体へと変わったのだ。

     夜明けを待つキッチンには、誰も居なかった。
    「……カールさん?」
     ケトルは火にかけられ、灯りに持ってこられたであろうランプもある。しかしその燃焼の熱だけで、生き物のぬくもりはなかった。死んだあとの冷たさすらも。
     いつもの夜と朝の合間。そこに花と、カールがいない。切り抜いて、取っていったかのように。
     冷静に考えれば、彼は少し席を外していただけで、花だって常に咲いているわけではないだろう。だが、自分の脳裏に焼け付いてしまった可能性がよぎる。
     彼もまた、幻覚のひとつだったのではないか?
     ある種の罪悪、許し。それを欲しがる心が生み出したかたちの結末としての青年なのでは、と。
     そうではない、と言い聞かせる。彼は自分と会話ができて、紅茶を振る舞う。幻覚は口も聞かず、動かない。それに、あいつらは触れれば消える。
     だから、イソップ・カールは幻覚では──。
    「ああ、もう来られていたんですね。おはようございます」
     彼の声だった。扉の前に見慣れた青年が立っていた。今日は黒い上着を着ていて、あらためて見るとそれは喪服なのだと思わせられる。
    「おはよう。……カールさん」
    「はい、イソップ・カールです。茶葉の用意をしていました」
     どうにも噛み合っていない彼らしい回答に、これほど安堵したことはない。ここにきて彼が幻覚だったなど、たまったものではない。彼に触れたら消えた、などしたら。
     ふと、そこまで思考を巡らせて、一度もその身体に触れたことがないことに気付く。
    「今日は外にしようと思っていて。キャンベルさん、狭いところは嫌いでしょう」
    「あ、ああ……まあ。今日は花はどうしたの」
    「少し早いので。もう少し日が昇ってからでないと」
     彼は何食わぬ顔であらかじめ用意しておいたらしきポットに茶葉を入れ、湯を注いでいた。
     もしここで彼に触れて、消えてしまったら。泡よりもあっけなく消えてしまうまぼろしであったら。天から垂れてきた細く光る糸がぷっつりと切れてしまうような仮想だ。
     そんなものを否定するのは、簡単なことだ。彼に触れてみればいい。老人を見捨てるよりも、十三の鉱山を巡るよりも、火薬に火をつけるよりも、仲間を殺すよりも。簡単で、単純なこと。
     だが。その手に触れる。たった、それだけのことが今の自分にとっては何倍も重くのしかかっていた。この手で、カールを消すかもしれないことが、重く。
    「すみません、灯りを持っていただけますか。まだ足元が暗い」
     一瞬にして永遠の迷いは、両手でポットを抱えたカール自身によって中断させられた。
     その眼差しがあまりにも美しく、恐れを知らない顔だったので、ついぞ触れることなく、ランプを手にとって彼の先を照らすように後ろに続いた。
     半歩先を歩くその手に持ったポットから、花をもっと強くしたような香りがする。不快な甘ったるさはなく心を鎮めるようなその香りが、非現実性を加速させる。だが、嗅覚があるということが現実だと訴えかけてくる。相反した認識だった。
    「扉を」
     質素な扉の前で、カールはこちらを向いた。庭へと続く扉だった。結局、手は彼に触れることなくドアノブに触れた。
     外はもう朝焼けを間近に迎えていた。木々の間から橙色の明るさが漏れて、空は夜と朝の繋ぎ目の時間で複雑な色を見せていた。青褪めた薄明かりの中微睡む草木を、手の中のランプが暖色に照らす。
     その中に、ひときわ目を惹く木があった。手入れをされて一定の高さを保つ木々の中、その木に引き寄せられたのは花が咲いていたからだ。葉の間に、真っ白な花が幾つもついている。幼子の手ほどの大きさで花弁も肉厚な美しい花だ。その前には、古びたベンチと小さなテーブル、その上にはティーセットがあった。くすんではいるが、元は花のように白かったのだろう。
    「花が、咲いたので。今日は外の方がいいと思いまして。どうぞ座ってください」
     木の方へフラフラと行ってしまったというのに、カールはそれを予測していたようにそう告げた。あまつさえ常と変わりないようにポットの中身をカップへと注ぎはじめていた。読まれていた不快さからつい口を開く。
    「あのね……僕はオンナノコじゃないんだから」
    「はい、貴方は男性ですね。どうぞ、座って」
     まるで子どもをあしらう調子のそれにさらに言い返しそうになって、やめた。ランプをテーブルに置いて渋々座る。
    「どうぞ、冷めないうちに」
     律儀に砂糖を三つ入れて差し出してくる。その表情に悪意のひとかけらもないことに溜息を吐いた。その指に触れないように慎重にカップを受け取るあたり自分がどうかしているのかもしれない。
    「少し、甘ったるい匂いがする……」
    「これはハーブティーです。花を摘んでいるときに、木を見かけて少し葉を摘ませてもらっていたものが乾燥しまして。素人なりですが」
    「ふーん、そう……」
     一口飲むと、口腔にむせ返るような花の香りが広がり、砂糖の甘さがじんわりと舌に染み込んでくる。花の蜜を飲んでいるかのよう。
     美しい花の下で、蜜を飲む。
     そう言葉にしただけで、まったく自分の人生に沿わないことをしているのが滑稽に思えた。
    「……この世界は、本当に僕のいた世界と同じなんだろうか」
     カールは一度こちらに目線をよこしたが、問いかけられたものではなく独り言だと判断したようで、手元に視線を戻しマスクを外してカップに口付ける。そんな横顔すらちょっとした絵画のようだ。自分とは違って、この景色が似合う人間だ。
    「僕は、坑夫の子供だった。坑夫の子は、坑夫になるかその前に死ぬしかなかった」
     言葉にして思い出す。ぱたりと死ぬ赤子、ろくに食えずに飢えて石を食って死んだ子ども。坑道で倒れたやつもいれば、轢かれて死んだやつもいた。脳は勝手にそんな死体たちに思いを馳せたが、幻覚はやってこない。やはり、ここが自分のいた世界ではないからか。
    「日が昇る前に炭坑に入って、日が沈んでから出る。物心ついたときには石をひたすら拾って荷物を運んで……その繰り返しで。こんな綺麗な景色が、美しい花があるなんて知らなかった」
     割れた爪や傷んだ肺に涙を流し癒してくれる相手など幻想にも抱かなかった。
     ただ、毎日運ぶ石、その一往復分の方が自分たちの命よりも何倍も高く買われている事実だけが転がっていた。あのときよりも、自分の命は高くなったのだと、そう信じたかった。
    「僕も」
     少なくとも、この青年にとってはそうなれただろうか。
     彼の目は道端の石ころを見るような眼差しじゃない。真っ直ぐすぎて、美しすぎて逸らしたくなるほど、真摯に僕を見ている。
    「ここ最近の花はとても美しく見えます。とくに、貴方を待ったり、貴方と話しながら眺める花は、いっとう美しかった」
    「……それ、僕が相手でよかったね」
     ここに招かれた女たちなら大笑いをするような文句だった。皮肉のつもりで返した言葉に全く気付いていないようで、ただ不思議そうにこちらを見て瞬きをするばかりだ。何もしていないこっちが逆に羞恥を感じて、あくびをして誤魔化した。
    「なんだか、眠いな……」
    「フラボノイドという成分が含まれており、鎮静効果、睡眠誘導ホルモンの元であるセトロニンを増加させます」
     言っていることはよくわからなかったが、自覚してしまうと急にそれは襲ってきた。いつぶりのことだろうか。ここに来てからは疎か、ここにくる前からもずっと、眠れることなんてなかった。脳に焼きついたあいつらが、夢の中に侵食するほど傍にいたから、こんなふうに呼吸ができることなんてなかった。
     そんな自分を危うく思ったのか、彼は手の中のカップを取り上げようとした。
     カップが奪われた瞬間、彼の指が、僕の指に触れる。
    「あ」
     しかし、予測していた最悪はやってこなかった。彼は泡にも露にもならずにそこにいた。カップを置く音だけが聞こえた。
     イソップ・カールは、僕の幻覚ではない。
     当たり前のことだった。だけれど、それが在るということを、ずっと望んでいたのだ。それが、今ここに居る。彼は生身の人間で、生きていて、こうして自分と会話している。ずっと、恐れながら待っていた真実は、随分前から息づいていた。
     安堵からか、力が抜ける。それに任せるがまま隣にいた彼にもたれかかった。一瞬その肩が震えたが、そのまま倒れてしまわないように彼もカップを置いて重心をこちらに寄せる。緩慢に伝わってくる人肌の温度が、現実だった。
     その事実だけで、良いような気がしてきた。眠気で気が緩んでいたのかもしれない。
     静かな時間だけが流れてゆく。日はカタツムリが這うほどの早さで昇ってゆき、草木はじんわりと形を明確にしていく。初めて過ごすような、穏やかな、時間だった。もしかして、彼はこれをみせたかったのだろうか、と思った。
    「どうして僕に良くしてくれるの?」
    「……」
     彼は答えなかった。今のいままでばかみたいに正直に答えてきたのに今更黙り込むなんて、わざとでもやっているなら相当な意地の悪さだろう。それに見合うくらいのことは言ってやった自覚はある。別に、いまはそれでよかった。
     満ちている、ということが逆に不安に感じる。飢えて、這いずりまわっているのが僕だったはずだから。
    「手を、握って……僕死ぬのかな」
    「いずれ。すべての人がたどり着くところですから」
     その声は、いつか聞いた神職の男の声に似ていたけれど、今度こそは信じることができた。彼は天に在します神、と言うのを主張しない。ただ存在するものだけを教えてくれる。
     骨張った手が、火傷痕に塗れた男の手に触れる。指先は乾燥やささくれを切った感触がするのに、手のひらはじっとりと濡れていた。
    「……温かい。貴方は生きているのですね……」
    「カールさんは、手がぬれている」
     感心したような声で当然のことを言うのに、なんとなく共感した。お互いに、生きている存在だと思っていなかったとしたらこんなに滑稽なことはない。こんなに共通点が無いのに、案外僕ら似たものどうしなのかもしれない。今更気付いたことが、なんだかどうしようもなくおかしい。笑ってやりたかったけれど、瞼が重くて、そんなことをするのはやめた。あたたかくて、心地よい。
    「……おやすみなさい、良い夢を」



     目が覚めると、キラキラと輝くものが目を焼きそうになる。黒の中から漏れた光が、時たま自分を覗き込んでいる。眩しく思いながらそれを眺めていて、黒はよく見れば緑の色に影が落ちて黒く見えることに気づいた。そこからは一気に認識が出来るようになった。木漏れ日を自分は眺めていた。眼球を横に動かせば、葉を手に見立てて天に祈りを捧げるような枝を支える幹が目に入る。つまり、自分は横になっていた。
     こんな穏やかな場所で寝ているなんて、荘園に来てから初めてだった。
    「おはようございます」
     幹を眺めていると上から声がした。そちらを見ると、カールが見下ろしていた。銀の髪の毛が木漏れ日に当たり、虹のように色を変えている。
    「天使みたいだ」
    「イソップ・カールは納棺師です。そして人間だ」
     石膏像の美を保ったままそういう。なんだか可笑しく思って笑うと、彼は首を傾げた。さらりと揺れる前髪の、その垂れ方すら完璧な美として配置される。
     後頭部に木や地面ほど硬くない感触がすることに気付いて、それから意識が途切れる前のことを結びつけて、今、自分がカールの膝を枕にベンチで寝そべっていることを理解した。
     まだ、寝起きでぼんやりとその事実を咀嚼している自分に見えるように、カールは手に持った物を見せる。銀の色が眩しい、注射器だった。
    「これは水和臭化物です。これを注入することが、僕の仕事の一環です。打とうとしました」
    「……殺そうとしたの?」
    「貴方の世界ではそう。僕の世界ではこれは必要な処置」
     そういうことだったのか。
     仕事熱心な彼は、ずっと職務を全うしようとしていただけだった。ひたむきに、こちらに向き合っていたのも使命感からそうしていたのか。腹の底がすうっと冷えていくような気持ちになった。勝手に自惚れていただけで、それは、殺意だったと。
     しかし、そうだとすると、なぜ、生きているのだろうか?
    「でも、出来ませんでした。そうしたら貴方は旅立ってしまいます。僕は見送らなければいけないでしょう。貴方の後ろ姿と見送る僕の距離は、この地点から海の果てよりも遠く、絶対的距離が開いてしまう。そう思うと打つことが正しいことであれど、正解ではないと感じた」
     殺意だったと、それだけで終わらせてくれればいいのに、彼は、どうしてかそんなことを言った。
     今度こそ、臓腑を掻き回されたような気がした。正しいか正しくなんかなんて、今更だ。こんなところまで来て、どうして今更、そんな、恐ろしいことを言えるのだ。こんな男の中身を乱雑に乱すためにそんなことを。しかし、彼は注射器を置いて、そうっと梳くようにに髪に触れてきた。死体では絶対にされないような、愛撫のような手つきだ。
    「なんで、こんなところで……そんなことを言うの」
    「ええ、あってはいけないエゴイズムです。自分の利益を重視し、貴方に差し上げるべき利益──つまるところ、安らぎや出立。それを無視する行為だ」
     養父は激怒するかもしれません。頑固な人なので。小さく囁くその声に怯えはない。
     悪戯を楽しむ少年の心を持っていそうには見えなかったのに、瞳は罠に落ちる生き物を楽しみに待つように輝いていた。
     あんなに熱心に語っていたのに。その為にここに来て、こんなことまでした筈なんだろう。なのに、どうして?
    「僕の死よりも有益なものが、あったの?」
    「はい」
     明確な是の解答だった。迷いなど見受けられず、彼の中の決定した事実が頷かせているらしい。
    「……また、朝に。貴方の声が聞きたくて」
     言葉は糸車だ。知識や経験、精神などで出来た心を撚る。
     前に彼はそんなことを言っていた。ただ広がっているだけの心を撚り集めて、意思や感情へと紡ぎあげる。そうして出来たものが、いま、彼を絡めとり、動かしていた。
     糸車を動かしたのは僕だ。騙し、奪い、殺したのと同じ手で。彼の心を撚り集めて紡いだのだ。今まで人を死に追いやったのと同じ方法で、僕は彼を動かし、己を生かした。
     そして彼は僕へ、手を差し伸べる。天から糸を垂らすように。
    「なぜ怯えているの?」
     真っ直ぐな瞳。銀の色がじっと自分を覗き込んでいる。
     それが一瞬、歪んだ。
     それは皮膚が掻き回されたからだ。視神経が尾を引きながら眼球は勢いよく飛んでゆき、完全な斜角を持った鼻梁は削れ、花弁のような唇は斜めに裂けた。そして一瞬で、元のイソップ・カールを再形成した。もちろん、破壊される様は一瞬の緩みを脳が突いた幻覚だ。
     絶叫を上げてその頬に拳を放つには充分の幻覚だった。ベンチから転がり落ちて、地面を這って蹲る。土が着こうが、今更だけど。それよりも、恐怖と絶望が自分を支配する。
     もう、許してほしい。許さないでほしい。こんな平穏を許さないのなら、最初から何も与えないで苦痛だけ在ることで許して欲しい。もう喪失なら沢山だった。失ったままで、もう与えないでほしい。もう沢山、もうたくさん、もうたくさん……。
     呻いていると、視界の端で彼がそうっと膝をついたのがわかった。茶渋を許せないほどの潔癖の彼が、スラックスを地面につけていた。恐る恐る、顔をあげた。
     カールの頬は膨らみ、下唇が切れて球のように血が膨らみ、つうと顎をつたっていく。彼はそれに指先で触れ、真っ赤な血を見た。
    「愛は血の色、恋は薔薇色ですね」
     彼は笑う。血と腫れた頬のせいで歪であったが、それでも美しかった。彼も大概、気が触れている。そう、狂っているのだ。そうでなくては、ノートン・キャンベルを殺している。いや、前提からして全て狂っている。どこからなのかも、わからない。
     心の底では、あの黎明の出会いからであれ、と。自分と出会ってからであって欲しいと、思う。
     歌うような言葉で、彼は紅を塗るように血のついた指で唇をなぞる。破瓜のように真っ赤な血液のルージュが、美しさを引き立たせた。
     彼はそして、こちらに両手を差し伸べてきた。しっとりとした手が頬を包んで、そのままキスをしてきた。鉄錆臭く、血でぬるついた唇の温かく生々しい感触が、幻覚ではないとつきつけてくる。
    「そして貴方も、同じ色」
     子供騙しだ。砂糖や香辛料で出来た少女ですら、そんなもの騙されないだろう。
     汚辱と罪悪と裏切りで出来た人間が、神によって創造されし美の具現のような人間と同じだなんて。
    「君の信じる神様に許されないかも」
    「僕自身に特別な信仰はありません。全ての信仰を持つ死者に平等であるために」
     だけど、信じてしまいそうだった。彼はいつも、事実しか言わないし、嘘をつけるほど器用ではない。そして、それが正しくても正しくなくても、今更、関係ないのだ。
    「ですが神を、創造する者あるいは司るものと定義した時、この感情を創り出し付随する喜怒哀楽を司るのは貴方になる。キャンベルさん、貴方が僕の神様になる」
     それが何なのか分からずに、恐怖を感じた。しかしそれと同じくらい、いや、それ以上に手を伸ばしたくなる美しさがあった。
    「そして、貴方にそんな顔をさせられたのなら、貴方の神様も僕になる。貴方は神であり、僕もまた神である」
     人は自分の理解の範疇を超えたものを神秘と呼ぶ。神から与えられた神秘は、愛の名を冠する。
    「僕には、なにも」
     そんなもの、持っているのだろうか。そんな美しい感情だとは思えなかった。ただ、この青年との離別は許せなくて、自分のものにしたくて、ずっと触れていられたらと思う。それだけの単純な思考は、高等で上品な言葉に収まらない。
     けれど、彼は嬉しそうに微笑んでいた、恋を知った少年のような微笑みで。
    「許す、許さないという選択肢には、『選択肢を選ばない』という選択もあるのですよ、僕の神さま」
     いいのだろうか、と思った。そんな都合のいいことなんてなかったのに。彼は僕の頬にある火傷痕をなぞっていた。
     そんな都合の良さこそ、神さまというのかもしれない。
     震える手を、彼の手に重ねる。そうして、初めて僕は彼に口付けた。









    (頒布時につけていたペーパー内容)
    表紙の絵はオフェリアという絵画をオマージュしていて、これはイソップの演繹衣装にもなった悲劇ハムレットに登場するオフェリアが死に際の幻覚を見て虚な表情を浮かべている有名な絵画です。浮いているのはバラとナツツバキ、イチイの実のつもりです。背景を描くのが苦手でしんどかったです。
    内容に関しては、とりあえず本が作りたくて何なら執筆意欲を保ちながら書けるかと考えて、肉塊が性癖なので性癖である肉塊をふんだんに出せば意欲を失わずにできるのではないかと書き始めました。たいへん、楽しかったです。数年前にフォロワーと聖地巡礼で軍艦島に旅行に行ったのですが、まさかとっておいたパンフレットなどの炭鉱夫の話が今生きるとは人生何が起こるかわからないですね。
    イソップが最後に用意していたのはセイヨウボダイジュのハーブティーのつもりです。花や葉がリンデンというハーブになり、鎮静効果が高く安眠が期待できるハーブだそうです。庭に咲いていたのはナツツバキという、別名シャラソウジュと呼ばれる樹です。仏教で釈迦が悟りを開いたところにあったのが菩提樹、入滅(死去)したところにあったのが沙羅双樹と言われています。ちなみに菩提樹はインドボダイジュというバラ目、セイヨウボダイジュはアオイ目なので違う種類であり、沙羅双樹、サラソウジュはアオイ目でナツツバキはツツジ目なのでこれまた違う樹です。ここまで含めて解説です。
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