サンプル──カン。
カラコロカラコロカラコロコロコロ……。
嘔気が酷い。
冷えたタイルだけが、冷静さを保てと最悪な気分の中で訴えかけてくる。
ノートン。ノートン・キャンベル。おまえはそんなに愚かであったか?
深酒したわけでも無いのにずっと腹の中のものが逆流するような感覚に囚われて、便器の中に延々と嘔吐していた。粘ついた黄色い液体だけが喉を伝い、その焼ける感覚にうんざりしてしまう程だった。泡立った便器の中を眺めても一向に良くならない。
朝食を取ろうとしても、小麦の焼けた匂いが気持ち悪くて食堂に近づくどころでは無い。食物の入り混じった匂い、人の話し声。それら全てが煩わしくてすぐに踵を返した。
手負の獣の気分だ。生き物の放つ臭い、それから物音。これら全てに過剰に反応して、それを放つものに敵意を感じている。
しかし、それが自分がまるで知性のない獣のようで惨めである。手足を仕立てたばかりの革で覆い、訛りのある言葉も矯正しなくてはいけない。そうでなければ獣と同じ身分なのだから。人の気配を避けながら、鬱屈とした思考を振り払うように咳をした。まだ、胸の内に不快さが沢山、小石のように詰まっている。
水を汲みにいこうと、井戸に行くことにした。
ここには水道管も通っていたが、井戸もある。庭木のために用意されていたのだろうが、かなり状態は良かった。最も、わざわざ館外に汲みにくる奇特な招待客は殆ど居ない。まれに進んで植木の手入れをする庭師などがいることはあったが。
澄んだ水だけは気持ちよく、飢えを癒すためにガブガブと飲んで──やがて吐いた。草の中に水がぶち撒けられ、嫌な気分になった。
草が、囁いている気がする。ひとごろし、ひとごろし……。
水の入った桶を掲げて、一気に逆さにする。当然の結果として流水を頭から受け、肩口、そして足元まで濡らすことになる。よく冷えた井戸水に身が引き締まるも、すぐに鬱陶しい熱感が皮膚まで這い上がってくる。
「おはようございます」
静かな声だった。
水瓶を持った青年が、そこに立っている。朝早くに喪服姿を見ることにも、随分と慣れたことだ。
彼もまた、この井戸を利用する奇特な招待客の一人だ。イソップ・カール。自分と同じで、他人を避けて訪れている。歳は二十一で、納棺師という専門職をしている。
生きた人間と話すぐらいなら死んだ人間と話をしたい、というのを聞いたときには、それでよくも懐いてきているものだと複雑な心境を抱いた。
それもこれも、とある件で親交を深めたためか──今朝から逆立っていた神経を、彼の姿は刺激しなかった。
「随分気分が悪そうですが」
「……たいしたことじゃないよ」
そう、たいしたことではないのだ。この程度のことで衰弱するほど贅沢な身分ではない。けれども、これまで経験したことのない類いの不快さだ。やけに熱の籠るのは、細菌だの微生物だのとかいう、そういう熱源が体内にあるような不調だ。この土地独自の風土病に何かの拍子に触れてしまったのだろうか。
何事かを考えているカールをよそにそんな推測を立てていると、不意に胸元からそれを差し出された。
綺麗に折り目のつけられた、純白のハンカチ。
「これを」
「いらない。もしあなたの気が変わって、弁償しろと言われても困る」
施しというものは、いつでも惨めだ。偽善に塗れた手は余程自分たちより穢らしいのに、それに縋るしかない弱さを確認させに来る。体調の悪さが、余計それへの憎悪を強めさせていた。
心の内では、自分の呼吸器の悪さを懸念して風邪ひとつで死にかけることを案じているのは理解しているが、幼少からの恩讐とは理解一つで失せるものではないのだ。
しかし。彼は躊躇いもなく、こちらのこめかみをハンカチで抑えた。そのまま耳の後ろに荒い糊のきいた布地の感触が滑り、輪郭をなぞった。
「えっ」
「そう、僕は生者が苦手。嫌悪を感じる……だからこれでもうこのハンカチーフは捨てざると得なくなった」
言うほどに嫌悪も好意も感じない声が、無理やり手の中にハンカチを押し付けてくる。
「そうしたら、勿体無いから。貴方なら貰ってくれるでしょう」
冷たい水のような透けた眼差しが、事実を淡々と述べていく。あまりにも真っ直ぐで、何も後めたいことはないはずが、目を逸らしてしまった。会話はどんどん彼の有利に傾いている。しぶしぶと、ハンカチを握った。幼少の頃に物乞いのチップを貰ったときよりも、惨めなのにどうしてか胸が温まるようで、歯がゆい。
そんな心地を知らぬように、イソップ・カールは頷いた。
「では、また……水浴びは身体に障らない程度に」
施しにしては傲慢な言葉が、皮肉にも琴線に触れる言葉を放つのが偽善ではないのだという証明になっていた。
どうにも──扱い人物ではあるが、約束を破ったり、偽りを口にする類ではないのだ。
それで、少し調子が狂わされた。
たいしたことでは、ない。
ハンカチから、洗剤と糊の香りがする。清潔な香りはいっそ無機質で生者の気配が微塵もない。
吐き気が和らぐようで、暫く頬に当てて過ごしていた。
──カン。
カラコロカラコロカラコロコロコロ……。
最初、それは死ぬ音だと思った。
ひとは最期に、生から解き放たれる安堵の息を吐く。何度も聞いたことがある。
風船から空気が抜けるゴムを振るわせる気体の音のような。
頭蓋を砕いたとき脳細胞がプディングのように崩れるような。
その中間地点に存在する、渇きと湿りの中間の音だ。それはほとんどの人々には聞こえていないと言うことを、ジェイは初夏の霊安室で教えてくれた。なのでその音を聞くと、いつもあの夏の始まりも思い出す。氷みたいな指先の冷たさと薔薇の蕾を潰した感触が、指の腹を掠めていくのだ。
だから、真夜中に手燭の火を点そうとして手元が狂い指先に高熱が過ったというのに、その痛みは死人の指に触れたときのあまりの冷たさ故にだと勘違いした。実際は、反射的に落としてしまった燐寸が蝋燭の近くで燃えかすとなり煙を燻らせていた。
じっと指先を眺める。蝋燭の橙色の光がうっすらと部屋を照らしている。一瞬のことだったので火傷もなかったが、死人は本当にここに触れていったのだ。薔薇のひしゃげた青い汁の匂いが、火薬の香のなかに居る。
手燭を持って、部屋の外に出た。冷たい水が欲しいというのが理由だったが、既にあの音を確かめたいという気持ちが勝っていた。
夜も終わりに近い時間となれば、床板を軋ませる音もしない。この時間帯が一番静かで、一日の中で最も冷たい空気があるので、好ましい。できることならこの時間帯だけで呼吸していたいほどだ。普段は人間の織りなす陰謀と思惑で重く湿ったこの館が、冷たく渇いた霊安室のように感じる。居室の一つ一つは安置棚のように構えていて、役目を果たすためにいつか開けるのだと思うと鬱陶しい関係性にも将来性が見える。
そうしていつか出来る死体について考えながら、先に聞こえた音を直感だけを頼りに進んでいく。急に、空気が変わる。胸の中にむせ返るような酒精の香り。
あの音を聞き間違えるはずもないのに。辿り着いた先は談話室であった。誰かが酒を開けて飲んでいるようだ。
しかし、ここで引き換えしては自分の直感を否定するようで納得がいかなかったのだ。
どうか、急性アルコール中毒で死体になった人間がいるように祈ってドアを開けた。ソファに寛いでいた人物が顔を上げるという動作に、今日ほど失望したことはないだろう。
しかし、まだその人物なら良いと思える人だった。黒く癖のある髪に、印象的な火傷の跡。ノートン・キャンベルだ。こびり着いた死臭は悪くない。けれど、今日はそれが掻き消えるほどの酒の匂いが漂っていた。ワインとウイスキーの空き瓶が幾つか。
「ああ……。こんにちは、カールさん」
赤ら顔の男が微笑んだ。血行が良くなると痣がまた一段と燃える肉の色になり、まさに今彼の肉体は焼け始めているかのようだ。
「『こんにちは』? 今の時刻で言えば、『こんばんは』あるいは『おはようございます』のほうが正確であるのでは?」
「アハハ、そうだね。うん、いい指摘だ」
表情筋が動く度に、燃焼が侵食するように火傷痕が蠢く。それを眺めながら、彼の言葉の違和感を指摘すると、さぞ可笑しい冗談を聞いたかのように笑った。かなり酒精に飲まれているようだ。静止することも視野に入れているうちに、彼はまたグラスに酒を注いでいた。耳が赤く、耳殻を覆う毛細血管が目視できるほど。
口をつけると、その味を確かめる風でもなく煽る。急性酒精中毒で死ぬ気なのだろうかと思いながら眺めていると、歯を見せて笑う。その笑みの歪さに、死んだら左上顎のここに脱脂綿を詰めて安らかさを演出させようという算段を脳に浮かんだ。
「酒を飲むとね、ここが馬鹿になるだろう。たとえ恐ろしい怪物がいても、怖くないのさ」
彼は自分のこめかみを指差して、トントンと叩く。そして仰々しく『怪物』という言葉を口にした。
少し痩せているが体格も良く、荒事をこなしてきたという風貌なのに『怪物』が恐ろしいというのは少し不思議だ。
暗闇のことか、と聞くと、それは化け物じゃなくて環境のことだと言われた。
「ふふ、じゃあなぞなぞだ」
愉快そうにキャンベルは続けた。どうやら会話を望んでいるらしい、渋々、彼と対面するソファに腰掛けた。
「その怪物は、僕にも君にもずっとついてくる。後ろを振り向いてもいないけど、ついてくる。そいつはだんだん大きくなって、じわじわと恐ろしさを増してくる。逃げても逃げても、大きくなっていく。そして、あるとき僕らを食い尽くす。僕らが死ぬときにはそいつだけ残ってる、っていう恐ろしい怪物だ」
蝋燭の光が揺れ、彼の鼻梁の影が揺らぐ。その影のように付かず離れず怪物はついてきている。
例えば、自分の中に秘められて制御できないもの。群衆に紛れて存在の有無から疑うべきもの。そういうものが漠然と浮かぶが、しかし絞りきれない。
「容姿について言及されないと難しい。人狼、とか?」
「人間に紛れる狼か……そいつも怖いね。見た目は、人それぞれだよ」
相応しいのは
では、魔女。と回答したが、違うよ。と笑われる。
彼は多数の答えを上げることを望んでいる。その奥底にあるのは、この答えは絶対解らないだろうという自信だ。きっと意地の悪い問題を出しているのだろう、と理解すると途端に疲労を感じた。
「……わからない。何? それは」
「はは、難しかった? 『過去』だよ」
にんまりと笑う顔は、得意げである。
過去。なるほど確かに己の後ろに存在し、次第に経過した時間は必ず肥大する。そして、死を迎えた時、現世に残るのは過去の塊──つまるところ、死体だ。
けれど納得はできなかった。
「怪物という前提からおかしい。問題文から逸脱したものはなぞなぞでは無いです」
過去は怪物ではなく、生物が連続した時間の中で存在していることの証明であり、因果だ。水や空気のようなもので、決して訳のわからぬ怪物ではない。
「悪かったよ。でも……僕は怖いんだ、本当さ」
彼は俯いた。はらはらと乱れた前髪が後を追ってゆっくりと垂れる。子どものような仕草。
突然眩暈がした。
彼自体が悪酔いする酒で、それを飲み干してしまった感覚。網膜に焼き付いてしまった。彼の乱れた黒髪が心臓に絡みついて、その赤い頬の熱感が見ているだけで体温を上げる。
一瞬だったか、何百秒も過ぎたかもしれない。沈黙が続いたあとに、彼は息を吐いた。萎んだ真っ黒な肺を思って、それからアルコールで腫れた気管支を推察する。そんな体で、彼は顔を上げた。爛れた痕が残る手が差し出される。薄闇のなかで、その細かな隆起、不摂生ゆえの爪の筋までよくわかった。
「ねえ、手を握ってくれない? 今、あなたが触れることで、僕とあなたが過去じゃなくて今を生きているということを考えさせてくれ」
地獄からの誘いのようだった。その手を取ったら、引き摺り込まれて灼熱の炎で共に焼かれるのではないかと危惧するほど、甘く、そして恐ろしい願いだった。
「い、いや……」
「どうして? この手が醜いから? 気持ち悪い?」
「そういう訳じゃ、ないけど」
「じゃあ、いいだろう。お願いだよ。僕は怖いんだ」
頭が酸欠のように眩暈を起こす。生きている人に触って、汗が混じって、皮膚片が混ざり合う……。なんと恐ろしいことなのだろう。けれど、その嫌悪が全て魅力的な誘惑に変化していた。目の前の男は。全てを転換させるほどの魔力があった。恐ろしい怪物。生が死に、死が生に変わっていく。
先ほど聞いた死ぬ音は、この音が獲物を誘う音だったのではないか。
「手袋を外してよ」
指先には先ほど感じた死人の指の温度と、柔らかな蕾を潰した感触が残っていた。彼に触れたらこれらは全て、消えていくことになっている。覆らない。ミルクを杯から零そうという、今。
もたついた動作で手袋を外す。関節が強張って、外し難い。くつくつと笑う声が鼓膜を震わせて、自分の脈音が早くなる。舌が痺れる。ミドルスクールで此方を見て笑っていたクラスメイトを思い出す。けれど、あれはこんなに甘美でなかった。震えるほどの未知への恐怖を伴った甘さは、初めてだった。彼と、これからも知っていくのだろう。これと似た味を。
僕は、それまで人が誕生する時の音を聞いたことがなかった。
だからその時──ようやく気づくことができた。
人は、生まれるときと死ぬとき、同じ音を立てる。