剣蘭の話 おまけの後日談【後日談】剣蘭
「剣蘭さん、なぜ行かねばならないんですか?」
謝憐がこれまでに話したことは、本当にその通りだろうと剣蘭も頷けた。
でも、剣蘭のその答えに、迷いはなかった。
「私には錯錯がいれば十分なんです」
彼はもっと背が高くなって、凛々しくなって、立派になった。
初めてこの人に会ったなら、やっぱり惹かれていただろう、と思えるほど。
でもどこかもう、風信は違う人だ。遠い人。
できない約束をして、一生懸命に剣蘭を愛してくれたのとは違う人。
同じように、剣蘭だって変わった。もう若くて美しくはないし、夢物語を信じて、ただ好きな気持ちだけでなんでも越えていけると思っていた頃とは違う。
すべてが変わってしまった。
「風信はいい人。ただ、それだけです。本当に時間が経ちましたね。もう何も変わらないのだから、もういいでしょう」
もし、と浮かぶ感情には蓋をして、剣蘭は錯錯を抱いて歩き出した。
ーその気配に気づかないわけがない。
まばらな毛を逆立てるような勢いで、錯錯は警戒し、剣蘭の腕の中で低い唸り声を上げる。それを宥めながら、剣蘭は足を早めた。相手がどう出るかはわからないが、到底太刀打ちできる相手ではないだろう。
「…あなた」
それが落ち着いた女の声であることに、剣蘭は一瞬警戒を解いた。
「…それは帝…君吾が手懐けていたという胎霊でしょう。……あなたは南陽の」
剣蘭がふり向けば、そこには顔色が悪く、背の高い黒衣の女の姿が見えた。
「…追い出されたのですか?」
「違うわ! 私は彼の施しは受けない!」
剣蘭が吠えると、腕の中の錯錯も牙を剥く。その女の薄ら笑いが、やけに剣蘭の神経を逆撫でした。
「だいたい…あなたは何を知ってるのよ!?」
「…多くの情報は私の元に集まります。迷惑なほどに」
彼女はため息を吐き、それから無感情に言った。
「南陽もかわいそうに。……あんなに必死に探していたというのに」
剣蘭は彼女が害を及ぼすわけではないかも知れないと認識すると、錯錯を撫でながら口を開いた。
「……彼は責任感が強いだけ。八百年、私を探しもしなかったくせに、私に気づいた時、信じられないという顔をしていたくせに、ずっと昔の口約束を守らなきゃと躍起になっているだけ。そんな親切心、今更迷惑なだけなのよ」
「…本当にそう思っているの?」
彼女の声は冷たく、剣蘭の心をちくりと刺した。
ずっと塞いでいた気持ちがその穴から漏れていくような気がして、剣蘭は錯錯を強く抱き締める。
自分はこんなに醜い鬼になっているというのに、風信はなぜはっきり顔を見ると気づいてくれたのだろう。あんなひどい別れ方をしたというのに、彼は地位も未来も約束されたような有名な神官なのに、どうしてすぐにできると答えを出したのだろう。
それでもやはり、自分に恋をしている彼の記憶だけが欲しいだなんて、我儘なんだろう、そう思うと剣蘭は笑えて仕方なかった。
「…少しね。私たちが…お互いを好きだった頃は、もっと違ったもの。彼がどれだけ私を好きだったか、痛いほど知っているのよ。どれだけ無理をして、私に会いに来てくれて、私を救おうとしてくれたか。もしこれから先、一緒にいたとしても、彼はあの頃のように私を好きでいることはないでしょう。それどころか、醜くなった私を、厄介なこの子を相手にして、どんどん嫌いになって、ただでさえ神官が……子宝祈願をされるような神様がよ? 私たちを連れているなんてどれだけ危ぶまれることか……どんどん迷惑に思うようになって、疎ましく思われるようになるんだわ。結局地の底に一緒に落ちるかも知れない。そんなの、耐えられる? …好きだった男が、私のせいで、私を嫌いになっていくのを隣で見ているの? どんどん不幸になっていくのを見ているの?」
剣蘭は笑っているが、女はただ無表情を返すだけだ。
「……それではあの頃と同じだわ。やっぱり私は彼と一緒にいることはできない、私は彼にしてあげられることがなにもないもの。せめて、彼の未来がまだ輝くように、私という枷を外してあげることくらいでしょう。……金帯と、錯錯と。私はそれをもらえただけで十分」
太子殿下のお守りがまた返ってきた、と剣蘭は思い起こした。今度は役に立ってくれるといいと心の中で呟く。
「……それにね。まだ綺麗だった私の記憶を塗り潰したくはないの。私のことを好きだった気持ちをまだほんの少しでも思い出せるなら、そうであって欲しい。…いいえ、いつか忘れてもいい、そういえば神官は連れ添いを持たないものなの? 誰かを好きになればいいと思う。でも私のことは、懐かしいいい思い出のまま、終わって欲しい……欲張りでしょうけど」
そこでやっと彼女は薄い柔らかい笑みを唇に浮かべた。
「…女はそんなものかも知れません」
つられて剣蘭もすこし笑う。出会ったばかりの、敵か味方かもわからない相手に喋り過ぎてしまった後悔は不思議とない。
「…南陽は、あなたのためになんでもしてあげたいのかも知れませんが」
もっと違った出会い方をして、そんな未来があったらよかったかも知れない、剣蘭はそう思いかけて、かぶりをふった。
きっとこんなふうにしか出会えなかったし、そうでなければ彼を好きにならなかったし、彼も自分を好きにならなかっただろう。間違いに、間違いを重ねて、それでもかけがえのないものを得られたのだからそれでいい。
「…あなたはきっとそんなふうに思える相手がいるのね」
剣蘭がそう言うと、黒衣の女は一瞬驚いたような顔をして、それから一際柔らかく笑った。
「……そうですね」
ああそれが恋で、愛だろうと、剣蘭は微笑む。
「…素敵なことね。…あなたに話して、私もすっきりしたわ。ありがとう。…あなたは私たちを捕まえる気はないのよね? もう行くわ。あなたに祈りたい時は…どこに行けばいいの?」
顔色が悪く、背の高い、黒衣の女はゆっくりと頷いてから答えた。
「いつまであるかわかりませんが……霊文殿へ」
【後日談】風信
「風信、剣蘭さんは去っていったよ」
謝憐がそう告げると、風信は時間を止めるように動きを止めて、すこししてから、そうですか、と呟くように言った。
俯きがちに、その眉が顰められていく様を謝憐は眺めていた。
「……きみはいい人だ、と言っていたよ」
風信は顔を上げ、やはり眉を顰めたまま再び、そうですか、と言う。それから大きく息を吐いて、天を見上げた。
「…遅過ぎたんでしょうね」
そんな風信の姿を見ながら、謝憐は苦い想いが込み上がるのを止められなかった。
「…風信、あの時、きみに好きな人がいただなんて、気づかなかった」
風信はばつの悪い表情で視線を戻すと、そのまま頭を下げた。
「っ、申し訳ありません、その……大変な時だったのに…」
「違うよ! そういう意味じゃないんだ、いつ誰を好きになっても構わないし、止められるものでもないじゃないか!」
謝憐は慌てて風信の肩を押し戻し、顔を上げさせた。風信は相変わらず苦い表情をしている。
「私の所為で…好きな人を諦めるしかなかったんじゃないかと」
「…それは違います、殿下。彼女が俺にもう来るなと言ったんです。いい人ができたというので、俺はてっきりそのまま彼女が幸せに暮らしているんだと思い込んでいました。それがまさか……」
そこまで言い、風信は肩を掴む謝憐の手を剥がしながら再び視線を落とした。
「…でも、やっぱり、剣蘭はもう俺を必要とはしていないんでしょう」
謝憐からはその表情はよく見えず、声は自嘲気味にも聞こえたが、結局よくわからなかった。
「彼女たちはきっと大丈夫だ。錯錯が暴走しないように、護符を授けたから」
謝憐がせめてもとそう伝えると、風信はぼんやりと謝憐に視線を戻したのちに、はは、と小さく笑ってから言った。
「…それは頼もしい。ありがとうございます」
それから懐かしむように目を細める。
「……あの頃、彼女はあなたを嫌ったり恨んだりしていないと、言っていました。殿下を貶めるような考えの人ばかりだったのに、自分も妓楼に身売りしながら、それは間違っていると言った。そんなところを…好きになったんだと思います」
それから深く息を吸って、風信は続けた。
「だから、また彼女が殿下の加護を受けることができて、俺は嬉しい。ありがとうございます」
「それは…」
言及しようとする謝憐の言葉を遮って、風信は拱手で頭を下げた。
「戻ります」
素早く踵を返し遠ざかっていく後ろ姿を、謝憐はじっと目で追った。
ふと感じる気配は、ずっと法力は大きくなったが、懐かしく慣れ親しんだもので、謝憐は思わず微笑む。
「…全く、未練がましいものですね」
呆れたようにそう言い、腕を組んだ慕情が謝憐の横に並んだ。
「そうかな?」
「そうでしょう。あんな顔をするなんて……そのくせ、彼女は本当は追いかけて欲しいかも知れないのに、なにをしているんだか……ばかな男だ」
慕情はそう言って鼻を鳴らす。
女心がわかるようなことを言うものだ、と謝憐は思い、口にしかけて、はっと噤んだ。
慕情は出て行ったことがあり、謝憐は追い出したことがある。
だから、その感情をきっと知っているのだ。
「……私はきみたちに、随分とひどいことをしたものだ」
嘆くように、謝憐はいった。
「…なんの話ですか、いきなり……いえ、そうですね」
「……慕情、」
謝憐がふり向くと、同じようにして慕情は顔を背けてしまう。
「お互い様です」
風に揺れる木の葉を眺めるような慕情の横顔に、謝憐は心の中で、そんなことはない、と告げた。代わりに別の言葉を声にする。
「慕情、風信を元気づけてやってくれ」
思った通り、いや思った以上に慕情がすぐにふり向いたので、謝憐は危なく笑い出しそうになった。
「は? 言う相手を間違えていませんか?」
「だから白眼はやめなさい……いや、きみにとって、風信も朋友だろう?」
謝憐の言葉に慕情は顔を引き攣らせ、答えないまま再び視線を逸らしてしまう。
「……まあ、口論で気を紛らわす相手にくらいはなってやります」
あはは、と謝憐は思わず声に出して笑った。
「しりとりでもいい!」
「謝憐…」
うんざりとした表情でふり向いた慕情と、謝憐の視線が合い、どちらからともなくまた肩を震わす。
「…頼んだよ、慕情」
「……あなたの心配ごとは、血雨探花だけで十分でしょうから」
柔らかな風が吹いて、やがて慕情は踵を返す。そして謝憐もそれに続いた。