死神は涙をこぼさない 疑いと好奇に満ちた瞳が、しかと青年を捉えていた。
癖のある髪の少年はまるで物語が始まるのではないかとそわそわした様子であったが、要件を言われると素直に頷いて、少し待って欲しいと返し屋内へと消えた。
かつて採掘場として栄えた町の、小さなホスピスであった。最盛期の賑わいは面影もなく、しかしここはまた違う鉱山と街を繋ぐ小さな町として存在をなしていた。
くたびれた白色の建物ではあるが、青年が佇む庭に植えられた花は鮮やかで、土も柔らかく湿っており手入れされていることがわかる。ここに居る人々の慰みのために、あの少年などが花を選んで水をやっている。そんな心で作られているのかもしれない。
やがて、少年が一人の老人を連れて、そこへ戻ってきた。
「やあ、どうも……」
背骨は湾曲し、足を擦るように歩く、みすぼらしい老いた男だ。
歩くたびに気管を通る空気の音がか細く鳴り、肺から老いが全身へと蔓延したことを聞き手に推測させる。しかし歩み自体はしっかりと地を踏み、実は老人というほどの齢でないのかと思わせるほどだ。だがそれは勘違いであったと、ついぞ椅子に腰掛けて小さく畳んだようになった姿を見て皆思い直すことになる。
白濁した瞳はこちらを見ようとしているが、もう霧の中を歩くような視界なのだろう。青年のやや上空を眺める不自然さ。さらに痩躯に合わないシャツの袂から、洗濯板のような胸元が覗くのが気の毒であった。
「来てくれて、ありがとう」
草臥れた牛皮のような笑みである。疣贅や白斑、皺などが奇妙に混ざり合い複雑な模様になり、そのような印象を持たせた。さらに嗄れて耳障りな空気の混じる声は老人に年齢を重ねさせる。
「お久しぶりです」
「ああ、懐かしい。お前さんの声をまだ聞けるなんて……私は、このときのために生きていたのか」
小さなテーブルに水を二つ置いた少年が眉を顰めた。老人はこの手の冗談をいうような人でなかったのであろう。そんな少年を気に留めない様子で、聞いているだけで気の毒になる声が話を続ける。
「お前さんに伝えたいことが、たくさんできてしまった。はたして……私の僅かな時間で足りるだろうかな」
少年は老人の痩せた膝に手を乗せる。しかし、青年には愛想の一つもないのは、大人というものをいまいち信用できない複雑な年頃を思わせる。
「じいさん、あの話をするなら僕もいていい?」
「よしてくれ。ほら、ミルクをひとつ貰ってきてはくれないか。釣りは駄賃にしていい」
老人は特に気に留めもせずそう言うと、緩慢な動作で草臥れたシャツから小さく折り畳まれた紙幣を出した。少年は退屈そうに唇を尖らせて、枯れ枝のような指から紙幣を抜き取った。そしてしばらく青年と老人を見比べると、ドアを一人分の隙間だけ開けて猫のように廊下の向こうに消えた。
「あの子は両親が居なくてね……色々と面倒を見てやって、読み書きを教えるついでに私の話を聞かせてやったら、いたく気に入ったようだ。よく懐いてくれる」
青年が尋ねてもいないことを、余命を削るような声が緩慢に説明する。曖昧に頷く青年は少し、側からみれば焦っているようにすら思えた。掠れ、息継ぎのような呼吸音が混じるそれに少し膝が揺れていた。
わかっているのか、いないのか。老人は自らの手で顎を触った。弛んだ皮が変形し、笑みを深くする。
「さて、何から話そうか……なにぶん、歳を取ると皺と話すことだけが増えていくものだ」
「あなたの心残りについて」
一言でも多く話そうとする老人に、はっきりと青年は言葉を投げつけた。それは声を出すほどに命を削っているような老人を気遣う心でもあり、長話を嫌う若人の心からの言葉でもあった。老人はそんな青年の様子に咳のような笑いを二つ、送った。
「心残り、心残りね……。思い返せば、そんなことが沢山あった。十三の鉱山、間に合わなかった約束、裏切りと妄執のすべて。老体には少し辛いものだ」
喋っている間にこと切れるのではないか、と言うような焦燥感を青年は抱いているようだ。あるいは、要点よく聞き出すにはどうするかを考えているような。
実は時間が無いのは青年の方だった。彼は急いでいたのだ。そして老人は、そんな彼を惜しむように引き留めている。そう気づいてしまえば、案外この二人の立場が違ってくる。
続きを、と促す青年の眼差しに、痰の絡んだ咳が返ってきた。緩慢な仕草で痰を拭い、水を一分ほどかけて飲むのは悪びれもしない時間稼ぎだ。
なにせ、彼に伝える言葉はもう決まっていて、それに全てが集約しているからだ。待ちきれない青年の、言葉を促すような視線は、老人の見えない視界をもってしても感じとれるものだった。
だからこそ、この合間にゆっくりと過去について考えることができた。老人の人生は、とてもとても長かった。一つの町が栄え、廃れるまで。赤ん坊が生まれ死ぬまで。あらゆるところに行き、あらゆるものに出会い、別れた。長い長い回想の旅は水が喉元を過ぎるまでに終わり。そして、惜しむように溜息を吐いて、微笑んだ。
「だが、もういいんだ」
「なぜ?」
青年は焦るように口にする。まるで幼児が親に問うように純真で、謎解きに誤答した人間を八裂きにする怪物のように残酷であった。それを声色のうちに悟る老人は、青年が手中にいることに満足げに頷く。こんなに満ちて、幸福だったことはあっただろうかと思うほど。
「なぜって。来てくれたからね。もうそれで十分なんだ」
椅子が倒れる乾いた音が部屋に響く。
だが老人は狼狽えることなく、その音を立てた青年の様子をつぶさに想像していた。若さとその性格ゆえの真面目さが、青年を衝動のままに立ち上がらせたことを。これは実に、老人にとって懐かしいことであった。
「馬鹿にしている?」
震えた声に、ぐっと眉を寄せる表情を思い出す。拳を握り、掌に爪を立てるように怒りを隠している。そんな仕草を、青年はよくしていたのだ。
「まさか。ずっと待ってたんだ、お前さんがここに来るのを。話すことだって決めていた。けれど、もう良くなったんだ。来てくれたから、心に残っていたことは全部なくなった。それとも、全部なくなったから来てくれたのかい?」
「違う」
先ほど、少年をミルクを買いに行かせたのと同じように、穏やかにいうのがさらに青年の激情をひどくする。
「わかっているさ。昔から正直で、約束を破れない。そういうところが、たまに悪戯心をつつくんだよ」
頷きながら、目の前にいる青年を思う。美しい灰色の髪を綺麗に纏めて、喪服をきたその姿。人は彼をおくりびとと呼ぶこともある。冥府への案内人に相応しい容姿。だけれど、頑固で、偏屈だ。
「けれど、本当に良かった。私が──僕が、あのとき、あなたにした懺悔を、感じた憎悪と嫉妬を思い出させに来てくれた。
そして……。『僕を見送りに来る』という約束を果たしにきたんだろう?」
それが変わらないことが──愛おしかった。
「ありがとう。約束を果たしに来てくれて」
「違う」
青年は全身の毛を逆立てるように怒りを露わにした。裏切り、失望、そんなものからくる真っ当な人間らしい感情。
「貴方はそんなことを言う人でなかった。真っ当な人間みたいなことを言わない。もっと卑怯で狡猾で、残酷で愛おしい人間だ。貴方は、──僕が送りたい人じゃない」
「……そんなに、記憶と違わないことを言うなんて、嬉しいことだね」
冷たいカミソリのような言葉に、さも嬉しそうに言う。それは嗄れてなどいなかった。酷い呼吸音も、時折小さく聞こえるだけで、今にも絶えそうなものではない。
しなやかな仕草で、彼は立ち上がる。青年が、小さく震えて息をのむ。
「あなたは変わらない」
うっそりと微笑む老人はもう、老人ではなかった。
髪の毛は黒々とし、伸びすぎて癖でうねっていた。その前髪の隙間から覗く顔は精悍で、かつ悪戯盛りの子供のようであったが凄惨な火傷の跡が途方もない悲劇の主人公であることを思わせる。少し屈むように上背を曲げた、労働者らしい体格の男性。
「変わらないね。カールさん」
憂と強い意志を宿した眼が青年を揶揄する。ここに、今一度だけ戻った、青年が知る最も美しかったころの──ノートン・キャンベルであった。
「僕にとっては瞬きの、ほんの少し目を瞑った一瞬の空白だったのです」
震えるような手が、キャンベルに伸ばされる。手袋の下にある胼胝と豆に塗れた指、その先にある分厚い爪の歪な形まで、青年の──イソップ・カールの知るままであった。
「ああ。けれど僕には星が生まれて死に落ちるほどの歳月だったよ」
懺悔するのはいつもノートン・キャンベルである、と言うのが以前の関係だったはずだ。彼は人よりも罪を進んで背負うほうであり、そしてその重みを人並みに感じる人間だった。
後悔に押し潰されそうなイソップ・カールの姿は新鮮なものだった。彼はいつも澄ました顔で、死体に手向ける花を考えているような人間だったのだ。
だからこそ、過去の情動の濁流のなかで生きていたキャンベルはずっと待っていたのだ。濁流だった川が枯れ、荒れた川底になっても待てるほど。
「僕にとっては、もうあなたはとっくに神様だったんだ。だから死神になんてならなくていい」
枯れた川で、キャンベルは思った。あれは確かに、神様みたいだったと。残酷で美しく、ありえないほどに不条理な。けれど、川の亡骸にも湿り気ぐらいは残っているものだ。だから彼は一矢報いようとおもった。
それは、愛が成せる諸行だったのだろう。火傷で爛れた逞しい腕がカールの手に伸ばされる。カールの手は氷水のように冷えていた。
「でも、僕は貴方にいっとう、死の恐ろしさを平等さと優しさを教える。貴方の死神でありたいと思ったんだ……」
項垂れ、カールはキャンベルの腕に縋り付くように膝をついた。キャンベルは綺麗に整えられた髪真白な頸が覗く襟元を眺めて、それからポツポツと床に落ちた雨粒を見て、勝ち誇ったように笑った。
「ふふ。だめじゃあないか。ねえ、カールさん、死神は涙をこぼさないものだよ」