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    fkm_105

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    fkm_105

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    探偵をしている先生と画家のタルの話
    ※1920年代仏が舞台(一部捏造、矛盾あり)
    ※実際の国名が登場します(タ→露出身など)
    ※画家タと作家鍾の推理モノ
    ※シャーロック原典、BBCドラマ版のオマージュ、参考あり
    ※1フラン=200円

    レザネフォル   プロローグ


     受胎告知という題材がある。
     まさにオーソドックスで、かのレオナルド・ダ・ヴィンチですら描いた主題だ。例えば、この主題で描いた絵があったとしよう。その絵をタルタリヤの通う美術大学の全ての教授に見せたとして、彼らが見た途端に嫌な顔をする確率は、雑踏の中で雷に撃たれるよりも低いに違いない。つまり無難というのは便利である。だから、ああやって受胎告知が卒業展の最優秀賞を飾るのだ。
     


     ギャラリーの壁面に掛けられた絵画を眺めながら、タルタリヤは欠伸を噛み殺した。かれこれ三時間タルタリヤはスツールに腰掛けて、ああやって大天使ガブリエルと処女マリアの絵を眺めては、いい絵ですね、などと褒める身なりの良い男女を眺めている。タルタリヤはため息をついて、徐ろに窓外に視線をやった。窓外では昨晩から降り続いた雨が上がり、濡れた路面が雲間からこぼれた光を反射していた。今しがた通り過ぎた婦人のブローチは先月イリヤが発表した新作で、その向こうを歩く紳士の懐中時計は退役軍人に贈られる褒賞品だろう。受付デスクの中に隠したスケッチブックを取り出したタルタリヤは、左手に持った鉛筆を走らせる。路肩のタクシーや雨上がりの路面を写し、道行く人々を写せば、それは大仕事だった。ロマンスグレーの男性が歩く。それはつまり、そのツヤツヤとした飴色の革靴がその一歩ごとに輝きを変え、その男性の服の皺もまた変化した。退屈している暇がない。しかし、不意に窓外を横切った几帳面そうな男が、この時間を終わらせたのだ。木製扉が軋んだ音を立てて開き、かの男の長髪が揺れる。タルタリヤは咄嗟にスケッチブックをデスクの下に隠した。
    「描かないのか」
     全て同じ生地で作られたスリーピースはぴったりと男の身体に沿い、くすんだ床板を踏む革靴はなめらかな飴色だった。
    「……学長には言わないでくださいよ」
    「なるほど」
     男は一人納得した様子でタルタリヤを一瞥する。驚くほど嫌な気が起こらなかった。嫌味は影も見えず、全てが男の好意から出た言葉に感じられ、それが却って不気味である。男はややあってから再び口を開いた。
    「左利きで長男ではなく上に兄がいる。出身は恐らく国外でロシアとイギリス、どっちだ? ここへは大学進学のために来たが実家に戻る気はなく、国へ帰る気もない。過集中の気がある。それから、右に顔を傾けて描くのはやめた方がいい。左手が邪魔になってそうするのだろうが、これは右目だけ視力を落とす原因になる」
    「あんたよく変人って言われるだろ」
    「よく言われる呼び方だ」
     男は唇の端をごく僅かに持ち上げる。
    「左利きなのは窓越しに見ていたとして、出身と兄がいることに関しては?」
    「服だ。オーダーメイドでないことは身体の線に沿っていないことから明白、古着であることは間違いない。つまり、お下がりである可能性が生まれる。だがそれだけだと弱い。そうだろう? だが、兄がいなければわざわざ国外の美術大学に息子を通わせはしないだろう。両親が画家、もしくはよっぽど自由主義でもない限り。出身に関しては簡単だ。僅かに訛がある。とはいえ、イギリスには移民が多い、確率は二分されるだろう」
    「ふふ、あってる。兄と姉、それから弟ふたりと妹がいる。出身はロシアだよ」
    「ふ、加えておくが、利き手はたとえ見ていなくても分かったと思うぞ」
    「それはなぜ? 先生」
     男はトパーズのような瞳をこちらに向けると、タルタリヤのすぐ側へと寄って来た。客と受付の体裁を保っていたデスク越しの会話は破綻を迎え、男の冷えた手のひらがタルタリヤの左手を取る。タルタリヤの中指を、男の指先がなぞった。
    「……ペンだこができてる」
     明朗な発音で告げられた言葉に、ああその通りだな、と思わず肩を竦めた。言われないと気付かないなんて、まさに灯台下暗し、笑ってしまう。
    「……先生、鍾離先生」
     控えめな壮年の男性の声がギャラリーにこだました。ギャラリーの奥から、学長がこの男を呼んだらしかった。男は、いや、鍾離は口元の笑みを深くして「久しいな」と言葉を発する。
    「そういえば、なぜと?」
    「そんなご立派な推理をするんだ、先生、と呼ばれるような人間だと思っただけだよ」
     学長がギャラリーの奥からこちらに来るまで、鍾離とタルタリヤは言葉を交わし、それはまるで恋人同士の囁きだった。おまけに鍾離の手は、未だタルタリヤの左手を掴んだままだ。だが、それも不意に離され、アッと思った頃には、鍾離の手の中に件のスケッチブックがあった。
    「契約の件を忘れていた」
    「随分と大層な言い方をする」
     ふ、と鍾離が微かに笑う。「契約は守る。そういう主義だからな。対価は、いつかこの中を見せてくれ」




     鍾離という作家がこの世には居る。ずっと北にある十八区の、萎びた古本屋に行っても、この五区にある学術書の勢ぞろいする立派な本屋に行っても、同じ鍾離という名を簡単に本棚の中から見つけることができるだろう。鍾離は偉大な作家の名だった。それから、数多の難事件を解決に導く、かの探偵の名でもある。

       1

    「勘違いだよ、ヘンリ」
     タルタリヤは大学のカフェテリアの、さして美味くもないブラックコーヒーを啜りながらそう言った。
    「そう言って七回目だ」
    「間違いなくミハイルはいい同居人だったし、家業を継ぐために故郷に戻っただけさ」
     言いながら、タルタリヤがサンドイッチにかぶりつけば、ハムの塩味とザクザクとした葉物の瑞々しさ、それから香ばしいパンの風味が口いっぱいに広がった。やれやれ、と向かいに座るヘンリは肩を竦めて紅茶を啜る。同居人、既に前同居人だが、そのミハイルを紹介したのはヘンリだった。妙に律儀なところのある男である。タルタリヤよりも三つ年上の大学院生であるから、お兄さん気質と言い換えても良い。
    「煙草の不始末、競馬で蒸発、痴情のもつれ。お前の同居人でまともな同居解消理由に行きあたった試しがない。本当に故郷に帰ったのか?」
    「ああ。故郷の父親が危ないって話ですっ飛んでいったよ。画家はスッパリ諦めるって言って」
     本当かよ、とヘンリは顔を顰めた。タルタリヤもそれに呼応するように、唇の端を持ち上げる。
    「お前悪魔か何かに好かれてんじゃねえの」
    「どうだろうね」
    「そういや、あの、なんだ。一番長く持った男」
    「……カミーユ?」
    「ルイスだか、エミールだか忘れたが、あいつがサロンに落選した挙げ句、ルーヴルにトマト缶をぶち撒けやがった話でこっちは持ちきりだ」
     ははっ、とタルタリヤは娯楽小説の一節を面白がるような調子で笑う。三番目だか、二番目だか、とにかく殆ど顔も思い出せないようなかつての同居人の暴挙など、タルタリヤにとってはただの愉快な語り草である。
    「蒸発したのもそいつだったか。よくうちからドロップアウトして画家やってるよな」
    「そうだった?」
    「あいつに五十フラン貸して返ってきてないんだよ。お前と折半する家賃が五十足りないって泣きつかれたから、お前の信用に免じて貸した金だ」
    「でも……もう三年近く経ってる」
    「五年だ」
    「うん?」
    「三年じゃない。あいつがお前の家から消えてもう五年だ」
      お前って本当に覚えてないよな。レモンパイをフォークで崩しながら、ヘンリが言った。「どんなやつだっけ」と零したタルタリヤの言葉は、今ここにいないカミーユだかエミールだかにとって、あまりにも酷な響きをしている。しかしタルタリヤは、ややあってから「まあいいか」とひとりごちた。なにせ目の前にあるサンドイッチで腹を満たすのに忙しいからだ。二口目をかぶりつけば、素朴な味わいの中でソースに仕込まれたレモンピールの爽やかなアクセントが舌に広がった。
    「同居人といえば、鍾離先生が探してるらしいぞ」
     舌先にレモンの仄かな苦味が広がる。へえ、とようやくサンドイッチを飲み込んだ口で、タルタリヤが応えた。背もたれに寄りかかった。すると、タルタリヤという質量を受け止めていた椅子が微かな声を上げる。
     鍾離という奴は、大粒のダイヤモンドみたいな奴だ。とタルタリヤはよく言った。灯台の光みたいな奴だ、とも。とにかく、磨かれに磨かれた才能は、かつて鍾離にぶつかった数多の小説家志望の青年たちの賜物であるし、権威という後光を背負って平然と笑っているような男でもある。凄い人なんだよ! と街頭に立った誰かが熱弁するまでもなく、とうの昔から凄い奴だ。
    「同居人希望の人間が後を立たなくてさ。面接希望のリストがもうこんなだ」
     面接希望リストと大層な名前を付けられた紙の束をヘンリは掲げた。十何枚かの紙の束は、ところどころにインクのシミを作った個人情報の集合体だった。酔狂な人間が、世にはこんなにもいるのだ、という何よりの証明になるだろう。その最後尾に、タルタリヤが並ぶ日はあとにも先にもないとしても。
    「まあ、鍾離先生とは無理として、お前に合いそうな良い奴見つけたらまた紹介するよ」
     タルタリヤはコーヒーを啜りながら、まだ見ぬ新たな同居人に思いを馳せた。年は幾つでも良い。できれば同業者で、今度は三男か四男か、とにかく残りの人生を道楽で食い潰すことを許された人間であれば尚の事良い。苦い香りが鼻を擽る。一週間もあれば、良き同居人が見つかるはずだ。往々にして、画家とは金に困る生き物であるから。




     ぱちぱち、とタルタリヤは幾度かまばたきを繰り返した。薄いカーテンの向こうは未だ仄暗く、宵の雰囲気を多分に残していた。使い古された綿布団に包まりながら、タルタリヤは思案する。それは、二度寝するか、しないか、という究極の二択についてである。睡魔に身を委ねてしまおう。タルタリヤは結局そう決め込んで、綿布団へと潜り込んだ。だが心地良い温かさと、さして柔らかくもないベッドが、タルタリヤを眠りへと誘いはしなかった。想定以上に目が冴えていた。睡魔はとうに彼方へ去っていて、タルタリヤは仕方なくベッドから下りる。粗末なナイトテーブルに置かれた懐中時計を開けば、時刻は午前四時を回ったところだった。ちぇ、と思わず舌打ちしたくなった。眠りについて五時間程しか経っていない。睡魔に見放されたのだ。悪魔か何かに好かれているかもね、とヘンリの冗談めかした昨日の言葉を信じそうになる。
     タルタリヤは、ワイシャツに袖を通した。キャスケット帽と草臥れたジャケットを羽織って、内ポケットに懐中時計を忍ばせる。故郷を遠く離れたこの場所で、宝物らしい宝物は父の懐中時計くらいしかなかった。それから、相棒とも呼べるスケッチブックと鉛筆を引っ掴んで、タルタリヤはオンボロアパートから飛び出した。夜明け前の十八区はどこも薄暗かった。月はまだ、空に浮かんだまま街の屋根を照らしていたが、それでもタルタリヤが路地裏を睨みつけて、それでようやく路上生活者たちの青白い足が夜風に晒されているとわかるような有様である。そこらに並ぶ廉価住宅はまるで全てが死に絶えたように静かであったし、路地裏は饐えた臭いがするばかりで、他は何もない。
     タルタリヤは言わば気ままな猫だった。適当な路地を曲がり、路上に寝転ぶ男たちの足を踏まないよう細心の注意を払って飛び越えると、路肩に停められたタクシーが目に入る。その鏡面のような黒い車体が、ピカピカと朝日を反射していた。ツンと鼻先を刺激する冷えた夜風がタルタリヤの髪を弄び、裏路地から通りへ歩き出たタルタリヤの頬を柔らかな陽光が照らす。
     朝が来た。
     タルタリヤはスケッチブックを開き、画用紙に鉛筆の先を走らせる。朝日を反射するアーティファクトの曲線を滑らかに描き、丸いホイールをじっと見つめた。存外このタクシーは荒い道を走ってきたらしい。舗装されていない田舎道を思い起こさせる泥の跳ね跡が、鉛色のホイールに残されていた。
     にゃあ、と鳴くのが先か、その薄汚れたグレーの身体を路上に現したのが先か、タルタリヤが顔をあげると路上をぽてぽて歩く猫の姿があった。顔立ちはペルシャ猫によく似ていたが、野良猫同士の交尾はよくあることだったので、タルタリヤにはそれがペルシャ猫であるのか、他の血が混じった雑種なのか判別はつかなかった。仮称ペルシャ猫は、タルタリヤをじっと見つめると長い毛に覆われた尻尾を揺らし、よれたスラックスへとすり寄る。こうやって餌をもらうのだな、と想像に難くなかった。そろり、とタルタリヤは薄汚れた猫に触れ、ごわごわとした毛が指先に絡まる。とはいえやはり、存外良いものを食べているらしい。ふっくらとは言えないが、平均的な猫の肉つきをしているような気がした。しゃがみ込んだタルタリヤの左頬ばかりを、朝日はとろとろと焼く。朝と夜の狭間は終わり、これから人々が起きてくる。そうしたらこの猫も、この街に住む多くの野良猫のように餌をもらうためのルーチンワークをこなすのだろう。
    「俺は食べ物持ってないからさ」
     タルタリヤは仮称ペルシャ猫の頭を撫で、スケッチブックを閉じて立ち上がった。もう二時間もすれば、タルタリヤにとっても仕事の時間である。はふ、と欠伸を一つして、タルタリヤもまた帰路につこうとした。ところが、静まり返った路地に、ガシャンとガラス製ランプの壊れる音が響き、仮称ペルシャ猫が毛を逆立てる。薄皮一枚隔てただけの平穏が、不穏に侵されるのはいつだって一瞬のことだ。続けて男の悲鳴があがって、タルタリヤもまた顔を強張らせた。不安と警戒が綯い交ぜになって、ピリリと緊張が走る硬い表情をして、タルタリヤは声のした方へと歩いた。後日このあたりで死んだ男の噂を聞いて、妙な不安に駆られることは避けたかったのだ。
     十八区は、いわば掃き溜めだった。そこかしこに路上生活者が転がり、子どもも大人も草臥れた服を着て、具のないスープでさえ惜しむように食べる家庭がある。とはいえ、街の通りだけはこの国によく見られる放射状に広がり、家々の並びは美しく整えられていた。タルタリヤはその通りを、黄ばんだ家々の壁や端の欠けた階段へ時折視線をやりながら歩く。男の死体が転がっているかも知れない。突如垂れ込めた不安は、タルタリヤに何通りもの最悪を想像させた。
     重いものが落ちた音がして、タルタリヤはふい、と細い通りへ目をやった。廃墟だろうアパートの階段から転がり落ちた形で男が倒れている。ゾッとして、タルタリヤは男へ近付いた。死んでいたら警察を呼ぼう、そういう冷静さはあったし、タルタリヤはいつだって善良な一般市民だった。
     男が目を開く。生きている。
    「殺人犯だ!」
     タルタリヤは緊張から詰めていた息を吐くタイミングを失って、浅い呼吸を繰り返した。殺人を犯した覚えなどないが、案外人間は容易に気が動転するらしい。殺人という単語を理解するのにたっぷり十秒。はあ? と殆どため息のような掠れた声で、タルタリヤは男に問い返した。



    「F&C社の」
     あどけなさを残す顔立ちの男が、タルタリヤの社員証を眺めて唸った。F&Cというのは、国内の電話通信サービスを担う電話会社で、タルタリヤはこのときほど無職でなかったことを神に感謝した日はなかっただろう。空と名乗った目の前の警部補も、このまま疑うべきか、と首を捻っているようだった。すっかり昇った太陽はタルタリヤの頬に熱を残し、空のカナリア色の髪を鮮やかに照らす。すがすがしい朝の風景の中で、青いサイレンを辺りに反射させるパトカーと行き交うスーツや制服姿の警察官たちが、タルタリヤを非日常と困惑の世界に誘っていた。
     気が動転した第一発見者による盛大な事故は、タルタリヤにありもしない疑いを残した。火のないところに煙は立たないというが、火のないところに軽くボヤは起こっている。
    「最近の電話交換手は絵を描くのか」
     パラパラとスケッチブックを開いた別の刑事が、皮肉の色を滲ませてそう言った。「ちょっと、魈」と社員証をタルタリヤに返しながら、空が件の刑事を窘める。へえ、とタルタリヤは目を細めた。どうやらこの二人、上司と部下かそれに準じる力関係があるかもしれない、と。
    「……今のは行き過ぎた皮肉だった。撤回する」
    「でも俺も気になるね。スケッチブックと鉛筆一本で何をしてたのか」
     とはいえなるほど、存外いいコンビらしい。タルタリヤは妙に噛み合った二人の息に、苦笑を漏らした。
    「ただスケッチしてたって言ったら?」
     「それは……怪しいな」と魈が言った。ネイビーとグレー、それぞれのスーツが呆れたように腕を組む。
    「本来の職業は画家だよ。頭に売れない、が付くけれど」
     画家になって二年が過ぎた。七百三十日だ。二十一歳の男が二十三歳になるまでの時間をつぎ込んでも、到底有名になることは叶わない世界の、有名な画家を氷山の一角とするなら海へ沈んだ下の下のそれまた下にいるタルタリヤの現実である。ちらり、とタルタリヤは魈の持つスケッチブックを見た。角の折れた百十一冊目のスケッチブックは、描いたばかりの真新しいタクシーを光に晒して開かれていた。
    「よく描けている」
     それは何よりも印象深く刻み込まれた男の声だった。余裕綽々、慈しみととびっきり旺盛な好奇心を混ぜ合わせてできあがっただろう、かの男の声である。魈のすぐ後ろに現れた人物へ「鍾離先生」と空が言う。気が付けば、タルタリヤの頬を照らしていた朝日は鍾離の薄くも、柔らかくもない肉体によって遮られていた。鍾離、しょうり、ショウリ。印象深い、と表現される記憶にも種類がある。だがこれは、彼は、その指先の動きも髪の毛の先一本一本すらも忘れがたいと思うから覚えているのだ。例えば、タルタリヤの頭の中が全て磁気テープとして整理されているのだとして、鍾離という男の記録はきっと一番手に取りやすい場所へ保管してある。つまり鍾離、とわざわざラベルを付けて五段の棚の、上から二番目に置いてあって、それをタルタリヤは時折手にとっては美しい思い出に浸る。
    「久しいな、公子殿」
     知らず噛み締めた奥歯がギシリと嫌な音を立てる。そうしなければ、ちぇ、と意図せず舌打ちが飛び出しそうだった。憧れと言うにはダイヤモンドは高すぎるし、灯台の光は遠すぎる。タルタリヤの肩に乗せられた手のひらが心地よさと共に苛立ちを連れて来たことに、鍾離は全く気付かないフリをして刑事たちの方を見ていた。
    「そのあだ名、どこで聞いたの」
    「教授が快く教えてくれたぞ。油絵専攻の公子の噂を少しな」
     堪えきれず、ちぇ、と抑えつけていたはずの舌打ちをした。お喋りな老人が多すぎるのだ。しかし、気恥ずかしさとも苛立ちとも区別のつかない感情が込み上げても、タルタリヤはまだその御し方を知らなかった。
     肩に置かれた手のひらをはたき落とし、タルタリヤは鍾離をジッと見つめた。ダークブラウンに纏められたスリーピーススーツは、どこもかしこも鍾離のために仕立てられている。タルタリヤのスリーピース、十フランで買った量産品の、それまたお古とは話が違う。
    「公子殿は無関係なのだから、ここにいる意味はない。帰ると良い。が、お茶でもどうだ?」
    「どういう風の吹き回しかな。卒展で一度会っただけだろう?」
    「……ずっと誘いたいと思っていた」
    「俺の卒展には来なかったのに、都合のいい話ばかりする口じゃないか」
     魈はもう、腸が煮えくり返りそうだった。鍾離が、あの鍾離が「ずっと誘いたいと思っていた」などと浮ついた口説き文句を、素敵な令嬢でもなんでもない、草臥れたスーツとキャスケット帽を身に着けて、おまけに重要参考人の男に言っているのだ。魈が口を開きかけた時「魈、見て見て」と空が肩を叩いた。なんだ、とカナリア色の髪を見る。ボルドーのネクタイを裏返しながら、空はいたずらっぽく笑っていた。ボルドーのピンドット柄、いつもの電波塔柄だとか鯨柄だとか、果ては目玉焼き柄だとか、そんなものに比べたらクラシックな柄だな、と感心していたのだ。つい十分前までは。裏返されたネクタイを見て、魈はタルタリヤへの苛立ちとは別の種類の苛立ちと困惑と頭痛を感じた。マンチカンがいる。猫だ。ブランドロゴでも空自身の名前でもなく、ネクタイの裏にはマンチカンが刺繍されている。古典柄のシックさの裏にとんでもない悪戯を仕込んだものだ。
    「……素敵だ。スズランのネクタイピンとボルドーのネクタイがよく似合っている」
    「そうでしょ?」
     空は魈へ自慢げな笑顔を向けると、ややあってから鋭い視線を鍾離へ送った。魈は「メーデーはもう一週間前に終わった」という言葉を飲み込んで。
    「で、鍾離先生。あなたに気に入りの人間がいるのは喜ばしいけど、万が一があるからね。そう簡単に彼を帰せないよ」
    「しかし犯人だとは考えていないだろう?」
    「……そうだね」
     タルタリヤは壁に寄り掛かりながら彼らを眺めた。開放されたままのエントランス扉から生温い風が入り込み、埃の粒子が巻き上がる。時刻は八時に差し掛かろうとする頃だろうか、タルタリヤは内ポケットへ仕舞い込んだ懐中時計を取り出した。
    「不安なら俺が預かっておくが」
    「は?」
     午前八時一分。タルタリヤの懐中時計が刻む時刻から目を離し、タルタリヤは鍾離の顔を見た。一分前までの職業、電話交換手。現在の職業、無職のタルタリヤは困惑する。
    「今しがた公子殿は無断欠勤をした。電話会社の始業時刻は八時、だがお前たちの足止めによって公子殿は会社に行けない。つまり遅刻だ。電話交換手が遅刻すれば、割り振られた地区を担当する人間が一人いない事になる。会社は公子殿を既にクビにしたかもしれない」
     鍾離は手袋を嵌め直す。ぎゅ、と布の擦れる音と共に、タルタリヤのため息が溢れた。
    「社員証が無効になれば、公子殿の身分を保証する人間が必要になるだろう」
    「鍾離様が保証人になる必要を感じません」
     魈が冷ややかな目線をタルタリヤに送った。確かにね、と魈にウインクを贈って、都合がいい話じゃない? と苦笑した。チ、と舌打ちの音が響く。
    「でも悪くない」
     空は階段の手すりに手をかけながら、そう言った。更に「万が一、犯人だったら鍾離先生に拘束してもらえば良いだけでしょ?」と。
    「……そうだな」
     はは、と鍾離がたおやかに笑う。そんなことしたら冤罪だけどね、とタルタリヤは再びため息をついた。
    「で、現場を見に来たんじゃなかった?」
     咎めるような声色で、空は鍾離に言った。空はもう階段を数段上っていて、早くしろ、と全身から主張している。
    「ああ、案内してくれ」
     せっつかれて、鍾離が階段の床板に足を掛けた。しかし、タルタリヤは引き留めようとそのダークブラウンの裾を引く。おい、と魈が低い声を出したのを、なぜか空が静止した。
    「……アヤックス。公子はあだ名でタルタリヤはペンネーム。保証人になるなら名前くらい知っててよ、先生」
     トパーズの瞳が見開かれ、タルタリヤを映し出す。次いであやっくす、と鍾離の唇が動いたのを見て、タルタリヤはにんまりと笑みを浮かべた。
    「警部補」
    「なに?」
    も連れて行っていいだろうか」
    「……どうぞ?」
     タルタリヤの背後で魈が顔を顰める。タルタリヤもまた、顔を引き攣らせて鍾離を見た。
    「事件現場に?」



     白く汚れたアパートの階段を、まるで足場を確かめるように慎重になってタルタリヤは登った。こじんまりとしたアパートの廊下は、やはり埃にまみれている。疑われた挙げ句に事件現場に入ることになるとは、些かツイていない。タルタリヤは、乾いた笑いが口から溢れようとするのを飲み込みながら、空の立つ突き当たりの部屋の前で立ち止まった。
    「死亡推定時刻は?」
     黒い手袋をはめ直しながら鍾離が言う。「昨夜二十三時頃から未明三時頃だよ」と空が涼し気な顔をして答えた。部屋の手前からでも、だらりと弛緩した男の足が見えていた。
    「第一発見者はどうなった?」
     タルタリヤは口を開く。あのすっ転んだ男のことだ。随分と小心者のように見えた男は、今頃刑事たちに囲まれて、発言のいくつかは撤回されているかもしれない。例えばタルタリヤを犯人呼ばわりした事だとか。とはいえ、今なお疑われているのは些か奇妙な話でタルタリヤは期待半分といった調子で、薄ら笑みを浮かべた。
    「それなら病院だ」
     魈が素っ気なく言って、部屋の中へ入る。タルタリヤの目の前にいる眩いカナリア色が揺れる。空は気まずいような、申し訳ないような、曖昧な表情を浮かべた。
    「倒れたの?」
    「まあ……うん。現場の詳しい話をしてて倒れたけど、また後日詳しい話は聞くつもり」
     間の悪いやつだ。そう思って、タルタリヤは打って変わって苦い顔をした。一発小突いてやっても物足りない、そういう収まりの悪い怒りが腹の中に蟠っていた。
    「死因は特定できそうにないな」
     舞台役者のように明瞭な鍾離の声が耳の中へ流れ込み、それにつられるようにタルタリヤは視線を室内へと移した。ふい、と心構えも無しに動かした視界の中に、ソファーへ腰掛けた人の形がある。全身が弛緩し、窓から差し込む光によって男の顔は影になっていたが、確かにその頬は青白く生気はない。タルタリヤはなんだか奇怪な心持ちになった。ゆったりと椅子に腰掛け映画を観ているような、膜を一枚隔てた世界を覗いている。そんな感覚の中にタルタリヤはいた。
    「病死か殺人か、解剖して突き止められるか分かりません」
     魈の声は硬さを帯びていたが、鍾離はどこか呑気だった。遺体の側に跪いた鍾離が遺体のポケットや手のひらを眺め、魈は時折手帳にペンを走らせる。非日常のようでいて、彼らはまるで日常の延長線上にいた。
     全てが奇妙だ、とタルタリヤは思う。
     部屋には男が死んでいる非日常と落ち着き払った退屈な日常のコントラストが横たわり、安寧の雰囲気が満ちている。タルタリヤもまた、その雰囲気に飲まれたように、ごく平然と男の遺体を前にしていた。弛緩した足先は天井を向き、その革靴は泥に塗れている。
     鍾離は、しばらく男の左手を持ち上げて何かしらをジッと眺めてから、ようやく口を開いた。
    「被害者は既婚者だが、かなりの浮気性。この結婚指輪は、二十一年前にルミネクスの百周年記念モデルとして発売されたもので、当時の販売価格は五千フラン。安く無い代物だが、表面はかなり劣化していて大切にされていたとは考えにくい。表面が傷ついているのに対して、内側が綺麗なのは高い頻度で外しているからだろう。更に、長い間はめた指輪というのは体型変化によって抜けにくくなるものだが、彼の指輪は簡単に抜けた。独身のフリをして不倫を楽しんでいると言ったところか。身元は?」
    「身分証は何も。一応、周辺の店舗や警察内部で人相照会はしてるけど、成果はまだ」
    「……八区のアンティークショップ、ルクスか、もしくはオステルリッツ駅前のモートンホテルの預かり荷物を調べるといい。昨日、オルレアン方面からパリへやってきた彼は、モートンホテルに荷物……預かり札から見て、二泊程度の旅行鞄を預け、ルクスでオルゴールを購入した。その後は指輪を外し、適当なバーかどこかでシャネルの三番を愛用する女性と酒を飲んでいる」
    「オルレアン方面?」
    「靴を見ろ。酷く泥が跳ねているが、これは昨日の九時頃に降っていた雨のものだ。預かり札の発行時刻も九時二十一分だから間違いない。オステルリッツへ大体この時間帯に到着し、パリに二泊程度の荷物となると、急行を運行しているオルレアンだ」
     それから、と鍾離は言葉を切って立ち上がった。タルタリヤは訝しむような視線を鍾離に寄越し、振り返った鍾離がその視線を受けて、ふ、と口角を上げて笑う。
    「被害者の鞄に入っていたオルゴールだが、これは先日までルクスで売られていた、かのオルゴール職人、ハンス・ハルトマンによる千五百フランの品だ」
     バーントアンバーの髪がやわらかに揺れた。「物盗りではないな」とつぶやいた低く静かな声には、確信めいた響きがある。
    「四件目かもね」
    「……ああ」
     鍾離は空へそう応えると遺体の側から離れ、部屋の戸口へと足を向けた。苦々しく翳りのあるカドミウムイエローの瞳がこちらを見やる。
    「公子殿」
     すれ違い様、鍾離の声がタルタリヤを呼んだ。白濁した男の目がこちらを見ている。そんな気がした。
    「四件目って?」
     弛緩した死体が網膜に焼き付いていた。それを誤魔化すように、タルタリヤはいやに落ち着き払った態度で野次馬のような質問をする。「動揺しないんだな」と魈が疑いをもって言葉にした。
    「一件目は貿易会社社員。六区の改装中のアパートで発見された。二件目は家政婦。十三区の列車基地で発見された。三件目は学生。三区のごみ捨て場で発見された。いずれも金品が持ち去られた形跡はなく、その場所へ出向いた理由も、死因も不明だ」
    「……どれも人を殺す場所には向いている」
     鍾離は静かにそう言って、エントランスから通りへ出た。通りは野次馬が集っていて、まさに推理小説の一節のようである。鍾離は探偵であるから、何かを自慢げに思ったりなどするのだろうか、とタルタリヤは思ったが、鍾離はただ通りの隅を見つめるばかりだった。
     日の光は鍾離の髪を美しく照らし、タルタリヤの頬に差す。それから、魈の素っ気ないダークブルーのネクタイに、薄っすらとしたドット柄を浮かび上がらせた。
     鍾離と魈が二言三言言葉を交わすのを横目に、タルタリヤは鍾離が見つめていた通りの隅を見る。アスファルト舗装された道の隙間から、青々とした草が生え、それらが踏み倒された跡はまだ真新しい。
    「どうした? 公子殿」
    「いや、先生がこの辺りを見ていたのが気になっただけだよ」
    「……ああ」
     俺も少し気になっただけだ、と言いながら鍾離が人垣へ足を踏み入れた。その後ろを魈が続く。まるで麦をかき分けるようにするりと人だかりを抜けた二人に、タルタリヤは舌を巻いた。タルタリヤはといえば、よたよたと人垣を超え、キャスケット帽を被り直す。
    「さっきの草だけど、犯人が草を倒したんじゃない?」
    「そうだな、その可能性もある。……だが俺は草が倒れた理由を考えていただけで、それが犯人によるものかどうかは重要ではない」
     へえ、とタルタリヤは声を上げた。本当に意外だった。探偵や警察というものは、現場にあるあらゆるものから犯人の痕跡を探していると思っていたし、何よりかの鍾離がじっと見つめていたものが、落とし物の時計どころか例え路端の草だろうと何かしらの意味を持つと決めつけていたのだ。
    「それより公子殿はこれからどうするつもりだ?」
    「会社」
     しごく当然といった風でそう言いのけて、タルタリヤは一本の小道に入ろうとした。その腕を先程タルタリヤがそうしたように鍾離が引く。くん、とブレーキがかかって前にかかっていた筈の体重がいつの間にか後ろに向いた。意外と痛い。草臥れたスーツから覗くタルタリヤの生白い手首を、鍾離のこれまた生白く繊細な手のひらが掴んでいた。
    「送っていこう」
    「先生が?」
     タルタリヤは怪訝な顔をして振り返った。朝の白い光の中に、神もかくやといった具合で深いバーントアンバーの髪を揺らめかせた鍾離が立っていた。それは後光が差しているように妙に神々しいのだ。つくづく電柱のような鍾離は、はにかむような笑みを口元にのせながら「彼が」と言う。彼と指された男は、やはり魈だった。
     魈はキーシリンダーに鍵を差し込むと、まるで道端の小石を見るようになんてことはない、凪いだ瞳をこちらに寄越した。息が詰まる心地がする、タルタリヤはそう思いながらも鍾離が車に乗るのを追う。それから、タルタリヤがルノーのしっとりとしたシートに腰を下ろすと、車は中心街を目指して走り出した。
    「公子殿が電話交換手とは」
    「美大を出たからって誰もが売れる画家になるわけじゃない」
     手元のスケッチブックをぱらぱらと捲りながらタルタリヤが言う。鍾離の唇からゆるりと息が吐き出されるのを、左耳が拾う。
    「契約の件だが」
     タルタリヤは横目で鍾離を見た。頬を日の光が焼く。押し付けるようにスケッチブックを鍾離に渡し、タルタリヤはオピタル通りを直進する車内から車窓を見た。とうに通り越したはずの、ティーンエイジャーのような気恥ずかしさが辺りに漂う。
     ルノーのエンジン音に紛れて紙を捲る音がやけに耳に残る。絵というよりもテストの答案を見られているような感覚に近い。誤魔化しでセーヌ川を見た。川面に反射した光が辺りに散乱し、観光船が汽笛を上げて橋の下をくぐり抜ける。
    「開けて良い?」
     好きにしろと運転席から魈が言う。タルタリヤは苦笑して、窓を開けた。ぬるい風と川の青臭さが鼻を突く。けれど妙にそれが心地よい。
    「……この絵は?」
     特徴的な朽葉色の髪を揺らしていたタルタリヤを、鍾離が呼んだ。見れば、つるりとした曲線とピーチブラックの深い黒の車体があった。今朝の車だ、とタルタリヤは口を開く。「事件現場の近くか」と鍾離が言うのに、タルタリヤは頭を掻いた。すっかり忘れていた、と。
     魈の深々としたため息が運転席からこぼれ出た。鍾離はと言えば考え込むように顎へ手を当てる。苛立ちの滲む運転で、やがて車はF&C社にほど近い路肩へと停車した。
    「……何か思い出したら連絡しろ」
     サイドブレーキを掛けた魈が、安いインクの匂いのする紙切れを差し出す。役に立てると思わないけど、と軽口を叩いてタルタリヤはそれを受け取った。隣では足を組んだままの鍾離が、スケッチブックを差し出しながら口の端を持ち上げる。
    「二二一、ショワジー七五〇一三」
     何かあったら訪ねてくると良い。そう言って鍾離は生っ白い手のひらをひらひらと振った。気障ったらしい。「ああ、うん。到底覚えられそうにないけど、いつか」とタルタリヤが散々な挨拶を返してドアを閉めてやれば、じゃあねと手を振るより早くインテリぶった顔つきの、ツルリと黒いルノーの車体はゆっくりと発進し、あっという間に大通りへと滑り込んだ。
     ポケットから社員証を取り出す。明日からこの間抜け顔を拝むことも二度とない。そう思えば、先行きの不安に占められた心のうちの何割かはどこか清々しさを感じていた。

       2

     ポルト・ド・ショワジー駅へ降り立ったタルタリヤが、まず感じたのは熱気だった。物の安いチャイナタウンとあって、右へ左へと連なる人々の波は絶え間ない。タルタリヤはこれらの人混みに押されながらもショワジー通りへ足を踏み入れるべく、周囲を落ち着きなく見回した。
     二二一、ショワジー。チャイナタウンの中心街にほど近い通りの名は、存外あっさりと見つかった。足を踏み入れると、石造りの家々が立ち並ぶ広い通りにはアジア系の顔立ちをした人々が行き交い、屋台からは独特の脂の匂いが上がっていた。丸ごと焼かれた鶏、豚の足、ボーンチャイナによく熟れた果物。おおよそ屋台はこれらの品物に占められ、異国の言葉が時折飛び交う。タルタリヤは二二一の数字の羅列を求めて、辺りをきょろきょろと見回した。
    「先生探してんの?」
     ふと横を見ると、タルタリヤの胸ほどの高さに頭があった。赤く色付いた甘い桃の色が少年の腕の中には収まっていて、ガサ、とその紙袋は音を立てる。
    「ショーリ先生だよ、知らないの?」
     少年は口を尖らせてそう言う。「そんなに悩んでるように見えた?」とタルタリヤが苦笑いすれば「別に」とそっぽを向いた。見透かされた時の、意味の分からない心地の悪さが腹の底にある。けれど少年は、そんな事もお構いなしに言葉を続けた。
    「この辺りで見かけない顔はみんな迷子か先生に用事がある人だけ。あんたが悩んでるかどうかなんて、僕には分かんないよ」
     まろい手のひらが頬を掻く。見透かした訳では無いのか、と妙な安堵感が漂った。少年はタルタリヤを先導するように歩き出した。カサカサと紙袋の中で揺れる桃には蕩けるような夕日が差し、少年の小さな足は影を踏む。やがて少年の足が止まると、その指は二二一と書かれた郵便受けとそこにのびる細い小道を指した。小道の入口には錆びた門扉が申し訳程度に通りと土地とを分け、塀には蔦が絡まり、郵便受けの白いペンキはところどころが剥げている。
     タルタリヤが訝しむ隣で、少年は桃に歯を突き立てた。つぷり、と果肉に白い歯が沈み込み溢れ出した果汁が顎を伝う。甘い香りが鼻腔を擽り、淡い色をした果肉は夕日に照らされてその瑞々しさをいっそう主張する。少年はこくりと喉を鳴らしてから言った。
    「押さないの?」
     呼び鈴を顎で指し、少年は胡散な目をタルタリヤに向ける。本当にここなの、とタルタリヤもまた訝しむ視線を返すと、少年は果汁に濡れた手のひらを拭って呼び鈴を押した。ジリリ、と小道の先からベルの音が響き、木戸の開閉する重たげな音がした。
    「案外早かったな」
     小道から顔を覗かせた男の輪郭は、やはり見覚えのあるものだった。すっきりとした鼻筋にボーンチャイナのように肌理の細かな頬が、暮れの陽光に照らされている。どこまで予測してたわけ、とタルタリヤの唇からは硬い声が出た。少年へ焼き菓子を手渡しながら、鍾離は口の端を上げて見せる。
    「探偵としては全て、と言いたいところだが、生憎こうも不幸が重なるとは予想だにしなかったな」
     駆け出した少年の背中を横目に、タルタリヤは唇を歪ませた。「あんたの手のひらの上ってわけか」と恨み節を吐き散らし、コバルトブルーの瞳には翳りがある。
    「お茶会を開こう」
     背の低い門扉を開きながら、鍾離は拍子抜けするほどの平和的な表現を唇にのせて家の中へと入っていった。
     お茶会! タルタリヤはもう笑い出してしまえば良いか、それともここで鍾離を罵れば良いのか、皆目検討がつかなくなって、ため息をついた。ややあって、ひどく甲高い声を上げて開閉する門扉からタルタリヤは小道へと足を踏み入れる。小道へ植えられた背の高いミモザの葉が、風に揺られてさわさわと音を立てていた。
     初夏の匂いがする。いやに澄んだ空気のなかで、タルタリヤは泥のように重く息を吐く。戻る家も職も、つい数時間前に失くしたばかりだ。ある種の覚悟と一寸先の未来に縋るようにして、タルタリヤは石造りの屋内へ姿を消した。



     夜の気配をまだたっぷりと纏った朝に、タルタリヤは目を覚ました。夜明け間近の午前四時は仄暗く、柔らかなシーツが頬を撫でる。シルクのなめらかさも、寝具に吹きかけられた金木犀の甘やかな香りも、タルタリヤは初めてだった。贅沢な暮らしだ。この生活に慣れてしまったら不味いだろう、そんなことを思いながらタルタリヤは肌掛けを掻き抱く。ウトウトといつまでも眠ってしまいそうだった。オンボロアパートではこんなこと、なかったのだ。タルタリヤは自嘲するように掠れた笑いを口から吐き出すと、上体を起こす。眠気に浸された脳が、未だ夢のあわいを彷徨うようにくらくらした。
     タルタリヤはナイトテーブルのランプを点けると、頭を振った。妙な酩酊感があって、思考の輪郭がぼやけている。タルタリヤはナイトテーブルに放り出したスケッチブックを手に取ると部屋を出た。年月を経た飴色の床板がぎしりと音を立てる。屋敷を包む空気は生ぬるく、窓外の空は僅かに白み始めていた。タルタリヤがサンルームへ入ると、ガラス窓の側に置かれたソファーまで白い光が差し込んでいた。タルタリヤはソファーへ腰掛けると、スケッチブックを開き鉛筆をすべらせる。倒されたアパート脇の雑草、男の弛緩した手足、スケッチブックのざらついた紙上に黒鉛の線が描かれ、シャープな音を立てながら、鉛筆は事件現場を再現する。男の青白い頬は到底忘れることができず、しかし男の鞄の中を思うと、手がとまった。どうだっただろうか。単純明快な疑問が胸のうちに湧き、引っ掛かりは疑念に変わる。なにせ、鍾離は自信を滲ませて男の立ち寄ったホテルや店を推測したが、タルタリヤが見たのは鍾離が手にした証拠品ばかりで、その実鍾離の白い指先が探る手元などはさして観察していなかったのだ。ひどく強い引力が働いている。漠然とそう思い、タルタリヤはゾッとして鉛筆を置いた。まるで潮の満ち欠けのように、タルタリヤという海は鍾離という月に乱され、知らず知らずのうちに動かされてしまっている。その頬を暖かな光が包んだ。清々しく良く晴れた日の朝が来て、夜はいつの間にか明けている。
    「公子殿」
     アッサムの甘い香りを纏った鍾離が、顔を覗かせた。朝食にしよう、そう言う顔には穏やかな笑みが浮かび、香ばしいパンの香りが鼻を擽る。小説の神様も朝食をとるのかと奇妙な驚きのような納得のような感情が心に残った。
    「おはよ、先生」
    「ああ、おはよう」
     袖の捲られた腕は白く、朝が早いなと鍾離は白い歯を見せる。
    「小説家ってもっと不摂生だと思ってたよ」
     半ば意趣返しにタルタリヤは口の端を吊り上げる。
    「一部そういう者はいるだろうな」
    「あんたは違うんだ」
    「もちろんだ、俺は早起きな方だぞ」
     袖口を直しながら鍾離は目を細めた。余裕綽々といった様子に、タルタリヤは口をとがらせる。絵に描いたように完璧で隙がない。けれどそれが人間としての面白みを欠くことはなく、鍾離の性質は妙なバランスを保っている。
     数秒の沈黙の後、タルタリヤが開いたままのスケッチブックを閉じる素振りをみせると、鍾離の指先がそれを制止した。水仕事の後なのか、ひやりと冷たい節くれ立った指がタルタリヤの手の甲をなぞる。
    「ブレックファストにはスケッチブックも一緒に」
     プティデジュネではなく中国語訛りの英語で、鍾離はブレックファストと言う。彼もまた異邦人だということを、そこでタルタリヤは思い出した。なぜ鍾離がフランスへ渡ったのかタルタリヤには知る由もない。けれど、異邦人であるという点においてタルタリヤと鍾離は同一だった。ややあってから身を離した鍾離は、廊下へと姿を消す。サンルームに残されたタルタリヤは押し殺していた息を吐くと、スケッチブックを持ちその後ろを追った。ソファーには朝日が差し込み、良く磨かれた床板はつやつやと深い艶を見せる。二つ角を曲がった先にあるダイニングでは、温かな紅茶が湯気を立てていた。
    「食べよう」
     ティーカップへ紅茶を注ぎながら、鍾離は瞳を柔らかく細める。木目調のダイニングテーブルにはティーカップとクロワッサンののせられたプレートが並び、出窓に飾られたアナベルの白い花が涼し気だった。窓辺にはガラス花瓶を透過した光が散らばり、質素ながらも豊かな生活が根を張る。タルタリヤはダイニングチェアへ座り、ティーカップを持ち上げた。甘やかな香りを漂わせるアッサムティーを口に含む。安物ではない、しっとりとした茶葉の香りと甘みが舌の上に広がった。
    「小説家先生だと平日から朝食が豪華なの?」
    「タルタリヤと食べる最初の朝食は、こうが良かった」
     クロワッサンにチーズを挟みながら鍾離は言う。タルタリヤもまたクロワッサンにサラミを挟み込み、へえ、と答えた。鍾離は微かな笑みを溢すと、薄く口を開いてクロワッサンを頬張った。リスの頬袋を思わせるように膨らんだ頬を見て、ああ人間だなあと思う。固めのクロワッサンとスパイシーなサラミの味わいが口の中に広がる。近所のパン屋が美味しいと話す鍾離に相槌をうった。確かに美味しいね、と。
    「公子殿、スケッチブックをもう一度見せてもらえるだろうか」
     僅かなパンくずのみを残すプレートを前にして、鍾離は紅茶を啜りながら口を開いた。タルタリヤが薄汚れたスケッチブックを手渡すと、鍾離はパラパラとそのページを捲り、つい数十分前に描いたばかりのページでピタリと手を止めた。
    「何か気付いたことはあるか」
    「なにも」
     紅茶へ角砂糖を落としてタルタリヤが言った。本当になにもない。タルタリヤが知っているのは第一発見者の悲鳴と転がり落ちて来たその姿と、鍾離に連れられて見た汚れたアパートとその青白い頬の遺体だけだ。
    「強いて言うなら第一発見者が怪しいかな」
    「それはなぜだ」
    「気が動転したらしいあいつは俺を犯人呼ばわりした、その上それが上手くいってる」
    「はは、確かに」
    「でも、犯人ならわざわざあんな早朝に悲鳴は上げないと思う」
     タルタリヤはティーカップに口をつけ、紅茶を飲む。至って冷静な思考と共に昨日の激情がどこか尾を引いていた。
    「先生なら犯人は誰だと思う?」
    「それは……些か難しい質問だな」
     ダイニングテーブルへスケッチブックを置き、鍾離は指を組んだ。開け放たれた窓からは、ぬるい風が吹いてくる。鍾離は言うか言わないかを迷うように、何度か口を開閉してからようやっと口を開いた。
    「皆目見当もつかない」
     ふるふると頭を振りながらそう言った美丈夫に、タルタリヤは唖然とした。見当もつかないだって? と鍾離を見る目には動揺の色を浮かべ、口からは乾いた笑いが出た。
    「あんたって名探偵じゃないの」
    「光栄だが、生憎俺はただの凡人だぞ」
     警察は探偵選びに失敗したらしい。タルタリヤはダイニングチェアへ背中を凭れると、絶望を滲ませたため息をついた。
    「解けなかったら、俺が犯人にされるかもしれないのに?」
    「分からないものは分からないぞ」
    「……仕事見つけたら出ていくから。頑張ってよ、名探偵」
     ティーカップに残っていた紅茶を呷るように飲み干すと、タルタリヤは席を立った。フランス一の名探偵と謳われる男が分からないと言った。私はやっていない、そう法廷で主張する日も近いかもしれない。
     アトリエとして与えられたサンルームへと逃げ込んで、タルタリヤはスケッチブックを見た。スケッチブックのなかでは青白い頬の男がこちらを見ていた。
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    💞🙏💕❤❤
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    Replies from the creator

    fkm_105

    PROGRESS探偵をしている先生と画家のタルの話
    ※1920年代仏が舞台(一部捏造、矛盾あり)
    ※実際の国名が登場します(タ→露出身など)
    ※画家タと作家鍾の推理モノ
    ※シャーロック原典、BBCドラマ版のオマージュ、参考あり
    ※1フラン=200円
    レザネフォル   プロローグ


     受胎告知という題材がある。
     まさにオーソドックスで、かのレオナルド・ダ・ヴィンチですら描いた主題だ。例えば、この主題で描いた絵があったとしよう。その絵をタルタリヤの通う美術大学の全ての教授に見せたとして、彼らが見た途端に嫌な顔をする確率は、雑踏の中で雷に撃たれるよりも低いに違いない。つまり無難というのは便利である。だから、ああやって受胎告知が卒業展の最優秀賞を飾るのだ。
     


     ギャラリーの壁面に掛けられた絵画を眺めながら、タルタリヤは欠伸を噛み殺した。かれこれ三時間タルタリヤはスツールに腰掛けて、ああやって大天使ガブリエルと処女マリアの絵を眺めては、いい絵ですね、などと褒める身なりの良い男女を眺めている。タルタリヤはため息をついて、徐ろに窓外に視線をやった。窓外では昨晩から降り続いた雨が上がり、濡れた路面が雲間からこぼれた光を反射していた。今しがた通り過ぎた婦人のブローチは先月イリヤが発表した新作で、その向こうを歩く紳士の懐中時計は退役軍人に贈られる褒賞品だろう。受付デスクの中に隠したスケッチブックを取り出したタルタリヤは、左手に持った鉛筆を走らせる。路肩のタクシーや雨上がりの路面を写し、道行く人々を写せば、それは大仕事だった。ロマンスグレーの男性が歩く。それはつまり、そのツヤツヤとした飴色の革靴がその一歩ごとに輝きを変え、その男性の服の皺もまた変化した。退屈している暇がない。しかし、不意に窓外を横切った几帳面そうな男が、この時間を終わらせたのだ。木製扉が軋んだ音を立てて開き、かの男の長髪が揺れる。タルタリヤは咄嗟にスケッチブックをデスクの下に隠した。
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